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03 入社日と刺身の盛り合わせ
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今日はいのりの入社日だった。
一日の執筆ノルマを終えた私はリビングでサビ猫のねぎさんをじゃらしつつ、あの子の帰りを待っている。
時刻はさっき18時を回った。
いのりの会社は17時定時らしいから、残業せずに真っ直ぐ帰ってくれば、そろそろ家に着いてもよい頃である。
「……ミャ」
ねぎさんの耳がぴくりと動く。
そのすぐ後に玄関のほうから、ガチャリとドアを開く音がした。
次いで元気な声が響いてくる。
「ただいまぁ」
いのりが帰宅したようだ。
トントンと軽い足音が廊下から聞こえてきて、帰ったばかりの彼女がリビングに顔を出した。
「お姉ちゃん、ねぎさん、ただいま!」
「お帰りー。出勤初日はどうだった?」
「すっごい疲れたよぉ。大した仕事もしてないのにもうくたくたぁ……」
「ふふふ。お疲れ様。緊張してたのかもね」
いのりは床にバッグを下ろすと、着慣れないスーツのジャケットを脱いでローソファへとへたり込んだ。
その隣にねぎさんがちょこんと座り、労うようにして前足の肉球でいのりの太腿にタッチする。
「ニャニャー」
「ねぎさんもお疲れ様ってさ。しかしあれね。あんたが帰ってきたら一緒にご飯でも食べにいこうと思って待ってたんだけど、その様子だとしんどそうね」
「ご飯⁉︎ いく!」
どうやら疲労より空腹が勝るらしい。
ソファに深く背中を預けていたいのりが、バッと勢いよく身体を起こした。
その拍子にねぎさんが驚いて、「ニャ!」っと抗議の鳴き声をあげてからソファを降り、部屋を出て行く。
「あ、ねぎさんごめんなさい」
いのりが申し訳なさそうな顔でねぎさんを見送っている。
そんな彼女に私は苦笑しながら声を掛ける。
「行くなら用意してらっしゃい。スーツのままだと夕飯食べに出掛けても休まらないでしょ?」
「はぁい」
いのりは立ち上がり、自室へと着替えに向かった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
近所の居酒屋へとやってきた。
軒先に『八重山』と書かれた赤提灯が提げられている。
ここは私のいきつけのお店だ。
何故夕飯にこのお店を選んだのかと言うと、いのりにお店の希望を尋ねたところ、ぜひとも私のよく通う居酒屋に行ってみたいとの答えが返ってきた為である。
なんでも彼女曰く、ずっと労働後の一杯というをやってみたかったとのこと。
それで今日はチャンスだと思ったらしい。
やっぱりこの子は私の妹なんだなぁなんてしみじみと感じる。
というのも、私だって働いた後の一杯は最高だと思っているクチだからだ。
いのりを連れて暖簾を潜った。
少し立て付けの悪くなった引き戸を、手に力を入れてガラガラっと開けると、すぐに店内からガヤガヤと酔客たちの賑やかな声が聞こえてくる。
「……らっしゃい」
店の親父さんが私たちの来店に気付いた。
「お邪魔しますー。ふたり、いいですか?」
「あいよ。好きなとこに座んな」
促され、いのりと並んでカウンター席に座る。
「ふわぁ……。ねぇお姉ちゃん。なんだか雰囲気のあるお店だね。これぞ居酒屋さんって感じがする」
いのりは物珍しげにキョロキョロと店内を見回している。
このお店は寡黙な親父さんが一人で切り盛りしている居酒屋さんだ。
木造りの店内は少し明度を落とした暖色の照明に照らされていて、店の隅っこにはプラスチック製の黄色いビールケースや空になった50ガロンサイズのビール樽なんかが雑多に積まれている。
