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2巻
2-3
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旅立ちの朝、メイロードさまは、僕を見送りに来てくれた。そして、僕の左手の甲の火傷をじっと見た後、綺麗な深い青色の液体を振りかけた。すると奇跡のように火傷の痕が消えていく。そして深い火傷のため、一度で治すのは難しいから、何度かお使いなさいと残りの薬をくださった。
商人ギルドの職員バッジをつけ、きちんとした上下揃いの服を身につけた僕は、あの地獄で自分を守るために作った火傷まで癒してもらい、イスへ戻ることになった。
「あなたはこんな素敵な男の子だったのよ。これまでも、これからもね」
その日、メイロードさまが僕に言ってくれた言葉は僕の永遠の宝物だ。そして、彼女が望むように、自分の幸福を人に与えられる人間でありたいと思う。
マーラカムは僕らが捕まった後、捜査の手が伸びることを恐れイスを逃げ出そうとする途中、手下の裏切りにあってひどい死を迎えたというが、もう僕には彼を恨む気持ちさえない。その死をただ哀れむだけだ。
メイロードさまとサイデム様は、児童書と教科書の利益の一部を基金として、子供たちの保護と更生に充てることを決めた。助け出されたマーラカムのアジトに残されていた子供たちも、基金で建てられた施設で徐々に回復しているそうだ。僕もできるだけ施設に顔を出して、小さい子たちに勉強を教えている。
僕には、僕と同じ年のはずのメイロードさまが、ときどき大人の女性のように見える。母のようにさえ思える。
「生涯変わらぬ忠誠と祈りをメイロードさまに捧げます」
イスへ帰る直前、そう言って僕が膝を折り礼をとると、メイロードさまは真っ赤になって照れていた。本当に、この世話好きで食べさせたがりの女神は、ご自分の素晴らしさへの自覚がない。願わくば、この与えてばかりの女神さまに最大の幸福が与えられますように。僕がメイロードさま以外の神に祈ることがあるとすればそれだけだ。
さて、サイデムさまが強硬に主張して常設になったギルドのラーメン屋台で昼を食べてから、もうひと仕事するとしようか。また行列になっていないといいんだけど……
◆ ◆ ◆
イス商人ギルド統括執務室。この部屋の調度品はすべて気軽に触れるのも怖いような一流品、どんな貴族が商談に来ても見劣りしないよう、入念に吟味されている。大量に積まれた仕事関係の木札や羊皮紙は隠しようもないが、それもまたここの主である彼の多忙さと有能さを見せつけていた。もっとも、この部屋で実際に誰かと対面して商談が行われることは極めて稀だ。
サイデム商会の中には豪華な応接室があるし、ギルドの施設内にも大小様々な交渉用の応接室がある。わざわざこの部屋を選んで話す必要があるのは、メイロードが持ち込んだ話のような、莫大な金が動き、世界を変えるようなとてつもないものだけだ。
(だからこの部屋には、《探知》の魔法も、気配消しに対抗する《揺らぎ検知》の魔法も常時かけてあるんだよね。まぁ、並の魔術師のかけた魔法じゃ、グッケンス博士やセイリュウにはまったく意味がなかったけど。この部屋の強化について、一度博士に相談しないとな……)
そんなことを考えている間に、相談しなければならない〝原因〟が、能天気にきらびやかな上級貴族らしい装いでやってきた。
「オットー・シルヴァン様、このような辺境の地へようこそおいでくださいました。私がイスの差配を務めております、サガン・サイデムにございます。このようなむさ苦しい部屋がご覧になりたいとは、いったいなんでございましょう」
五人の従者を引き連れて部屋に入ってきたオットーは、まったく商人らしさのない、貴族丸出しの、ゴテゴテした飾りだらけの衣装で颯爽と礼をとった。
「時間がありましたので、執務室にまで押しかけてしまいました。ぜひサイデム統括の仕事ぶりを拝見したいと思ったのですよ。これからいろいろと教えていただくつもりなのですから。ああ、それから私は教えを請う身、どうぞオットーとお呼びください」
世界一忙しい男の仕事部屋にいきなり押しかけてきておきながら、一ミリも申しわけないと思っていないことが丸わかりの不遜な態度ではあるが、背伸びした十五歳の少年の虚勢と見れば、若干の可愛げはある。あくまで若干のだが。
「おお、そのことですが、私の仕事は、ギルド統括として活動しております現在では、もう普通の商人とは違うものです。学びたいとおっしゃるのであれば、〝商人〟としての技術や知識を深められた方がよろしいのではないでしょうか。幸いうってつけの者がおりますので、彼女のいるシラン村をまずは訪れていただきたいと考えます。その後、こちらでの修業を許可いたしましょう」
サイデムはわざと情報をぼかし、勝手に想像させた。思った通り、彼がイスの首領と呼ばれる人物についてなんの情報収集もしていないことはその表情からすぐにわかった。タガローサが、必死で集めているだろうイスについての情報を、何も聞かず覚えず〝敵地〟にのほほんと現れる。勘働きゼロ、情報収集能力なし、分析力皆無。付き合いきれないボンクラ確定だ。
「おお、サイデム幹事が見込まれた〝女商人〟ですか、それは興味深い。わかりました。それが条件だと言うのなら、彼女の知識と技術、残さず学んでまいりましょう」
自信満々のオットーは、礼を取り踵を返すと、すぐにシラン村へ向かった。爽やかな笑顔でオットーの旅立ちを見送ったサイデムは、心底ホッとした。
アレの面倒を見るという苦行から逃れられたことに対する、心からの安堵だった。
この様子を隠れて見ていた私も、これはなかなか前途多難だぞ、とため息をつきつつ、おもてなしの準備のため、《無限回廊の扉》を抜けそうそうに村へと戻っていった。
◆ ◆ ◆
大貴族の御用馬の脚はさすがの速さで、馬車は辺境と言われるシラン村まで一週間かからず走り抜けた。従者たちは宿の一番高い部屋をワンフロアすべて借り切り、大量の荷物を運び込む。マジックバッグを使っているとはいえ、ほぼ引っ越しと変わらない仰々しさだ。
