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【陥穽篇】3.もうひとつの盟約
もうひとつの盟約 ☆肆
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意識が覚醒すると、真っ先に胸中に広がるのは激しい後悔。
胸を掻きむしりたくなるほどの自責の念に苛まれるのも束の間、その上をさらにどうしようもない飢餓感がじわじわと覆っていく。
全身を掻きむしりたくなるほどの苦痛が襲い、意識が蝕まれ始める。
そうして闇に呑まれる直前に、毎度思う。
やめろ。もうこんなことはしたくない。
誰か――――…………。
△ △
「――――ら」
遠くのほうで、誰かが呼んでいる。
「響!」
「……っ」
はっと目を開けた響の眼前に、覗き込むようにしてこちらを見下ろす氷輪の顔がある。何度か瞬きし、意識を覚醒させていくと、自分の呼吸がひどく荒くなっていることに気がついた。
身体を起こし、額に手を当てる。すると、指先が湿り気を帯びた。汗だ。全身にびっしりと汗をかいていて、寝間着のシャツが肌にへばりついている。
早鐘を打っている心臓をなだめるため、響は努めてゆっくりと呼吸をする。何度か繰り返すと、徐々に鼓動も落ち着いていく。
じっと様子を伺っていた氷輪は、響がひと息つくのを見計らって口を開いた。
「悪夢でも見たか。苦しげに呻いておったぞ」
「いや――」
響は答えかけて、ふっと声を潜めた。
室内は真っ暗だ。カーテンを引いてある窓からも差し込む明かりがない。ということはまだ夜中だということだ。
「今、何時?」
「丑三つ時といったところか」
「いや何時だよそれ……」
ぱっとわかんないっつの……とぼやき、仕方なく枕の脇に置いてあったスマホを手に取って見ると、二時半を示していた。
息を殺して耳を澄ますと、下のほうから微かに寝息が聞こえる。同室のまきなが二段になっているベッドの下で眠っているのだ。
喉が渇いた。それに汗ばんだ肌が気持ち悪い。寝間着が湿っており、このまますぐ寝られそうにはなかった。
「……ちょっと、部屋出る」
声を潜めて氷輪にそう告げると、響は口中で呪文を唱え、自身の気配を消す隠形の術を己にかけた。
それからそっと梯子に足をかけ、物音を立てないように慎重に下りていく。隠形は自身の気配を消すことによって相手からの認識をずらすという術だが、姿が消えてなくなるわけではないので、大きな音を立てたりすると意味をなさなくなる。
床に降り立ち、部屋のドアを開けて廊下に出るまで、響は神経を研ぎ澄ませていた。
ドアを閉めたところで、ふぅっと息を吐く。それから響は、薄暗く静まり返った廊下を歩き出した。
「どこへ行くつもりだ」
「水飲みに行くんだよ」
それと、ついでに少しでも汗をひかせたい。本当なら着替えたいところだが、そのせいで同室の相手を起こしかねないと思うと、実行に移すことがどうにも憚られた。
消灯時間以降の出歩きは原則禁止だ。ただし、トイレなどどうしても必要なときは迅速的に済ませることで目を瞑ってもらえることになっている。
なので、響は別に隠形をする必要はない。目的がトイレではないのだとしても、見回りがいなければトイレ横にある洗面台で水を飲むぐらいはしてもいいのだ。
だというのに、響が隠形するのはもはや癖であった。それに、どんなときでも基本的に誰の目にもとまりたくないという気持ちが根付いているがゆえに、響は己の気配を殺すのだ。
「して、なんとした」
氷輪が問うてくる。どうして響がそんな状態になったのか、氷輪はまだ知らない。
「わかんない。なんか、変な夢を見たような気がする」
夢だったのは確か。しかし、その夢の内容をよく覚えていないのだ。
「悪夢か?」
「んー……たぶん違う、と思う」
覚えてはいないが、悪夢ではなかった気がする。ただ――。
「なんか、思い、みたいなのが流れてきた、ような?」
「思いだと?」
「思いっていうか意思っていうか……よくわかんないけど」
響が語ったものは、非常に曖昧模糊としており要領を得ないものだった。しかし、氷輪は冷静に問いかけを続ける。
「如何様な思いだったのか、それすらもわからぬか?」
「うーん……」
響はなんとか思い出そうと、記憶を手繰る。
「なんて言うか、懇願してる感じっぽかったけど……だめだ、そんぐらいしか思い出せない」
「ふむ……」
不確かな言葉を受け、氷輪が考え込むようにして黙った。
話しているうちに洗面台へとたどり着く。ここは朝や夜に歯を磨く時などに使われる場所だ。校舎にも各廊下に数ヶ所設置されている。
