ものぐさ降魔士奇譚

玖凪 由

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【陥穽篇】3.もうひとつの盟約

もうひとつの盟約 ☆陸

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 夜のとばりはとうに降り、香弥こうや市街を包み込んだ暗闇には昼間の活気が嘘のように静寂が漂っていた。

 夜空を薄雲が七割ほど占めているが、雲間から微かに月明かりが覗く。今日は一日を通してほとんど雨が降っておらず、予報では明朝まではこのまま曇り空のようだ。

 時刻は二十三時。深夜帯である。

 住宅や建物から漏れ出る光はほとんどなく、街灯の明かりのみが周辺をぼんやりと照らしている。道行く人影もない市街は、すっかり寝静まっていた。

 普段ならばあり得ない光景だ。この時間はまだ営業時間帯のはずの居酒屋や、二十四時間営業のコンビニやファミレスまでもが今は営業を停止している。

 普通の民家でも、起きている人間がいればまだ明かりが点いていてもおかしくはない。だというのに、玄関先の明かり以外は灯っていない家がほとんどだ。

 車の姿もまったく見当たらない。規制する対象のない路上で、信号機だけが平時と変わらず稼働し、一定時間ごとに淡々と色を変え続けている。

 まるで人だけが丸ごと消えてしまったかのように静まり返っている。しかし、そんなわけはない。

 みな怯えているのだ。見つからないように。標的にされないように。

 おそらく、香弥市だけでなく近隣の地域はどこも似たようなものだろう。その地に住まう人々が、襲い来るかもしれない脅威へ怯えている。

 そんな誰もが息をひそめて引きこもる曇天の下、市街の中ほどにある開けた公園に多くの人影が集っていた。

 学生服姿の子どもと、黒い羽織をまとった大人が混在している。嘉神学園の降魔科生と、香弥市管轄かんかつの降魔士たちだ。

 広場に、総勢三十人弱の降魔科生と降魔士が整列している。得も言われぬ逼迫ひっぱくした空気が漂う中、ゆらだけはあくびをかみ殺すというなんとも緊張感に欠けた姿勢でいた。

 寮の消灯時間は二十二時のため、普段であればすでに寝ている時間である。生活リズムが整えられているので必然眠気が襲ってくるが、そんな呑気な心持ちでいられるのは響だけだ。

 他の降魔科生は今回の事件の危険性で、眠気どころの話ではなくなっている。こんな時間に野外にいることへのちょっとした高揚感もあるのかもしれない。誰しもの目が冴えきっていた。

「これより夜警を開始する。各班持ち場の見回りにつくように」

 降魔士の号令を受け、複数の小隊がそれぞれ散っていく。全員、暗視あんし術を自身にかけているので、この真夜中の暗がりでも明かりなしで行動できる。

 響も自分が配属された班の降魔士のあとについて移動を始めた。





 先日行われた夜警説明会による作戦概要はこうだ。

 まず夜警に参加するAクラスの降魔科生を半分にわけ、一日交替で夜警にあたる。

 半分になった生徒をさらに分け、降魔士二名と降魔科生三、四人で構成した哨戒班しょうかいはんを作り、市街の見回りをする。

 夜警の時間は二十三時から翌日の四時まで。〝羅刹らせつ〟はこの時間帯に街を襲っているため、それに合わせての活動時間となった。

 本来、未成年者の深夜外出は県の条例によって規制されている。しかし、降魔士の出動要請を受けた降魔科生はその対象から除外される。それに、降魔士が同伴という形になっているので、そこは問題にはならない。

 それと、その晩夜警に入った降魔科生は翌日の一般授業が公欠扱いで、特例として欠席が認められる。ただし、特別授業に関しては基本的に要出席となっていた。

 響のいる班には、要一、竜之介、梨々花の降魔科生四名、そして男女二名の降魔士がついた計六名で構成された。リーダーは男性降魔士、副リーダーが女性降魔士だという。

《いよいよだな》

 響の耳元で声が聞こえた。氷輪ひのわの声だ。しかしその姿は見当たらない。

 氷輪は珍しく隠形おんぎょうしていた。普段の霊力を抑えた状態とは違って完全に姿を消しているので、主である響の目にも映らない。降魔士の目に留まると厄介なので、氷輪が自主的に隠形したのだ。