商人になるといいながら、まったく貴族の習慣を改められないオットーは、自分の宿泊する宿の値段も気にせず、一日三回の着替えも忘れない。
そんな様子を陰から観察する私とソーヤ。私も習ったばかりの初歩の《迷彩魔法》で隠れている。
〔メイロードさまが、なぜあのボンクラ貴族に付き合わなければならないのです?〕
〔私も付き合いたくはないのだけど、おじさまの負担を少しでも軽くしてあげないと、過労死しちゃいそうで……〕
〔カローシ、辛そうな名前の病気でございますね。仕方ございません。あの間の抜けた貴族のおぼっちゃまに商人の仕事、少しだけお見せして、都へトットとお帰りいただきましょう〕
よっぽど嫌いなのか、ソーヤの毒舌は絶好調だ。
〔あら、私は誠心誠意、教えて差し上げるつもりよ。もっとも私の商人としての知識は浅いものだけど。彼の勉強になってくれることを願うわ〕
〔そうはおっしゃいますがね。あの男、自分で財布を持ってなかったんですよ。自分で一切支払いもしない商人など、噴飯ものです。あのボンクラきっと、少額貨幣のカルなんて見たこともないに違いありません〕
〔お、それはいい視点。ソーヤの毒舌も役に立つわね〕
持ち込んだ大量の家具を据付けさせ優雅にお茶を楽しみながら、オットーは夕食のメニューについてあれこれと相談を始めた。どうやら今日は到着しただけでお仕事終了らしい。
(〝時は金なり〟って言葉、こちらの世界にはないのかな)
オットー・シルヴァンは、自分で財布も持たないにもかかわらず、商人になりたいと言う。お金の価値も知らず、商人を目指すという彼の考えは私には理解不能だが、これは貴族の商売に関する考え方を知るいい機会かもしれない。殿様商売の現状、こちらもリサーチさせていただくとしよう。
◆ ◆ ◆
貴族の朝は遅い。
だが今日は、慣れぬ土地のせいか、やや早く起きてしまった。田舎の空気は清々しく、寝覚めは悪くない。たまにはこんな朝も良いものだ。私は従者たちに身支度をさせ、今日の靴を選んでいた。そんな時間に、私、オットーに来客があった。まだ朝食が済んだばかりで、朝のお茶もしていないのに無粋なことだが、ここは辺境の村。上級貴族の習慣についてわからないのであろう。
「通せ」
侍従に告げるとそこに現れたのは、儚げな雰囲気を持った小柄な美少女と従者の少年。十歳にはなっていないだろう。しかし、その姿はとても印象的だ。
流れる深い緑の髪は、ツヤツヤと光を反射し、サイドは複雑に編み込まれている。これほど見事な〝魔力宿る髪〟をした者に会ったのは初めてかもしれない。しかもその髪には見たことのない不思議な色の石と花で飾られた精巧にして優美な髪飾り。透けるような肌に、大きく理知的な翠の瞳。ドレスはシンプルすぎるが、上等であることは一目でわかる。裾の刺繍はなかなか見事なものだ。
(田舎貴族とも思えない優雅さだが、この地に関連のある上級貴族などいただろうか)
貴族の血筋に関する情報だけは子供の頃から叩き込まれるため、把握している。敬称を間違えたりすれば大事になってしまうため、必須の知識なのだ。だが、この美少女の血筋に関係する貴族に思いつく名がない。
「早朝から大変不躾とは思いましたが、お時間を無駄にしてしまうことも恐れ多いと考え、伺いました」
優雅に腰を折る少女によれば、彼女こそがサイデムのいう評判の〝女商人〟メイロード・マリス。私に〝商売〟を教える者だという。この少女の父も祖父も平民の商人で、村の雑貨店を営んでいたという話だ。
あまりの少女の幼さにサイデムに侮られたかと思ったが、話を聞けば、この年齢でありながらイスでの商いに成功し、莫大な利益を得た上、その仕事はさらに大きくなっているそうだ。すでにイスの商人たちから一目置かれている有名人らしい。
「恐ろしい子供がいたものだな」
表面上は鷹揚に受け答えしてみたものの、自分よりずっと年若くして成功した〝商人〟がいるとは思ったこともなかった。まだ何も成していない自分と成功者である少女。この状況は決して気分の良いものではないが、確かに教えを乞うべきは自分であることは確かだ。
(では、私のために働いてもらおうではないか!)
貴族のプライドで気持ちを立て直し、にこやかに微笑んでいる少女に話しかけた。
「では、私に何を見せてくれる、メイロード」
「そうでございますね。まずはメイロード・ソースの工場にご案内いたしましょう」
メイロードの案内で向かったこのシラン村とかいう場所の端、元は何もない荒野だったという一画には、大型の工房群と美しく真っ白に塗られた工場棟が連なっていた。
「ご覧になっている通り、ひとつの商品を作るためには、様々な部品が必要です。メイロード・ソースの場合、素材を生産していただく農家の方々、村で入手できない素材を運んでいただく方々、容れ物のためのガラスとコルクの工場、そして製品の工場で生産に携わる方々」
彼女が言うには、これが〝大量生産〟という生産方法で、これを売る方法を〝薄利多売〟というのだそうだ。小さな利益の商品を大規模に生産し大量に売ることで、大きな利益を得るという。しかも、聞けば彼女はこの大規模な工場群のための資金を自分で捻出したという。
私の開業資金はどのぐらいを見込んでいるのかと無邪気に聞かれ、私は答えられず、そんな自分にうろたえた。もちろん父が出すものだと思っていたので、金額など考えたこともなかったのだ。どれぐらいの規模でどこに店舗を構える予定なのかと聞かれて、さらに答えに窮す。私は何ひとつ考えていなかった。
(私の店。私はどこで、何をする気だったのだろうか……)
漠然と父のところに乳製品や陶器の取引にやってくる、良い身なりで羽振りの良さそうな男たちを見て、物を買って高く売れば良いと考えていた。ツテやコネは、公爵家の名があればどうにでもなると思っていた。
「公爵様の領内の生産品でも、オットー様はほかの商人と競争しなくてはならないのですよ。利益が少なくなれば、領民の生活にも影響するのです。ツテやコネも重要な要素ですが、それだけでは取引は難しいでしょうね」
