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 オリヴィアの涙は直ぐには止まらなかった。
 今彼女の心を占めている感情は、裏切られたことへの憎しみなんかではなく、拒絶された絶望感と悲しみだけ。
 その二つの感情に支配され、彼女は泣き続けていた。

(わたしは、これから何を信じて生きていけばいいの……?)
 
 そんなことを頭に思い浮かべてしまうと、再び胸の奥が締め付けられるように苦しくなる。
 考えたくないのに、頭に浮かぶのはジークヴァルトのことばかり。
 
 あの時、一瞬彼と目が合った。
 ジークヴァルトはオリヴィアの困惑した姿を捉えると、一瞬ぎくりとした顔を見せ、直ぐに視線をどこかへと流した。

(見間違いなんかじゃない……。あの時、ジーク様はわたしのことに気付いていた……。だって目が合ったもの)

 あれはオリヴィアにとっては断罪のような光景だった。
 ずっと慕っていた相手は別の女性に寄り添い、助けを求めるように視線を送り続けていたオリヴィアの事を避けたのだから。
 もしかしたら、本当にこのままオリヴィアの居場所をリーゼルに奪われてしまうのかもしれない。
 思い出すだけで拒否反応を起こすかのように、体が勝手に震えてしまう。

 そんなことは絶対に嫌だ。
 受け入れることなんて無理だし、したくない。

「いやっ……、ジークさま……」

 オリヴィアは押し殺すような声で彼の名前を呼んだ。
 体からは力が抜けていき、そのままずるずると地べたに座り込んでしまう。
 すると傍にいるイヴァンは彼女と同じ背丈になるようにしゃがみ、泣きじゃくる彼女の背中を宥めるように何度もさすっていてくれた。
 そうこうしていると、メルが慌てて扉から出てきた。

「オリヴィア様……」

 メルはオリヴィアの今の姿を見ると、表情を歪めて口元を手で押さえていた。
 今の変わり果てた彼女の姿を見てしまい、胸の奥が詰まってそれ以上の言葉が出て来ないのだろう。
 オリヴィアの瞳は涙で歪んでいるが、何となくだがそんな風に映っていた。

(今のわたしって、本当に憐れに見えているのね……)

 メルを責めるつもりは毛頭ない。
 彼女はオリヴィアのことを思って、気に病んでくれているのだから。
 そうだと分かっていても、その姿を見てしまうと、ここが現実であるのだとはっきりと言われているようで、オリヴィアは辛くなりすぐにメルから視線を逸らしてしまった。

「いつまでもここにいたら他の者達の目にも付いてしまうな。オリヴィア嬢、辛いかもしれないけど立てそうか? 僕とメルで支えるから。メル、手伝ってくれ」
「あ……は、はいっ!」

 二人はオリヴィアの左右に並ぶと、ゆっくりと彼女の体を起こしていく。
 二人に迷惑をかけてしまい、オリヴィアは申し訳なく感じていた。
 しかし今は上手く言葉を発することも、体に力を入れることも叶わなかったため、イヴァンに従うしかなかった。
 
 それにこの扉の奥に多くの者達が集まっている。
 長居してしまえば、また人目に付いてしまうだろう。
 先程のように冷たい視線を向けられ、見世物にされるのはもううんざりだ。


 そんな時だった。


「オリヴィアさん……!」

 不意に通路の奥から聞き慣れた声が響いた。
 オリヴィアは反射的に顔を上げて視線を奥へと向けると、そこに立っていたのは王妃だった。
 その姿を確認した瞬間、オリヴィアの顔は驚きの色へと変化する。

「……っ……!」
 
 必死になって声を出そうとしても、思い通りに言葉が出てこない。
 今すぐ挨拶をしなければ失礼に当たることは重々承知なのだが、支えられているため、今の彼女には何も出来なかった。

(王妃様……? どうしてここに……)

「無理をしなくていいわ。丁度良いところにいたわ。イヴァン様、オリヴィアさんを私の離宮まで連れて来てくださる?」
「え……? 僕は構いませんが……」

 突然の王妃の言葉にここにいる三人は皆驚いた表情を浮かべていた。

 王妃はイヴァンのことを名前で呼んでいた。
 以前イヴァンはジークヴァルトと知り合いのようなことを仄めかせていたが、王妃とも親しいのだろうか。
 それにイヴァンは先程メルの名前も普通に呼んでいた。
 あの時メルは挨拶なんてしなかったのに、一体どういうことなのだろう。
 
「オリヴィア嬢、君はそれでいい?」
「……っ」

 心配そうに顔を覗き込んできたイヴァンと目が合うと、オリヴィアは小さく頷いた。

 何故こんなところに王妃がいるのかは分からなかったし、どうしてオリヴィアを連れて行こうとするのかも分からない。
 だけど今の王妃の表情はイヴァン達のように心配した顔に見えたため、オリヴィアは付いて行くことを決断した。

 王妃は厳しい人ではあるが、それだけではないことをオリヴィアは良く知っていた。
 幼い頃から王妃教育を受けていたオリヴィアは、王妃の傍にいることが割と多かった。
 その事もあり彼女にとっての王妃は、第二の母親も同然の存在だったのだろう。
 だから王妃の顔を見て、本気で心配してくれているのだと直ぐに気付いた。
 心配させてしまったことを思うと、申し訳なさと、情けなさにまた泣けてきてしまう。

