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第三篇 ~漆黒しか映らない復讐の瞳~
60案
しおりを挟む「待…て……」
逃げようとしていたヤヲを呼び止める、か細い声。
本来ならこのような声に耳を貸すような状況ではない。
が、聞こえてきた彼女の声に、ヤヲは思わず足を止めてしまった。
見下ろした足下にいるのは、ヒルヴェルトだった。
「貴女は…まだ生きていたんですか…」
「貴殿に…頼みたいことが…二つ、あるんでな……」
ヤヲは直ぐに眉を顰めた。
二つも、という疑問もあったが、それ以上に頼む相手を間違えているからだ。
「嫡子様を…安全なところまで…頼みたい……」
頼みを聞くとは、未だ言っていないにもかかわらず、ヒルヴェルトは語り始める。
一方的に、敵へ最期の願いを託そうとする。
「それと…これを……息子に…」
彼女はそう言うと、震える指先で首にかけていたペンダントを強引に引き千切った。
そしてそれをヤヲへと向ける。
「それは…僕に託すものじゃない。この後来るだろう仲間に頼むべきです」
元より託されるような人間ではない。受け取るつもりは毛頭なかった。
だが、力無いヒルヴェルトの手はそれでも必死にヤヲへと向けられ続けている。
「……私は…こんな願い、に…耳を傾けること、なく……ネフ族に、一方的に、恨みを晴らし続けた……結局は…晴れることは、なかったが、な……」
地面の土草を濡らし、広まっていくヒルヴェルトの鮮血。
普通ならばとうに絶命しても可笑しくはない状態であるというのに、彼女は未だ懸命に息をしている。
目の前の敵に何かを託すべく、生きようとしている。
「だから、こそ…これを貴殿に託したい……それが…私の、せめての贖罪……」
気が付けばヤヲは、ヒルヴェルトの掌へと、その手を伸ばしてしまっていた。
彼女の血に塗れた手からするりと落ち、その金色のペンダントはヤヲの手へと託される。
「……勘違いしないでください…これは貴女の息子に託されることなく、砕いて捨てるためです…」
「それで良い……感謝する、伝の民よ……」
彼女は託されたペンダントを見届け、ゆっくりと口角を上げた。
そうして、ヒルヴェルトは静かに息を引き取った。
ようやく見られた憎いと恨み続けた相手の最期。
しかしそれは、こんなにも苦しく、こんなにも痛いものだとは。ヤヲはこのときまで思っても見なかった。
だが、このまま立ち尽くしている暇はなかった。
こうしている今も戦況は変化し、状況はヤヲにとって不利なものとなっているだろうからだ。
ヤヲは右手に託されたものを握り締め、走り出した。
振り返ることなく。仲間と仇敵をその場に置いたまま、走り続けた。
「リデ! リデ!」
名を叫ぶことが敵に位置を知らせる危険な行為であることは、重々承知していた。
だが一刻も早くリデと合流しなくてはならないと、この場から逃げなくてはならないという急く気持ちが、ヤヲの声を大きくさせてしまう。
森の中を彷徨いながら、彼は彼女の名を叫び続ける。
(そうだった……もう既にみんな、レグも、ニコも、僕の仲間だったんだ……失いたくない、仲間だったんだ…それなのに…)
ここにきて、ようやく気付いた。否、気付いてしまった感情。
復讐を誓って―――囚われて、気付くまいとしていた生温い感情。
失った今となってようやく彼はそれに気付いてしまい、酷く後悔した。
あの日、里の仲間を失ったときと同じ後悔をしていた。悔しくて苦しくて叫びたいほどの後悔をしていた。
だがしかし。せめて彼女だけは、リデだけは失いたくない。ヤヲはそう思った。
彼女は冷血女に見えて、常に怯えていた。誰よりも恐怖に震えていた。
そして本当は温もりを欲している、どこにでもいるような少女だった。
「リデエェェッ!!!!」
ヤヲは力の限り叫んだ。
と、直後。
彼へと迫り来る殺気。その人影は風のように現れるなり、ヤヲの腕を掴んだ。
「何してるの? 敵に居場所を教えるようなものよ!」
苛立ちの篭った声。
包帯に巻かれた顔が、ヤヲを見つめている。
「リデ…!」
やっと出会えた人物。
ヤヲは胸を撫で下ろしながらリデを見つめ返した。
「時間がないわ…こっちよ!」
彼女は冷静な声でそう告げると、ヤヲの前を走り出す。
右腕はしっかりと掴んだまま。
二人は荒くなる息を殺し、兵士たちの目をかいくぐりながら漆黒の森林を走り続けていく。
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