こんな子供に、反論もできない事実を突きつけられ、諭されるとは思ってもみなかった。私は簡単に商人になれると思っていた。私はこのとき、自分の仕事に競合する者があり、商人は競って勝たなければならないという事実に初めて気がついた。
イスと帝都の商人(タガローサ叔父上だが)があれだけいがみ合っているのは目の当たりにしていた。しかし自分がほかの商人と争い勝ち抜かねばならないことには、まったく思い至らなかったのだ。なんという暗愚なのだろう、私は。
おそらく私の顔が見るも無残に赤面していることに、少女は気づいていただろう。しかしそれには何も触れず、その後も変わりなくにこやかに、休憩がてら商品をご覧になってくださいと、工場の庭に設えられたテーブルへと私を案内した。
少女の従者の少年は、気落ちする私の前に完璧な温度でいれられた、香り高いハーブティーをサーブし、席を離れた。そして私が茶を飲み落ち着いて、顔の赤みが引いた頃、サンドウィッチと〝ぱすた〟というもの、それにフルーツが目に鮮やかな〝くれーぷ〟というお菓子が運ばれてきた。
どれも凄まじく美味だった。こんなものが辺境の小さな村で食べられているなど考えたこともなかった。毎食美食家を気取り、食事を細かく指定してきた自分が、実はこんな辺境の村の食事にも及ばないものしか食していなかったのだ。自分の浅学を呪ってしまいそうで、いたたまれない。
「お味はいかがでしたか? この村のソースはどれも、いろいろな食材と相性がいいのですよ」
少女はどこまでも優しく親切で、微笑みを絶やさない。
「次はどこにご案内しましょう? 製品評価と改善実施にはご興味ありますか?」
初めて聞く言葉だ。
少女によると、製品の品質を常に検査したり、食べた者たちからの聞き取り調査を集計分類し、現在より〝良い商品〟を作るための情報として文章に残しているという。
「商品は仕入れて売るだけじゃないんですよ。〝信用〟を得るためには、悪いところを探してより良くしていかないと。ですから、お客様の声を定期的に直接集めていますし、工場内でも、いまより効率のいい方法を皆で考えます」
「皆で考える?」
「商売に限らず、お仕事において、ひとりでできることなど、微々たるものだと思いませんか?」
あまりにも違う価値観に遭遇し、私は何かとんでもない人間と話をしている気がしてきた。
私の知っている仕事は、指示を出すことだけだ。貴族の仕事とはそういうものだった。
父のところに来る商人たちに、父が指示を出す。交渉などない。商人が、父に何かを願い出ることはあるが、その可否を決めるのは父だ。
「乳製品でもそうなのですか?」
「もちろんそうだ。動物のことだし、年によっては、牛が魔物に襲われて生産量が減ることもある。そのとき、価格を上乗せするのは、父の裁量だ。父の言う金額で買えないというなら、ほかに売るだけのこと」
「完全に売り手主導なんですね」
「当たり前だ。貴族の力があってこそ、手に入れられるものだぞ」
得意げに言ってはみたが、私自身は、乳製品の取引には関われない。父や兄、そしてタガローサ叔父上が、公爵領の乳製品の権利をがっちり握っており、これから商売をするという四男が入り込む余地はないのだ。
(そうだ、私は自分が売るものを自分で考え、探さなくてはならないのだ……)
「皆で考えれば、答えにたどり着けるのか?」
思った以上に頼りなげな声になってしまった私の質問に、微笑みながら、真摯に少女は答えてくれた。
「ひとりですべてを決めていく方法もありますが、それだけでは大きな仕事は成せません。商人として大成したいのであれば、まず、自分の行き先を考えて決めてください。そして、その仕事を共にする仲間を作ってください。彼らとたくさん話をして道を作っていくのです。あなたの持つすべてを使って、あなたに合った仕事の形を見つけてください」
私は雷に打たれた。本当に打たれた気がした。
「聖女だ……」
「は?」
「ありがとうございます。メイロードさま。私はこれで失礼いたします。いまの私は、商人の知識など学べるような立場ではございません。この御礼はいずれ必ずいたします。いまは帝都へ一刻も早く戻り、自分の行き先を見据え、行動を起こすべきだと思い至りました。御教授に心より感謝申し上げます」
私は深く一礼して、彼女のもとを去った。彼女の前に、これ以上情けない自分を晒すのは耐えられなかったし、私は人生で初めての焦燥に駆られていた。早く、早く、彼女のような大きい人間になりたかった。こんなところでのんびりしている時間などないのだ。早く、早く!
オットー・シルヴァンは、シラン村一泊二日の短い滞在を終え、イスに寄ることもなくそのまま帝都への帰路についた。
「え? えーーー‼」
あっという間に去っていったオットーに、メイロードはあっけにとられていた。
「私まだ何も教えてないよね? 庶民のお財布事情とか、工場の設備や流通網の話とか、初歩の会計も知ってもらおうと思って準備してたのにぃ~!」
なんとなく消化不良のメイロードではあったが、オットーはその後、心を入れ替え、人が変わったように仕事に邁進し始める。オットーのあまりの変貌に、ボンクラ若様を改心させた聖女として従者たちの間から噂が広がり、帝都でも北東部の小さな村に聖女がいるという伝説が広がり始めるのだったが、メイロードは何も知らない。
◆ ◆ ◆
イスの目抜き通り。この道はヘステスト大通りという。商売の神さまだという〝ヘステスト〟の名がついた、高級店ばかりが並ぶイスでもっとも華やかな通りである。その一番目立つ場所に、サイデム商会の本店がある。
建物の一階は豪華なショールームになっており、物販も行っている。ここの商品は高級品ばかりだが、懐に余裕のある庶民が贅沢品として購入できる価格のものも多いため、イスで高級品を求める人たちの誰もが知る名店として常に賑わっている。
二階には貴族用の接客室と商談用の会議室、三階が事務所だ。
場所柄、普段は人通りが多い割に落ち着いた雰囲気なのだが、今日は様子が違った。サイデム商会の店前は、早朝から人々でごった返し、いつもより早く出勤した従業員が長蛇の列をさばいている。
今日は噂が噂を呼び、これがないとこれからの生活で損をすると言われている〝皇宮お墨付きカレンダー〟発売日の朝だ。
