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続5章 此花美桜 3
わたしの、幸せ
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中庭が静寂に包まれる。芝生を微かに白く染め上げた雪は、いつの間にかやんでいて。
その静寂は、ほんの数秒で終わった。
目を開けた美咲は握っていた真璃の手を放すと、顔を伏せながらゆらりと立ち上がる。
「これで、大丈夫……」
少し掠れた美咲の声を聞き、私は真璃の顔を覗き込んだ。
さっきまでは血色の悪そうな顔だったのが、今は健康的な肌色に戻っている。胸は規則正しく上下して、穏やかな寝息が聞こえた。
……多分本当に病気が治ったのだ。と、ひと目で感じるくらいに、真璃の様子は変わっていた。
恐る恐る真璃の顔に手を伸ばして、その頬を撫でる。
——ああ、真璃だ。真璃が、ちゃんとここにいる。
なんとも表現しがたい……、あえて言うなら、万感の思い。
抑えきれない感情は、先ほどの悲しみとは全く別の意味の涙を生んで、私の頬を伝っていった。
「美咲。……ありがとう」
見ると、美咲は俯かせていた顔を上げ、笑顔を見せる。
「うん。足りて良かった。ギリギリだった……」
「ギリギリ?」
言葉の意味がよく分からず、繰り返してしまう。
……そういえば、真璃の様子とは裏腹に、美咲の顔が真っ青になっている気がする。浮かべている笑顔も、なんだか無理やり顔の筋肉を動かして作っているような物に見えた。
「美咲、大丈夫?」
美咲はその疑問に答えることなく、私に背を向ける。
「……ちょっと、疲れちゃった。少し……、休むね」
明らかに力の入っていない声を出して、美咲はツインテールを揺らしながら桜の木の方へと足を動かし始めた。
その様子がおかしくて、私は胸がざわつくのを感じる。
「……美咲? 休むなら、談話室に戻ろうよ」
背中に声をかけるも、美咲はそのまま桜の木の下まで歩みを進め、その大木に体重を預けるように左肩を付けた。
そして、ずりずりと。木に左肩を擦り付けながら、美咲はその場にへたり込んだ。
まるで糸の切れた人形みたいに、それきりぴくりとも動かない。
「美咲……?」
どうしても嫌な予感がする。胸のざわつきが大きくなる。……だってそれは、普通に休んでいるようには見えない。
震える足に力を入れて、ベンチから立ち上がった。
ほんの少しの音を立てる雪を踏み鳴らしながら、美咲の背中に歩み寄っていく。
「美咲……。ここじゃ寒いよ。……中に、戻ろう?」
返事は返ってこない。
「ねぇ。……美咲ってば」
美咲のすぐ後ろまで辿り着いた私は、もう一度声をかけてその右肩に手を置いた。
すると、美咲の体はぐらりと揺れて、後ろに倒れてくる。
私はとっさにそれを受け止め、しっかりと肩を抱き、こちらを向かせた。
美咲の様子は、やっぱりどう考えてもおかしい。
全く力の入っていない体を私に寄りかからせて、ぐったりとしている。
……なんだ、これ。これじゃまるで、さっきまでの真璃だ。
「美咲っ!」
嫌な考えを振り払うように呼びかける。
その声が届いたのか。私の胸に顔をうずめている美咲の瞳が、ゆっくりと開かれた。
「…………あぁ。ママの、匂いが、する」
美咲の声は、掠れているとか、息が多く混じっているとか、もうそんなレベルじゃなくて。
空気が喉を通り過ぎる音が、かろうじて言葉の音として成立しているような、気を抜けば何を言っているのか分からないような、そんな物だった。
「ごめんね……。三回とか、嘘。この力、……ほんとは、わたしの、寿命を使うの」
「寿……、命?」
何それ。——なに、それ。
理解出来ない。いや、脳が理解するのを拒んでいるのかもしれない。
「ここに来るのに、結構使っちゃって……。でも、良かった。ちゃんと、病気、治せた」
途切れ途切れに必死に声を出そうとする美咲は、もう見ているのが辛くて。
私はぎゅっと目を閉じて、美咲の体を抱く腕に力を込めた。
「なんで、そんな嘘ついたのッ!」
「……だって。ママ、優しいから」
返ってきた言葉に私は目を開き、美咲を見る。
「ママ、きっと、迷っちゃうから。……だから、嘘、ついちゃった」
——どうして。どうして、こんな事になる。
真璃が助かったと思ったら、今度はこの子?
