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2章 雛本 真璃
今、笑いました?
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此花さんと一緒に夕飯を食べた翌日。
午前中に私の病室を訪れた両親は、昨日主治医の先生と話したことについて説明してくれた。……といっても、前にいた東京の病院で言われた事とほとんど同じような物だったけど。
一応要約すると、私の体を侵している病は手術してももうほぼ意味が無く、薬や機械でその進行を遅らせる事くらいしか出来ないという事だ。ちなみにその延命治療を、私は前の病院で拒否している。
……ただ一点違う所があったとするなら、それは予想より病の進行が速く、このままでは余命が宣告されていた2年よりも更に縮まるであろうという所か。
その話をする両親の顔は険しいが、その間私は特に表情も感情も動くことは無かった。
「真璃、延命治療を受けよう」
説明が終わりお父さんは重苦しい雰囲気でそう言うが、私の答えは決まっている。
「嫌」
それを聞いたお父さんはああだこうだとまた何かを言っているが、私はそれを聞き流してベッドから降りる。
しかしお父さんは私のやる事などお見通しだと言わんばかりに私の前に立ち塞がった。
「話はまだ終わってない。今日はしっかり聞いてもらうぞ」
「これ以上話しても何も変わらないわ」
言いながらお父さんを睨みつける。……後ろに立っているお母さんは、今にも泣きそうな顔をしていた。
「何故治療を拒否するんだ。お前の命がかかってるんだぞ?」
「しても治らないんでしょ? じゃあどっちにしろ無駄だわ。そんな事に大金を払う必要なんて無いじゃない」
その瞬間。——パァン、と乾いた音が室内に響き渡った。
お父さんを見ていたはずの私の頭がいつの間にか右を向いている。左頬にじんじんとした痛みが広がっていく。
——お父さんにはたかれたんだ。私。
今まで両親に一度もされた事がなかったような事をされ、私は自分が動揺しているのを感じた。
「無駄なわけないだろう! 俺は! ——俺達は、お前と少しでも長く一緒にいたいと思ってるんだ! お前に少しでも長く生きてほしいと願ってるんだ! それが無駄であるはずがない! 無駄だなんて言わせない!!」
お父さんが自分の事を『俺』と呼ぶのを、私は初めて聞いた気がした。
顔を戻すと、お父さんもお母さんもその瞳から大粒の涙がこぼれている。
……私の視界も少しずつ歪んでいった。
そんな顔を見られたくなくて、私は頬を押さえて目を伏せる。
……はたかれて痛いから。こんなことされて驚いたから。だからつい涙が流れてしまった。
そう。この涙は痛みのせい。そうに決まってる。
「……うるさい」
私は震える口から精一杯の言葉を絞り出し、お父さんの横をすり抜けて病室の扉に手をかける。
「真璃……」
お母さんの声に思わず止めそうになった手を無理やり動かし、私は扉を開け放った。
すると、そこには呆然と立っている此花さんがいた。
なんでこんな所に突っ立っているのか。とか、話を聞いていたのか。とか、聞きたいことはあったが、今はそんな余裕は無い。
「あ……」
目が合って何かを言おうとした此花さんを無視して、私はそのまま立ち去った。
◆ ◆ ◆ ◆
左頬にひりひりと痛みを感じながら、私は一階の談話室の端の席に座り、テーブルに突っ伏していた。
しばらくそうやってじっとしていたおかげか、溢れそうになっていた涙は乾き、大きく揺れ動いていた感情も大分落ち着いてきている。
あんなに必死なお父さんを見たのは初めてだった。
……分かってる。私の事を本気で考えてくれてることは。
でも何度考えても、私はもう死が決まっている自分の命に、お金を払ってまで延命するほどの価値を、どうしても見いだせなかった。
ここでこの命を無理やり引き延ばすことに、本当に意味はあるんだろうか。
お父さんもお母さんも、今はそれを望んでいるとしても、もしかしたらいつかここで大金を使った事を後悔したりするんじゃないだろうか。
様々な考えが頭の中を駆け巡る。
——私、どうすればいいんだろう。
「雛本さん」
思考の中にそんな声が割り込んできて、私は頭を上げた。
