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北川家の日常

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 家に帰ってきた俺は、ずっと押し黙ったまま西澄アリスのことを考えていた。

 あれから彼女のことが気になって仕方がない。

 いまもあいつは、あの暗く冷たい屋敷で、表情を失ったまま佇んでいるのだろうか。

 それを想うと、胸が苦しくなった。

 ◇

「どうしたの大輔にぃ。
 そんな神妙な顔して。
 珍しいこともあるわねー」

 我が家は古式ゆかしき日本家屋だ。

 和室の居間に陣取って暗い顔をしていると、次女の明希あきが声を掛けてきた。

 今年中学にあがったばかりの、下のほうの妹である。

 おかっぱ頭が可愛らしい。

「きっと、にいちゃん。
 女にでもフラれたんだぜー!」

 続いて居間に顔を出したのは、小学校4学年の弟である拓海たくみだ。

 こいつは悪戯好きなやつで、よく俺やじいちゃんに叱られている。

「なに言ってんの拓海。
 大輔にぃに、そんな女っ気なんてあるわけないじゃん」

「いや絶対そうだって!
 なぁ、なぁ!
 にいちゃん、フラれたんだろ!
 フラフラ、フラフラ、おフランス~♪
 なんちゃって!」

 拓海のやつが、ガキ特有の意味不明な歌を即興で口ずさみながら、タコみたいにゆらゆらと踊り出した。

「あははっ!
 なに、そのダンス。
 バカじゃないのあんた!」

 明希が拓海を指差して笑い出す。

 一気に部屋が騒がしくなりはじめた。

 いつも通りの我が家の喧騒につられて、俺も表情が緩む。

 ……そうだな。

 弟妹ていまいたちの前で暗い顔をしていても、なんにもならない。

 俺は意識的に気持ちを切り替えることにした。

「ヘイ、ユー!
 おフランスだからって、落ち込むんじゃない。
 元気だせよ!」

 拓海のからかうような物言いに、軽くイラッとする。

「うっせ!
 糞つまんねぇギャグばっかいってると、また泣かすぞチビ!」

 立ち上がり、熊のように両手をあげて威嚇ポースをとった。

「ぎゃああ!
 にいちゃんが怒ったぁ!」

 お調子者の弟が、ドタバタ足音を鳴らし、走って逃げていく。

「おい、こら!
 家んなかで走ったら、あぶ――」

 止めようとしたそばから、拓海が部屋に入ってこようとした人物とぶつかった。

「――きゃ⁉︎」

「はぶぎゅ!」

 小さな弟は、跳ね返されて尻餅をつく。

 対してぶつかられたセーラー服の女の子も、鼻を手で押さえて涙目になっている。

「ぅぅ……。
 いたい。
 こら、拓海!
 家のなかで暴れちゃダメって、何度も言ってるでしょ」

「ふぎゅぅぅ……。
 わ、わりぃ、雫ねぇぇ……」

「んもぅっ。
 痛いなぁ
 鼻がぺちゃんこになっちゃう」

 拓海の頭がぶつかって、赤くなってしまった鼻をさすっているのは、長女で中学3年生のしずくだ。

 まだ幼さが勝るものの、将来はしっとりとした美人に育つだろうことの間違いない、自慢の妹である。

「よう。
 大丈夫か?」

 拓海を抱き起こしながら、雫に声をかける。

 目を回してしまった愚弟を部屋のすみに寝かせてから、俺は雫が畳に落としてしまったスーパーのレジ袋を持ち上げた。

「これ、台所まで運んどくぞ」

「うん。
 ありがと、お兄ちゃん。
 じゃあ手早く晩ご飯作っちゃうね。
 明希ー。
 お料理手伝ってくれる?」

「はぁい」

「おい、雫。
 俺もなんか手伝うことあるか?」

「んーん。
 いまはないよ。
 でもすぐにご飯出来ると思うから、しばらくしたら、おじいちゃん呼んできてもらえるかな?」

「オッケー。
 まかされた」

 俺と、長女の雫と、次女の明希と、末っ子の拓海。

 これにじいちゃんと、夜遅くまで家族を養うために働いてくれている親父を加えた計6名が、我が北川家の面々だった。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 賑やかな夕食の時間が過ぎた。

