水の主は憂う

コトイアオイ

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1.水底の世界

琥珀

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 ここから逃がすこともできる。目の前の男はそう言って私に選択しろと言う。


私の答えは正直なところ、どちらでも構わないというところだ。元々あの村に深い愛着があるわけでもないし、肉親は既に他界している。そして、親戚がどこにいるかも分からない。むしろ、今の私には明確な行きたい場所など存在しない。


ここにいると言うと、この人はどんな顔をするんだろうか。ちらりと彼の顔を見上げると、丁度こちらを見ていたのか、二人の視線が交錯する。その瞳はこの泉の色とは違い、より深い蒼色に輝き、白銀の髪は不思議と波打っているようにも見える。とにかく、人外の美しさとはこういう人のことを言うのだろう。普通と違う彼ならば、同じように普通の人とはどこか違うと言われ続けた私でも、受け入れてくれるかもしれない。


「…私はここにいたい」


気づいた時には、自分の素直な気持ちをポツリと呟いていた。何故かは知らないが、ここはひどく静かで、どこか落ち着く雰囲気を持っている。


小声で呟いた言葉だったが、男は聞き逃すことなく、「そうか、好きにするといい」と端的に答えた。特に否定されなかったことに、私は安堵する。


水底という冷たい床に音もなく座った男は、私も座るようにと手招きした。それに素直に従い、彼の正面に正座で座る。座ったはいいものの、この後どうすればいいのか。


私がじっと男を見つめていると、彼はおもむろに口を開いた。


「美しい瞳だ、琥珀のように。お前を今日から琥珀と呼ぼう」


「こ、はく?」


貧乏な村で育った私には全く聞き覚えのない言葉に、つい問い返してしまう。すると、彼は人差し指を掲げ、水の鏡を作り出した。そこに映し出されたのは、綺麗な色の石だった。透明感のある黄色と橙色の中間のような、美しい色合いの石だ。


この瞳の色ですら、村の子供らとは違う不気味な色だと蔑まれてきたが、目の前の彼は美しいと言う。綺麗なものに例えられた名前にむず痒いような、嬉しい気持ちを感じる。


琥珀、綺麗な石と同じ、綺麗な名前、私のーー名前。


初めての賞賛に私はどう答えていいものか、視線を彷徨わせた。恐る恐る彼を見て、まず目に入るのは、彼の神秘的な髪だった。


そう言えば、彼の名前は何というのだろうか。私のように名前がないわけもあるまいし。


気になったので尋ねてみると、彼は身体を横にしながら私に名を告げた。


「水無月」


村人達が付けるような名前とは異なる響きに、私は納得する。美しい彼らしい、綺麗な音の連なりだった。水無月、みなづき…。そうして琥珀が頭の中で水無月の響きを堪能していると、ふいに足元に大きな泡が生まれ、姿勢を崩された。


後ろにひっくり返りそうになったが、床と背中に生じた水の膜に優しく受け止められ、琥珀が背中を強打することはなかった。


一連の犯人をじとっと見遣ると、水無月は気楽にこう言った。


「そう警戒するな。ここは平穏な水の底。琥珀、お前も眠るといい」


目元に手を置かれ、そこから伝わるひんやりとした冷気が心地よく、琥珀は誘われるがまま、眠りについた。


今までの緊張が解けたかのように、深い眠りに落ちる琥珀の横で、水無月もそっと瞼を閉じた。


こうして、水底はまた一時の静寂に包まれた。
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