声で既に分かっていたことだが、テーブルを挟んで向かい側に此花さんが立っている。彼女は、胸の前でスケッチブックと筆箱を抱えるように持っていた。
「それ、私の?」
聞くと、此花さんは頷きながらその席に着く。
「雛本さんのお母さんが貸してくれました」
「……話したの?」
此花さんは「はい」と再び頷き、続ける。
「雛本さんが行っちゃった後に、少しだけお話ししました。雛本さんが実は絵で色々賞を獲ってた事も聞きましたよ」
「なにそれ」
ただの娘自慢だ。やめてほしい。
そんな私に、此花さんはスケッチブックをテーブルの上で差し出してきた。
「雛本さんの絵、見てみたいです」
私は差し出されたスケッチブックを見つめたまま、口を開く。
「……さっき、病室の前で話聞いてたなら分かるでしょ? 私、もう死ぬの。何しても助からないの。……今更何か描く意味なんて無いのよ」
言葉は返ってこなかった。私の前に差し出されていたスケッチブックが此花さんのもとに引き戻されていく。
諦めたのかと思ったが、立ち去る音はせず、声がした。
「じゃあ、私に絵を教えてください」
予想外の返答に、私は思わず此花さんの顔を見る。
彼女は優しい笑みを浮かべて、スケッチブックのページを開いていた。
「それなら、意味が無いことは無いですよね? 私の為になります」
——思えば、昨日からこの子の自然な笑顔を、私は見たことが無かった。
主に私のせいだが、彼女は緊張したり悲しんだりした表情ばかり見せていたから。
だからだろうか。彼女のその微笑みは、私にとってひどく印象的なもので。
色々な考えで頭が一杯になっていた事を、少しだけ忘れさせてくれた。
「……何その理屈。勝手だわ」
それにつられたからか。
自分でも何故だか分からないが、そう返す口の端が自然とわずかに上がっているのを、私は感じていた。
……この顔の感覚は、本当に久しぶりだ。
すると、此花さんが驚いたように声を上げる。
「雛本さん。今、笑いました?」
言われて、私は顔を逸らしつつ表情を戻した。
「……笑ってない」
「え? いや、笑いましたよね?」
「笑ってないわ」
「絶対笑いましたよ」
「くどい」
そんな此花さんの質問責めは、この後しばらく続いた——。
午前中に私の病室を訪れた両親は、昨日主治医の先生と話したことについて説明してくれた。……といっても、前にいた東京の病院で言われた事とほとんど同じような物だったけど。
一応要約すると、私の体を侵している病は手術してももうほぼ意味が無く、薬や機械でその進行を遅らせる事くらいしか出来ないという事だ。ちなみにその延命治療を、私は前の病院で拒否している。
……ただ一点違う所があったとするなら、それは予想より病の進行が速く、このままでは余命が宣告されていた2年よりも更に縮まるであろうという所か。
その話をする両親の顔は険しいが、その間私は特に表情も感情も動くことは無かった。
「真璃、延命治療を受けよう」
説明が終わりお父さんは重苦しい雰囲気でそう言うが、私の答えは決まっている。
「嫌」
それを聞いたお父さんはああだこうだとまた何かを言っているが、私はそれを聞き流してベッドから降りる。
しかしお父さんは私のやる事などお見通しだと言わんばかりに私の前に立ち塞がった。
「話はまだ終わってない。今日はしっかり聞いてもらうぞ」
「これ以上話しても何も変わらないわ」
言いながらお父さんを睨みつける。……後ろに立っているお母さんは、今にも泣きそうな顔をしていた。
「何故治療を拒否するんだ。お前の命がかかってるんだぞ?」
「しても治らないんでしょ? じゃあどっちにしろ無駄だわ。そんな事に大金を払う必要なんて無いじゃない」
その瞬間。——パァン、と乾いた音が室内に響き渡った。
お父さんを見ていたはずの私の頭がいつの間にか右を向いている。左頬にじんじんとした痛みが広がっていく。
——お父さんにはたかれたんだ。私。
今まで両親に一度もされた事がなかったような事をされ、私は自分が動揺しているのを感じた。
「無駄なわけないだろう! 俺は! ——俺達は、お前と少しでも長く一緒にいたいと思ってるんだ! お前に少しでも長く生きてほしいと願ってるんだ! それが無駄であるはずがない! 無駄だなんて言わせない!!」
