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第三篇 ~漆黒しか映らない復讐の瞳~

22案

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 ヤヲが用事と言って向かった場所は、チェン=タンの研究所だった。
 意外な訪問先にリデは疑問符を浮かべ尋ねる。

「用事ってまさかチェン=タンに会うため…?」

 彼女の声は少しがっかりしたように、ヤヲには聞こえた。

「まさか。『私用』のため彼には少し聞きたいことがあるんだ」

 そう言いながらヤヲは研究所の扉をノックする。
 が、返答はなく。

「…出かけてるのかしら」

 短い期間だったとはいえ、チェン=タンとは共に暮らし、世話までしていた身。
 それ故に彼の行動や私生活について、ヤヲは少しばかりは知っているつもりだった。

「おそらく、研究に没頭しているんだろう」

 そう言うとヤヲは強引に扉を開けた。
 鍵もかけられていない扉は呆気なく開かれてしまう。

「え、良いの…?」

 リデの困惑した様子を後目に、ヤヲは臆せず室内へと入っていく。
 チェン=タンならば勝手に進入したとしても、そうそう怒ることはないだろう。そんな確信がヤヲにはあった。
 それに、小雨が降る外でいつまでも待つのは、リデに申し訳なかったのもあった。



 ヤヲがこの研究所を出て半月足らず。
 あれだけ綺麗に整理整頓をして行ったというのに。室内には既にゴミが散乱し、床を埋め尽くしていた。
 その放たれ始めている異臭のせいか、眩暈と吐き気を感じる中。ヤヲたちは室内の更に奥へと進む。
 室内最奥、突き当りにある扉。
 その扉の向こうが彼の研究室であり、彼が最も活動している場所だった。

「チェン=タン、居ますか? 貴方に尋ねたいことがあるのですが…」

 何の躊躇もなく、ヤヲはドアノブを握りまわした。
 ゆっくりと開け放たれる隙間へ、彼は顔を覗かせる。
 その先の光景は、かつて見たときと同じ研究室とは到底思えない雑居部屋で。床にはおびただしい書類や器材が山のように置かれ重なっている。
 その一方で机の上にはガラス瓶が丁寧に並べられており、様々な色の液体が入っている。
 そこは間違いなく、いつも見ていた研究室内の光景で。見慣れていたはずの場所。
 だがしかし。そこにはいつもと違うものが一つだけあった。

「―――おや、珍しく君に客人のようですね…」
「え…?」

 それはチェン=タンとは違う、低く落ち着いている声。
 見つめた先―――ヤヲの正面には、初めて見る客人の姿があった。

「な、なななな何勝手に入っちゃってんの? もうビックリだよ!」

 お気に入りの椅子に腰かけていたチェン=タンだったが、突然の来訪者ヤヲたちに驚いたのか、思わず席から立ち上がっていた。
 そこまで驚愕している彼を見るのも珍しく。
 しかし片やその客人は落ち着き払った様子で淡々と答えていた。

「それはチェンが鍵をかけ忘れていたから…でしょう」
「え、ああ、そうでしたっけ?」
「まあ…客人が来ないと思い、特別注意をしなかった私にも非はありますが…」

 そう語る客人の男は白いコートを羽織っており、フード下から黒い髪が伺い知れる。
 流石に顔色を窺うまでは叶わないものの、一瞬だけ、男が仮面を付けている姿は見えた。
 口許だけが開けた、目元のみを隠した仮面だった。
 ヤヲは無意識に眉を顰める。

「いえ、勝手に入った僕が一番悪いのは言うまでもありません。申し訳ありませんでした」

 ヤヲは仮面男に謝罪し頭を下げると、急ぎ扉を閉めようとした。
 が、何故か仮面男はヤヲを呼び止めた。

「少々良いでしょうか…?」

 男はおもむろに席から立ち、二人に、ヤヲに近付く。
 何事かと困惑する彼を後目に、男はまじまじとヤヲを間近で見つめ続けた。
 より一層とヤヲは顔を顰め、眼鏡を押し上げる。

「…なるほど」

 男はそう言った。
 どういう意味なのか、ヤヲには解らず。
 しかし仮面男は意味深な言葉の真相を語ることなく。チェン=タンへと視線を移す。

「では、私の用は済んだので…これで失礼します。後は任せましたよ、チェン」
「はい、仰せのまま!」

 ヤヲたちを通り抜け、颯爽と立ち去っていく仮面男。
 そんな彼へチェン=タンはわざわざ席を立ち、両手を振って見送る。
 それはロドたちが来たときにも見せなかった態度だった。

「彼のこと、知ってる…?」
「ええ…」

 落ち着いた物腰の裏に、どこか不思議な雰囲気を匂わせていた仮面男。
 何より不思議だったのは、あの男に対してチェン=タンが敬語交じりの言葉を使っていることだった。
 一体何者なのかと眉を顰めるヤヲへ、リデは耳打ちし答えた。

「彼はチェン=タンの研究を支援している一人なの…金銭面やその他にも色々と、ね」

 彼女の言葉を聞き、もう一目見ようと振り返ってみたヤヲだが。
 もう既に男の姿はなくなっていた。

「謎の多い男だけど、ロドとも関係は深くて……ロドは彼のことを希望を否定する白ウォナと呼んでいるわ」
「ウォナ…」

 自身の名前も、身の上も肩書きも語らない。
 ただわかるのは、その男の援助がなければチェン=タンの研究は成し得ていなかったろうということ。
 当のチェン=タンも、彼が何者なのかを語ろうとはしない。
 語らないというよりは、彼さえもウォナという人物について知らないのかもしれない。
 リデはそう説明する。
 ただ、チェン=タンに限っては『知らない』というよりも『知ろうとしない』という方が合っているだろうとヤヲは考えつつ。
 消えていった仮面男の方を見つめ続けた。
 





    
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