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第二章 どんなクラスでも生き抜いてきたんだから

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「うぅっ、ぷあっ! 足が、攣って……! おぼれ、がぼっ、がぼぼ」

 優斗だ。
 優斗がおぼれかけて、もがいてるんだ。

「キャーー! 誰か、優斗くんが!」

 女子の甲高い悲鳴に、心臓がドクリと脈を打つ。
 優斗とオレは、ちょっと泳いだらすぐそこのすぐそこの距離にいた。それがわかったとき、オレは無我夢中で泳ぎ出していた。
 何をどうやって動いたのかわからない。
 ただとにかく優斗の方目掛けて一心不乱に手足を動かした。
 水の中で激しく泡を立てて、優斗が片足を奇妙にあげたまま、じたばたもがいているのが見える。
 たくさん水を飲んだ。息継ぎなんて練習したことがなかったから。それでもオレは必死に優斗に向かって泳ぎ続けた。
 だけど全然届かない。優斗のそばまで、近づけない。
 焦るオレの視界に、何かがふわりと降ってくるのが見えた。
 アヒルくん三号だ。
 ちょっと垂れ目の憎めない顔。
 ばっとプールサイドを見れば、悲鳴を上げる女子たちの中に小さく二つに結んだ髪がぴょんとはねて、人影に紛れて消えた気がした。

 だけど今はそれどころじゃない。
 アヒルくん三号は小さな足を必死にバタバタ動かしていたけど、優斗が暴れる波に打ち返されて、まったく近づけずにいた。むしろ、どんどん遠ざかっていて、今はオレの方が近かった。
 必死で手を伸ばしてアヒルくんを掴むと、思いっきり優斗の方へと投げた。

「優斗! 浮き輪だ、つかまれ!」

 もがく優斗が、ぱしゃりと近くに落ちたアヒルくんに気付いた。もがきながらも必死に食らいつくようにして、なんとか手がかかる。
 よかった、間に合った――。
 その後すぐに、ばしゃばしゃと大きなしぶきをあげて、先生が辿り着いた。優斗を背中から抱え上げるのが見えて、オレは全身で脱力した。
 たくさん水を飲んだし、手足は疲れ切っていた。

「こわかったよおお、優斗くん、おぼれちゃうかと思った……!」

 女子たちのすすり泣きが聞こえてきて、ほっとしながらオレはゆっくりとプールサイドへと上がった。
 まだ手足が震えてる。
 怖かった。
 オレみたいに溺れて、怖い思いをしてる人が目の前にいたのに、思うように動けなかったことが悔しかった。
 これでもしも間に合わなかったら、オレは一生後悔していただろう。
 オレのせいじゃないって言われても、オレは一生忘れることができないと思う。
 溺れるのが怖いから。
 水が怖いから。
 だからこそ、オレは泳げるようにちゃんとした努力をしなくちゃいけなかったんだ。
 博士の言った通りだった。
 優斗は先生にプールサイドへと抱き上げられ、げほごほとせき込む。
 よかった、意識はあるみたいだ。

「先生は保健室に行ってくるから! おまえらは水に入らずそこで待っとけよ!」

 先生の背中を見送りながら、重い体を引きずるようにプールサイドを歩いていくと、穂波がじっと見ているのがわかった。
 また何か言われるんだろう。
 そう覚悟したオレの耳に、思ったよりも大きな穂波の声が響いた。

「かっこよかったよ」

 聞こえた言葉に驚いて、思わず足を止めた。

「水が怖いんでしょ? なのに必死に優斗を助けに向かうタイガ、かっこよかったよ」

 その声は、魔法のようにその場にしみこんでいった。

「そうだよね……。うん、かっこよかった」
「優斗のところにがむしゃらに向かってったの、男だったな!」

 さっきまでオレを嘲笑っていた声が、少しずつ変わっていく。

「まあ、タイガが泳げないなんて意外だったけどな」
「欠点なんて誰でもあるし。むしろ、これまでタイガが欠点なさすぎたんだって」

 わいわいと口々に言い合うみんなをぽかんと見ていると、不意に「でもね!」と穂波が強い口調で割って入った。

「溺れてる人を助けるのって、危ないことなんだって。シロウトが助けようとすると、一緒に溺れちゃうこともある。だからこういうときは先生を呼ぶのが正解」
「あ……」

 そうだった。オレもそんなことは知っていたのに、すっかり頭から抜けていた。
 しかも泳げないオレまで一緒に溺れたら、先生だって助けられなかったかもしれない。
 冷静に考えれば思い出せる知識も、あの時はまったく出てこなかった。
 とにかく目の前で溺れそうな優斗を助けなくちゃって、それしか考えられなかった。夢中だった。
 オレが溺れた時に一緒に溺れかけたお父さんも、さんざん周りから言われていた。
 ロープとか浮き輪とか救助用具を投げて、自分は陸から助けるべきだった、って。

『だけど、溺れてる息子を目の前にしたら、そんなことを考えてる余裕はないよ』

 お父さんがそう言っていたことも覚えている。

『それに、川に流されて届かなくなったら、準備してる間に手遅れになったら。オレは次も冷静になれるかわからない』

 情けなそうな顔をしながらも、お父さんの目は真剣だった。
 今ならその時のお父さんの気持ちが少しだけわかる。
 目の前で誰かが死んじゃうかもしれないっていうのは、ものすごく恐怖だ。
 だけど、助けた人が死んではならないってことも、オレはよくわかっている。
 もしもあの時お父さんが死んでしまっていたら、オレは今みたいに生きられていないと思う。
 お母さんも、笑って毎日を過ごすことなんてできなかったんじゃないかな。
 だからオレは、穂波に向かって素直に「うん、ごめん」って言った。

