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空っぽな空間
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放課後。
俺は正門で待ち合わせて、西澄の家に向かった。
学校を出てから、彼女の歩調に合わせて歩くこと40分。
この辺りは閑静な高級住宅街だが、いまやってきたのは、そのなかでも特に金持ちが好んで住むような区域だ。
西澄と肩を並べ、会話も少なくとぼとぼと歩いていくと、やがて遠目に付近でも一際目立つ、立派な屋敷が目に入ってきた。
「……あそこです。
あれが、わたしの家です」
「はぁぁ……。
こりゃまたでっけえ屋敷だなぁ。
やっぱりお前、いいところのお嬢さんだったんじゃねえか」
「……いいところ?
そうでしょうか」
西澄が正門横に設けられた通用口を開ける。
「どうぞ。
入ってください」
「ああ。
それじゃあ、お邪魔します」
彼女に続いて、西澄邸の敷地内に足を踏み入れた。
「……おお⁉︎
な、なんか、すげえ庭だな!」
思わず興奮してしまう。
門の内側には西洋風の庭園が広がっていた。
広さはざっとした目算でも、200坪くらいはありそうだ。
広々とした庭の全体に、芝生が敷かれている。
見回すと整形した垣根や、幾何学的な模様に引かれた道路や水路が見えた。
「ちょ⁉︎
こんな庭のあるウチ、見たことねぇぞ……!」
庭園の中央には噴水なんかもあって、目を惹く。
「はぁぁ……。
これ、手入れ大変なんじゃねえの?」
「月に一度、庭師のかたが来てくれていますから。
それより、こちらへどうぞ」
案内された屋敷は、モダンな洋館だった。
もう、見るからに豪邸だ。
「う、うお……。
これもまた、すげぇな」
思わず仰け反り気味になって圧倒されていると、俺には構わず西澄が洋館の扉を開けた。
「……どうぞ」
ごくりと生唾を飲み込んで、屋敷に踏み込む。
なかに入った俺は玄関ホールから内部を見回して、すぐに異様さを感じとった。
「……ん?
どういうことだ」
「猫はこっちです」
「ちょ……⁉︎
西澄!
待てって」
スタスタと歩いていく彼女を追いかけつつ、洋館のなかを見回していく。
やっぱりこの家は異常だ。
「……なぁ、西澄」
先導して前を歩く彼女の背中に声をかけた。
「なんですか?」
「なんでこの家、家具が一切ないんだ?」
疑問に思う。
ここにはその豪奢な外観に反して、家具や屋敷を飾る装飾品の類なんかがひとつも見当たらなかった。
西陽の差し込む洋館のなかは、がらんどうだ。
物もなく、音も聞こえてこない。
加えていうなら、ひとの温もりすらも感じられない、世界から切り離された空間。
それが、おれが西澄邸に抱いた印象だった。
佇まいが瀟洒な洋館なだけに、これには空虚さすら覚えてしまう。
「なぁ、西澄。
どうして――」
「…………」
彼女は返事をしない。
ただうつむいて、俺の前を歩いていた。
◇
とある部屋に案内された。
「……あれ。
ドアが開いてますね。
ここが子猫の部屋なんですが……」
通された部屋には、あの白い子猫の姿はなかった。
猫じゃらしなんかのおもちゃや、ドライフードの盛られた容器が、寒々しい部屋の隅っこにぽつんと置かれている。
「どこにいったんでしょう。
きっと、家のなかを散策してるんだと思うのですけど……」
「そっか。
でも取り敢えず、猫のことは後回しでいい」
「……?