おじさまの店のような大商いをする商店は、実は小売にはあまり力を入れていない。だが、今回はおじさまが仕掛けて、わざとこの店舗での限定先行販売に踏み切った。もちろん話題性のためだ。
人々の熱が冷めないうちに一気にばらまいて〝カレンダー〟の使い方と有用性を周知する。やがて定着し、あらゆる仕事がこれを基準に動くようになれば、確実に生産性は上がり、仕事がしやすくなる。
商業都市イスにとっての利益は計り知れない。そのために商人ギルドの代表でもあるサイデムおじさまは最速でこれを広めようと考えたのだ。
発売日が決まると、結局このカレンダーに使われた紙に関する技術の秘密を掴めなかったタガローサから、手紙がひっきりなしに来るようになった。帝都での独占販売権を求める脅しのような文言付きだ。
おじさまは最大の譲歩をして、独占販売権を今年だけ認めたそうだ。ユデダコのようになって悪態をついているタガローサを想像して、おじさまは気分良さそうにしていた。
「次は本格的に出版事業を始めるぞ」
カレンダーによって、〝紙〟という新素材の周知はできた。次はいよいよ、〝紙〟を使った事業展開だ。
グッケンス博士は、出版するなら改訂したいと〝魔術師の心得〟第二版を執筆中。私の児童用教科書第一弾は、この間脱稿した。どうせなら来年度から使えるようにしたくて、つい張り切ってしまったのだ。
「やっぱり、メイロードの名前は外してくださいよ~」
「くどい! その方が売れるのがわかっているのに外すわけがなかろう」
(うう、商売が絡むと、おじさま強い)
「そういえば、お前を題材にした戯曲を出版したいという作家がいるんだが、書かせていいか?」
「やーめーてー! 絶対やめてください‼ 絶対不許可です‼」
おじさまは大変不満そうだが、冗談ではない。これ以上の悪目立ちは断固阻止させていただきたい。
「別に自叙伝ってわけじゃない。お前の名前で聖女伝説を舞台化したいってだけだ。ウケるぞ、売れるぞ、儲かるぞ?」
おじさまが言うなら、確実に儲かるんだろうけど、そういう問題ではないのだ。
「あんまり言うと、商人ギルドのラーメン屋台撤去しますよ!」
おじさまがラーメンにドップリハマっていることを逆手にとって、脅してみる。実際は、警備隊の人たちもハマりまくっているので、可哀想だから撤去はしないけどね。
「わかった、わかった。不許可だな」
ラーメンに反応したおじさまは食い気味に、戯曲化申請却下に同意してくれた。昼は毎日通っているというのも、この分だとどうやら本当らしい。
(それにしても、おじさまが商売の交渉でこんなにアッサリ引くとは、ラーメン恐るべし!)
商人ギルドの屋台は、その後、魚介ダシと生節を使った塩ラーメンも加え、一杯一ポル(千円)という強気の値段で出している。売るとなると味噌ラーメンのバターは原価が高すぎて、まだ使えない。その代わりとして動物からとった脂肪の旨味を増して対応した。
イスの中でも商人ギルド関係者や警備隊は高給取りなのか、この値段でも客足は絶えることなく、毎日完売状態。屋台がこれ以上混まないよう、ラーメンのことは外部の人間に言わないこと、という箝口令が出ているそうで、商人ギルドの職員専用ギルドカード(ギルド発行の身分証)がないと、屋台のあるエリアには入れないそうだ。
ラーメンは選ばれし者の食べ物になりつつあり、食べられることがステイタスだそうで、商人ギルドの人たちにとっては、秘密のご馳走扱いになっている。
(そこまで?)
提供した私が呆れるほど、ラーメンの人気は高まっているようだ。
第二章 帝都の聖人候補
「軍から依頼が来た!」
商人ギルドからの突然の呼び出しに駆けつけると、おじさまが珍しく興奮を隠せない様子でまくし立てている。
「軍人手帳の発注だ。これまで軍用品は、すべてパレスのギルド経由でしか納入できなかったのに、遂に直接軍からの依頼が来たんだ!」
「はぁ……」
いまひとつピンとこない私。おじさまがパレスの商人ギルドを出し抜いたことを喜んでいるのは、なんとなくわかるけど、興奮の仕方がなんだか尋常じゃない。
「いいか、軍部というのはな、最高の顧客なんだよ。発注数は莫大、値切りも甘い。しかも継続的な取引を長く続けられ、安定性が抜群。今回の軍人手帳も、全軍だぞ全軍! しかもこっちの言い値だ」
確かにものすごい数字だが、これでも正規の手続きを踏んだ軍人だけに限られるらしい。
シド帝国は、長い年月をかけて周辺の民族や国を併合してきたため、人口はかなり多い。その広大な国土全体に配備しなければならない軍人の数も、とんでもない数になる。
おじさまの話によれば、帝国軍の発注を受けるというのは、商人にとってひとつの到達点であるらしい。
イスの圧倒的な物流量は軍にとっても必要であり、いままでにも間接的な取引はもちろんあったが、こと軍用に関しては、パレス商人ギルドの下請け的な立場にならざるを得ないのが実情だった。すべては軍の前例踏襲主義によるものだ。パレスに請け負わせるのが〝慣例〟なら、それを覆すことは不可能といえた。
だが、今回軍人手帳の刷新に当たって軍が独自に調査したところ、パレスの商人ギルドには、新素材である紙についての情報がまったくないことがわかった。そこで頑迷な軍も遂に重い腰を上げ、イスに直接問い合わせをしてきたのだ。
(もちろん、そこには長年にわたるおじさまの根回しがあったのだろうけど……)
「幻聴でしょうか? タガローサ幹事の歯ぎしりが聞こえる気がします」
得意満面のおじさまは、私の言葉に大笑いした。
「一度開かれた扉はもう閉まらない。これからは軍の仕事も直接イスが獲っていくからな」
おじさまの目が爛々と輝いてます。よっぽど莫大なお金が動くのでしょう。
「それで、私はなんで呼び出されたのですか?」
「一緒にパレスに来い!」
「ええ! 帝都パレスに私がですか?」
帝国軍は今回の軍人手帳の刷新に当たり、紙の使用によるコストカットだけでなく、カレンダーなどの新しい要素を加えた斬新な技術を期待しているという。そのための会議に私にも出ろというのだ。
「なんで私が……」
「カレンダーはお前の考えたことだろうが。それに、一度ぐらい帝都パレスを見てみたいと思わないか?」