 逆に、響のほうは隠形していなかった。いや、正確には術をかけることができずにいた。

 やはりと言うべきか、夜警中に隠形の術を使うわけにはいかなかった。降魔士が納得するように説明するには、どうしたって輝血について触れなければならなくなるからだ。

 とはいえ、何も対策しないというのはさすがにリスクが大きすぎる。輝血は否応なく妖異を呼び寄せるのだ。そうなれば、響が輝血であるということは間違いなく露見する。

 つまり、隠形術をかけずに輝血だとわからないようにしなければならない、ということだ。

 そんな方法が──実は、あるにはあった。

 それを今、響は実行している。

《それが役に立つとよいがな》

 氷輪の言っている意味を理解し、響は渋い表情になる。

 隠形できない響がとった方法は、魔除まよけの護符を持ち歩くことだった。

 丁寧に折りたたんで胸ポケットに忍ばせてあるこの魔除け符は、悪しき霊や妖異を寄せつけないようにすることができ、それなりに高い効力が期待できる代物だ。

 霊力のない一般人に対しては、だが。

 霊力のある者には意味がないというわけではないが、一定以上の強い霊力を持つと、その霊力が符の効果を上回ってしまうことがある。すると、妖異がその霊力を感知する確率が上がるので、魔除けの効き目が著しく低下するのである。

 霊力が強ければ強いほどその低減度は大きくなるため、輝血ほどの霊力であれば効果が最低まで落ちこむ。つまり、響がこの符を持っていても、隠形術の三分の一も効果を発揮しないだろう。

 加えて、符の効果持続時間はもって六時間。夜警時間内ギリギリといった具合だ。

 それに、魔除け符を用意するのも簡単なことではない。一気に大量生産できるカデイ式のばんとは違い、符は常に術者自身が手ずから作成せねばならず、その作成とて一枚用意するのですらかなりの準備と時間を要する。

 そんな微妙な効力しかない符を手間隙かけて作るなど、響にとっては時間の無駄でしかない。だから響は、最も効力のある隠形術を常日頃から使っているのだ。

 なので、これは現状とれる精一杯の策にして苦肉の策であった。

 本当なら、妖異にだけ気配を察知されないような術があればいいのだが、古式降魔術は絵空事に出てくるような便利な魔法とは違う。そんな都合のいいものはない。はず。

 少なくとも、響はそんな術は知らない。正直、あるのかどうかすらも不明だ。あの師のことだから、もしかしたら教えてないだけということも十分にあり得る。なにせ師は底意地が悪いことでおなじみだ。

 どちらにせよ、今はこれでなんとか乗り切るしかない。何もしないよりは遥かにマシであることだけは確かなのだ。

 できれば自分が当番の時には出ないでくれよ、妖異。

 そんな不謹慎極まりないことを願いつつ、響は眠気と戦いながら夜警を続行するのだった。


   ▼    ▼


「昼まで寝てられるのはいいな、うん。すごくいい」

 夜警が終わったあと、大浴場で身体を洗ってから寝たのが六時頃。六時は本来起床時間で、起きて朝食に向かう生徒と入れ違いとなった。

 浴場や食堂は使用可能時間が定まっているが、今回は特例として夜警の当番だった生徒に限り、時間外の使用が認められることになっている。

 現在時刻は十二時半を過ぎた頃。響は食堂の隅で昼食、否、起きたばかりの響にとってはもはや朝食とも呼べる食事をとっていた。

 休日以外で昼の食堂を使うことなどないので、なんだか新鮮な気分だ。それに今は夜警に出たAクラスの生徒しかいないので、食堂内にいつもの喧騒けんそうはなく、閑散かんさんとしたものだった。

