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4章 雛本真璃 2

なら私、ずっと——

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 初めてお互いの名前を呼び合ってから、四ヶ月ほどが経ち、季節は変わり夏。八月も下旬に差し掛かろうとしている頃。
 私は美桜の病室にお邪魔して、空調の効いた部屋でいつものテーブルを挟んで向かい合い、一緒に夕飯を食べていた。
 夏になって日も長くなり、十八時を回っても窓の外はまだ暗くなりきっていない。外から聞こえる夏特有の虫の鳴き声が、さらにその季節を強調している。
 そして何より——。
「聞こえてきたねー、お祭りの音」
 今日は、穂乃咲町の夏祭りの日らしかった。
「そうね。あれは太鼓の音かしら」
 窓の外に目を向ける美桜にそう答えながら、私は味の薄い焼きそばをすする。病院食には珍しい焼きそばやたこ焼きなんて物が夕食の献立になっている所を見るに、入院中の患者にせめて食だけでも祭り気分を味わってもらおうという、病院側の配慮が感じられた。
 美桜はなんとかして外出許可を取って私とお祭りを回ろうとしていたらしいが、その許可が下りることは無かったらしい。
「真璃とお祭り行きたかったんだけどなぁ……」
 本当に残念そうに言いながら口にたこ焼きを運ぶ美桜は、先ほどから何度目になるか分からない溜め息をついた。


 ……あれから美桜には、一度記憶のリセットが入った。
 というのも六月の半ば頃、いよいよ母親がお見舞いに来てくれない違和感を拭いきれなくなった美桜は、周りに探りを入れ始め、母親の事や事故の事を思い出そうとして倒れてしまう、という事が頻繁に起こるようになったのだ。
 ただ、美桜の記憶の封印は流石にかなり強固らしく、自分で思い出そうとする分には倒れるだけで済み、完全に思い出して記憶を無くす所までは行かないらしい。そこまで行くには、やはり他人がその事故の事を教え、強制的に思い出させる他にないという事だ。
 逆に言えば、他人からその事を教えられない限りは、倒れるだけで記憶の喪失は無い。……ただし、これも絶対の事だという保証は無いのだが。
 しかし、いつどこでそれを思い出そうとして倒れるか分かったものじゃない美桜は、相当危うい状態であった。受け止めてあげる人が近くにいなければ、頭を打って怪我をする可能性だってある。
 そのため、その状態になった美桜をみすみす放置するわけにもいかず、先生と和幸さんは話し合った結果、定期的————基本的には二、三ヶ月ごと————に美桜に事故の事を告げて、記憶をリセットするという手段を取る事としたらしい。
 ちなみにリセット後は、母親は今までちゃんとお見舞いに来ていたと嘘をつけば、またしばらく時間を稼げるという考えのようだ。
 美桜に嘘をつくのは心が痛んだが、美桜のためだと思い、その提案に私は渋々頷いた。

 
「後で花火も上がるんだよ。多分窓から見れると思うから、せめてそれは一緒に見ようね」
「ええ。楽しみだわ」
 勿論私も美桜とお祭りには行きたかったけど、許可が下りなかったのには割と大事な理由があって。薬と機械で延命治療を受けている私の体はあまり無理が出来ないという事や、前回の記憶リセットからもう二ヶ月ほど経過している美桜がいつ倒れるか分からない、という理由が主だ。
 今日はお祭りのお陰で大丈夫なようだが、美桜は母親の姿が見えない事を最近怪しみ始めている。……美桜にまた事故の事を告げるのは、おそらく今月の終わりから来月の頭にかけてになるだろう。
「どうしたの?」
 色々と考えながら食事を続けていたため、その様子を心配したのか、美桜が私の顔を覗き込むように声をかけてきた。
「なんでもないわ。ちょっと考え事をしてたの。ごめんね、美桜とご飯食べてるのに」
「ううん、そんな事無いけど。何かあったら言ってね。力になれるか分かんないけど、私も一緒に考えるから」
 自分について不安な事も多いだろうに、美桜はいつもさらっと優しい言葉をかけてくる。こういう言葉を自然とかけられる人って、なかなかいないんじゃないだろうか。
「ありがとう。でも、美桜は傍にいてくれるだけで私の力になってるわ」
「——ん……っと。私も、真璃が傍にいてくれるだけで、嬉しい、かな。……うん」
 感謝の言葉と共に思っている事をそのまま口に出すと、美桜は顔を赤くしながら小さくなっていく声でそう返してきた。
 そんな風に赤くなる美桜が可愛いと思いつつもどこかおかしくて、私はつい笑ってしまう。
「な、なんで笑うの!?」
 不服そうに身を乗り出してくる美桜だったが、私が謝ると、「もう!」と頬を膨らませて再び食事に戻った。