「このままだと少し歩きづらいと思うから、抱き上げるけど……いいかな?」

 オリヴィアはイヴァンの言葉に再び頷いた。
 イヴァンはオリヴィアに自分の首に掴まることを指示して、彼女が実行すると体を横向きに抱きかかえた。
 突然ふわりと体が浮き上がり、オリヴィアは慌てるようにしてイヴァンの首にぎゅっと抱きついた。
 こんな風に誰かに抱きかかえられたことなど、初めてのことだった。

「意外とイヴァン様は力持ちなのね」
「これくらい、どんな男でも出来ますよ」

 王妃とイヴァンのやり取りを眺めていると、不意に彼と視線が合ってしまいオリヴィアは慌てるように視線を逸らした。
 こんな体勢なのだから当然だとは言われたらそれまでなのだが、イヴァンとの距離が予想以上に近くて、気まずさと言うか小恥ずかしさのようなものをオリヴィアは感じていたのだろう。

 そして二人は決してジークヴァルトの名を口に出すことはしなかった。
 それはきっと彼等なりの配慮だったのだろう。


「こちらよ」

 移動している間に、オリヴィアの涙はいつの間にか止まっていた。
 こんな体勢に慣れていないこともあり、地に足が付いていない状態が落ち着かなかったのだろう。
 そのことに気を取られる事で、涙も引っ込んでしまったというわけだ。
 
 その間、イヴァンは何度もオリヴィアを気にかけるように「大丈夫?」と心配そうに問いかけてくる。 
 やはり彼は相当のお節介なのだろうとオリヴィアは思っていた。
 だけどその気持ちにオリヴィアは救われていたのだから、彼には感謝していた。


 ***


「入って」

 王妃に案内され、離宮内のある一室に通されると侍女達が既にお茶の準備をしてくれていた。
 オリヴィアは王妃の隣に、そしてイヴァンとメルは対面するように、中央に置かれているソファーへと腰掛けた。

「まずは温かいお茶でも飲んで、心を落ち着かせましょうか。このハーブにはそういった成分が入っているのよ。香りもいいでしょ? たしか、オリヴィアさんもこのお茶好きだったわよね」
「……はい。ありがとう、ございます」

 オリヴィアはカップを手に取ると、まずは香りを鼻から吸い込んだ。
 ふわっとしたハーブの優しい香りに包まれていると、少しづつではあるが、心が穏やかになっていくのを感じる。
 そして一口喉に流し込むと、温かいお茶がお腹の奥にストンと落ちていき、それを感じることで更なる安心感に包まれていく。

 ここにいる限り、周囲に晒される心配はないはずだ。

「こんなに泣いて……。本当にごめんなさいね」
「王妃様が謝られるようなことではっ……」

 突然王妃から謝罪され、オリヴィアは慌ててカップをテーブルの上に置くと、焦るように言い返した。

「いいのよ。あの子がしたことは、貴女の気持ちを考えた行動とは到底言えないもの。文句なら後でで好きなだけ言うと良いわ。貴女にはそれを言う正当な理由があるのだから……」

 あの時、傍に王妃の姿は見えなかったが、どこかから見ていたのだろうか。
 そしてオリヴィアがあの会場を出て行く姿を見て、直ぐに追いかけて来てくれたのだろうと想像が付いた。

 たしかに文句の一つや二つ、ジークヴァルトにぶつけてしまえばオリヴィアの気持ちは少しは晴れるかもしれない。
 オリヴィアは困った様な顔を浮かべ、掌をぎゅっと握りしめた。

「……言えません」

 彼女は悲しそうに笑い、消えそうな声で小さく呟いた。

「遠慮しているの? そんなこと必要ないのよ。だって、あの子は……貴女に酷いことを」
「ち、違うんです。そうではなくて……。わたし、ジーク様に会うのが怖いんです。また拒絶されるかも知れないと思ったら、怖くて……。もう、どんな顔をして会えば良いのか、わからなっ……っ……」

 オリヴィアはジークのことを思い出すと、胸の奥が熱くなり再び泣き出してしまった。
 我慢しようと掌を握りしめていたのに、それでも耐えられなかった。

「王妃様、部外者の僕が割って入るのは差し出がましいとは思いますが、今はジークの話はしない方が宜しいかと」
「そうね。配慮に欠けていたわ。ごめんなさい。もうあの子の話はしないから、泣き止んで。ね……」

 王妃はオリヴィアのことを優しく抱きしめると、宥めるように彼女の髪を柔らかく撫でてくれた。
 人肌を感じると心地良く思えたけど、暫くの間涙は止まらなかった。

 オリヴィアはこの優しい手に受け止めて貰えてたのが嬉しくて、我慢することを放棄した。
 感情を抑えるよりも、全て吐き出してしまう方が遥かに楽だった。



 それから暫くすると、オリヴィアは急に静かになっていた。
 王妃がゆっくりと彼女の顔を覗き込むと、目元は涙で濡れていたがオリヴィアの瞳は閉じていて、耳を澄ませていると僅かに寝息が聞こえて来る。

「あら、泣き疲れて眠ってしまったようね」
「そのようですね。今は起きている方が辛いと思うので、このまま寝かせてあげましょう」

「ええ、それが良さそうね」

 オリヴィアの意識の奥の方から、僅かにそんな会話が響いて来るのを感じていた。
 しかし次第にその声も遠ざかっていき、何も聞こえなくなっていく。
 静寂に包まれると、直ぐに深い眠りの底へと落ちていった。
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