「別に、私に謝る必要はないけど。とにかく、二人とも無事でよかった」

 そう言って、穂波は少しだけ笑った。
 意外だった。
 穂波はいつも怒ってばかりなイメージだったから、こんな風にほっとしたような顔もするんだなって。
 それでオレは気づいたんだ。
 もしかしたら穂波って、ただ単純に、ものすごーく正直なだけなんじゃないかって。
 いつも穂波が怒ってるのは、オレがぶつかっちゃったり、授業中に勝負だとかいって騒いでたり、理由があった。
 穂波は思ったことを口にしてるだけなんだ。
 オレは空気とか周りの目とかを気にして言わないから、余計に穂波を毒舌だとかいつも怒ってるとか思っちゃってたのかもしれない。

「穂波、ごめん」

 たまらず、もう一度謝ったオレに、穂波は片方の眉を吊り上げた。

「はあ? しつこい」

 言われて、つい笑ってしまった。

「いや、オレ今まで穂波のこと、キツイことばっかり言うなって思っちゃってたから。それを言わせてたのは自分だったなって気が付いて、その『ごめん』だよ」

 そう答えたら、穂波は吊り上げていた眉を元に戻して、今度はぎゅっと寄せた。

「別に。キツイって思ってたんなら、私もごめん。怒ってるわけじゃない。ただ、私、あんまり考えず口に出ちゃうっていうか」

 珍しく穂波がもごもごと口ごもる。

「穂波でも言いにくいことってあるんだな」

 あまりに意外で、それに先入観が取っ払われたせいなのか、ついそんなことを言ってしまったら、キッときつく睨まれた。

「一言余計!」
「あああ、マジごめん!」

 そんなやりとりをしていたけど、周りの目線にはっと気が付いた。
 みんなが気まずそうに互いに顔を見合わせ合ったりしながら、オレを見ていた。
 この空気はなんだ? と思ったら、誰かがぽつりと言った。

「さっきは笑ったりしてごめん」

 拓哉だった。
 驚いて目をまん丸にしているうちに、後から後からそんな声が続いた。

「カッコ悪いとか言ってごめんね」
「おれも、ダセーとか……ごめんな」
「いや……、その……」

 気付けば、オレの目からは温かいものがぽたりとこぼれていた。

「おい、なんだよ泣くなよ!」

 ぎょっとしたように拓哉が慌てて、あわあわと手足を動かす。

「お前、おれに負けた時以外で泣くんじゃねえよ!」

 なんだそれ、と思ったけど、あながちそれは間違いじゃない気もした。
 オレは、拓哉に負けたんだ。
 泳げないから、ってだけじゃない。
 拓哉は、すぐにオレに謝ってくれた。とても素直に。
 ずっと嘘をついて、逃げていたオレにはできなかったことだ。
 オレは人として拓哉に負けたんだ。そう思った。
 だけど嫌な気持ちじゃない。

「はははっ。みんな、ごめん。オレ、顔を水につけられないんだよ。昔溺れたことがあってさ、いまだに怖いんだよね。黙っててごめん。何でもできるフリしててごめん。実はこんな情けないやつだったんだ」

 そう言って笑ったら、なんだかすっとした。

「ええ? タイガくん、溺れたことがあったの? それは確かに、トラウマにもなるよね」
「なおさらごめん! そんな理由があったのに、頑張って泳いでるのを笑ったりして」
「ううん。オレも見栄張ってたの、かっこ悪かったし。いいよ」

 もう隠すのは無意味だ。だから正直にそう言った。

「いやでもさ、顔を水につけられないからって犬かきとか横泳ぎとか、方向が斜め上だよね! いやむしろ前向き?」
「見栄っ張りなとこも、タイガって感じだよな! 優斗は全然そんなつもりないのに、対抗意識ギラギラだし」

 そんなことを言われて、オレは思いっきり目を見開いた。

「え? えええ? そんな風に見えた?」
「うん。みんな知ってるよ。ねえ?」

 周りを見回せば、みんながうんうんと頷いていた。
 マジか……。
 オレ、うまくやってるつもりでバレバレだったのか。
 なんだか一気に脱力してしまった。
 みんなから見たオレって、競争心が強い意地っ張りな奴、ってところだったのか。
 恥ずい。ものっすごく、いたたまれない!

 だけど。
 なんでだろう。
 嫌な気持ちじゃなかった。
 どうしよう、とは思わなかった。
 今までオレが必死に作ろうとしてたイメージはぼっこぼこに壊れたし、そもそも理想通りになんていってなかったってわかったのに、それでも。
 自分の力で頑張ってみてよかった。
 初めて心の底からそう思えた。
 オレの胸の中は、今日の空みたいに青々として、とても気持ちよく晴れ渡っていた。

「しかし、自分だって溺れそうになってたくせに、優斗に浮き輪投げてやったのは今日イチかっこよかったな」

 その声に、一瞬みんながしんと静まり返った。

「あれ? そう言えば、あんな浮き輪、どこにあったんだ? そんで、どこ行った?」
「なんかあの浮き輪、足がついてたような……。しかもそれがバタバタ動いてたような」
「いやあ、オレも優斗も波立ててたからね! それであおられてるのが泳いでるように見えただけじゃない? あ、ほら、先生が保健室から戻ってきたよ、集合だってさ!」

 慌てて言えば皆納得してくれた。
 だけど、周りを見回してもさっきの人影はもう見あたらなかった。
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