 そうして夕食の時間が和やかに過ぎていく中、不意に病室のドアがノックされる。食事の時間の来客は珍しい……、というより普通は無い。
 私達は顔を見合わせ、美桜がノックの主に声をかける。
 扉を開けて入ってきたのは、美桜の主治医の先生だった。
「こんばんは。食事中にすみません。お二人に少しお話がありまして——」
 

          ◆ ◆ ◆ ◆


 夕食も終わり、時間は十九時四十五分。
 病院内では二十時から打ち上がる花火を見ようとする人が、ホールにある大きい窓の前などに集まったりしている。
 そんな中、私と美桜は萌果さんに連れられて病院の屋上へと出ていた。さすがに外は暗くなっているので、私達は懐中電灯を片手に持っている。
 外は少しじめっとした暑さがあったが、そんな事をすぐ忘れてしまうほど、自然に囲まれた夜の町の景色は綺麗だ。
「ありがとうございます、萌果さん」
「いやいや。あたしは先生に頼まれただけだしね」
 屋上の鍵を開けてくれた萌果さんにお礼を言うと、首を振ってそう返してくる。
 萌果さんはいつものナース服と違って、ゆったりとした紺色のワンピースを着ていた。私服を着ているから、勤務時間は終わっているのだろう。

 先生の話というのは、今日のお祭りで上がる花火を、屋上から見させてもらえるというものだった。基本的に普段屋上は閉めきられているので、鍵を開けるのはくれぐれも内緒で、という事らしいが。
 そしてその鍵を託され、私たちの保護者としてついて来る事になったのが萌果さんだったという訳だ。
 ……多分外出許可が出なくて落ち込んでいた美桜に、先生が気を遣ったのだろう。

「貸し切りで特等席だね!」
 嬉しそうにそう言う美桜は、花火が上がるのを待ちきれないのか、心なしかそわそわしているように見える。
「みぃちゃん、あんまり端っこ行かないでね。はしゃいで落っこちそうで怖いから」
「そこまで子どもじゃないから!」
 萌果さんのからかうような言葉に、美桜がむっとして答えた。それを見て萌果さんはさらに続ける。
「その点真璃ちゃんは安心して見てられるよ、落ち着いてるし。みぃちゃんの面倒見てあげてね」
「萌姉!」
 二人の会話はこの四ヶ月で何度も聞いてきたが、和幸さんの言う通り、本当に仲の良い姉妹のようで微笑ましいものばかりだった。
 そんな二人の言い合いに頬をほころばせ、私は再び町へ視線を落とす。
 夜の闇の中に点在する民家の光は、まるで夜空に輝く星のようで。その中を横断するように流れる川に沿って、ぼうっとした赤い光が列を成して並んでいる。その光はとても幻想的で、民家の光を星と例えるなら、それは天の川のようだと言えるだろうか。おそらくあそこに屋台が立ち並んでいるのだろう。
「あの河川敷から花火が上がるんだよ」
 いつの間にか萌果さんとの会話を終えた美桜が、私の左隣に立ってその川を指さした。
 相変わらずそわそわしている美桜に、萌果さんが腕時計を確認しながら口を開く。
「花火まであと五分くらいかな。じゃあ、あとは二人で楽しんでね」
 言いながら私たちに背を向ける萌果さん。
 美桜がそれに驚いたように声をあげた。
「萌姉も一緒に見るんじゃないの?」
「あたしは下のホールで見るよ。……邪魔しちゃ悪いしね」
 いたずらな笑み、というのはこういう表情を言うのだろう。そんな風に笑いながら、萌果さんはひらひらと手を振って屋上の扉に手をかける。
「花火が終わった頃にまた戻ってくるからね~。あ、盛り上がって変な事しちゃダメだよ? あたしが戻って来て変な空気になるの嫌だし」
「しないからっ!!」
 最後までからかう事を忘れない萌果さんに、美桜が今日一番の声量のツッコミを飛ばした所で、今度こそ萌果さんは扉の向こうに姿を消した。
「まったく、萌姉ってばいっつもああやって私の事からかうんだから!」
 片手をぱたぱたと動かして顔に風を送りながら、美桜が不貞腐れたように言う。
 暗くてよく見えないが、美桜の顔は少し赤みを帯びているように見えた。
「でも萌果さんの気持ちも分からないでもないわ」
 からかわれて、ぷんぷんしたり顔を赤くする美桜は可愛いから。多分萌果さんもそう思っているのだろう。
「なにそれ。……そういえば、真璃もよく私の事からかうよね。さっきご飯食べてる時だって、傍にいてくれるだけで~、とか言って笑ってたし」
「あれは本心よ」
 食い気味に、美桜の言葉に反論した。
「私は美桜が傍にいるだけで、いつも十分力を貰ってるから」
 からかったわけじゃない。と伝わるように、美桜の方をしっかりと見つめる。
 暗がりの中で、うちわ代わりに動かしていた手を止めた美桜が、こちらを見て息を呑む雰囲気を感じた。