 みんなが学校にいる最中に寮にいるのは、なんともいえない特別感がある。これはちょっといいかもしれない。

「……つまらぬ」

 優雅さを味わっている響の横で、氷輪が不貞腐ふてくされたように尻尾をひゅんと振る。

〝羅刹〟を目にすることが目的の氷輪は、正体を暴きたくて仕方がないのだろう。森羅万象の知識を持つ神獣は、知識欲も相当のものらしい。

 響の願いが通じたわけではないだろうが、結局昨晩は〝羅刹〟が現れることはなかった。

 たまに市街に入り込んできた妖異との交戦はあったものの、降魔士が難なくあしらった。

 日頃の巡回よりも妖異の出現数が多いと降魔士が言っているのを聞いて、響は内心焦った。やはり魔除け符では効果が薄いのだ。

 とはいえ、完全に効いていないわけではなく、妖異は強い霊力を感知してやって来たが、その霊力の持ち主が誰であるかは判然としなかったようだ。妖異のすべてがあからさまに響を狙って襲いかかる、というようなことはなかった。

 こんなものでも少しは役に立つらしい。おかげで、響を怪しむ者はいなかった。

 元々、妖異は輝血に限らず霊力の高い人間を優先的に襲う傾向にある。霊力を持ち術を操る降魔士とて例外ではない。術者が複数人も固まっていれば出現する妖異が多くなるのも道理。

 降魔士はそう考えたらしく、特に不審とは思わなかったというのもあり、懸念していた事態はなんとか免れた。

 まぁそうだろう。まさか班員に輝血がいるだなんて、誰もが夢にも思わないはずだ。

 そうして、空が明るみ始めた四時になったところで予定通り夜警は終了となったのだ。

「でもこんなこといつまでも続けてたら、生活リズム狂っちゃうわよねー」

 響の対面には、当然のように梨々花がいた。響と氷輪の会話にも当然のように入ってくる。

 もはや触れる気力もなくなった響は、それを黙殺しながら食事を進めているのだった。

「肌にもよくないし、早いとこケリつけたいのに」
「降魔士の活動領域は妖と同じ夜半時だろう。降魔士を志す者が、そのようなことを気にしてどうするのだ」
「う……それはそうだけどぉ、やっぱ肌荒れは嫌じゃない。響だってそう思うでしょ?」
「考えたことない」
「まぁ、響はそうかもね……」

 嘆息した梨々花は、この機会にどうやって肌の健康をキープしているのか、ケア方法を聞いておこうかなーなどとぶつぶつ呟いている。響は心底興味がないので、黙然と食事に集中するのみ。

 特別授業の開始は十三時半からだ。この降魔科寮は学園に併設へいせつされているため、寮を出て五分で校舎に着く。

 だからまだ余裕はあり、ギリギリまでゆっくりしていられる。三十分もかけて通っていた普通科寮に比べれば断然マシだ。響が降魔科に移ってきてよかったと思ったのは、今のところこの一点のみ。

 今日は特別授業にだけ出ればいい。それも気が楽だった。夜警当番は交代なので、今夜はゆっくり休むことができる。

「にしても、ほんとにいつ出るんだろ。別のとこに出てそこで調伏ちょうぶくされちゃえばいいんだけど……」

 あーでもそれだと自分たちの評価は上がらないかー、と梨々花が難しい顔をする。

「またあたしたちで倒しちゃったりして」

 冗談めかした言葉に、氷輪がほうと片眉を吊り上げた。

随分ずいぶんと自信があるようだな」
「え、やー、そういうわけじゃないんだけど……」

 一応否定はするが、この間の雷獣事件の高揚がまだ抜けきっていないのは事実。とはいえ、さすがに調子に乗りすぎだろうか。相手は降魔士の目を掻い潜って犯行を続けているのだ。よくよく考えれば、そう簡単にいくわけもない。

 幾分かばつの悪い表情を浮かべた梨々花に、氷輪はふっと鼻を鳴らした。

「なに、それが悪いとは申しておらぬ。ある程度の自信は持っておいて然るべきだ」

 梨々花はぱちぱちと瞬きをし、こてんと首を傾けた。

「もしかして、励ましてくれてる?」
「……前言撤回が必要なようだな」
「あー待って待って! そうよね、自信は大事よね! うんうん!」

 取りつくろうように頷く梨々花に、氷輪がしらっとした視線を送る。

 なんかこのふたり、仲良くなってないか?