いかにも大衆酒場という風情に落ち着きを感じるのは、私が飲兵衛だからだろうか。
「地元の人に愛されてるお店って感じだね」
「そうかもねぇ。親父さんは沖縄出身らしいけど、出てきたのは随分昔って話だし。それよりあんた、飲み物は何にするの?」
「お酒! ビールが飲みたい!」
「生と瓶とどっちにする?」
「えっと、それはどう違うの?」
「別に中身に違いはないわよ。樽詰めのビールをサーバーからグラスに注ぐのが生ビールで、瓶のビールを手酌でグラスに注ぐのが瓶ビールってだけ」
日頃からビールを嗜む人でも知らない場合が結構あるのだけれど、実は生ビールや瓶ビール、それに缶ビールにもビールとしての違いはない。
あるのは容器による保存状態の違いだけである。
酸化により味が変化するのが、醸造酒であるビールの性質だ。
これは例えば同じく醸造酒であるワインや日本酒なんかでも同じことが言えて、空気への触れ方や温度変化、光の当たり方なんかでどんどん酸化が進み、味が落ちてしまう場合がある。
そのことを説明すると、いのりは感心したように頷いた。
「へぇ。わたしてっきり、ビールは生ビールが一番美味しいんだと思ってたよ」
「どうかしらねぇ。たしかに総合的に考えると酸化に関しては生ビール、瓶ビール、缶ビールの順に有利であることが多いみたいだけど、生ビールだって樽やサーバーの管理状態によって味は落ちてしまうし、それに注ぎ方でも飲み口は変わるから……」
「うーん。なんだかわからなくなってきた」
いのりが目を回し始める。
「ふふふ。ごめんごめん。ともかくこのお店は親父さんが樽もサーバーもしっかり管理してるし、美味しい生ビールを注いでくれるわよ。だから今日は生にしましょう。……すみませーん!」
店内の喧騒に負けじと声を張り上げる。
「こっち、生中をふたつ下さぁい!」
程なくして、キンキンに冷えたジョッキに注がれた生ビールがふたつ運ばれてきた。
それを受け取り、いのりとグラスの底を重ね合わせる。
「それじゃあ乾杯。入社初日お疲れ様」
「かんぱぁい。ありがとうお姉ちゃん」
取っ手を持ち上げ、ジョッキをグイッと豪快に傾けた。
シュワシュワと泡立つ切れ味のよい生ビールを喉の奥に流し込み、ぐいぐいと飲み干していく。
「んく、んく、んく……」
鼻を抜けていく麦芽の香り。
爽快な喉越し。
舌に残るほろ苦くも透き通ったホップの味わいが、また堪らない。
「わぁ、お姉ちゃん。すごい飲みっぷり」
「ぷはぁ! あー美味しい。やっぱり一杯目のビールは最っ高ね。こういうお店だと気取らずにぐいぐい飲めるのもいいし」
やはり生ビールはこうでなくては。
いのりも私に続いてビールジョッキを傾け始めた。
◇
ラミネートのメニュー表を手に取って眺める。
小鉢なんかのスピードメニューから刺身、揚げ物、焼き物と豊富なメニューがずらりと並んでいる。
さて、今日は何を肴にしよう。
その時々で食べたいものを少しずつオーダーしていくのが、こういう大衆酒場での楽しみだと私は思う。
「いのりはどれがいい? あんた、そう言えば好き嫌いはあったっけ?」
「ないよ。なんでも大丈夫」
なら私と一緒だ。
「あ、お姉ちゃん。あれ見て。本日のおすすめ鮮魚だって」
いのりに促され、壁掛けのホワイトボードに視線を移す。
そこには手書きのマジックで今日のおすすめメニューが書かれていた。
「へぇ、鯛にマグロかぁ。あ、タコぶつも合わせて三種盛りにしてあるのね。とりあえず、まずはアレ頼んでみよっか」
声を上げてオーダーを通す。
すると直ぐに刺身盛りが運ばれてきた。
「……ん?」