「どうして……」
思わず口から出た言葉は、美咲の声に遮られた。
「ごめんね、泣かないで、ママ」
言われて、私は瞳から再び涙が溢れ出ているのが分かる。
「意味、無いじゃん。……美咲が代わりに死んじゃったら、意味無いじゃん!」
ぼろぼろと流れ落ちていく涙に構いもせず、私は美咲に思いをぶつけた。
「一緒に暮らすんだよ! 今まで辛かった分、ここで幸せになれば良いんだよ! そんなに辛い思いしてきたんだから、美咲にだって幸せになる権利があるでしょ!?」
その権利が無いとは言わせない。……勿論、真璃にも。
どちらかの命を選べと言われた時、美咲の言うように私は迷って、選べなかったと思う。
でも、少なくとも私は、真璃とここで過ごせて幸せだった。真璃もきっと、私と同じ気持ちを持ってくれてたと信じてる。
——美咲はどうだ。
美咲の話を聞く限り、この子は私を失ってから、ずっとその悲しみと罪悪感を背負ってここまで生きてきたんじゃないのか。
私のように逃げる事も出来ず、許されることもなく、ここで私に会うまで、ずっと辛い思いをしてきたんじゃないのか。
だというのに、私と少し話して、それだけで終わりだっていうのか。この子の幸せは、たったそれだけで終わり?
「——おかしいよ! こんなの絶対おかしい! 美咲はこれからもっと幸せにならなきゃいけないの!」
どれだけ声を張り上げたって、どうしようもない事。それでも私は、不平を口に出さずにはいられなかった。
そんな私の頬に、美咲の手がそっと触れてくる。
涙の通り道をなぞるように、震える手が伸びてきて。私はその手を握った。
「……ママ。わたしの幸せ、願って、くれてたって、言ってたね……」
「うん。そうだよ。絶対、願ってたよ」
涙で揺らめく視界は、上手く美咲の顔を捉える事を許してくれない。
そんな中でも、私は美咲の手を握りしめて、目を見てそう答える。
「わたしも、だよ」
よく見えないけど。
多分そう言って、美咲は、笑った。
「……ママの幸せは————わたしの、幸せ」
はっとした。
私は、愛を分かった気になっていたけど。まだ、分かってない事があったんだ。
母親が子どもの幸せを自分の幸せのように感じるなら。その逆だって、あるじゃないか。
他人の幸せを自分の幸せと置き換える。人を愛するという事。
母親が子どもを愛して、その幸せを自分の幸せにする。
——そして子どももまた、母親の幸せを、自分の幸せに、する。
ああ、この子は今、命を懸けて。
私の幸せを、自分の幸せに、置き換えてくれているんだ。
「う……、あああああああっ!!」
声を張り上げた。
感情が抑えられなかった。
「……ねぇ、ママ」
先ほどよりもか細い声が、なんとか耳に届く。握っている手が、ぶらりと揺れる。
分かってしまう。美咲の、その命の火が、今にも消えかかろうとしている事が。
「…………なぁに?」
涙で何も見えない。
感情も、ぐちゃぐちゃしている。
それでも必死に声を絞り出して、美咲に応えた。
「みぃちゃん、って。もう……、一回。呼んで……?」
力いっぱい、美咲を抱きしめる。
「——みぃ、ちゃん」
その名を、私が今込められる最大限の慈しみを込めて、呼んだ。
美咲の口から、はは、と音がする。
笑っているんだ。この子は、笑顔のまま逝こうとしている。
「ママ。……真璃さんと、幸せに、ね」
「……なるよ。なるに決まってるじゃん……! みぃちゃんが、くれた幸せだもん……っ!」
この子が、命を賭して、くれた幸せ。
「あと……、出来れば。わたしの事……、覚えててほしい、な」
「忘れるわけないよ! 私の自慢の——、娘だもんっ!」
私と真璃のために、こんな所まで来てくれた娘。
「……ああ、わたし————」
————ママの娘で、良かったな。
そう最期に言い残して。
美咲の体からは、僅かに残っていた力も、抜けていった。
「……私も、あなたが娘で、良かったよ。……みぃちゃん」
多分、もう届いていない私の言葉。
その瞬間。私の腕が空を切って落ちた。
「え?」
短い驚きの声が、口をついて出る。
さっきまでそこにあった美咲の体は、服などと一緒に、跡形もなく消えていた。……まるで、夢でも見ていたかのように。
しかし、膝の上に細い桃色の二本の帯が置いてあるのを見て、私はそれを握りしめた。
これは、美咲が髪をツインテールに結ぶ時に使っていたリボン。
どうして美咲の体が消えてしまったのか。どうしてこのリボンだけ残っているのか。全然状況は理解出来ない。
でも。
「夢なんかじゃない。ちゃんと覚えてるよ。ちゃんとここにいたよね。みぃちゃん」
自分に言い聞かせるように、呟く。
そして言い終わるのと同時に、未だ揺らめく私の視界に、無数の細かい何かが映り込んだ。
また、雪が降ってきた?
