蝉と幽霊がないていた、夏

Ryo

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サボタージュ

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 夏のある日、不機嫌な顔のまま家を出た。

 ドアに体当たりして、ついでに蹴りまで入れてやった。ドアの奴はそれを非難するようにか細い悲鳴を上げていたが、そんなものを聞き届けてやるような気分ではなかった。

 時代遅れの色褪せたリュックサックにノートが二冊とテキストが三冊、がたごとうるさいのはカンペンに入った筆記用具だ。

 玄関に母親が作ってくれた弁当が置いてあった。本当にちらっとだけ視界に入った弁当の包み。白っちゃけた緑の布切れで丁寧に包まれたその中身は多分、ヒジキとシューマイとおにぎり、それに梨だ。弁当はわざと置いてきた。「いってきます」なんてもちろん言わない。

 階段を降りるのに音がしないように気をつけて、息を殺し、足音を忍ばせて、泥棒みたいに家を出た。自分の家を、だ。

 ムッとする暑さの中、家を出てすぐに、玄関から死角になる場所まで移動する。それからリュックを肩に掛け直して、おおまたでゆっくりと歩き出した。似たり寄ったりな家が立ち並ぶ住宅街を、右に左に折れながら、蝉の鳴き声がする方に向かう。

 ミンミンゼミとツクツクホウシが一緒に鳴いている。着いたのは、公園。人っ子一人いない。いいかげんに木が生えている。大きな文字盤の時計塔の下にはねずみ花火の残骸が一つ、落ちていた。ぶらんこの下の地面は深く抉られていて、吊りはいかにも鉄臭そうで、横木には泥がこびりついていた。滑り台には「蜻蛉」と落書きがしてある。族の残したマーキングとしてはあまりにも儚くて、危うげで、おかしい。だから、笑った。……鼻で。

 砂場は賑やかだった。空き缶が二つも落ちている。プラスチックの赤い幼児用熊手が転がって、場に彩りを加えていた。カップ麺カレー味の器と、粉々に折られた割り箸。これらが一様に泥まみれで転がっていた。不幸にも、と言うべきなのだろうか、この公園は忘れ去られてずいぶんと久しいようだった。

 何気なく腕時計の液晶を見る。午後五時を少し回っていた。次に、ちょっとした好奇心から、公園中央の時計塔を見る。午後五時を少し回っている。

意外。

 去年の夏から時間が止まってしまったかのようなこの公園に、当たり前の顔で時間が流れていることの方がいっそ不思議だった。

 リュックを滑り台に放り投げると、カンペンが派手な音を立てた。蝉の声と、気配を感じさせずにそれでも流れている時間が作り出した薄くて脆い空間の境目を、壊してしまったのではないかと心配になるほどの。

 砂場を囲む腐りかけた木の枠に、スニーカーのつま先を揃えて立った。スニーカーで砂場に入るのはどうだろうか。そのての靴が、一体全体どういう構造になっているのかは知らない。だが、一度その中へと侵入した砂は、どこに身を潜めているのかわからないが、いつまでたっても無くならない。だから単純に、スニーカーで砂場に入るということは、そのスニーカーを履き続ける限り砂とも付き合ってゆくことを意味する。

 もう一度時計を見た。時計塔の方だ。午後五時十一分。別に急いでいるわけでもないので、その問題についてはじっくり考えることにした。

 おろしたてとまではいかないが、まだ三ヶ月も履いていない。そのスニーカー一足をお釈迦にしてまで、砂遊びをする必要性があるか否か。少なくとも世間一般において、砂遊びの適齢期は過ぎている、ように思う。こんなところで爪の中に砂粒を押し込めながら穴掘りやお城作りをするよりは、クーラーの効いた自分の部屋のベッドに転がりながら超大作RPGでもやっていた方が楽しいに決まっている。もとより、こんなところにぼけっと突っ立っている事を、両親も担任の教師も良しとしないだろう。

 蚊に喰われるかもしれない。学校か塾の知り合いがふらりと現れることも、ないとは言えない。

 考えれば考えるほど、いかに自分にこの場所が相応しくないかが証明されてゆく。逆に、どうしてもここで砂遊びをしなければならない理由はただ一つもない。明らかすぎて実につまらなかった。

 ここで、砂遊びは、しない。

 スニーカーは砂場に嫁に行った。なぜか行った。スニーカーの父親にでもなった気分に、一瞬だけ陥った。スニーカーに幸せは訪れないだろう。

 踏み込んだ左足のスニーカーは、半ばまで砂に埋まった。柔らかく乾いた砂が、記憶の中に知識としてだけ存在する砂漠のイメージと重なった。今年の夏は雨があまり降らない。
 ここまできたら同じとは思いつつも、それでもスニーカーが砂に埋もれないように庇いながら歩いた。何がしたいんだろう、一体。砂場の中心と思われるところまで歩き、時計塔に向かって百八十度方向転換。午後五時十八分、やおらしゃがむ。

 地面に近くなると余計に暑くなった。汗が流れるとまではいかないが、熱が体内にこもっているのが実感できる。これがいよいよ拙くなると、熱射病とやらになるのだろう。

 太陽の光を嫌と言うほど浴びてほの温かい砂に手を突っ込み、かき回す。

 砂場の砂には虫の卵がいっぱい付いているの――そんなふうに昔、幼稚園の先生がいつも言っていたことを思い出す。

 埃っぽい砂の表面は熱いくらいだったが、少し深く手を潜り込ませると、やや硬く湿って冷たい砂の感触がした。気が済むまで乾いた砂と湿った砂を混ぜ合わせ、それから乾いた砂だけを脇に取り除けた。午後五時三十分丁度。

 ミステリーサークルに似た黒い円が砂場の中央に完成する。そこだけ冷たい円の中央に両手の平を押し付けて目を閉じると、木漏れ日が、身体に感じないほどの微かな風に揺れて剥き出しの腕や足の上を動き回っているのがわかった。
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