けれどもおかしい。
私が頼んだのはお刺身の三種盛りのはずなのに、出されたのは五種盛りだ。
鯛、マグロ、タコぶつの他に、サーモンとホタテも追加されている。
「あれ? すみません、これオーダー間違ってますよ」
厨房兼カウンターに声を掛けると、親父さんが調理の手を止めずに応じる。
「……そりゃあサービスだ」
「サービスって?」
「そっちの初めて見る嬢ちゃん、今日から新社会人なんだろ? だからサービスだって言ってんだ」
なるほど、そういうことか。
どうやら先ほど乾杯した際の台詞を聞かれていたらしい。
「えっ⁉︎ いいんですか?」
驚いたいのりに、親父さんが無言で頷く。
「わぁ、ありがとうございます!」
寡黙な親父さんはもう一度頷いてから、出来上がった料理を持って他のお客さんのもとへと向かった。
「……えへへ。お姉ちゃん、サービスだって。得しちゃったね」
「ホントにね」
人情味に胸が暖かくなるのを感じながら、小皿に刺身醤油を垂らした。
「はい。これあんたのお醤油よ。じゃあ早速頂きましょう」
「うん。頂きまぁす」
いのりがマグロに手を伸ばす。
それに続いて私も箸を伸ばし、サーモンを一切れ摘み上げた。
まるで木目のような模様と、艶々に輝く脂の乗ったサーモンピンクの色合いが美しい。
お醤油に浸し、わさびを乗せてから口に運ぶ。
最初にツーンと鋭い刺激が口から鼻へと抜けていった。
それから直ぐに口内の熱で溶け出した脂の甘みが、舌の上で醤油の辛みと混じりあっていく。
ゆっくりと何度か咀嚼して、ビールと一緒に喉の奥に流し込んだ。
「はぁ、美味しい。やっぱりお刺身はいいわねぇ」
「お姉ちゃん、わたしホタテもらうねー」
「どうぞ。じゃあ私は次はどれにしようかなぁ」
思わず迷い箸をしてしまう。
少しお行儀が悪くはあるけれど、可愛い妹と一緒に気取らない大衆酒場に飲みに来たときくらいは大目にみてもらおう。
今度はタコぶつにしようか。
さっと湯通しされて綺麗に赤くなったタコの足が、大胆にカットされている。
箸で摘んで醤油をつけ、口に放り込んだ。
奥歯で噛み締めるとグニグニとした感触が面白く、けれども吸盤の部分は少し硬めの食感だ。
お次は鯛の刺身に手をつけた。
透明感のある切り身がキラキラと光って見える。
見た目通り味わいも繊細な鯛は、身の弾力もあってとてもバランスが良い。
一通りのお刺身を楽しんでから、私はまたビールジョッキを傾けた。
「んく、んく、んく、……ぷはぁ!」
グラスをテーブルに置いて息を吐く。
得も言われぬ満足感。
気付けば私は、もう一杯目の生ビールを空けてしまっていた。
◇
追加の生ビールをオーダーする。
提供されたビールを受け取り、今度は少し落ち着いて飲みながら、いのりに話し掛ける。
「そう言えばさ、会社はどうだったの?」
「うーん。まだよく分かんない」
「なにそれ?」
「だって初日だからって、まだ大した仕事はさせてもらってないんだもん。今日はマナー講習とかコンプライアンス研修なんかで一日が終わっちゃった。それにこれからしばらくは社内研修や勉強会が続くんだって」
「そうなんだ? 勉強会かぁ。IT企業なんでしょ? あんたも大変ねぇ。友だちなんかは出来そう?」
職場の人間関係はとても重要だと思う。
ともすれば業務内容以上に。
いや大学を出てからすぐに上京して、それからずっと文筆業で生計を立てている私には計り知れない部分もあるのだろうけど、想像くらいは出来る。
「友だちかぁ……。まだそう言えるほど親しくはないけど、同期入社はわたしを入れて四人だったよ。男子が二人と女子が二人。それで、今日はみんなでランチしたの。けどわたしびっくりしちゃって……」
