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2 海の国の聖人候補
273 幻想への旅路
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273
「このグラスも宿の備品でしょう?粗末にするのは感心しませんね」
美しい少女の声でいきなり説教をされ、何事かとうつむいていた顔を上げると、
男の前には、二人の少年を従えた小さな少女が立っていた。
酒漬けでうまく頭も働かない男の前に突然現れたその少女は、そばにいた少年に素早くグラスの残骸を片付けさせた後、ゆっくり男のいる机の方へ近づいた。
男は、鈍く痛む頭を抱えながら、ぼんやりとこう思った。
(3人ともなかなかの美形だ。
特に少女の美しい瞳と艶のある唇、そして見たことのない妖しい翠の長い髪は噂に聞く〝魔術宿る〟ものだからなのか、とにかくこの小さな娘は、なんだか普通じゃない気がする……)
この貧乏宿には全くふさわしくない高貴な〝何か〟が、男の気持ちをざわつかせた。
「だ、誰だ。どこから入ってきた?俺にはもう何もないぞ」
何もかも失うべくして失ったこの男にやってきた、これは一体なんなのだろう。混乱して躰を震わせるこの弱い男に、少女は年に似つかわしくない非常に落ち着いた美しい声でこう言った。
「ルーイン・ガウラム。
あなたの見捨てたあの領地は〝休眠地〟となり、治める人もなく、領民と共に死に絶えようとしています。
ですが、それを立て直したいと願う領民たちは、それに抗い立ち上がろうとしています。
今、あの土地の再生のために、新しい領主を立てる事が必要です。
あの領地を私に売って頂けませんか?」
「はぁ?」
ルーイン・ガウラムは、心底あきれ返ったと言う声を出した。
「売れるならとっくに売ってるよ。あそこが〝休眠地〟になっているってことは、あそこに価値がなくお荷物でしかないってことなんだよ。その土地に値段をつけるって言うのか、あんた!」
「ええ、あなたが逃げている借金から解放して差し上げてもいいですよ」
少女の言葉にルーインの目に光が戻った。
「本当か?この宿の金も大分溜めてるが、それもか?!」
「よろしいですが、もうひとつ売って頂きたいものがございます」
「まさか、これじゃないよな」
ルーインが隠したのはひとつの指輪、サビーナのための婚約指輪だった。
この期に及んでも、彼はサビーナとの幻想の恋の中にいるのだ。
少女は哀れみの表情を一瞬見せた後、真剣な表情に戻り交渉を続けた。
「いいえ、私が欲しいのはあなたの名、ガウラムの家名です」
「は!こんな没落した名がなぜ欲しい」
「長くあの地を治めてこられたガウラムの一族には信用がございます。
領地立て直しのためにも、ガウラムの名を継ぐものに、治めさせた方が〝休眠地〟解除も早いでしょう。
町の者たちも、前のご領主様をそれは尊敬されていますし……」
「で、私はボロクソに言われているわけだ!いいですとも、こんな名前に未練はありません。元々勘当されていたんだ!
貧乏のどん底のあの街で責められ続ける領主になんて、なんの未練もない!
誰でも、やりたい奴がやればいい!!」
そこで、思いついたようにルーインは付け加えた。
「借金の精算以外に、す、少しだけでいい。金をくれないか?
少しの間、旅ができればいい……頼む」
表情を顔に出さないようにした少女は、頷いた。
「判りました。あなたが前を向くために必要なお金のようですから、ご用立て致しましょう。ただし、契約は、厳しいものになりますよ」
そう言うと、少女は一枚の契約書を取り出した。
「魔法契約か……分かった」
違えれば強烈な罰、時に死を伴う契約にルーインは意外なほどあっさりと血判を押した。
「これでサビーナに会いに行ける……」
呻くように繰り返し呟く彼を見て、少女は
(恋って怖い)
そう思わずにはいられなかった。
そして、名もない貴族ですらないただのルーインとなった青年に訪れるだろう絶望を思い、彼にとっての最初の、そして最も重い罰にため息をついた。
彼が心弱く育った原因は、様々なボタンのかけ違いだ。
息子を失いたくない母、妻を傷つけたくない夫、その結果領主として何も見ず聞かず教わらずに育った気持ちも躰も弱い若様。そして、志半ば、息子に何ひとつ継承できず失意の中で亡くなったご領主様……
ルーインは圧倒的に領主としての資質に欠けていたし、本人も周囲もそれを知っていたが、全てが彼を甘やかしたまま、悪戯に時だけが過ぎてしまった。
彼自身もまた、自分の立場や責任の持つ厳しさから逃げ、向き合う努力もせず、やがて現実から逃げるように自らの恋の中に溺れ、その成就を信じて、全てを崩壊に導いた。
領の豊かさが彼の弱さを補ってくれるはずだと父や領民の努力に甘え、その富の価値も源泉も知らぬまま、何もせず、ただ何かのせいにして、自分に向けられる非難と責任から逃げた。
そして、彼に残ったのは儚い恋の幻想だけだ。
だが、全てを失い、わずかな路銀と共にその旅路へ向かう彼の顔は、先ほどまでの陰鬱な表情が嘘のように明るく希望に満ち、愛する人に再び会える喜びに、無邪気に輝いていた。
