利己的な聖人候補~とりあえず異世界でワガママさせてもらいます

やまなぎ

文字の大きさ
上 下
684 / 837
6 謎の事件と聖人候補

873 帝国の守護神

しおりを挟む
873

このあまりにも一方的な戦いを、身じろぎもせずじっと観戦していたゼン皇子の元に、帝国軍直属の隠密部隊からグッケンス博士が戦場を去ったという報告が届いた。

「さすがはグッケンス博士。まったくわからないうちに、忽然と砦から消えられました。《迷彩魔法》を使われたのかもしれません。帝国軍の名を戴く隠密部隊としては忸怩たる思いでございますが、われわれでは消えたグッケンス博士の追跡は難しく……」
「そうか…‥そうだろうな。お前たちが悪いのではないことはわかっている。ご苦労だった」

ゼン皇子は、そのあとも他の隠密や戦場を観察するよう申しつけていた者たちからの報告を熱心に聞いていった。

「二千六百名の兵士及び魔術師に重症者はありませんでした。浅い傷を負った者は六十名ほどおりますが、戦いが終わった直後に広域に使われた《清浄クリーン》の威力がとても高いものだったため、傷の治療を迅速に行うことができました。正直なところ、あれだけの敗戦を喫したあととしては考えられない、非常に軽微な損害でございます」

「そうだな……最初に展開された植物を使った魔法も、兵士を傷つけない配慮がなされたものだった。あれは土魔法系の植物操作だろうか。凄まじいものだったな。模擬戦でなければ、あの時点で鋭利なイバラを使い、それだけで敵軍に相当の損害を与えられていただろう。あのような方法まで使えるとは《特級魔術師マスターウィザード》というのは、なんとも自在に魔法を使うものだ……」

ゼン皇子は呆れたような顔をしながら、少し笑っているようにみえた。被害状況を伝える隠密は、さらに報告を続ける。

「被害の中で最も深刻だったのは新人魔術師の中に、グッケンス博士の魔法のあまりの威力に混乱状態になったものが二名現れてしまったことでした。彼らは恐怖のあまり魔法を過剰放出し昏倒したそうです。命に別状はありませんが、数日は寝たきりでしょう」

ゼン皇子は報告にうなずきながら、まるで自問自答しているような口調でつぶやく。

「そうか…‥そうだろうな。あの《雷帝》を見せつけられ、つぎは自分たちにそれが向けられるという恐怖は、実践経験もなく肝も据わっていない若い魔術師たちには耐えがたかったのだろう。いや、むしろ、魔術師である彼らにこそ、グッケンス博士にしか使えない高等魔法《雷帝》の威力の凄まじさがはっきり伝わったのかもしれんな。博士はそれを兵士に使う気はなかっただろうが、もし使われていたら間違いなく全滅だった」

「はい。グッケンス博士は、明らかに兵士たちに最も侵害を与えない方法を選び、攻撃を組み立てておられました。博士にその気遣いがなければ、水責めの段階で兵士は半減していたでしょう」

「ものの数分で半減か! 参ったな……」

ゼン皇子の側近は、ここで疑問を投げかけた。

「殿下、ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか」
「なんだ、クエイル」
「なぜ、グッケンス博士に、この模擬戦をご命じになさったのでございますか? 博士は明らかにご不快になられておりました。皇帝陛下でさえ直言をお許しになる博士との関係は、殿下もできる限り良好に保たれなければなりません。決してあのように扱われてはならないお方です」

「……」

側近であるクエイルの言葉はその通りだったが、ゼン皇子はそれに直ぐには答えず、今回の演習の後始末を見届け、兵士たちにねぎらいの言葉と酒樽の提供を伝えてから帰途についた。

演習の行われた場所を離れ、馬車の中で側近とふたりきりになったゼン皇子は、重い口を開く。

「これから私が言うことは、決して外には漏らすな。まだなにひとつ確かな話ではないことだ。だが、見過ごせるものでもない……実は、この国を、いやこの世界を揺るがしかねない事件が起こる兆しがある。このことは、まだ皇帝陛下とごく少数の軍関係者以外誰も知らない、極秘情報だ」

クエイルはうなずき、真剣な表情で皇子の言葉に耳を傾ける。

「エイガン大陸が動いているかもしれん」
「魔族が! まさか!! 神に隔てられた世界から!?」
「わからぬ……だが、レジェーナの命が危険にさらされた〝虹彩鳥事件〟のこともそうだ。不穏な何かがこの世界に迫っている、それは間違いないのだ」

ゼン皇子は自重気味に笑う。

「残念だが、魔族と対峙したときわれらはあまりにも脆弱だ。神の造られた破れぬ壁すら越えてくるような魔族と戦うことが可能なのは、本当に強力な魔法を使える者だけだろう。

だから、見たかった……そして兵士に見せたかったのだ。われわれには魔族に対抗できるだけの力を持つ者がいると、どうしてもこの目で確認したかった」

軍部と距離を置きたがるグッケンス博士が演習に参加してくれることが稀であったし、グッケンス博士には魔術師育成という大きな仕事が託されていたため、滅多にパレスにすら現れない。ゼン皇子はこれまで、グッケンス博士が実際に強力な魔法を駆使して戦っている場面を見たことがなかったのだ。

「それで、グッケンス博士の本気の一端を見られて、安心されましたか?」
「ああ、きっと兵士たちも今日の模擬戦のことをそれぞれの部隊の者たちに伝えるだろう。二千六百人の軍隊を一瞬で壊滅させる怪物の話をな」