「……なら私、ずっと——」

 そして、美桜がゆっくりと声を発し始めた所で。

 ばぁん、と。

 唐突な炸裂の音と共に、美桜の顔が光に照らされた。
 赤みを帯びているなんてレベルではなく、美桜は耳まで真っ赤にして目を見開いている。
 口を動かしていたようだが、何と言っているかはその炸裂音で聞き取れなかった。
「あー! 花火! 上がったね!」
 美桜はがばっと顔を町の方に戻し、その勢いのまま声を大きくする。
 美桜が何を言っていたのか気にはなったが、私も花火が上がったであろう方向へと視線を向けた。
 すると、光の大輪は次々と色とりどりに夏の夜空を埋め尽くし、辺りを明るく染め上げる。
「綺麗だね」
「……そうね」
 花火を見ながら呟く美桜の言葉に答えながら、私はその横顔をちらっと盗み見た。
 普段私達はお互いに顔を向け合っている事が多いから、実は横顔を見る機会というのは意外と少ない。だからか、どうしても美桜の方を見たくなる気持ちが強くなってしまった。
 なかなか見れない美桜の横顔に、多分私は見とれていた。……のかもしれない。
 気付いた時には、未だに赤みの引かない顔をした美桜と、ばっちりと目が合っていた。
「…………真璃? ……花火、見ないと、勿体ない、よ……?」
 そう言いながら、美桜も私から目を逸らそうとはせず、その潤んだ目とじっと見つめ合う。
 
 ——あれ、なんだ、この雰囲気は。

 そんな事を思いつつ、私は心臓が早鐘を打つのを止められなかった。
 花火の音もしているはずなのに、周りは不思議な静けさに包まれていて。
 ただ私の異様に速い鼓動の、ばくばくとした音だけが世界を支配していた。

 しばらく。——いや、数瞬?
 分からないが、とにかく美桜と見つめ合った私は、胸の奥から何かとてつもない感情が溢れ出しそうになるのを感じた。
 それを理解出来ず、我慢も出来ず、私は無理やり首を動かして美桜から目を逸らしてしまう。
 
 空を見る。花火が開く。
 花火が綺麗だ。
 そう。花火が綺麗。

 頭の中でそう繰り返し、私は落ち着きを取り戻すことに全力で努める。
 ……が、左手がするりと何かに包まれるのを感じ、私は思わず肩を揺らした。
 熱くて、柔らかい何か。
 多分。ではなく絶対。それは美桜の右手だった。
 再び鼓動が速くなりながらも、私はぎこちなくその手を握り返す。

 その後はずっと手を繋ぎながら花火を見ていたが、何度か横から美桜の視線を感じたりもして。
 私も見たい、という気持ちをぐっとこらえて、花火を見続けた。

 ——そして、それからは花火が終わり萌果さんが戻って来て、手を繋いでいるのをからかわれるまで、私達はお互いに顔を見合わせる事は無かった。


          ◆ ◆ ◆ ◆


 ぼーっと。病室の天井を見つめていた。
 
 ……あれ、私結局花火見たっけ?
 いや、見た。綺麗だった。凄く綺麗だった。綺麗だったんだけど。
「美桜……」
 自分でもよく分からないまま、隣の病室にいるであろうその子の名前を呟いてしまった。
 あの時の美桜の表情を思い出すと何故かまた鼓動が速くなりそうで、頭から抜き去るように私は顔を振る。
 そして起き上がると、ベッドの脇に置いてある棚の引き出しを開け、日記帳を引っ張り出した。
 
 実は、私は三月の終わりあたりから日記を書くようにしていた。
 美桜が記憶を失ってしまうというなら、せめて私はその一日一日を忘れないように、しっかりと記録しようと思ったのだ。
 今日の事も、ちゃんと書かないと……。
「……はぁ……」
 溜め息。
 自分がよく分からない。
 こんなのは初めてだ。
「なんだろう。これ……」
 誰に言うでもなく、声を出す。
 あの時、私の奥から溢れ出そうになった感情は一体なんだったのか。
 あの時というより、私は現在進行形でそれを抑え込もうと必死なわけだけど。
「……んー……っ」
 なんでかじっとしていられない。
 理由も無く声を出したり、足をばたつかせるのを止められない。
 こんなの変だ。
「……変だよ……」
 
 ……その日の消灯時間の後。私が眠りにつくのは夜中の三時を回った頃だった——。
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