「ん? 何かあったの?」
「あったよぉ! お姉ちゃん知ってる⁉︎ こっちだとランチ一回で、千円以上も払わなきゃならないんだから!」
「あー、それはねぇ……」
都会のランチは高い。
というか田舎ではあんまり外食する機会もなかった私は、上京してすぐの頃は今日のいのりと同じく都会の外食の値段に慄いたものだ。
「明日からはお弁当かなぁ。早起きして作らなきゃ……」
いのりはビールをちびちびと飲みながらぶつくさと呟いている。
大変そうだなぁ……。
新生活の気苦労も多いだろうし、私も何か手伝ってあげた方がいいのかもしれない。
まぁそれはそれとして――
「それよりもさ。ねぇいのり、会社にかっこいい男の子はいた?」
明るい話題に変えてみた。
そして気になっていた話題でもある。
姉として、可憐な妹が悪い男に引っ掛からないか確認しておかなければいけないのだ。
……というのは半分くらい建前で、実は私が聞いてみたいだけなのだけども。
「え、えー? どうかなぁ。……あっ、でも神楽坂くんとか? わたしはそういうのあんまり分かんないけど、かっこ良かったのかも?」
「どうしてそこ疑問形なのよ。あと神楽坂くん?」
「同期入社の男子の片方だよ。女子社員のみんながキャーキャー騒いでたから、もしかして人気があるのかなぁって」
少し興味が湧いた。
「へぇ。その神楽坂くんって、どんな子なの?」
「爽やかっぽいかなぁ。背はお父さんより少し高いくらいで真面目そうな人だよ。先輩の女子社員さんなんかは、休憩室で可愛い可愛いって騒いでた」
「ふーん。そうなんだ」
「ランチのときにね。神楽坂くんってば、わたしのこと横目でチラチラ見てきて、何回か目があったんだぁ。でも話しかけてもあんまり返事してくれないし。……やっぱりよく分かんない」
「なにそれ。……ははぁ、もしかしてその神楽坂くん、あんたに気があるんじゃないのぉ?」
「あはは。まさかぁ」
いのりが笑い飛ばす。
けれどもあながち有り得ない話ではないように思う。
だってこの子は姉の贔屓目を抜きにしても可愛らしいし、胸だって大きいのだ。
同じ両親から生まれてきたはずなのに、何故こうも私とは違うのかと嘆きたくなるくらい。
きっと神さまは、割と不公平なのだ。
◇
気付けばお刺身がなくなっていた。
けれども話も盛り上がってきたばかりだし、追加で何か頼みたい。
今度は熱々の揚げ物なんかはどうだろうか。
「ねぇいのり。追加オーダーするけど、あんたは何か食べたいものある?」
「んっと……。お料理はお姉ちゃんにお任せで」
「わかった。じゃあお酒はどうする?」
「もう一杯お酒飲んじゃおうかなぁ。今度はビール以外のやつ! ね、どれがいいかなぁ?」
「そうねぇ。じゃあチューハイなんかどうかしら。甘いのもあるし、お酒初心者のいのりにもおすすめよ。でさぁ、その神楽坂くんなんだけど――」
わいわいと話をしながらお酒を楽しむ。
ほろ酔いになった私たちは、いつの間にか大衆酒場の風景に溶け込んでいた。
酔客の笑い声が心地よく耳に響いてくる。
「すいませーん! こっち注文いいですかぁ?」
負けじと声を張り上げた。
まだ今日の飲み会は始まったばかりだ。
一日の執筆ノルマを終えた私はリビングでサビ猫のねぎさんをじゃらしつつ、あの子の帰りを待っている。
時刻はさっき18時を回った。
いのりの会社は17時定時らしいから、残業せずに真っ直ぐ帰ってくれば、そろそろ家に着いてもよい頃である。
「……ミャ」
ねぎさんの耳がぴくりと動く。
そのすぐ後に玄関のほうから、ガチャリとドアを開く音がした。
次いで元気な声が響いてくる。
「ただいまぁ」
いのりが帰宅したようだ。