「それは、まぁ、思いますけど……」
「出発は二日後だから、準備しとけよ」
「なんでそんなに急なんですか!」
「軍人は気が短いんだよ!」
(おじさま勘弁してください)
商人ギルドの職員バッジをつけ、きちんとした上下揃いの服を身につけた僕は、あの地獄で自分を守るために作った火傷まで癒してもらい、イスへ戻ることになった。
「あなたはこんな素敵な男の子だったのよ。これまでも、これからもね」
その日、メイロードさまが僕に言ってくれた言葉は僕の永遠の宝物だ。そして、彼女が望むように、自分の幸福を人に与えられる人間でありたいと思う。
マーラカムは僕らが捕まった後、捜査の手が伸びることを恐れイスを逃げ出そうとする途中、手下の裏切りにあってひどい死を迎えたというが、もう僕には彼を恨む気持ちさえない。その死をただ哀れむだけだ。
メイロードさまとサイデム様は、児童書と教科書の利益の一部を基金として、子供たちの保護と更生に充てることを決めた。助け出されたマーラカムのアジトに残されていた子供たちも、基金で建てられた施設で徐々に回復しているそうだ。僕もできるだけ施設に顔を出して、小さい子たちに勉強を教えている。
僕には、僕と同じ年のはずのメイロードさまが、ときどき大人の女性のように見える。母のようにさえ思える。
「生涯変わらぬ忠誠と祈りをメイロードさまに捧げます」
イスへ帰る直前、そう言って僕が膝を折り礼をとると、メイロードさまは真っ赤になって照れていた。本当に、この世話好きで食べさせたがりの女神は、ご自分の素晴らしさへの自覚がない。願わくば、この与えてばかりの女神さまに最大の幸福が与えられますように。僕がメイロードさま以外の神に祈ることがあるとすればそれだけだ。
さて、サイデムさまが強硬に主張して常設になったギルドのラーメン屋台で昼を食べてから、もうひと仕事するとしようか。また行列になっていないといいんだけど……
◆ ◆ ◆
イス商人ギルド統括執務室。この部屋の調度品はすべて気軽に触れるのも怖いような一流品、どんな貴族が商談に来ても見劣りしないよう、入念に吟味されている。大量に積まれた仕事関係の木札や羊皮紙は隠しようもないが、それもまたここの主である彼の多忙さと有能さを見せつけていた。もっとも、この部屋で実際に誰かと対面して商談が行われることは極めて稀だ。
サイデム商会の中には豪華な応接室があるし、ギルドの施設内にも大小様々な交渉用の応接室がある。わざわざこの部屋を選んで話す必要があるのは、メイロードが持ち込んだ話のような、莫大な金が動き、世界を変えるようなとてつもないものだけだ。
(だからこの部屋には、《探知》の魔法も、気配消しに対抗する《揺らぎ検知》の魔法も常時かけてあるんだよね。まぁ、並の魔術師のかけた魔法じゃ、グッケンス博士やセイリュウにはまったく意味がなかったけど。この部屋の強化について、一度博士に相談しないとな……)
そんなことを考えている間に、相談しなければならない〝原因〟が、能天気にきらびやかな上級貴族らしい装いでやってきた。
「オットー・シルヴァン様、このような辺境の地へようこそおいでくださいました。私がイスの差配を務めております、サガン・サイデムにございます。このようなむさ苦しい部屋がご覧になりたいとは、いったいなんでございましょう」
五人の従者を引き連れて部屋に入ってきたオットーは、まったく商人らしさのない、貴族丸出しの、ゴテゴテした飾りだらけの衣装で颯爽と礼をとった。
「時間がありましたので、執務室にまで押しかけてしまいました。ぜひサイデム統括の仕事ぶりを拝見したいと思ったのですよ。これからいろいろと教えていただくつもりなのですから。ああ、それから私は教えを請う身、どうぞオットーとお呼びください」
世界一忙しい男の仕事部屋にいきなり押しかけてきておきながら、一ミリも申しわけないと思っていないことが丸わかりの不遜な態度ではあるが、背伸びした十五歳の少年の虚勢と見れば、若干の可愛げはある。あくまで若干のだが。
「おお、そのことですが、私の仕事は、ギルド統括として活動しております現在では、もう普通の商人とは違うものです。学びたいとおっしゃるのであれば、〝商人〟としての技術や知識を深められた方がよろしいのではないでしょうか。幸いうってつけの者がおりますので、彼女のいるシラン村をまずは訪れていただきたいと考えます。その後、こちらでの修業を許可いたしましょう」
サイデムはわざと情報をぼかし、勝手に想像させた。思った通り、彼がイスの首領と呼ばれる人物についてなんの情報収集もしていないことはその表情からすぐにわかった。タガローサが、必死で集めているだろうイスについての情報を、何も聞かず覚えず〝敵地〟にのほほんと現れる。勘働きゼロ、情報収集能力なし、分析力皆無。付き合いきれないボンクラ確定だ。
「おお、サイデム幹事が見込まれた〝女商人〟ですか、それは興味深い。わかりました。それが条件だと言うのなら、彼女の知識と技術、残さず学んでまいりましょう」
自信満々のオットーは、礼を取り踵を返すと、すぐにシラン村へ向かった。爽やかな笑顔でオットーの旅立ちを見送ったサイデムは、心底ホッとした。
アレの面倒を見るという苦行から逃れられたことに対する、心からの安堵だった。
この様子を隠れて見ていた私も、これはなかなか前途多難だぞ、とため息をつきつつ、おもてなしの準備のため、《無限回廊の扉》を抜けそうそうに村へと戻っていった。
◆ ◆ ◆
大貴族の御用馬の脚はさすがの速さで、馬車は辺境と言われるシラン村まで一週間かからず走り抜けた。従者たちは宿の一番高い部屋をワンフロアすべて借り切り、大量の荷物を運び込む。マジックバッグを使っているとはいえ、ほぼ引っ越しと変わらない仰々しさだ。
商人になるといいながら、まったく貴族の習慣を改められないオットーは、自分の宿泊する宿の値段も気にせず、一日三回の着替えも忘れない。
そんな様子を陰から観察する私とソーヤ。私も習ったばかりの初歩の《迷彩魔法》で隠れている。
〔メイロードさまが、なぜあのボンクラ貴族に付き合わなければならないのです?〕