 と、目の前のやり取りを見て響は思ったが、まぁ別に誰が誰と仲良くしていようが困ることもないので、気にせずお茶をゆっくりと喉に流す。

「でも、今回は人数がいるし、統括会も降魔士も一緒にいるんだもん。出てもきっとなんとかなるよね」

 梨々花が努めて明るい調子で言ってくるが、氷輪も響も無言で返す。

 そう上手くことが運べばいいがな、と氷輪は尻尾を振り、響はただ単純に、頼むから面倒なことになってくれるなよと思うのみだった。


   ▼    ▼


 ああ、腹が減る。喉がかわく。

 ふいに意識が浮上した。どのくらい眠っていたのだろう。わからない。

 ここがどこかもよくわかっていなかった。どこかの山奥なのだろうと思う。

 だがもう、それすらもどうでもよかった。

 ――次はここを狙え……

 唐突に、声が脳裏に響く。次の瞬間に、情景が浮かんだ。

 それなりに大きい市街地。多くの人々が行き交う姿が見えた。

 それだけで、自分が次に向かう地がわかった。声の主はわからない。脳裏に浮かぶ情景の原理なども知らない。知る必要性を感じなかった。

 思考などとうに放棄した。自分はただ喰らうだけ。

 ああ、腹が減る。喉が渇く。

 いくら食べても、満たされるのはほんの一瞬。すぐにまた猛烈な飢餓きが感に襲われる。

 あとどのぐらい食べればいいのだろう。どうすれば、この飢えを満たすことができるのだろう。

 足りない。足りない。

 もっとだ、もっとたくさん欲しい。

 もっとたくさん、人の血肉を喰らわなければ。

 ――――……。

 ふと、脳裏に声がよぎった。先ほどの声の主ではない、別の誰かの声。

 先ほどの声は冷たく無機質で禍々まがまがしかったが、この声は優しくとてもあたたかいものだった。

 しかし、言葉が理解できない。それに、そのあたたかさが、今はひどく苦しい。

 わずらわしい。邪魔をするな。消えろ。

 首をもたげ、のそりと身体を起こす。ばさりと、折りたたんでいた翼を広げて脳裏の声を掻き消した。

 ああ、腹が減る。喉が渇く。

 翼を動かし宙に浮く。そして血肉を求め、夜闇を裂くように羽ばたいた。

 このどうしようもない飢えを、少しでも鎮めるために――。


   ▼    ▼


 夜警が開始してから早くも四日が経過した。〝羅刹〟はいまだ現れず、香弥市以外の地に出没するということもなかった。

 元より三日から五日ほどの間隔で各地を襲撃していたのだ。これは想定通りではある。

 しかし、これでそろそろかという緊張感がより濃く漂い始めた。誰もが気を張り、神経を研ぎ澄ませている。

 それに市民への負担も大きくなっていた。物理的にも精神的にも。

 いつまで震える夜を過ごさなければならないのかという不満の声も、日々ニュースで流されている。

 降魔士は今後の対策を練る傍らで、件の妖異の居所も調査を進めてはいるが、成果は一向に得られず。足取りさえも掴めてはいなかった。

 なにしろ、その妖異は風を操る。目にも止まらぬ速さで爆風とともに襲来しては、爆風とともに去って行くのだ。手がかりなどないに等しい。

 降魔士も、それ以外の一般人も、神経をすり減らして疲弊ひへいする一方。状況は依然として芳しくない。どころか、ただただ悪くなっていくだけだった。


   ▼    ▼


「なにこれ」

 夕食後の夜。寮の自室にて、響の目前の机の上に物品がひとつ置かれている。今し方、響が机に向かっていたところ、同室相手が不在なのをいいことに、ふいに氷輪がどこからか取り出して乗せたのだ。