お父さんが自分の事を『俺』と呼ぶのを、私は初めて聞いた気がした。
顔を戻すと、お父さんもお母さんもその瞳から大粒の涙がこぼれている。
……私の視界も少しずつ歪んでいった。
そんな顔を見られたくなくて、私は頬を押さえて目を伏せる。
……はたかれて痛いから。こんなことされて驚いたから。だからつい涙が流れてしまった。
そう。この涙は痛みのせい。そうに決まってる。
「……うるさい」
私は震える口から精一杯の言葉を絞り出し、お父さんの横をすり抜けて病室の扉に手をかける。
「真璃……」
お母さんの声に思わず止めそうになった手を無理やり動かし、私は扉を開け放った。
すると、そこには呆然と立っている此花さんがいた。
なんでこんな所に突っ立っているのか。とか、話を聞いていたのか。とか、聞きたいことはあったが、今はそんな余裕は無い。
「あ……」
目が合って何かを言おうとした此花さんを無視して、私はそのまま立ち去った。
◆ ◆ ◆ ◆
左頬にひりひりと痛みを感じながら、私は一階の談話室の端の席に座り、テーブルに突っ伏していた。
しばらくそうやってじっとしていたおかげか、溢れそうになっていた涙は乾き、大きく揺れ動いていた感情も大分落ち着いてきている。
あんなに必死なお父さんを見たのは初めてだった。
……分かってる。私の事を本気で考えてくれてることは。
でも何度考えても、私はもう死が決まっている自分の命に、お金を払ってまで延命するほどの価値を、どうしても見いだせなかった。
ここでこの命を無理やり引き延ばすことに、本当に意味はあるんだろうか。
お父さんもお母さんも、今はそれを望んでいるとしても、もしかしたらいつかここで大金を使った事を後悔したりするんじゃないだろうか。
様々な考えが頭の中を駆け巡る。
——私、どうすればいいんだろう。
「雛本さん」
思考の中にそんな声が割り込んできて、私は頭を上げた。
声で既に分かっていたことだが、テーブルを挟んで向かい側に此花さんが立っている。彼女は、胸の前でスケッチブックと筆箱を抱えるように持っていた。
「それ、私の?」
聞くと、此花さんは頷きながらその席に着く。
「雛本さんのお母さんが貸してくれました」
「……話したの?」
此花さんは「はい」と再び頷き、続ける。
「雛本さんが行っちゃった後に、少しだけお話ししました。雛本さんが実は絵で色々賞を獲ってた事も聞きましたよ」
「なにそれ」
ただの娘自慢だ。やめてほしい。
そんな私に、此花さんはスケッチブックをテーブルの上で差し出してきた。
「雛本さんの絵、見てみたいです」
私は差し出されたスケッチブックを見つめたまま、口を開く。
「……さっき、病室の前で話聞いてたなら分かるでしょ? 私、もう死ぬの。何しても助からないの。……今更何か描く意味なんて無いのよ」
言葉は返ってこなかった。私の前に差し出されていたスケッチブックが此花さんのもとに引き戻されていく。
諦めたのかと思ったが、立ち去る音はせず、声がした。
「じゃあ、私に絵を教えてください」
予想外の返答に、私は思わず此花さんの顔を見る。
彼女は優しい笑みを浮かべて、スケッチブックのページを開いていた。
「それなら、意味が無いことは無いですよね? 私の為になります」
——思えば、昨日からこの子の自然な笑顔を、私は見たことが無かった。
主に私のせいだが、彼女は緊張したり悲しんだりした表情ばかり見せていたから。
だからだろうか。彼女のその微笑みは、私にとってひどく印象的なもので。
色々な考えで頭が一杯になっていた事を、少しだけ忘れさせてくれた。
「……何その理屈。勝手だわ」
それにつられたからか。
自分でも何故だか分からないが、そう返す口の端が自然とわずかに上がっているのを、私は感じていた。
……この顔の感覚は、本当に久しぶりだ。
すると、此花さんが驚いたように声を上げる。
「雛本さん。今、笑いました?」
言われて、私は顔を逸らしつつ表情を戻した。
「……笑ってない」
「え? いや、笑いましたよね?」
「笑ってないわ」
「絶対笑いましたよ」
「くどい」
そんな此花さんの質問責めは、この後しばらく続いた——。
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