トントンと軽い足音が廊下から聞こえてきて、帰ったばかりの彼女がリビングに顔を出した。
「お姉ちゃん、ねぎさん、ただいま!」
「お帰りー。出勤初日はどうだった?」
「すっごい疲れたよぉ。大した仕事もしてないのにもうくたくたぁ……」
「ふふふ。お疲れ様。緊張してたのかもね」
いのりは床にバッグを下ろすと、着慣れないスーツのジャケットを脱いでローソファへとへたり込んだ。
その隣にねぎさんがちょこんと座り、労うようにして前足の肉球でいのりの太腿にタッチする。
「ニャニャー」
「ねぎさんもお疲れ様ってさ。しかしあれね。あんたが帰ってきたら一緒にご飯でも食べにいこうと思って待ってたんだけど、その様子だとしんどそうね」
「ご飯⁉︎ いく!」
どうやら疲労より空腹が勝るらしい。
ソファに深く背中を預けていたいのりが、バッと勢いよく身体を起こした。
その拍子にねぎさんが驚いて、「ニャ!」っと抗議の鳴き声をあげてからソファを降り、部屋を出て行く。
「あ、ねぎさんごめんなさい」
いのりが申し訳なさそうな顔でねぎさんを見送っている。
そんな彼女に私は苦笑しながら声を掛ける。
「行くなら用意してらっしゃい。スーツのままだと夕飯食べに出掛けても休まらないでしょ?」
「はぁい」
いのりは立ち上がり、自室へと着替えに向かった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
近所の居酒屋へとやってきた。
軒先に『八重山』と書かれた赤提灯が提げられている。
ここは私のいきつけのお店だ。
何故夕飯にこのお店を選んだのかと言うと、いのりにお店の希望を尋ねたところ、ぜひとも私のよく通う居酒屋に行ってみたいとの答えが返ってきた為である。
なんでも彼女曰く、ずっと労働後の一杯というをやってみたかったとのこと。
それで今日はチャンスだと思ったらしい。
やっぱりこの子は私の妹なんだなぁなんてしみじみと感じる。
というのも、私だって働いた後の一杯は最高だと思っているクチだからだ。
いのりを連れて暖簾を潜った。
少し立て付けの悪くなった引き戸を、手に力を入れてガラガラっと開けると、すぐに店内からガヤガヤと酔客たちの賑やかな声が聞こえてくる。
「……らっしゃい」
店の親父さんが私たちの来店に気付いた。
「お邪魔しますー。ふたり、いいですか?」
「あいよ。好きなとこに座んな」
促され、いのりと並んでカウンター席に座る。
「ふわぁ……。ねぇお姉ちゃん。なんだか雰囲気のあるお店だね。これぞ居酒屋さんって感じがする」
いのりは物珍しげにキョロキョロと店内を見回している。
このお店は寡黙な親父さんが一人で切り盛りしている居酒屋さんだ。
木造りの店内は少し明度を落とした暖色の照明に照らされていて、店の隅っこにはプラスチック製の黄色いビールケースや空になった50ガロンサイズのビール樽なんかが雑多に積まれている。
いかにも大衆酒場という風情に落ち着きを感じるのは、私が飲兵衛だからだろうか。
「地元の人に愛されてるお店って感じだね」
「そうかもねぇ。親父さんは沖縄出身らしいけど、出てきたのは随分昔って話だし。それよりあんた、飲み物は何にするの?」
「お酒! ビールが飲みたい!」
「生と瓶とどっちにする?」
「えっと、それはどう違うの?」
「別に中身に違いはないわよ。樽詰めのビールをサーバーからグラスに注ぐのが生ビールで、瓶のビールを手酌でグラスに注ぐのが瓶ビールってだけ」
日頃からビールを嗜む人でも知らない場合が結構あるのだけれど、実は生ビールや瓶ビール、それに缶ビールにもビールとしての違いはない。
あるのは容器による保存状態の違いだけである。