 当然の疑問をていす響に、氷輪が即座に答える。

「装飾品のようだな」
「……それで?」

 響は半眼を式神に向ける。

「なんでこんなものを持ってきたのかって聞いてんの」
「例の一件、その被害のあった地にて見つけたのだ」

 氷輪の返答はどうにも判然としない。さらに問い詰めかけた響だったが、ふと思い止まった。

 あ、これたぶん、めんどくさいやつだ。

 これ以上深掘りするのはなんだかよくないと判断した響は、大仰おおぎょうに嘆息してみせた。

「まったくもう、こんなもの拾ってきて……。元あった場所に返してきなさい」
「我を犬畜生と同列に扱うでないわこの無礼者!」

 案の定、氷輪は牙をいた。しかし、憤然としつつも真面目な表情を作る。

「まったく……なんじが申したのであろう。せんずるよりもたほうがよいと」

 話を逸らそうと思ったのだが、失敗してしまった。

 やっぱりかぁ。

 言うんじゃなかったと、響は心底後悔した。まさか、その発言でこんなものを持ってこられることになるとは──。


   △    △


「響よ、一度占じてみてはどうだ」

 図書館外の休憩スペースで昼食中、人影がないのをいいことに氷輪がそんなことを言ってきた。

「何を」
くだんの妖異──〝羅刹〟に関することに決まっておろう。潜伏場所や、次に出現する日時などを占ずるのだ」

 ああ、そういうことかと響は納得した。納得だけはした。

「いや、やんないけど。占いとか苦手だし」
「汝は仮にも陰陽師の弟子だろう。占術ができずしてなんとする」
「いやいや、そういうのは先生の管轄だから。てか、占いとか必要ないし」

 響が面倒そうに手を振るが、氷輪は食い下がる。

「泣き言を抜かすでない。これも修行の一環と思えばよいではないか」
「なんもよかないわ。わたしは別に占いなんてできなくても問題ないんだってば」

 響の師は星を見て占うのが得意だ。これを『星読ほしよみ』という。占星術せんせいじゅつともいい、ニュースで流れる星座占いとは違って、星の動きを実際に読んでその結果未来にどういったことが起こるのかを予測するのが、陰陽道における星読みだ。

 その昔は、祭事などの行事ごとを行うのに相応しい日取りを、陰陽師の占いで事あるごとに決めていたのだという。

 この星読みの才に長けた深晴みはるの占いが外れたところを、響は見たことがない。それほどまでに正確で精度が高いのだ。というか、あの人に不得意なものあるの? なくない? 化け物でしょ。

 それはともかく、一応多少教わりはしたものの響にはどうにも肌に合わず、星読みは不得手だった。というか、占術全般が苦手だ。

 できないことはないのだが、占い結果がひどく曖昧かつ精度がイマイチなのだ。いっそやらなければ振り回されずに済むというレベルで。

 そんな響でも、かろうじてできるものはある。占いではないが。

「ていうか、占うぐらいなら、〝視た〟ほうがまだマシ」

 占いは、未来の吉凶を予知するもの。

 しかし、響ができるのはどちらかというと過去を視ることだ。いわゆる『霊視れいし』である。

 過去を視る、とは言っても、それほど大層なものではない。その〝もの〟に宿った残滓ざんしから一部情景を読み取るといった程度のことだ。

 霊視の対象とて、霊的な残滓があるものに限られるし、読み取ったものはだいたい断片的で、手がかりになるか怪しいものばかりである。あてになるかどうかも、そこまで期待できたものではなかった。

「ふむ――」

 それきり氷輪は黙り込んでしまった。何かを考えている風情だったが、ちょうど予鈴が鳴ったので、そこで話は切り上げられたのだった。


   △    △


 それがつい昨日の話。

 あれで話はおしまいだと思っていたのだが、まさかこんなものをわざわざ被災地に赴いてまで持ってくると誰が予想できようか。

 そういえば今日響が授業を受けている間、氷輪の姿がなかった。またぞろ校内でも散歩していたのかと思っていたのだが、なんと校外に出向いていたらしい。そして、何か手がかりになりそうなものを探してきたと。一体今までどこに隠し持っていたのやら。

