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第三篇 ~漆黒しか映らない復讐の瞳~

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 ―――だがその直後。
 振り返ったヤヲの目の前で、鮮血の花が咲いた。
 真っ赤なその血は彼の衣服と眼鏡を染め上げる。
 予想外の展開に、呆然とする思考が、より一層と彼の脳内を真っ白に染める。
 
(……何が、起きた…?)

 困惑するヤヲは、顔に飛び散った血を眺めた後、前方を見つめた。
 そこではヒルヴェルトが何者かに斬られていた。
 彼女は口から血を拭き出し、その場に崩れ落ちる。

「なっ…!?」

 無意識にヤヲは倒れる彼女へと駆け寄った。
 青白く染まっていく彼女の顔。
 呼吸は虫の息となり次第に弱々しくなっていく。
 肩口から袈裟切りされた一撃は、もう助かる見込みのないほどの惨いものであった。
 不意打ちとはいえ、ヒルヴェルトを絶命に追い込んだ一撃。
 だがヤヲがそれ以上に驚いたのは、それを放った正体だった。

「―――ニコ…!」

 そこにいたのはいつも見ていた、あの天真爛漫なショートボブの少女。
 ヒルヴェルトの背後に立っていた彼女はいつものナイフではなく、兵士たちから奪ったのだろう剣が握られていた。そしてその刃からは、ボタボタと鮮血が滴り落ちている。

「なんでさあ…ヤヲにげようとしてるの? そのひところさないの? そうしないとさあ、ダメなのにさアッ! あまいよ! あまいあまいアマイアマイ……おかしよりあまくってあついよぉぉ!!」

 その様子は明らかに異常であった。
 酔っているかの如く、力無く身体を揺らし、一方でその双眸は瞳孔が開ききっているようだった。

「どうして…?」

 が、しかし。戸惑っている暇さえなく。
 ニコは次の瞬間、口角を吊り上げながらヤヲへ向かってきた。

「ニコ!?」

 咄嗟に彼はヒルヴェルトを抱えながら飛び退く。
 飛び退いた、というよりは彼女と共に転がった、と言った方が正しい。
 だが避けていなければ、今頃ニコによって一突きにされていたところであった。
 彼女の剣は間違いなくヤヲを狙っていたのだ。
 転がった先で手を放してしまい、未だ倒れたままでいるヒルヴェルト。
 そんな負傷する彼女から離れるように、ヤヲは一人起き上がる。ニコの狙いはヒルヴェルトからヤヲへと変わっていたからだ。

「ヤヲのせいであついんだよねえ! だからころすね、ころすからね!」
「一体どうしたんだ、ニコ…?」

 気が狂ってしまったかのようなニコの言動にヤヲは顔を顰める。
 彼女の言動には最早、理性の欠片すら感じられなかった。まさに、本能のままに暴れる獣も同じだった。

(本能のままに……まさか―――!?)




 ヤヲは記憶を辿り、思い返す。
 会食場襲撃の直前。
 ニコはキャンディを食べていた。
 いつものように食べていた甘いお菓子。
 暗闇に紛れてよく見ていなかったが、あのキャンディの色は―――緑色だった。ヤヲが飲んだ劇薬エナ液と全く同じ色。
 アレを飲んだヤヲは激痛すら快感と思ってしまう感覚と、本能を解放させ暴れたくなる感情に踊らされた。
 それを何とか押さえ込めていられたのは、ヤヲがエナを常時服用して『エナ使い』となっていたからだろう。では、エナ使いではない一般人が劇薬エナ液を服用した場合はどうなるのか。
 そう考えた途端、ヤヲは血の気が引いていった。

「ニコ―――!?」

 暴れ狂い、剣を振り回すニコへと叫ぶ。だが、ヤヲの声は彼女に届かない。
 既に目が通常のものではない。白目を向いたような瞳。
 ヤヲは恐怖を覚えた。
 エナとは此処まで人を狂わせてしまうのかと。
 そんなエナを、自分は平然と飲み込み続けていたのかと。
 だがそれ以前に、何故ニコはエナを―――エナが含まれたキャンディを食べたのか。食べてしまったのか。そんなものの答えは一つしかなかった。
 脳裏に浮かんだあの男に、ヤヲはこれまでにない怒りを覚えた。

「なんで…なんでこんなことをするんだああぁぁぁ―――!!」







     
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