酸化により味が変化するのが、醸造酒であるビールの性質だ。
これは例えば同じく醸造酒であるワインや日本酒なんかでも同じことが言えて、空気への触れ方や温度変化、光の当たり方なんかでどんどん酸化が進み、味が落ちてしまう場合がある。
そのことを説明すると、いのりは感心したように頷いた。
「へぇ。わたしてっきり、ビールは生ビールが一番美味しいんだと思ってたよ」
「どうかしらねぇ。たしかに総合的に考えると酸化に関しては生ビール、瓶ビール、缶ビールの順に有利であることが多いみたいだけど、生ビールだって樽やサーバーの管理状態によって味は落ちてしまうし、それに注ぎ方でも飲み口は変わるから……」
「うーん。なんだかわからなくなってきた」
いのりが目を回し始める。
「ふふふ。ごめんごめん。ともかくこのお店は親父さんが樽もサーバーもしっかり管理してるし、美味しい生ビールを注いでくれるわよ。だから今日は生にしましょう。……すみませーん!」
店内の喧騒に負けじと声を張り上げる。
「こっち、生中をふたつ下さぁい!」
程なくして、キンキンに冷えたジョッキに注がれた生ビールがふたつ運ばれてきた。
それを受け取り、いのりとグラスの底を重ね合わせる。
「それじゃあ乾杯。入社初日お疲れ様」
「かんぱぁい。ありがとうお姉ちゃん」
取っ手を持ち上げ、ジョッキをグイッと豪快に傾けた。
シュワシュワと泡立つ切れ味のよい生ビールを喉の奥に流し込み、ぐいぐいと飲み干していく。
「んく、んく、んく……」
鼻を抜けていく麦芽の香り。
爽快な喉越し。
舌に残るほろ苦くも透き通ったホップの味わいが、また堪らない。
「わぁ、お姉ちゃん。すごい飲みっぷり」
「ぷはぁ! あー美味しい。やっぱり一杯目のビールは最っ高ね。こういうお店だと気取らずにぐいぐい飲めるのもいいし」
やはり生ビールはこうでなくては。
いのりも私に続いてビールジョッキを傾け始めた。
◇
ラミネートのメニュー表を手に取って眺める。
小鉢なんかのスピードメニューから刺身、揚げ物、焼き物と豊富なメニューがずらりと並んでいる。
さて、今日は何を肴にしよう。
その時々で食べたいものを少しずつオーダーしていくのが、こういう大衆酒場での楽しみだと私は思う。
「いのりはどれがいい? あんた、そう言えば好き嫌いはあったっけ?」
「ないよ。なんでも大丈夫」
なら私と一緒だ。
「あ、お姉ちゃん。あれ見て。本日のおすすめ鮮魚だって」
いのりに促され、壁掛けのホワイトボードに視線を移す。
そこには手書きのマジックで今日のおすすめメニューが書かれていた。
「へぇ、鯛にマグロかぁ。あ、タコぶつも合わせて三種盛りにしてあるのね。とりあえず、まずはアレ頼んでみよっか」
声を上げてオーダーを通す。
すると直ぐに刺身盛りが運ばれてきた。
「……ん?」
けれどもおかしい。
私が頼んだのはお刺身の三種盛りのはずなのに、出されたのは五種盛りだ。
鯛、マグロ、タコぶつの他に、サーモンとホタテも追加されている。
「あれ? すみません、これオーダー間違ってますよ」
厨房兼カウンターに声を掛けると、親父さんが調理の手を止めずに応じる。
「……そりゃあサービスだ」
「サービスって?」
「そっちの初めて見る嬢ちゃん、今日から新社会人なんだろ? だからサービスだって言ってんだ」
なるほど、そういうことか。
どうやら先ほど乾杯した際の台詞を聞かれていたらしい。
「えっ⁉︎ いいんですか?」
驚いたいのりに、親父さんが無言で頷く。
「わぁ、ありがとうございます!」
寡黙な親父さんはもう一度頷いてから、出来上がった料理を持って他のお客さんのもとへと向かった。