 たしかに視たほうがまだいいとは言ったが、正直そんな気はさらさらなかった。

 だというのに、氷輪は本気にした。いや、違う。響にやる気が微塵もないことを承知した上で、こういった行動に出たのだろう。だから、霊視の対象になり得そうなものを持ってくることによって、響の逃げ道を塞ごうとしたのだ。

 氷輪がじっと響を見ている。これは響がやると言うまで動かなさそうだ。

「あーもう……やればいいんでしょ、やれば」

 諦めて嘆息交じりにそう言うと、氷輪がにやりと笑った。

「それでこそ」
「ったく、一回だけだからね」

 面倒そうに頭をかいてから、響はじっとその装飾品を見つめた。

 形状はキーホルダーのよう。バッグ等のどこかにつけるものだろうか。響の手のひらいっぱいに収まるぐらいのけっこうな大きさで、金と赤の二色構成。金が留め具や繋ぎの役割を果たしており、宝玉と思しき赤くて丸い石の下に赤いタッセルがついている。民族的な意匠は、どことなく日本らしくない。中華風というのが一番しっくりくる気がする。

 さらによく気を凝らすと、微弱だがただならぬものを感じた。氷輪も同じようなものを感じたからこそ、これを持ってきたのだろう。

 響は三角を作るように、両手の指を合わせた。その三角の枠内に対象がきちんと入り込むようにかざす。そうしてふっと息を吐くと、瞑目めいもくし神経を研ぎ澄ませた。

 邪魔をしないよう、少し離れた場所で氷輪が息を殺してその様を見守っている。

 響が行う霊視は、肉眼ではできない。心眼で見るのだ。

 呼吸はゆっくり静かに。極限まで集中力を高めると、周りの音が消え、なんの気配も感じなくなる。まるで自分以外のものが何ひとつないかのような、無の境地に沈んでいく。

 そうすると、脳裏に徐々に何かが浮かび上がってきた。

 そうして、響が視たものは――――。

「……っ……」
「響っ!」
「……うわっ!」

 突如左肩に衝撃が走り、響は椅子から転がり落ちた。

「いって……え、なに……?」

 腰をしたたかぶつけ、そこをさすりつつ響は呆然と身を起こす。何が起こったのかわかっていない様子だった。

 響が霊視をしている途中に様子がおかしくなり、これはまずいと思った氷輪が体当たりで無理やり術を中断させたのだ。

 響の呼吸は乱れている。汗も吹き出しており、まるで激しい運動でもしたかのようだった。明らかに尋常ではない。

「どうした、一体何を視たのだ」

 氷輪の問いかけに、響は今視た――否、流れ込んできたもののことを思い出す。

 身がばらばらに引き裂かれ、気が狂ってしまいそうなほどの激しい衝動。体内で暴れ回り、身体と思惟しいを苛み蝕む強烈な呪怨じゅおん

 話を聞いた氷輪の目元が険しくなる。

呪詛じゅその類か」

 たぶんと答えた響は、いぶかしげに眉をひそめた。今感じたものに、妙な感覚を抱いたのだ。

 なんだろう、この感じ。既視感だ。これ、前にどこかで――。

「あ」