「このグラスも宿の備品でしょう?粗末にするのは感心しませんね」
美しい少女の声でいきなり説教をされ、何事かとうつむいていた顔を上げると、
男の前には、二人の少年を従えた小さな少女が立っていた。
酒漬けでうまく頭も働かない男の前に突然現れたその少女は、そばにいた少年に素早くグラスの残骸を片付けさせた後、ゆっくり男のいる机の方へ近づいた。
男は、鈍く痛む頭を抱えながら、ぼんやりとこう思った。
(3人ともなかなかの美形だ。
特に少女の美しい瞳と艶のある唇、そして見たことのない妖しい翠の長い髪は噂に聞く〝魔術宿る〟ものだからなのか、とにかくこの小さな娘は、なんだか普通じゃない気がする……)
この貧乏宿には全くふさわしくない高貴な〝何か〟が、男の気持ちをざわつかせた。
「だ、誰だ。どこから入ってきた?俺にはもう何もないぞ」
何もかも失うべくして失ったこの男にやってきた、これは一体なんなのだろう。混乱して躰を震わせるこの弱い男に、少女は年に似つかわしくない非常に落ち着いた美しい声でこう言った。
「ルーイン・ガウラム。
あなたの見捨てたあの領地は〝休眠地〟となり、治める人もなく、領民と共に死に絶えようとしています。
ですが、それを立て直したいと願う領民たちは、それに抗い立ち上がろうとしています。
今、あの土地の再生のために、新しい領主を立てる事が必要です。
あの領地を私に売って頂けませんか?」
「はぁ?」
ルーイン・ガウラムは、心底あきれ返ったと言う声を出した。
「売れるならとっくに売ってるよ。あそこが〝休眠地〟になっているってことは、あそこに価値がなくお荷物でしかないってことなんだよ。その土地に値段をつけるって言うのか、あんた!」
「ええ、あなたが逃げている借金から解放して差し上げてもいいですよ」
少女の言葉にルーインの目に光が戻った。
「本当か?この宿の金も大分溜めてるが、それもか?!」
「よろしいですが、もうひとつ売って頂きたいものがございます」
「まさか、これじゃないよな」
ルーインが隠したのはひとつの指輪、サビーナのための婚約指輪だった。
この期に及んでも、彼はサビーナとの幻想の恋の中にいるのだ。
少女は哀れみの表情を一瞬見せた後、真剣な表情に戻り交渉を続けた。
「いいえ、私が欲しいのはあなたの名、ガウラムの家名です」
「は!こんな没落した名がなぜ欲しい」
「長くあの地を治めてこられたガウラムの一族には信用がございます。
領地立て直しのためにも、ガウラムの名を継ぐものに、治めさせた方が〝休眠地〟解除も早いでしょう。
町の者たちも、前のご領主様をそれは尊敬されていますし……」
「で、私はボロクソに言われているわけだ!いいですとも、こんな名前に未練はありません。元々勘当されていたんだ!
貧乏のどん底のあの街で責められ続ける領主になんて、なんの未練もない!
誰でも、やりたい奴がやればいい!!」
そこで、思いついたようにルーインは付け加えた。
「借金の精算以外に、す、少しだけでいい。金をくれないか?
少しの間、旅ができればいい……頼む」
表情を顔に出さないようにした少女は、頷いた。
「判りました。あなたが前を向くために必要なお金のようですから、ご用立て致しましょう。ただし、契約は、厳しいものになりますよ」
そう言うと、少女は一枚の契約書を取り出した。
「魔法契約か……分かった」
違えれば強烈な罰、時に死を伴う契約にルーインは意外なほどあっさりと血判を押した。
「これでサビーナに会いに行ける……」
呻くように繰り返し呟く彼を見て、少女は
(恋って怖い)
そう思わずにはいられなかった。
そして、名もない貴族ですらないただのルーインとなった青年に訪れるだろう絶望を思い、彼にとっての最初の、そして最も重い罰にため息をついた。
彼が心弱く育った原因は、様々なボタンのかけ違いだ。
息子を失いたくない母、妻を傷つけたくない夫、その結果領主として何も見ず聞かず教わらずに育った気持ちも躰も弱い若様。そして、志半ば、息子に何ひとつ継承できず失意の中で亡くなったご領主様……
ルーインは圧倒的に領主としての資質に欠けていたし、本人も周囲もそれを知っていたが、全てが彼を甘やかしたまま、悪戯に時だけが過ぎてしまった。
彼自身もまた、自分の立場や責任の持つ厳しさから逃げ、向き合う努力もせず、やがて現実から逃げるように自らの恋の中に溺れ、その成就を信じて、全てを崩壊に導いた。
領の豊かさが彼の弱さを補ってくれるはずだと父や領民の努力に甘え、その富の価値も源泉も知らぬまま、何もせず、ただ何かのせいにして、自分に向けられる非難と責任から逃げた。
そして、彼に残ったのは儚い恋の幻想だけだ。
だが、全てを失い、わずかな路銀と共にその旅路へ向かう彼の顔は、先ほどまでの陰鬱な表情が嘘のように明るく希望に満ち、愛する人に再び会える喜びに、無邪気に輝いていた。
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