利己的な聖人候補~とりあえず異世界でワガママさせてもらいます

やまなぎ

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6 謎の事件と聖人候補

873 帝国の守護神

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873

このあまりにも一方的な戦いを、身じろぎもせずじっと観戦していたゼン皇子の元に、帝国軍直属の隠密部隊からグッケンス博士が戦場を去ったという報告が届いた。

「さすがはグッケンス博士。まったくわからないうちに、忽然と砦から消えられました。《迷彩魔法》を使われたのかもしれません。帝国軍の名を戴く隠密部隊としては忸怩たる思いでございますが、われわれでは消えたグッケンス博士の追跡は難しく……」
「そうか…‥そうだろうな。お前たちが悪いのではないことはわかっている。ご苦労だった」

ゼン皇子は、そのあとも他の隠密や戦場を観察するよう申しつけていた者たちからの報告を熱心に聞いていった。

「二千六百名の兵士及び魔術師に重症者はありませんでした。浅い傷を負った者は六十名ほどおりますが、戦いが終わった直後に広域に使われた《清浄クリーン》の威力がとても高いものだったため、傷の治療を迅速に行うことができました。正直なところ、あれだけの敗戦を喫したあととしては考えられない、非常に軽微な損害でございます」

「そうだな……最初に展開された植物を使った魔法も、兵士を傷つけない配慮がなされたものだった。あれは土魔法系の植物操作だろうか。凄まじいものだったな。模擬戦でなければ、あの時点で鋭利なイバラを使い、それだけで敵軍に相当の損害を与えられていただろう。あのような方法まで使えるとは《特級魔術師マスターウィザード》というのは、なんとも自在に魔法を使うものだ……」

ゼン皇子は呆れたような顔をしながら、少し笑っているようにみえた。被害状況を伝える隠密は、さらに報告を続ける。

「被害の中で最も深刻だったのは新人魔術師の中に、グッケンス博士の魔法のあまりの威力に混乱状態になったものが二名現れてしまったことでした。彼らは恐怖のあまり魔法を過剰放出し昏倒したそうです。命に別状はありませんが、数日は寝たきりでしょう」

ゼン皇子は報告にうなずきながら、まるで自問自答しているような口調でつぶやく。

「そうか…‥そうだろうな。あの《雷帝》を見せつけられ、つぎは自分たちにそれが向けられるという恐怖は、実践経験もなく肝も据わっていない若い魔術師たちには耐えがたかったのだろう。いや、むしろ、魔術師である彼らにこそ、グッケンス博士にしか使えない高等魔法《雷帝》の威力の凄まじさがはっきり伝わったのかもしれんな。博士はそれを兵士に使う気はなかっただろうが、もし使われていたら間違いなく全滅だった」

「はい。グッケンス博士は、明らかに兵士たちに最も侵害を与えない方法を選び、攻撃を組み立てておられました。博士にその気遣いがなければ、水責めの段階で兵士は半減していたでしょう」

「ものの数分で半減か! 参ったな……」

ゼン皇子の側近は、ここで疑問を投げかけた。

「殿下、ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか」
「なんだ、クエイル」
「なぜ、グッケンス博士に、この模擬戦をご命じになさったのでございますか? 博士は明らかにご不快になられておりました。皇帝陛下でさえ直言をお許しになる博士との関係は、殿下もできる限り良好に保たれなければなりません。決してあのように扱われてはならないお方です」

「……」

側近であるクエイルの言葉はその通りだったが、ゼン皇子はそれに直ぐには答えず、今回の演習の後始末を見届け、兵士たちにねぎらいの言葉と酒樽の提供を伝えてから帰途についた。

演習の行われた場所を離れ、馬車の中で側近とふたりきりになったゼン皇子は、重い口を開く。

「これから私が言うことは、決して外には漏らすな。まだなにひとつ確かな話ではないことだ。だが、見過ごせるものでもない……実は、この国を、いやこの世界を揺るがしかねない事件が起こる兆しがある。このことは、まだ皇帝陛下とごく少数の軍関係者以外誰も知らない、極秘情報だ」

クエイルはうなずき、真剣な表情で皇子の言葉に耳を傾ける。

「エイガン大陸が動いているかもしれん」
「魔族が! まさか!! 神に隔てられた世界から!?」
「わからぬ……だが、レジェーナの命が危険にさらされた〝虹彩鳥事件〟のこともそうだ。不穏な何かがこの世界に迫っている、それは間違いないのだ」

ゼン皇子は自重気味に笑う。

「残念だが、魔族と対峙したときわれらはあまりにも脆弱だ。神の造られた破れぬ壁すら越えてくるような魔族と戦うことが可能なのは、本当に強力な魔法を使える者だけだろう。

だから、見たかった……そして兵士に見せたかったのだ。われわれには魔族に対抗できるだけの力を持つ者がいると、どうしてもこの目で確認したかった」

軍部と距離を置きたがるグッケンス博士が演習に参加してくれることが稀であったし、グッケンス博士には魔術師育成という大きな仕事が託されていたため、滅多にパレスにすら現れない。ゼン皇子はこれまで、グッケンス博士が実際に強力な魔法を駆使して戦っている場面を見たことがなかったのだ。

「それで、グッケンス博士の本気の一端を見られて、安心されましたか?」
「ああ、きっと兵士たちも今日の模擬戦のことをそれぞれの部隊の者たちに伝えるだろう。二千六百人の軍隊を一瞬で壊滅させる怪物の話をな」

ゼン皇子は、グッケンス博士という帝国の守護神の存在を改めて公にすることで、きたるべきときまで兵士たちの士気を高め、未知なる恐怖が襲ってきたときの精神的な支柱としたいと考えて、今回の模擬戦を強行したらしい。

「怒ってはいても、応じてくれたのだ。グッケンス博士にはそれだけで頭が上がらないな」
「それだけではありませんよ」

クエイルは明るい声で言った。

「あの《清浄クリーン》は、グッケンス博士ではなく弟子であるメイロード・マリス女伯爵が行ったと報告を受けております。二千名以上に同時に極めて精度の高い《清浄クリーン》を放つなど、常人にできることではありません」

「確かに、その魔法力量だけでも尋常ではないな。さすがグッケンス博士の唯一の内弟子だな。ふっ……怪物の弟子もまた怪物か……」

「ともかく、あのふたりには、もうむやみに頼みごとをしたりはなさらない方がよろしいでしょう。あの方たちは、帝国軍の切り札なのですから、絶対に機嫌を損なわないよう、なるべく遠巻きにして、いまはなんとしても機嫌を直していただかなければ!」

「そうだな……そしてそのまま何事も起こらぬことを、いまは祈ろう」

馬車の中は沈黙に包まれ、深いため息だけが何度か続いていった。
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