違う。だって白くない。
そう、この色は。
顔を上げる。
見上げた私の目に飛び込んできたのは、視界がいっぱいになるほどの桃色。
——いや、桜色。
つい数瞬前まで、確かにただのつぼみだった桜は。その花を満開にして、私に花びらの雨を降らせていた。
薄暗く空を覆っていた灰色の雲は切れ目を見せて、中庭が明るくなっていく。
「——美桜」
そして後ろから聞こえてくる、大切な人の声。
あまりにも驚く事が多すぎて、もしかしたら全部幻なんじゃないかと思ってしまうほどで。
「……聞き間違えたかもしれないから、……もう一回言って?」
思わず、そんな返しをしてしまう。
「美桜」
聞き間違いなんかじゃない。
その人は、確かに私の後ろにいる。
振り返る。
そこには、動かなかったはずの両の足でしっかりと立っている、その人がいた。
風が吹いて、花びらが舞い、長い髪が揺れる。
「——真璃っ!」
ふわりと桜が舞い散る中で、私は真璃の胸に飛び込んだ。
————この日。
この町に、世界的に有名になる、木花神社以上の新しい名物が生まれた。
穂乃咲病院の中庭にある、一年中枯れない、桜の木。
きっとそれは、あの子の最後の、命の光————。
その静寂は、ほんの数秒で終わった。
目を開けた美咲は握っていた真璃の手を放すと、顔を伏せながらゆらりと立ち上がる。
「これで、大丈夫……」
少し掠れた美咲の声を聞き、私は真璃の顔を覗き込んだ。
さっきまでは血色の悪そうな顔だったのが、今は健康的な肌色に戻っている。胸は規則正しく上下して、穏やかな寝息が聞こえた。
……多分本当に病気が治ったのだ。と、ひと目で感じるくらいに、真璃の様子は変わっていた。
恐る恐る真璃の顔に手を伸ばして、その頬を撫でる。
——ああ、真璃だ。真璃が、ちゃんとここにいる。
なんとも表現しがたい……、あえて言うなら、万感の思い。
抑えきれない感情は、先ほどの悲しみとは全く別の意味の涙を生んで、私の頬を伝っていった。
「美咲。……ありがとう」
見ると、美咲は俯かせていた顔を上げ、笑顔を見せる。
「うん。足りて良かった。ギリギリだった……」
「ギリギリ?」
言葉の意味がよく分からず、繰り返してしまう。
……そういえば、真璃の様子とは裏腹に、美咲の顔が真っ青になっている気がする。浮かべている笑顔も、なんだか無理やり顔の筋肉を動かして作っているような物に見えた。
「美咲、大丈夫?」
美咲はその疑問に答えることなく、私に背を向ける。
「……ちょっと、疲れちゃった。少し……、休むね」
明らかに力の入っていない声を出して、美咲はツインテールを揺らしながら桜の木の方へと足を動かし始めた。
その様子がおかしくて、私は胸がざわつくのを感じる。
「……美咲? 休むなら、談話室に戻ろうよ」
背中に声をかけるも、美咲はそのまま桜の木の下まで歩みを進め、その大木に体重を預けるように左肩を付けた。
そして、ずりずりと。木に左肩を擦り付けながら、美咲はその場にへたり込んだ。
まるで糸の切れた人形みたいに、それきりぴくりとも動かない。
「美咲……?」
どうしても嫌な予感がする。胸のざわつきが大きくなる。……だってそれは、普通に休んでいるようには見えない。
