妖精猫は千年経った今でも歌姫を想う

緋島礼桜

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妖精猫は女性を怒らせた

その1

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 妖精猫ケットシーは知らなかった。
 『人魚の涙』が出来るまで待っていた時間が、どれほどの長さだったのかを。それは妖精である彼にしたら、ほんの一瞬の時でしかなかったせいで。
 妖精猫ケットシーはわかっていなかった。
 彼にとってのほんの一瞬の時が、人間にとってはどれほどどれだけ長い時間であったのかを。





 酒場の扉を開けて、ステージを見た妖精猫ケットシーは言葉を失った。
 そこに立っていたのは思い描いていたアサガオではなかった。
 幼気な少女ではなく、すっかりと美しい大人の女性だったのだ。

「あれ…アサガオ、ちゃん…は…?」

 その女性にそう尋ねてから、妖精猫ケットシーは気づいた。その女性がアサガオと同じキレイな銀の髪をしていたことに。
 どことなく、アサガオの顔に似ていることに。

「まさか…アサガオちゃん…?」
「そうだよ……」

 そう答えた女性―――もといアサガオは、眉間にしわを作りながら続けて言った。

「誕生日プレゼントって…あれからもう、どれだけの時間が経ってると思ってるの…?」

 怒りの込められた言葉に、妖精猫ケットシーはヒゲも尻尾もしょぼんと下がってしまって、身体はぶるぶると震え始める。

「アサガオちゃん、怒ってるの…?」
「当たり前だよ!」

 おそるおそる尋ねた妖精猫ケットシーへ、怒鳴り声を返すアサガオ。
 その声は酒場中どころか、酒場の外にまで響いただろうほどだった。

「十年だよ、十年…あたしはもう十歳じゃない、この前二十歳になったんだよ! なのに…今頃のんきにそんなもの用意されたって……これっぽっちも嬉しくなんかないよ!」

 それは初めて見たアサガオの怒りだった。まるで烈火の如く怒っている彼女を前に、妖精猫ケットシーは説明や言い訳などが出来るはずもなく。

「ごめんなさい…」

 小さい身体を更に小さくさせて、小さな声でそう謝るこしかできなかった。

「けど…けどね、せめて、これを受け取ってくれないかな…?」

 それでも、妖精猫ケットシーは懸命になって取りに行った『人魚の涙』のペンダントを、アサガオに向けて差し出した。
 これで許してもらおうとは更々思ってなどいなかった。ただただ、彼はこれで少しでもアサガオが笑顔になってくれれば、それだけで良かったのだ。
 ―――だが、しかし。

「いらないよ、こんなもの…!」

 そう言うとアサガオは、差し出していた妖精猫ケットシーの手を払った。その弾みでペンダントは宙に飛んでしまった。
 美しい白銀のキレイなペンダントは、空しく輝きながら床へと転がる。
 
「あ、あ……」
「それ持って帰って…二度と酒場に来ないで!」

 床に落ちてしまったペンダントに慌てて駆け寄り、妖精猫ケットシーは大切に拾い上げる。
 悲しげな声と共にペンダントを見つめる妖精猫ケットシー
 そんな彼に声をかけることもなく。アサガオはまるで氷のように冷たい顔で、ステージの奥へと消えていってしまった。

「あ、待って……」

 もう一度、今度こそ受け取ってもらわなければと、妖精猫ケットシーはアサガオを追いかけようとする。
 しかし、ステージに上がろうとした彼の首根っこを、一人の男が掴み上げた。

「なんだ? このしつこい妖精猫ケットシーは…こっから先は関係者以外立ち入り禁止だぞ」

 それは見たことのない中年の男性だった。
 
「ぼ、ぼくはアサガオちゃんの隣にずっとずっといるって決めてて…友達なんだよ。そうだよ、ハリボテにそう言ったらわかるはずだよ」

 まるで迷い猫を摘まみ出そうとする男性に、そう説明する妖精猫ケットシー
 だが男性は眉間にしわを寄せながら、ため息交じりに言った。

「ああ、そりゃあ前マスターの頃の話だろ。今のマスターはオレだ」
「え、え? じゃあハリボテは…?」
「何年も前に亡くなったよ」

 男性の言葉を聞いて、妖精猫ケットシーはまるで大木槌で胸を叩かれたような強い衝撃を受けた。
 『亡くなった』という言葉の意味くらいは、流石の妖精猫ケットシーでも理解していた。

「ハリボテ…死んじゃったの…?」
「妖精の猫にゃあわからんかっただろうがな、ホビットだって百歳になりゃあ大往生なんだぜ」

 寿命で亡くなってしまったハリボテに代わり、この男性が酒場を買い取って新しいマスターとなったのだという。引き続き、酒場のスタッフやアサガオは雇ったままで。

「一応、生前にハリボテさんから妖精猫ケットシーの話は聞いてたが…あの通りうちの看板歌姫が拒絶しているんでな。だったら昔のように酒場に置いといてやる必要はねえだろ」

 男性はそう言うと首根っこを掴んだ妖精猫ケットシーを、酒場の外へとほっぽり投げた。
 慌てて受け身を取ったため、尻餅をつくことはなかった。が、彼の心は思いっきりすっ転んだかのように、転げ落ちたかのように、痛くて痛くてたまらなかった。

「ねえ、待って…待ってよ! せめて酒場にもう一回入れておくれよ! 嫌ならペンダントはもう渡さないから! でもせめて…せめてアサガオちゃんの歌だけは……アサガオちゃんの笑顔だけは、見せておくれよ……」

 ハリボテが亡くなっていたことも妖精猫ケットシーにとってはショックだった。彼は妖精猫ケットシーのこの茶トラ模様の毛並みを始めてほめてくれた人だったからだ。
 しかし、それ以上にショックだったのは、あんなにも怒っている―――嫌がられたアサガオの顔だった。

「ぼく…悪いこと、しちゃったのかな……間違ったこと、しちゃったのかな……」

 そのときになって妖精猫ケットシーは初めて、という言葉を知った。
 あの迷ったときに『人魚の涙』を待たなければ。大海に行かなければ。『人魚の涙』を取りに行くなんて言わなければ。こんなことにはならなかったのかな。
 そんな思いがぐるぐるぐるぐると頭の中を巡って、妖精猫ケットシーを苦しめていく。
 だが、それ以上考えることは出来ないほどに疲れ切っていたらしく。
 妖精猫ケットシーはそのうち、近くの家の軒下で眠り込んでしまった。
 冷たさを紛らわすため、彼は身体をこれでもかと丸くして、その日は眠ったのだった。

 




   
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