 そうだ。先週、夜中に起きてしまった日。あの時に見た夢も確かこんな感じだったような。

 ……だんだん思い出してきた。そうだ、あの時の夢で、これと同じ感情が流れ込んできたのだ。

 氷輪が目で問うてくる。響は自分の感じたことを伝えた。

懇願こんがんするような、というあれか?」
「そう」

 けれど、どうして同じ感覚なのだろうか。

 うーんと首を捻っている響に、氷輪は漸う問うた。

「響よ、そういった夢はこれまで見ることはあったのか?」
「んーどうだったかなぁ……」

 響は記憶を手繰たぐり寄せる。

「あー、なんかあった気がしなくもなくもない」
「それは、汝が術者の修行を始めてからのことか」
「え? うーん、言われてみれば……そうかも?」

 ふむと頷き、氷輪は質問を続けた。

「その夢を見たあと、何か変わったことはあったか?」
「変わったこと……」

 ううんと唸りつつ、再び記憶を手繰っていた響はふるふる首を振った。

「いや、特にこれといってなかった、と思う」

 言ってすぐ、あ、いや待てよ、と響は眉間にしわを寄せた。

「そういう変な夢見たときって、なんでかすぐ先生にバレたんだよなぁ……」

 そうして、何やら不機嫌そうな顔をしながら口中で何事か呟いていた気がする。

 何かの術だったのだろう。そのせいかは知らないが、別段何か起こるということはなかった。……いや、その日の修行の時間はやたら人の身体べたべた触ってきたな、そういえば。それに、いつも以上に底意地の悪いことをされたような……うう、嫌なことまで思い出してしまった。

 響の話を聞いて、氷輪は確信を得た。

 何かの術、というのはおそらく『夢違ゆめたがえ』だろう。

 夢違えは悪夢を見たときに、その夢が現実で災いとなることを免れるようにするための禁厭まじないだ。

 響は輝血であるとともに、非常に強い見鬼けんきの才を持つ。膨大な霊力を身の内に宿す輝血だからといって、必ずしも見鬼の才もあわせ持つとは限らない。響は稀有けうな存在の輝血の中でもさらに稀有な見鬼の才をも持ち合わせる人間である。

 その逆も然りで、見鬼の才はあっても、霊力は皆無という者もいる。ここからもわかるように、見鬼の才と霊力の両方を持つ人間は、実はそう多くない。

 だから降魔士育成機関は各地方に一校ずつしかないのだ。しかも、普通科も併せ持たなければ、学校として成り立たないほどに。

 降魔士の育成が重要視されるのもさもありなんというわけだ。

 さて、強い見鬼の者は、時折思念や邪念じゃねんと同調してしまうことがある。ひどい場合はその邪念にかれ、心身に変調をきたすこともあった。

 響は術者として鍛えられていく中で、持ち前の見鬼もより洗練され、磨きがかかっていったことだろう。研ぎ澄まされた感覚が鋭敏になったがために、本人の意思に関係なく些細なものでも感知して拾ってきてしまうようにもなった。だから、余計に思念邪念が寄りつきやすくなっているのだ。