〔私も付き合いたくはないのだけど、おじさまの負担を少しでも軽くしてあげないと、過労死しちゃいそうで……〕
〔カローシ、辛そうな名前の病気でございますね。仕方ございません。あの間の抜けた貴族のおぼっちゃまに商人の仕事、少しだけお見せして、都へトットとお帰りいただきましょう〕
よっぽど嫌いなのか、ソーヤの毒舌は絶好調だ。
〔あら、私は誠心誠意、教えて差し上げるつもりよ。もっとも私の商人としての知識は浅いものだけど。彼の勉強になってくれることを願うわ〕
〔そうはおっしゃいますがね。あの男、自分で財布を持ってなかったんですよ。自分で一切支払いもしない商人など、噴飯ものです。あのボンクラきっと、少額貨幣のカルなんて見たこともないに違いありません〕
〔お、それはいい視点。ソーヤの毒舌も役に立つわね〕
持ち込んだ大量の家具を据付けさせ優雅にお茶を楽しみながら、オットーは夕食のメニューについてあれこれと相談を始めた。どうやら今日は到着しただけでお仕事終了らしい。
(〝時は金なり〟って言葉、こちらの世界にはないのかな)
オットー・シルヴァンは、自分で財布も持たないにもかかわらず、商人になりたいと言う。お金の価値も知らず、商人を目指すという彼の考えは私には理解不能だが、これは貴族の商売に関する考え方を知るいい機会かもしれない。殿様商売の現状、こちらもリサーチさせていただくとしよう。
◆ ◆ ◆
貴族の朝は遅い。
だが今日は、慣れぬ土地のせいか、やや早く起きてしまった。田舎の空気は清々しく、寝覚めは悪くない。たまにはこんな朝も良いものだ。私は従者たちに身支度をさせ、今日の靴を選んでいた。そんな時間に、私、オットーに来客があった。まだ朝食が済んだばかりで、朝のお茶もしていないのに無粋なことだが、ここは辺境の村。上級貴族の習慣についてわからないのであろう。
「通せ」
侍従に告げるとそこに現れたのは、儚げな雰囲気を持った小柄な美少女と従者の少年。十歳にはなっていないだろう。しかし、その姿はとても印象的だ。
流れる深い緑の髪は、ツヤツヤと光を反射し、サイドは複雑に編み込まれている。これほど見事な〝魔力宿る髪〟をした者に会ったのは初めてかもしれない。しかもその髪には見たことのない不思議な色の石と花で飾られた精巧にして優美な髪飾り。透けるような肌に、大きく理知的な翠の瞳。ドレスはシンプルすぎるが、上等であることは一目でわかる。裾の刺繍はなかなか見事なものだ。
(田舎貴族とも思えない優雅さだが、この地に関連のある上級貴族などいただろうか)
貴族の血筋に関する情報だけは子供の頃から叩き込まれるため、把握している。敬称を間違えたりすれば大事になってしまうため、必須の知識なのだ。だが、この美少女の血筋に関係する貴族に思いつく名がない。
「早朝から大変不躾とは思いましたが、お時間を無駄にしてしまうことも恐れ多いと考え、伺いました」
優雅に腰を折る少女によれば、彼女こそがサイデムのいう評判の〝女商人〟メイロード・マリス。私に〝商売〟を教える者だという。この少女の父も祖父も平民の商人で、村の雑貨店を営んでいたという話だ。
あまりの少女の幼さにサイデムに侮られたかと思ったが、話を聞けば、この年齢でありながらイスでの商いに成功し、莫大な利益を得た上、その仕事はさらに大きくなっているそうだ。すでにイスの商人たちから一目置かれている有名人らしい。
「恐ろしい子供がいたものだな」
表面上は鷹揚に受け答えしてみたものの、自分よりずっと年若くして成功した〝商人〟がいるとは思ったこともなかった。まだ何も成していない自分と成功者である少女。この状況は決して気分の良いものではないが、確かに教えを乞うべきは自分であることは確かだ。
(では、私のために働いてもらおうではないか!)
貴族のプライドで気持ちを立て直し、にこやかに微笑んでいる少女に話しかけた。
「では、私に何を見せてくれる、メイロード」
「そうでございますね。まずはメイロード・ソースの工場にご案内いたしましょう」
メイロードの案内で向かったこのシラン村とかいう場所の端、元は何もない荒野だったという一画には、大型の工房群と美しく真っ白に塗られた工場棟が連なっていた。
「ご覧になっている通り、ひとつの商品を作るためには、様々な部品が必要です。メイロード・ソースの場合、素材を生産していただく農家の方々、村で入手できない素材を運んでいただく方々、容れ物のためのガラスとコルクの工場、そして製品の工場で生産に携わる方々」
彼女が言うには、これが〝大量生産〟という生産方法で、これを売る方法を〝薄利多売〟というのだそうだ。小さな利益の商品を大規模に生産し大量に売ることで、大きな利益を得るという。しかも、聞けば彼女はこの大規模な工場群のための資金を自分で捻出したという。
私の開業資金はどのぐらいを見込んでいるのかと無邪気に聞かれ、私は答えられず、そんな自分にうろたえた。もちろん父が出すものだと思っていたので、金額など考えたこともなかったのだ。どれぐらいの規模でどこに店舗を構える予定なのかと聞かれて、さらに答えに窮す。私は何ひとつ考えていなかった。
(私の店。私はどこで、何をする気だったのだろうか……)
漠然と父のところに乳製品や陶器の取引にやってくる、良い身なりで羽振りの良さそうな男たちを見て、物を買って高く売れば良いと考えていた。ツテやコネは、公爵家の名があればどうにでもなると思っていた。
「公爵様の領内の生産品でも、オットー様はほかの商人と競争しなくてはならないのですよ。利益が少なくなれば、領民の生活にも影響するのです。ツテやコネも重要な要素ですが、それだけでは取引は難しいでしょうね」
こんな子供に、反論もできない事実を突きつけられ、諭されるとは思ってもみなかった。私は簡単に商人になれると思っていた。私はこのとき、自分の仕事に競合する者があり、商人は競って勝たなければならないという事実に初めて気がついた。
イスと帝都の商人(タガローサ叔父上だが)があれだけいがみ合っているのは目の当たりにしていた。しかし自分がほかの商人と争い勝ち抜かねばならないことには、まったく思い至らなかったのだ。なんという暗愚なのだろう、私は。