でも北川さん、あの子のことが気になって様子を見に来たんですよね」
「……ぅ」
言葉に詰まる。
猫のことは口実だ。
実際のところ、俺は西澄があの猫に向けた微笑みを信じている。
彼女ならきっと、子猫をちゃんと世話してくれるだろう。
それよりもいまは、気になっていることがある。
「なぁ、西澄。
どうしてこの屋敷には、ひとが誰もいないんだ?」
そう。
俺は西澄邸の通用口を潜ってから、まだ誰とも顔を合わせていない。
そのことが不思議だった。
「…………」
「これだけ大きな洋館なんだ。
お手伝いさんがいたって不思議じゃないし、それにお前の家族は……?」
「…………」
「黙ってないで、なんとか言ってくれ」
「どうして……」
彼女がぼそぼそと呟く。
俺はその声を聞き漏らしてしまわないように、耳を澄ませた。
「……どうして、そんなことを北川さんに教えなければならないんですか?」
「どうしてって、俺が知りたいからだ」
「……理由になってません」
「理由なんて、そんなものはどうでもいい」
じっと西澄のことを見つめ続ける。
「……別に大した理由じゃありませんよ」
「それでもだ。
なぁ、西澄。
聞かせてくれよ。
お前のこと」
◇
夕焼け色の空間に、静寂が流れる。
俺が引かないと悟った彼女は、やがて根負けしたかのように溜め息を吐いて、訥々と話し始めた。
その内容はこうだ。
西澄の家は見た目通りに裕福な家庭である。
彼女の父親は、日本人なら誰もが知っている大手自動車メーカーの重役らしい。
母親はフランスの美人女優とのことだ。
なんでも父親の勤める企業が、結構前にフランスの自動車メーカーと資本提携したらしいのだが、彼女の父はその都合で渡仏しているときに母と知り合ったらしい。
西澄家はいわゆる普通の、円満な家庭ではなかった。
彼女が物心ついたころにはもう、家庭は崩壊していた。
父親は家には帰ってこず、母親は毎日見知らぬ男性や知人たちを家に呼び込んでは派手なパーティーざんまい。
享楽に耽るだけ耽るって、我が子の成長にはまったく興味を示さなかった。
「なんだよ、それ……」
「……それでも、なんとかお母さんに振り向いてもらおうと、がんばったんですよ。
行儀よくしましたし、勉強もたくさんしました。
でも……」
結局、母親は最後まで彼女に愛情を与えることはなく、まだ中学校に上がったばかりの西澄を残してフランスへと帰っていった。
それからは月に1回、父親の代理人として秘書がやって来るだけらしい。
「さっき、北川さんは、家に家具がないのを不思議がっていましたよね。
……昔はたくさんあったんですよ。
それこそ家中が、豪華な物で溢れるくらいに」
「……そうなのか?
じゃあ、いまのこの空っぽな屋敷は?」
「……わたしが全部処分しました。
お母さんの思い出ごと、全部捨ててしまいたくて。
薄情だと思いますよね。
自分でもそう思います。
ふふ……」
西澄が自虐的な笑みを浮かべた。
以前、彼女が猫に向けていた微笑みとは、まるで違う悲しそうな微笑み……。
俺は西澄に笑っていて欲しい。
でも、こんな笑顔は違う。
いまの彼女は涙を流しているわけではない。
でも俺には寂しげに笑うその姿が、放課後の教室でひとり泣いていたあのときの姿と重なって見えた。
◇
西澄の気持ちを想像する。
これはいわゆる育児放棄ってやつだ。
多感な子供時代に親から愛情を注がれずに育った彼女。
時宗がいうには、西澄は金髪ハーフということもあって学校のみんなからも距離を置かれている。
家でも学校でも、ずっと孤独を感じ続けてきたんだろう。
俺は想像する。
こんな空っぽで冷たく虚ろな、ただ広いだけの屋敷でたったひとりで暮らしてきた彼女の毎日を……。
目の奥がじんと熱くなってきた。
俺はこういうのが苦手なんだ。
「……みぃ。
みぃ~」
俺が言葉を失ったまま立ち尽くしていると、白い子猫が部屋に戻ってきた。
「あ、戻ってきました。
お帰りなさい、マリア」
猫は真っ直ぐに西澄の所に向かい、彼女の足にまとわりついている。
「北川さん。
猫が帰ってきましたよ」
「……そうみたいだな。
名前つけたのか。
マリアっていうんだな」
「はい、そうです。
知ってますか?
サウンド・オブ・ミュージックっていうミュージカル映画からとったんです。
名門トラップ一家の7人の子供たちの家庭教師になった、お転婆な修道女のマリア。
彼女から名前を頂きました」
その映画なら俺も知っている。
賑やかな大家族と修道女マリアとの交流を描いた、不朽の名作映画だ。
だがあの映画、たしか親と子の絆をテーマにしたものでもあったような……。
もしかするとマリアというこの名付けには、彼女の家族に対する憧憬が込められていたりするのだろうか。
「……みぃ~。
みぃ、みぃ~」
「はいはい。
どうしたの、マリア。
お腹すいたの?」
西澄アリスがしゃがみ込み、白い子猫をあやす。
夕陽に赤く照らされた彼女の背中が、俺の目にはいつも以上に小さく、儚げに映った。
俺は正門で待ち合わせて、西澄の家に向かった。
学校を出てから、彼女の歩調に合わせて歩くこと40分。
この辺りは閑静な高級住宅街だが、いまやってきたのは、そのなかでも特に金持ちが好んで住むような区域だ。
西澄と肩を並べ、会話も少なくとぼとぼと歩いていくと、やがて遠目に付近でも一際目立つ、立派な屋敷が目に入ってきた。
「……あそこです。
あれが、わたしの家です」
「はぁぁ……。
こりゃまたでっけえ屋敷だなぁ。
やっぱりお前、いいところのお嬢さんだったんじゃねえか」
「……いいところ?