震える足に力を入れて、ベンチから立ち上がった。
ほんの少しの音を立てる雪を踏み鳴らしながら、美咲の背中に歩み寄っていく。
「美咲……。ここじゃ寒いよ。……中に、戻ろう?」
返事は返ってこない。
「ねぇ。……美咲ってば」
美咲のすぐ後ろまで辿り着いた私は、もう一度声をかけてその右肩に手を置いた。
すると、美咲の体はぐらりと揺れて、後ろに倒れてくる。
私はとっさにそれを受け止め、しっかりと肩を抱き、こちらを向かせた。
美咲の様子は、やっぱりどう考えてもおかしい。
全く力の入っていない体を私に寄りかからせて、ぐったりとしている。
……なんだ、これ。これじゃまるで、さっきまでの真璃だ。
「美咲っ!」
嫌な考えを振り払うように呼びかける。
その声が届いたのか。私の胸に顔をうずめている美咲の瞳が、ゆっくりと開かれた。
「…………あぁ。ママの、匂いが、する」
美咲の声は、掠れているとか、息が多く混じっているとか、もうそんなレベルじゃなくて。
空気が喉を通り過ぎる音が、かろうじて言葉の音として成立しているような、気を抜けば何を言っているのか分からないような、そんな物だった。
「ごめんね……。三回とか、嘘。この力、……ほんとは、わたしの、寿命を使うの」
「寿……、命?」
何それ。——なに、それ。
理解出来ない。いや、脳が理解するのを拒んでいるのかもしれない。
「ここに来るのに、結構使っちゃって……。でも、良かった。ちゃんと、病気、治せた」
途切れ途切れに必死に声を出そうとする美咲は、もう見ているのが辛くて。
私はぎゅっと目を閉じて、美咲の体を抱く腕に力を込めた。
「なんで、そんな嘘ついたのッ!」
「……だって。ママ、優しいから」
返ってきた言葉に私は目を開き、美咲を見る。
「ママ、きっと、迷っちゃうから。……だから、嘘、ついちゃった」
——どうして。どうして、こんな事になる。
真璃が助かったと思ったら、今度はこの子?
「どうして……」
思わず口から出た言葉は、美咲の声に遮られた。
「ごめんね、泣かないで、ママ」
言われて、私は瞳から再び涙が溢れ出ているのが分かる。
「意味、無いじゃん。……美咲が代わりに死んじゃったら、意味無いじゃん!」
ぼろぼろと流れ落ちていく涙に構いもせず、私は美咲に思いをぶつけた。
「一緒に暮らすんだよ! 今まで辛かった分、ここで幸せになれば良いんだよ! そんなに辛い思いしてきたんだから、美咲にだって幸せになる権利があるでしょ!?」
その権利が無いとは言わせない。……勿論、真璃にも。
どちらかの命を選べと言われた時、美咲の言うように私は迷って、選べなかったと思う。
でも、少なくとも私は、真璃とここで過ごせて幸せだった。真璃もきっと、私と同じ気持ちを持ってくれてたと信じてる。
——美咲はどうだ。
美咲の話を聞く限り、この子は私を失ってから、ずっとその悲しみと罪悪感を背負ってここまで生きてきたんじゃないのか。
私のように逃げる事も出来ず、許されることもなく、ここで私に会うまで、ずっと辛い思いをしてきたんじゃないのか。
だというのに、私と少し話して、それだけで終わりだっていうのか。この子の幸せは、たったそれだけで終わり?