おそらく私の顔が見るも無残に赤面していることに、少女は気づいていただろう。しかしそれには何も触れず、その後も変わりなくにこやかに、休憩がてら商品をご覧になってくださいと、工場の庭に設えられたテーブルへと私を案内した。
少女の従者の少年は、気落ちする私の前に完璧な温度でいれられた、香り高いハーブティーをサーブし、席を離れた。そして私が茶を飲み落ち着いて、顔の赤みが引いた頃、サンドウィッチと〝ぱすた〟というもの、それにフルーツが目に鮮やかな〝くれーぷ〟というお菓子が運ばれてきた。
どれも凄まじく美味だった。こんなものが辺境の小さな村で食べられているなど考えたこともなかった。毎食美食家を気取り、食事を細かく指定してきた自分が、実はこんな辺境の村の食事にも及ばないものしか食していなかったのだ。自分の浅学を呪ってしまいそうで、いたたまれない。
「お味はいかがでしたか? この村のソースはどれも、いろいろな食材と相性がいいのですよ」
少女はどこまでも優しく親切で、微笑みを絶やさない。
「次はどこにご案内しましょう? 製品評価と改善実施にはご興味ありますか?」
初めて聞く言葉だ。
少女によると、製品の品質を常に検査したり、食べた者たちからの聞き取り調査を集計分類し、現在より〝良い商品〟を作るための情報として文章に残しているという。
「商品は仕入れて売るだけじゃないんですよ。〝信用〟を得るためには、悪いところを探してより良くしていかないと。ですから、お客様の声を定期的に直接集めていますし、工場内でも、いまより効率のいい方法を皆で考えます」
「皆で考える?」
「商売に限らず、お仕事において、ひとりでできることなど、微々たるものだと思いませんか?」
あまりにも違う価値観に遭遇し、私は何かとんでもない人間と話をしている気がしてきた。
私の知っている仕事は、指示を出すことだけだ。貴族の仕事とはそういうものだった。
父のところに来る商人たちに、父が指示を出す。交渉などない。商人が、父に何かを願い出ることはあるが、その可否を決めるのは父だ。
「乳製品でもそうなのですか?」
「もちろんそうだ。動物のことだし、年によっては、牛が魔物に襲われて生産量が減ることもある。そのとき、価格を上乗せするのは、父の裁量だ。父の言う金額で買えないというなら、ほかに売るだけのこと」
「完全に売り手主導なんですね」
「当たり前だ。貴族の力があってこそ、手に入れられるものだぞ」
得意げに言ってはみたが、私自身は、乳製品の取引には関われない。父や兄、そしてタガローサ叔父上が、公爵領の乳製品の権利をがっちり握っており、これから商売をするという四男が入り込む余地はないのだ。
(そうだ、私は自分が売るものを自分で考え、探さなくてはならないのだ……)
「皆で考えれば、答えにたどり着けるのか?」
思った以上に頼りなげな声になってしまった私の質問に、微笑みながら、真摯に少女は答えてくれた。
「ひとりですべてを決めていく方法もありますが、それだけでは大きな仕事は成せません。商人として大成したいのであれば、まず、自分の行き先を考えて決めてください。そして、その仕事を共にする仲間を作ってください。彼らとたくさん話をして道を作っていくのです。あなたの持つすべてを使って、あなたに合った仕事の形を見つけてください」
私は雷に打たれた。本当に打たれた気がした。
「聖女だ……」
「は?」
「ありがとうございます。メイロードさま。私はこれで失礼いたします。いまの私は、商人の知識など学べるような立場ではございません。この御礼はいずれ必ずいたします。いまは帝都へ一刻も早く戻り、自分の行き先を見据え、行動を起こすべきだと思い至りました。御教授に心より感謝申し上げます」
私は深く一礼して、彼女のもとを去った。彼女の前に、これ以上情けない自分を晒すのは耐えられなかったし、私は人生で初めての焦燥に駆られていた。早く、早く、彼女のような大きい人間になりたかった。こんなところでのんびりしている時間などないのだ。早く、早く!
オットー・シルヴァンは、シラン村一泊二日の短い滞在を終え、イスに寄ることもなくそのまま帝都への帰路についた。
「え? えーーー‼」
あっという間に去っていったオットーに、メイロードはあっけにとられていた。
「私まだ何も教えてないよね? 庶民のお財布事情とか、工場の設備や流通網の話とか、初歩の会計も知ってもらおうと思って準備してたのにぃ~!」
なんとなく消化不良のメイロードではあったが、オットーはその後、心を入れ替え、人が変わったように仕事に邁進し始める。オットーのあまりの変貌に、ボンクラ若様を改心させた聖女として従者たちの間から噂が広がり、帝都でも北東部の小さな村に聖女がいるという伝説が広がり始めるのだったが、メイロードは何も知らない。
◆ ◆ ◆
イスの目抜き通り。この道はヘステスト大通りという。商売の神さまだという〝ヘステスト〟の名がついた、高級店ばかりが並ぶイスでもっとも華やかな通りである。その一番目立つ場所に、サイデム商会の本店がある。
建物の一階は豪華なショールームになっており、物販も行っている。ここの商品は高級品ばかりだが、懐に余裕のある庶民が贅沢品として購入できる価格のものも多いため、イスで高級品を求める人たちの誰もが知る名店として常に賑わっている。
二階には貴族用の接客室と商談用の会議室、三階が事務所だ。
場所柄、普段は人通りが多い割に落ち着いた雰囲気なのだが、今日は様子が違った。サイデム商会の店前は、早朝から人々でごった返し、いつもより早く出勤した従業員が長蛇の列をさばいている。
今日は噂が噂を呼び、これがないとこれからの生活で損をすると言われている〝皇宮お墨付きカレンダー〟発売日の朝だ。
おじさまの店のような大商いをする商店は、実は小売にはあまり力を入れていない。だが、今回はおじさまが仕掛けて、わざとこの店舗での限定先行販売に踏み切った。もちろん話題性のためだ。
人々の熱が冷めないうちに一気にばらまいて〝カレンダー〟の使い方と有用性を周知する。やがて定着し、あらゆる仕事がこれを基準に動くようになれば、確実に生産性は上がり、仕事がしやすくなる。