そうでしょうか」
西澄が正門横に設けられた通用口を開ける。
「どうぞ。
入ってください」
「ああ。
それじゃあ、お邪魔します」
彼女に続いて、西澄邸の敷地内に足を踏み入れた。
「……おお⁉︎
な、なんか、すげえ庭だな!」
思わず興奮してしまう。
門の内側には西洋風の庭園が広がっていた。
広さはざっとした目算でも、200坪くらいはありそうだ。
広々とした庭の全体に、芝生が敷かれている。
見回すと整形した垣根や、幾何学的な模様に引かれた道路や水路が見えた。
「ちょ⁉︎
こんな庭のあるウチ、見たことねぇぞ……!」
庭園の中央には噴水なんかもあって、目を惹く。
「はぁぁ……。
これ、手入れ大変なんじゃねえの?」
「月に一度、庭師のかたが来てくれていますから。
それより、こちらへどうぞ」
案内された屋敷は、モダンな洋館だった。
もう、見るからに豪邸だ。
「う、うお……。
これもまた、すげぇな」
思わず仰け反り気味になって圧倒されていると、俺には構わず西澄が洋館の扉を開けた。
「……どうぞ」
ごくりと生唾を飲み込んで、屋敷に踏み込む。
なかに入った俺は玄関ホールから内部を見回して、すぐに異様さを感じとった。
「……ん?
どういうことだ」
「猫はこっちです」
「ちょ……⁉︎
西澄!
待てって」
スタスタと歩いていく彼女を追いかけつつ、洋館のなかを見回していく。
やっぱりこの家は異常だ。
「……なぁ、西澄」
先導して前を歩く彼女の背中に声をかけた。
「なんですか?」
「なんでこの家、家具が一切ないんだ?」
疑問に思う。
ここにはその豪奢な外観に反して、家具や屋敷を飾る装飾品の類なんかがひとつも見当たらなかった。
西陽の差し込む洋館のなかは、がらんどうだ。
物もなく、音も聞こえてこない。
加えていうなら、ひとの温もりすらも感じられない、世界から切り離された空間。
それが、おれが西澄邸に抱いた印象だった。
佇まいが瀟洒な洋館なだけに、これには空虚さすら覚えてしまう。
「なぁ、西澄。
どうして――」
「…………」
彼女は返事をしない。
ただうつむいて、俺の前を歩いていた。
◇
とある部屋に案内された。
「……あれ。
ドアが開いてますね。
ここが子猫の部屋なんですが……」
通された部屋には、あの白い子猫の姿はなかった。
猫じゃらしなんかのおもちゃや、ドライフードの盛られた容器が、寒々しい部屋の隅っこにぽつんと置かれている。
「どこにいったんでしょう。
きっと、家のなかを散策してるんだと思うのですけど……」
「そっか。
でも取り敢えず、猫のことは後回しでいい」
「……?