「……えへへ。お姉ちゃん、サービスだって。得しちゃったね」
「ホントにね」
人情味に胸が暖かくなるのを感じながら、小皿に刺身醤油を垂らした。
「はい。これあんたのお醤油よ。じゃあ早速頂きましょう」
「うん。頂きまぁす」
いのりがマグロに手を伸ばす。
それに続いて私も箸を伸ばし、サーモンを一切れ摘み上げた。
まるで木目のような模様と、艶々に輝く脂の乗ったサーモンピンクの色合いが美しい。
お醤油に浸し、わさびを乗せてから口に運ぶ。
最初にツーンと鋭い刺激が口から鼻へと抜けていった。
それから直ぐに口内の熱で溶け出した脂の甘みが、舌の上で醤油の辛みと混じりあっていく。
ゆっくりと何度か咀嚼して、ビールと一緒に喉の奥に流し込んだ。
「はぁ、美味しい。やっぱりお刺身はいいわねぇ」
「お姉ちゃん、わたしホタテもらうねー」
「どうぞ。じゃあ私は次はどれにしようかなぁ」
思わず迷い箸をしてしまう。
少しお行儀が悪くはあるけれど、可愛い妹と一緒に気取らない大衆酒場に飲みに来たときくらいは大目にみてもらおう。
今度はタコぶつにしようか。
さっと湯通しされて綺麗に赤くなったタコの足が、大胆にカットされている。
箸で摘んで醤油をつけ、口に放り込んだ。
奥歯で噛み締めるとグニグニとした感触が面白く、けれども吸盤の部分は少し硬めの食感だ。
お次は鯛の刺身に手をつけた。
透明感のある切り身がキラキラと光って見える。
見た目通り味わいも繊細な鯛は、身の弾力もあってとてもバランスが良い。
一通りのお刺身を楽しんでから、私はまたビールジョッキを傾けた。
「んく、んく、んく、……ぷはぁ!」
グラスをテーブルに置いて息を吐く。
得も言われぬ満足感。
気付けば私は、もう一杯目の生ビールを空けてしまっていた。
◇
追加の生ビールをオーダーする。
提供されたビールを受け取り、今度は少し落ち着いて飲みながら、いのりに話し掛ける。
「そう言えばさ、会社はどうだったの?」
「うーん。まだよく分かんない」
「なにそれ?」
「だって初日だからって、まだ大した仕事はさせてもらってないんだもん。今日はマナー講習とかコンプライアンス研修なんかで一日が終わっちゃった。それにこれからしばらくは社内研修や勉強会が続くんだって」
「そうなんだ? 勉強会かぁ。IT企業なんでしょ? あんたも大変ねぇ。友だちなんかは出来そう?」
職場の人間関係はとても重要だと思う。
ともすれば業務内容以上に。
いや大学を出てからすぐに上京して、それからずっと文筆業で生計を立てている私には計り知れない部分もあるのだろうけど、想像くらいは出来る。
「友だちかぁ……。まだそう言えるほど親しくはないけど、同期入社はわたしを入れて四人だったよ。男子が二人と女子が二人。それで、今日はみんなでランチしたの。けどわたしびっくりしちゃって……」
「ん? 何かあったの?」
「あったよぉ! お姉ちゃん知ってる⁉︎ こっちだとランチ一回で、千円以上も払わなきゃならないんだから!」
「あー、それはねぇ……」
都会のランチは高い。
というか田舎ではあんまり外食する機会もなかった私は、上京してすぐの頃は今日のいのりと同じく都会の外食の値段に慄いたものだ。
「明日からはお弁当かなぁ。早起きして作らなきゃ……」
いのりはビールをちびちびと飲みながらぶつくさと呟いている。
大変そうだなぁ……。
新生活の気苦労も多いだろうし、私も何か手伝ってあげた方がいいのかもしれない。
まぁそれはそれとして――
「それよりもさ。ねぇいのり、会社にかっこいい男の子はいた?」
明るい話題に変えてみた。
そして気になっていた話題でもある。