「——おかしいよ! こんなの絶対おかしい! 美咲はこれからもっと幸せにならなきゃいけないの!」
どれだけ声を張り上げたって、どうしようもない事。それでも私は、不平を口に出さずにはいられなかった。
そんな私の頬に、美咲の手がそっと触れてくる。
涙の通り道をなぞるように、震える手が伸びてきて。私はその手を握った。
「……ママ。わたしの幸せ、願って、くれてたって、言ってたね……」
「うん。そうだよ。絶対、願ってたよ」
涙で揺らめく視界は、上手く美咲の顔を捉える事を許してくれない。
そんな中でも、私は美咲の手を握りしめて、目を見てそう答える。
「わたしも、だよ」
よく見えないけど。
多分そう言って、美咲は、笑った。
「……ママの幸せは————わたしの、幸せ」
はっとした。
私は、愛を分かった気になっていたけど。まだ、分かってない事があったんだ。
母親が子どもの幸せを自分の幸せのように感じるなら。その逆だって、あるじゃないか。
他人の幸せを自分の幸せと置き換える。人を愛するという事。
母親が子どもを愛して、その幸せを自分の幸せにする。
——そして子どももまた、母親の幸せを、自分の幸せに、する。
ああ、この子は今、命を懸けて。
私の幸せを、自分の幸せに、置き換えてくれているんだ。
「う……、あああああああっ!!」
声を張り上げた。
感情が抑えられなかった。
「……ねぇ、ママ」
先ほどよりもか細い声が、なんとか耳に届く。握っている手が、ぶらりと揺れる。
分かってしまう。美咲の、その命の火が、今にも消えかかろうとしている事が。
「…………なぁに?」
涙で何も見えない。
感情も、ぐちゃぐちゃしている。
それでも必死に声を絞り出して、美咲に応えた。
「みぃちゃん、って。もう……、一回。呼んで……?」
力いっぱい、美咲を抱きしめる。
「——みぃ、ちゃん」
その名を、私が今込められる最大限の慈しみを込めて、呼んだ。
美咲の口から、はは、と音がする。
笑っているんだ。この子は、笑顔のまま逝こうとしている。
「ママ。……真璃さんと、幸せに、ね」
「……なるよ。なるに決まってるじゃん……! みぃちゃんが、くれた幸せだもん……っ!」
この子が、命を賭して、くれた幸せ。
「あと……、出来れば。わたしの事……、覚えててほしい、な」
「忘れるわけないよ! 私の自慢の——、娘だもんっ!」
私と真璃のために、こんな所まで来てくれた娘。
「……ああ、わたし————」
————ママの娘で、良かったな。
そう最期に言い残して。
美咲の体からは、僅かに残っていた力も、抜けていった。
「……私も、あなたが娘で、良かったよ。……みぃちゃん」
多分、もう届いていない私の言葉。
その瞬間。私の腕が空を切って落ちた。
「え?」
短い驚きの声が、口をついて出る。
さっきまでそこにあった美咲の体は、服などと一緒に、跡形もなく消えていた。……まるで、夢でも見ていたかのように。
しかし、膝の上に細い桃色の二本の帯が置いてあるのを見て、私はそれを握りしめた。
これは、美咲が髪をツインテールに結ぶ時に使っていたリボン。
どうして美咲の体が消えてしまったのか。どうしてこのリボンだけ残っているのか。全然状況は理解出来ない。
でも。
「夢なんかじゃない。ちゃんと覚えてるよ。ちゃんとここにいたよね。みぃちゃん」
自分に言い聞かせるように、呟く。
そして言い終わるのと同時に、未だ揺らめく私の視界に、無数の細かい何かが映り込んだ。
また、雪が降ってきた?
違う。だって白くない。
そう、この色は。
顔を上げる。
見上げた私の目に飛び込んできたのは、視界がいっぱいになるほどの桃色。
——いや、桜色。
つい数瞬前まで、確かにただのつぼみだった桜は。その花を満開にして、私に花びらの雨を降らせていた。
薄暗く空を覆っていた灰色の雲は切れ目を見せて、中庭が明るくなっていく。
「——美桜」
そして後ろから聞こえてくる、大切な人の声。
あまりにも驚く事が多すぎて、もしかしたら全部幻なんじゃないかと思ってしまうほどで。
「……聞き間違えたかもしれないから、……もう一回言って?」
思わず、そんな返しをしてしまう。
「美桜」
聞き間違いなんかじゃない。
その人は、確かに私の後ろにいる。
振り返る。
そこには、動かなかったはずの両の足でしっかりと立っている、その人がいた。
風が吹いて、花びらが舞い、長い髪が揺れる。
「——真璃っ!」
ふわりと桜が舞い散る中で、私は真璃の胸に飛び込んだ。
————この日。
この町に、世界的に有名になる、木花神社以上の新しい名物が生まれた。
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