でも北川さん、あの子のことが気になって様子を見に来たんですよね」
「……ぅ」
言葉に詰まる。
猫のことは口実だ。
実際のところ、俺は西澄があの猫に向けた微笑みを信じている。
彼女ならきっと、子猫をちゃんと世話してくれるだろう。
それよりもいまは、気になっていることがある。
「なぁ、西澄。
どうしてこの屋敷には、ひとが誰もいないんだ?」
そう。
俺は西澄邸の通用口を潜ってから、まだ誰とも顔を合わせていない。
そのことが不思議だった。
「…………」
「これだけ大きな洋館なんだ。
お手伝いさんがいたって不思議じゃないし、それにお前の家族は……?」
「…………」
「黙ってないで、なんとか言ってくれ」
「どうして……」
彼女がぼそぼそと呟く。
俺はその声を聞き漏らしてしまわないように、耳を澄ませた。
「……どうして、そんなことを北川さんに教えなければならないんですか?」
「どうしてって、俺が知りたいからだ」
「……理由になってません」
「理由なんて、そんなものはどうでもいい」
じっと西澄のことを見つめ続ける。
「……別に大した理由じゃありませんよ」
「それでもだ。
なぁ、西澄。
聞かせてくれよ。
お前のこと」
◇
夕焼け色の空間に、静寂が流れる。
俺が引かないと悟った彼女は、やがて根負けしたかのように溜め息を吐いて、訥々と話し始めた。
その内容はこうだ。
西澄の家は見た目通りに裕福な家庭である。
彼女の父親は、日本人なら誰もが知っている大手自動車メーカーの重役らしい。
母親はフランスの美人女優とのことだ。
なんでも父親の勤める企業が、結構前にフランスの自動車メーカーと資本提携したらしいのだが、彼女の父はその都合で渡仏しているときに母と知り合ったらしい。
西澄家はいわゆる普通の、円満な家庭ではなかった。
彼女が物心ついたころにはもう、家庭は崩壊していた。
父親は家には帰ってこず、母親は毎日見知らぬ男性や知人たちを家に呼び込んでは派手なパーティーざんまい。
享楽に耽るだけ耽るって、我が子の成長にはまったく興味を示さなかった。
「なんだよ、それ……」
「……それでも、なんとかお母さんに振り向いてもらおうと、がんばったんですよ。
行儀よくしましたし、勉強もたくさんしました。
でも……」
結局、母親は最後まで彼女に愛情を与えることはなく、まだ中学校に上がったばかりの西澄を残してフランスへと帰っていった。
それからは月に1回、父親の代理人として秘書がやって来るだけらしい。
「さっき、北川さんは、家に家具がないのを不思議がっていましたよね。
……昔はたくさんあったんですよ。
それこそ家中が、豪華な物で溢れるくらいに」
「……そうなのか?
じゃあ、いまのこの空っぽな屋敷は?」
「……わたしが全部処分しました。
お母さんの思い出ごと、全部捨ててしまいたくて。
薄情だと思いますよね。
自分でもそう思います。
ふふ……」
西澄が自虐的な笑みを浮かべた。
以前、彼女が猫に向けていた微笑みとは、まるで違う悲しそうな微笑み……。
俺は西澄に笑っていて欲しい。
でも、こんな笑顔は違う。
いまの彼女は涙を流しているわけではない。
でも俺には寂しげに笑うその姿が、放課後の教室でひとり泣いていたあのときの姿と重なって見えた。
◇
西澄の気持ちを想像する。
これはいわゆる育児放棄ってやつだ。
多感な子供時代に親から愛情を注がれずに育った彼女。
時宗がいうには、西澄は金髪ハーフということもあって学校のみんなからも距離を置かれている。
家でも学校でも、ずっと孤独を感じ続けてきたんだろう。
俺は想像する。
こんな空っぽで冷たく虚ろな、ただ広いだけの屋敷でたったひとりで暮らしてきた彼女の毎日を……。
目の奥がじんと熱くなってきた。
俺はこういうのが苦手なんだ。
「……みぃ。
みぃ~」
俺が言葉を失ったまま立ち尽くしていると、白い子猫が部屋に戻ってきた。
「あ、戻ってきました。
お帰りなさい、マリア」
猫は真っ直ぐに西澄の所に向かい、彼女の足にまとわりついている。
「北川さん。
猫が帰ってきましたよ」
「……そうみたいだな。
名前つけたのか。
マリアっていうんだな」
「はい、そうです。
知ってますか?
サウンド・オブ・ミュージックっていうミュージカル映画からとったんです。
名門トラップ一家の7人の子供たちの家庭教師になった、お転婆な修道女のマリア。
彼女から名前を頂きました」
その映画なら俺も知っている。
賑やかな大家族と修道女マリアとの交流を描いた、不朽の名作映画だ。
だがあの映画、たしか親と子の絆をテーマにしたものでもあったような……。
もしかするとマリアというこの名付けには、彼女の家族に対する憧憬が込められていたりするのだろうか。
「……みぃ~。
みぃ、みぃ~」
「はいはい。
どうしたの、マリア。
お腹すいたの?」
西澄アリスがしゃがみ込み、白い子猫をあやす。
夕陽に赤く照らされた彼女の背中が、俺の目にはいつも以上に小さく、儚げに映った。
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