 今日の晩飯もうまかった。

 早くに母親をなくした我が家では、料理は主に妹たちの担当となっている。

 雫の料理の腕は絶品だ。

 特に出し巻き卵なんかの和食がうまい。

 俺が縁側で夜空を見上げ、食べ過ぎてくちくなった腹をさすっていると、賑やかな家のなかからじいちゃんがやってきた。

「……ふぅ。
 よいせ」

 おもむろに俺の隣に腰掛けたじいちゃんが、いつものべらんめぇ口調で尋ねてきた。

「なぁ、大輔。
 なにか悩みごとがあるんじゃねぇか?
 ほら、言ってみろや」

「……なんの話だよ」

「誤魔化すんじゃねぇよ。
 大輔。
 お前、飯くってる間も、ちょくちょくうわの空だったじゃねぇか。
 なんか悩んでんだろうが」

 さすがはじいちゃんである。

 仕事で留守にしがちな親父に代わって、俺たちが小さな頃から面倒を見てきてくれただけのことはある。

 ぶっちゃけ俺たち兄弟姉妹は、みんなじいちゃんっ子だ。

 だから俺は、西澄アリスのことをじいちゃんに相談してみることにした。

 ◇

「……って、わけなんだよ」

 ひと通り話をすると、それまで黙って聞いてくれていたじいちゃんが、ぽんと膝を叩いた。

「かかかっ。
 そうか、そうか……」

 いま話したのは、西澄が学校や家で、どんな孤独な環境に置かれているかの話だ。

 面白い要素なんて、欠けらもないはずである。

 なのに急に快活に笑い出したじいちゃんに、俺は軽くムッとした。

「なにを笑ってんだ、じいちゃん」

「ああ、悪りぃ。
 別にその嬢ちゃんの話が面白くて笑ったわけじゃねえから、そう怒るな」

「じゃあ、なんだってんだ?」

「いや、なぁに。
 ついにオメェも、女の話なんざするようになったのかと思うと、感慨深くてなぁ……。
 かかかっ」

 不意打ちみたいなじいちゃんの言葉に、俺はちょっと顔を赤くしてしまう。

「お、女な話だぁ⁈
 そ、そんなんじゃねぇての!」

 誤魔化すように、俺はぶっきらぼうな口調で言い放った。

「そ、それよりいまは、あいつの話をだなぁ……。
 って聞いてるのか、じいちゃん!」

 よほど愉快だったのだろう。

 じいちゃんはいまだに笑い続けている。

「ちっ。
 ……たく」

 舌打ちしてから、じいちゃんの笑いがおさまるのを待つ。

 ようやく笑い終えたじいちゃんが、真っ直ぐに俺の目を見て語りかけてきた。

「それで大輔。
 オメェはその嬢ちゃんのこと、どうしてやりてぇんだよ?」

 少し考えてみる。

 夕陽に染まる校舎裏で眺めた、西澄アリスの微笑み。

 あれはまるで、すっと胸に染み入ってくるような暖かな笑みだった。

「俺は……。
 俺はもう一度、あいつの笑顔がみたい……」

「……はんっ。
 なんだ大輔。
 もう答え、出てんじゃねぇか」

 じいちゃんが膝に手をついて、縁側から立ち上がる。

「なら大輔。
 テメェは全力で、その嬢ちゃんを笑わせてやりゃあいい」

 それだけ言ってから、じいちゃんは歩き始める。

「……ああ。
 そうする」

 なんだかじいちゃんに、背中を押された気がした。

 俺は騒がしい家に戻っていく後ろ姿に向かって、頭を下げて感謝した。
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