ゼン皇子は、グッケンス博士という帝国の守護神の存在を改めて公にすることで、きたるべきときまで兵士たちの士気を高め、未知なる恐怖が襲ってきたときの精神的な支柱としたいと考えて、今回の模擬戦を強行したらしい。

「怒ってはいても、応じてくれたのだ。グッケンス博士にはそれだけで頭が上がらないな」
「それだけではありませんよ」

クエイルは明るい声で言った。

「あの《清浄クリーン》は、グッケンス博士ではなく弟子であるメイロード・マリス女伯爵が行ったと報告を受けております。二千名以上に同時に極めて精度の高い《清浄クリーン》を放つなど、常人にできることではありません」

「確かに、その魔法力量だけでも尋常ではないな。さすがグッケンス博士の唯一の内弟子だな。ふっ……怪物の弟子もまた怪物か……」

「ともかく、あのふたりには、もうむやみに頼みごとをしたりはなさらない方がよろしいでしょう。あの方たちは、帝国軍の切り札なのですから、絶対に機嫌を損なわないよう、なるべく遠巻きにして、いまはなんとしても機嫌を直していただかなければ!」

「そうだな……そしてそのまま何事も起こらぬことを、いまは祈ろう」

馬車の中は沈黙に包まれ、深いため息だけが何度か続いていった。
しおりを挟む
感想 2,991

あなたにおすすめの小説

若奥様は緑の手 ~ お世話した花壇が聖域化してました。嫁入り先でめいっぱい役立てます!

古森真朝
恋愛
意地悪な遠縁のおばの邸で暮らすユーフェミアは、ある日いきなり『明後日に輿入れが決まったから荷物をまとめろ』と言い渡される。いろいろ思うところはありつつ、これは邸から出て自立するチャンス!と大急ぎで支度して出立することに。嫁入り道具兼手土産として、唯一の財産でもある裏庭の花壇(四畳サイズ)を『持参』したのだが――実はこのプチ庭園、長年手塩にかけた彼女の魔力によって、神域霊域レベルのレア植物生息地となっていた。 そうとは知らないまま、輿入れ初日にボロボロになって帰ってきた結婚相手・クライヴを救ったのを皮切りに、彼の実家エヴァンス邸、勤め先である王城、さらにお世話になっている賢者様が司る大神殿と、次々に起こる事件を『あ、それならありますよ!』とプチ庭園でしれっと解決していくユーフェミア。果たして嫁ぎ先で平穏を手に入れられるのか。そして根っから世話好きで、何くれとなく構ってくれるクライヴVS自立したい甘えベタの若奥様の勝負の行方は? *カクヨム様で先行掲載しております

聖女の私が追放されたらお父さんも一緒についてきちゃいました。

重田いの
ファンタジー
聖女である私が追放されたらお父さんも一緒についてきちゃいました。 あのお、私はともかくお父さんがいなくなるのは国としてマズイと思うのですが……。 よくある聖女追放ものです。

【一話完結】断罪が予定されている卒業パーティーに欠席したら、みんな死んでしまいました

ツカノ
ファンタジー
とある国の王太子が、卒業パーティーの日に最愛のスワロー・アーチェリー男爵令嬢を虐げた婚約者のロビン・クック公爵令嬢を断罪し婚約破棄をしようとしたが、何故か公爵令嬢は現れない。これでは断罪どころか婚約破棄ができないと王太子が焦り始めた時、招かれざる客が現れる。そして、招かれざる客の登場により、彼らの運命は転がる石のように急転直下し、恐怖が始まったのだった。さて彼らの運命は、如何。

今さら言われても・・・私は趣味に生きてますので

sherry
ファンタジー
ある日森に置き去りにされた少女はひょんな事から自分が前世の記憶を持ち、この世界に生まれ変わったことを思い出す。 早々に今世の家族に見切りをつけた少女は色んな出会いもあり、周りに呆れられながらも成長していく。 なのに・・・今更そんなこと言われても・・・出来ればそのまま放置しといてくれません?私は私で気楽にやってますので。 ※魔法と剣の世界です。 ※所々ご都合設定かもしれません。初ジャンルなので、暖かく見守っていただけたら幸いです。

メインをはれない私は、普通に令嬢やってます

かぜかおる
ファンタジー
ヒロインが引き取られてきたことで、自分がラノベの悪役令嬢だったことに気が付いたシルヴェール けど、メインをはれるだけの実力はないや・・・ だから、この世界での普通の令嬢になります! ↑本文と大分テンションの違う説明になってます・・・

あなた方はよく「平民のくせに」とおっしゃいますが…誰がいつ平民だと言ったのですか?

水姫
ファンタジー
頭の足りない王子とその婚約者はよく「これだから平民は…」「平民のくせに…」とおっしゃられるのですが… 私が平民だとどこで知ったのですか?

妹だけを可愛がるなら私はいらないでしょう。だから消えます……。何でもねだる妹と溺愛する両親に私は見切りをつける。

しげむろ ゆうき
ファンタジー
誕生日に買ってもらったドレスを欲しがる妹 そんな妹を溺愛する両親は、笑顔であげなさいと言ってくる もう限界がきた私はあることを決心するのだった

【完結】悪役令嬢に転生したけど、王太子妃にならない方が幸せじゃない?

みちこ
ファンタジー
12歳の時に前世の記憶を思い出し、自分が悪役令嬢なのに気が付いた主人公。 ずっと王太子に片思いしていて、将来は王太子妃になることしか頭になかった主人公だけど、前世の記憶を思い出したことで、王太子の何が良かったのか疑問に思うようになる 色々としがらみがある王太子妃になるより、このまま公爵家の娘として暮らす方が幸せだと気が付く

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。