 ラジオが周囲の電波を拾って放送局を見つけるように、たまたま響の見鬼の力が妖異の思念を拾ってしまったのだろう。

 当時の深晴はそれを即看破し、響に夢違えをしてその同調から解き放った。だから響が悪夢を見たあとも、特に何も起こらなかったのだ。

 とはいえ、深晴がそうしたのは、別段弟子を心配してのことではないのだろう。ただ自分以外のものが愛弟子に手をつけるのが気に入らなかった──それだけの理由に違いない。

 響の話から察するに、深晴は弟子が嫌がるような行動をすることで、その悪夢すら塗り替えようとしていたようだ。それが何よりの証拠である。

 そう思うと、深晴の響への執着は相当のもの。愛情と呼ぶには、あまりにも歪み切っている。下手したらそこらの妖異よりもよほどたちが悪い。

 まこと、えらいものに気に入られてしまったものよ。

 いらんことまで思い出したせいでげんなりしている響に、思わず同情の念を抱く氷輪だった。

 それはともかく。

「件の妖は凄まじい思念を持っておるようだ。それを汝が無意識下に感知したのだろう。ゆえに、それが夢となって現れたのだ」
「はぁ、迷惑な話だ」

 疲れたように息を吐いた響は腰を上げ、椅子に座り直して机上の装飾品を一瞥いちべつした。

「てか、なんでこんなものにそんな思念が宿ってたんだろ?」
「おそらく、これは〝羅刹〟と関わりのあるものなのだろう。そやつの所有品やもしれぬ」

 そして、響の夢や今の霊視でわかったこと。

「どうやら此度こたびの一件、そのあやかしの意志で行われているものではないようだな」

 つまり、と氷輪の双眸そうぼうが鋭く煌めく。

「呪詛を受けた妖が、その呪縛に苛まれながら引き起こしている」

 呪詛を受けたということは、同時に呪詛を仕掛けた者がいるということも指す。その術者の目的は一体なんなのだろうか。

 そこでふと、氷輪の脳裏にひらめくものがあった。たしか、ちょうどそのあとだった。深晴から電話がかかってきたのは。

 しかもその内容。響にこう問うたという。

 解呪かいじゅ呪詛返じゅそがえしの法を覚えているか、と。

 これが偶然であるわけがない。やはり、意味があったのだ。

「響、心せよ。〝羅刹〟は、必ずや香弥の地に現れるであろう」

 深晴がわざわざそんなことを響に言ってきたぐらいだ。響に無関係、ということは絶対にないはず。

 つまり、直近でその〝羅刹〟が響のもとに現れるということではないか。

 しかも、調伏ではなく解呪や呪詛返しの法を示唆しさしたのは、その妖異を呪縛から解き放てと言っているのと同義では。

 妖異のほうも、呪縛に苦しみ苛まれているということは、身の内に巣食う呪詛から逃れたがっているということに他ならない。

 あやつ、どこまで知っておるのだ。

 見事に深晴の手のひらの上で踊らされている気がしてならない。氷輪は不愉快極まりないといった風情で鼻を鳴らした。

「はぁ? なんでそんなことがわかるわけ? 結局いつどこに現れるとかはわかんなかったのに」

 怪訝な顔をしている響は、まだそこまで結びついていないらしい。仕方がない、ヒントを出してやるか。

「呪詛といえば、汝は呪詛返しの法はさらったのか?」

 質問に対する答えではなく、突然の話題転換にぱちくりと瞬きをした響だったが、半眼になって答えた。

「……やったよ、一応」
「ほう、殊勝なことだな」

 氷輪は満足そうにうむうむと頷く。さて、これで気づくだろう。

 と、思ったが。

「そりゃね。にしても珍しいな、先生が前もってヒント出すなんて」
「あれでも教え子の身を案じておるのではないか?」
「は? 教え子の身を案じながら呪詛かけるって、それなんてサイコパス?」

 響の言葉に、はてと氷輪は小首を傾げた。なんだか話が嚙み合っていないように感じるのは、気のせいだろうか。

「汝は一体なんのことを申しておるのだ?」
「だから、わたしに呪詛をかけてくるんでしょ? 先生が」
「……なに?」

 思わず聞き返すが、響はもはや聞いていなかった。

「……さ、教わったものはひと通り復習したんだ、これでいつ来てもいいぞ……いや嘘やっぱ来ないでっていうか自分の教え子に呪詛かけるとか一体全体どういう神経してんだよ倫理観終わってるでしょ……」
「…………」

 ぶつぶつと呟いている響はどうやら、深晴が自分に呪詛を仕掛けるつもりだと信じて疑っていないようだ。だから、ここまで言っても結びつかないのだろう。

 ある意味信用があって、まるで信用がない。

 それもこれも深晴のこれまでの行いが招いたこと。しかしながら、どうせ深晴はこれすらも見越しているのだろう。むしろそう思うように仕向けている節すらある。本当にいい性格をしている。

 さも愉快だといわんばかりにほくそ笑む深晴の姿が容易に想像できてしまい、氷輪は眉根を寄せた。

 本当のことを響に教えてやってもいいのだが、ものぐさのくせに異様に生存本能の高い響のことだ。このままにしておいたほうが、本人も危機意識を持つだろうから逆にいいかもしれない。それが響のためになるというもの。

 なおもありもしない恐怖に怯えひとり百面相を繰り広げている響を、氷輪は首元を後ろ足でわしゃわしゃと掻きながら興味深そうに眺めるのだった。

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