姉として、可憐な妹が悪い男に引っ掛からないか確認しておかなければいけないのだ。
……というのは半分くらい建前で、実は私が聞いてみたいだけなのだけども。
「え、えー? どうかなぁ。……あっ、でも神楽坂くんとか? わたしはそういうのあんまり分かんないけど、かっこ良かったのかも?」
「どうしてそこ疑問形なのよ。あと神楽坂くん?」
「同期入社の男子の片方だよ。女子社員のみんながキャーキャー騒いでたから、もしかして人気があるのかなぁって」
少し興味が湧いた。
「へぇ。その神楽坂くんって、どんな子なの?」
「爽やかっぽいかなぁ。背はお父さんより少し高いくらいで真面目そうな人だよ。先輩の女子社員さんなんかは、休憩室で可愛い可愛いって騒いでた」
「ふーん。そうなんだ」
「ランチのときにね。神楽坂くんってば、わたしのこと横目でチラチラ見てきて、何回か目があったんだぁ。でも話しかけてもあんまり返事してくれないし。……やっぱりよく分かんない」
「なにそれ。……ははぁ、もしかしてその神楽坂くん、あんたに気があるんじゃないのぉ?」
「あはは。まさかぁ」
いのりが笑い飛ばす。
けれどもあながち有り得ない話ではないように思う。
だってこの子は姉の贔屓目を抜きにしても可愛らしいし、胸だって大きいのだ。
同じ両親から生まれてきたはずなのに、何故こうも私とは違うのかと嘆きたくなるくらい。
きっと神さまは、割と不公平なのだ。
◇
気付けばお刺身がなくなっていた。
けれども話も盛り上がってきたばかりだし、追加で何か頼みたい。
今度は熱々の揚げ物なんかはどうだろうか。
「ねぇいのり。追加オーダーするけど、あんたは何か食べたいものある?」
「んっと……。お料理はお姉ちゃんにお任せで」
「わかった。じゃあお酒はどうする?」
「もう一杯お酒飲んじゃおうかなぁ。今度はビール以外のやつ! ね、どれがいいかなぁ?」
「そうねぇ。じゃあチューハイなんかどうかしら。甘いのもあるし、お酒初心者のいのりにもおすすめよ。でさぁ、その神楽坂くんなんだけど――」
わいわいと話をしながらお酒を楽しむ。
ほろ酔いになった私たちは、いつの間にか大衆酒場の風景に溶け込んでいた。
酔客の笑い声が心地よく耳に響いてくる。
「すいませーん! こっち注文いいですかぁ?」
負けじと声を張り上げた。
まだ今日の飲み会は始まったばかりだ。
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父にも第二夫人にも、そして腹違いの妹にも邪険に扱われていた。
ある日フィアナは、川で倒れている青年を助ける。
それから四年後、フィアナの元に国王から結婚の申し込みがくる。
身分差を気にしながらも断ることができず、フィアナは王妃となった。
あの時助けた青年は、国王になっていたのである。
「君を永遠に愛する」と約束をした国王カトル・エスタニアは
結婚してすぐに辺境にて部族の反乱が起こり、平定戦に向かう。
帰還したカトルは、族長の娘であり『精霊の愛し子』と呼ばれている美しい女性イルサナを連れていた。
カトルはイルサナを寵愛しはじめる。
王城にて居場所を失ったフィアナは、聖騎士ユリシアスに下賜されることになる。
ユリシアスは先の戦いで怪我を負い、顔の半分を包帯で覆っている寡黙な男だった。
引け目を感じながらフィアナはユリシアスと過ごすことになる。
ユリシアスと過ごすうち、フィアナは彼と惹かれ合っていく。
だがユリシアスは何かを隠しているようだ。
それはカトルの抱える、真実だった──。

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