商業都市イスにとっての利益は計り知れない。そのために商人ギルドの代表でもあるサイデムおじさまは最速でこれを広めようと考えたのだ。
発売日が決まると、結局このカレンダーに使われた紙に関する技術の秘密を掴めなかったタガローサから、手紙がひっきりなしに来るようになった。帝都での独占販売権を求める脅しのような文言付きだ。
おじさまは最大の譲歩をして、独占販売権を今年だけ認めたそうだ。ユデダコのようになって悪態をついているタガローサを想像して、おじさまは気分良さそうにしていた。
「次は本格的に出版事業を始めるぞ」
カレンダーによって、〝紙〟という新素材の周知はできた。次はいよいよ、〝紙〟を使った事業展開だ。
グッケンス博士は、出版するなら改訂したいと〝魔術師の心得〟第二版を執筆中。私の児童用教科書第一弾は、この間脱稿した。どうせなら来年度から使えるようにしたくて、つい張り切ってしまったのだ。
「やっぱり、メイロードの名前は外してくださいよ~」
「くどい! その方が売れるのがわかっているのに外すわけがなかろう」
(うう、商売が絡むと、おじさま強い)
「そういえば、お前を題材にした戯曲を出版したいという作家がいるんだが、書かせていいか?」
「やーめーてー! 絶対やめてください‼ 絶対不許可です‼」
おじさまは大変不満そうだが、冗談ではない。これ以上の悪目立ちは断固阻止させていただきたい。
「別に自叙伝ってわけじゃない。お前の名前で聖女伝説を舞台化したいってだけだ。ウケるぞ、売れるぞ、儲かるぞ?」
おじさまが言うなら、確実に儲かるんだろうけど、そういう問題ではないのだ。
「あんまり言うと、商人ギルドのラーメン屋台撤去しますよ!」
おじさまがラーメンにドップリハマっていることを逆手にとって、脅してみる。実際は、警備隊の人たちもハマりまくっているので、可哀想だから撤去はしないけどね。
「わかった、わかった。不許可だな」
ラーメンに反応したおじさまは食い気味に、戯曲化申請却下に同意してくれた。昼は毎日通っているというのも、この分だとどうやら本当らしい。
(それにしても、おじさまが商売の交渉でこんなにアッサリ引くとは、ラーメン恐るべし!)
商人ギルドの屋台は、その後、魚介ダシと生節を使った塩ラーメンも加え、一杯一ポル(千円)という強気の値段で出している。売るとなると味噌ラーメンのバターは原価が高すぎて、まだ使えない。その代わりとして動物からとった脂肪の旨味を増して対応した。
イスの中でも商人ギルド関係者や警備隊は高給取りなのか、この値段でも客足は絶えることなく、毎日完売状態。屋台がこれ以上混まないよう、ラーメンのことは外部の人間に言わないこと、という箝口令が出ているそうで、商人ギルドの職員専用ギルドカード(ギルド発行の身分証)がないと、屋台のあるエリアには入れないそうだ。
ラーメンは選ばれし者の食べ物になりつつあり、食べられることがステイタスだそうで、商人ギルドの人たちにとっては、秘密のご馳走扱いになっている。
(そこまで?)
提供した私が呆れるほど、ラーメンの人気は高まっているようだ。
第二章 帝都の聖人候補
「軍から依頼が来た!」
商人ギルドからの突然の呼び出しに駆けつけると、おじさまが珍しく興奮を隠せない様子でまくし立てている。
「軍人手帳の発注だ。これまで軍用品は、すべてパレスのギルド経由でしか納入できなかったのに、遂に直接軍からの依頼が来たんだ!」
「はぁ……」
いまひとつピンとこない私。おじさまがパレスの商人ギルドを出し抜いたことを喜んでいるのは、なんとなくわかるけど、興奮の仕方がなんだか尋常じゃない。
「いいか、軍部というのはな、最高の顧客なんだよ。発注数は莫大、値切りも甘い。しかも継続的な取引を長く続けられ、安定性が抜群。今回の軍人手帳も、全軍だぞ全軍! しかもこっちの言い値だ」
確かにものすごい数字だが、これでも正規の手続きを踏んだ軍人だけに限られるらしい。
シド帝国は、長い年月をかけて周辺の民族や国を併合してきたため、人口はかなり多い。その広大な国土全体に配備しなければならない軍人の数も、とんでもない数になる。
おじさまの話によれば、帝国軍の発注を受けるというのは、商人にとってひとつの到達点であるらしい。
イスの圧倒的な物流量は軍にとっても必要であり、いままでにも間接的な取引はもちろんあったが、こと軍用に関しては、パレス商人ギルドの下請け的な立場にならざるを得ないのが実情だった。すべては軍の前例踏襲主義によるものだ。パレスに請け負わせるのが〝慣例〟なら、それを覆すことは不可能といえた。
だが、今回軍人手帳の刷新に当たって軍が独自に調査したところ、パレスの商人ギルドには、新素材である紙についての情報がまったくないことがわかった。そこで頑迷な軍も遂に重い腰を上げ、イスに直接問い合わせをしてきたのだ。
(もちろん、そこには長年にわたるおじさまの根回しがあったのだろうけど……)
「幻聴でしょうか? タガローサ幹事の歯ぎしりが聞こえる気がします」
得意満面のおじさまは、私の言葉に大笑いした。
「一度開かれた扉はもう閉まらない。これからは軍の仕事も直接イスが獲っていくからな」
おじさまの目が爛々と輝いてます。よっぽど莫大なお金が動くのでしょう。
「それで、私はなんで呼び出されたのですか?」
「一緒にパレスに来い!」
「ええ! 帝都パレスに私がですか?」
帝国軍は今回の軍人手帳の刷新に当たり、紙の使用によるコストカットだけでなく、カレンダーなどの新しい要素を加えた斬新な技術を期待しているという。そのための会議に私にも出ろというのだ。
「なんで私が……」
「カレンダーはお前の考えたことだろうが。それに、一度ぐらい帝都パレスを見てみたいと思わないか?」
「それは、まぁ、思いますけど……」
「出発は二日後だから、準備しとけよ」
「なんでそんなに急なんですか!」
「軍人は気が短いんだよ!」
(おじさま勘弁してください)
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