響はそっと蛇口をひねり、椀状にした両掌に水を溜めて飲んだ。冷たい水が喉を潤し、気分をいくらかすっきりさせる。もう一口飲み、軽く顔を洗った響は持ってきたハンカチで拭った。
さて、誰かに見つからないうちに戻ろう――そう思った矢先。
腰のあたりが微かに震え、バイブ音がした。断続的に続く振動が、メール等の通知ではないことを語っている。
「彼奴か。相も変わらず唐突なことよ」
「…………」
もともと響に電話をかけてくる人間は片手で足りる程度のものだが、こんな時間に電話をかけてくる非常識極まりなく迷惑極まりない相手はひとりしかいない。
いや、よりにもよってなぜこのタイミング。
響は軽く舌打ちをすると、すぐそばにあった階段の踊り場まで素早く移動し、簡易的な人払いの結界を張った。これで話し声は外に漏れないので、人が寄ってくることもない。
非常に嫌そうな表情を浮かべながら諦めの息を吐き、暗闇をぼんやり照らす画面の通話ボタンを押した。
「……はい」
『あら響、おはよう。ずいぶんと早起きね?』
「…………」
夜中の二時過ぎに何がおはようだ、時間感覚どうなってるんだ。
こぼれそうになる文句をぐっと喉の奥に留め、響は虚空にジト目を向けた。
「途中で起きちゃっただけですよ……」
『なぁに、怖い夢でも見たの? 悪夢を祓う子守歌でも歌って寝かしつけてあげましょうか』
日をまたいだ深夜に寮生へ電話をかけてきておいてなおかつ、ふざけたことしか言ってこない人間の相手をしているこの状況こそ悪夢と言わずしてなんと言うのか。
気分が良くないせいで若干イライラしているため、響の喉元からは山のような罵詈雑言がせり上がってくる。なんとかそれを飲み下すが、そうすると素っ気ない言葉しか出てこない。
「けっこーです」
『あら、それは残念。私の可愛い生徒を思ってのことなのに』
耳元にくすくすと艶やかな笑い声が忍び漏れる。明らかに楽しんでいる様子だ。
響は後頭部をがしがし掻きながら話を促す。
「で、こんな時間になんの用ですか? 先生のほうこそ、眠れないんじゃないでしょうね」
『そうだったら、響は私の安眠抱き枕になりに来てくれる?』
「切っていいですか?」
『ふふ、つれないわね』
少しばかり反撃を試みたものの、あっさりと返り討ちに合う。まぁ、端から勝てるとは思っていなかったのだが。
『――ところで、響』
いつまでこんな埒もない話に付き合わなきゃいけないんだ。本当になんの用なんだよ……と、響が途方に暮れかけていたとき、ふいに向こうの声のトーンが変わった。
『私が教えたこと、ちゃんと覚えてるかしら』
「はい?」
出し抜けな質問に一度目を瞬かせ、怪訝そうに問い返す。
「教えたことって?」
『そうね、たとえば――解呪、呪詛返し、とか』
どうにも要領を得ない。なんでそんなことを聞いてくるんだろうと、さらに眉をひそめながらも響は答える。
「……まぁ、一応……」
『そう。はぁ、残念だわ。忘れてしまっていたのなら、それはもう手取り足取りじっくり丁寧に教え直してあげようと思ったのに』
つまらないわね、と続いた言葉に、響の背筋にゾクゾクと悪寒が走った。
「お、覚えてますから……そういうのは間に合ってるんで、本当に」
『それもそうよね。なにせこの私が教えたんだもの。――ねぇ? 響』
吐息交じりの妖艶な囁き声が耳朶を撫でる。そこに含まれたものに、危うくフラッシュバックしかけた過去のあれやこれやを、響はぶんぶんと首を振って払いのけた。あんな地獄、思い出したくもない。未来永劫記憶の奥底へ封じ込めていたい。いやさ抹消してほしい切に。
『もし何か忘れたことがあるのなら、いつでもいらっしゃい?』
「……お気遣い、どうもありがとうございます」
『ふふ、いいのよ。だってあなたは私の生徒だもの』
じゃあおやすみなさい、という言葉を最後に通話が切れた。
響はだらりと腕を下げる。そんな彼女に、呼びかける声がひとつ。
「響よ」
「……なに」
「先ほどよりひどい汗だぞ」
「…………」
心底うんざりした様相で、響は重苦しい息を吐き出した。
「して、彼奴はなんと?」
「さぁ、よくわかんない。術の使い方を覚えてるかとかどうとか言ってたけど」
「術? 如何様な術だ」
「解呪とか呪詛返しのやり方って」
なぜそのチョイスなのか。しかも、実際にはほとんど使ったことがない術だ。
解呪は呪い、もしくは対象にかけられた術式を解くもので、呪詛返しは、呪詛を仕掛けた相手にその呪詛を返して相手自身を呪うものだ。
その昔、降魔士の前身である陰陽師の活躍が全盛期の時代、貴族の覇権争いに重用されていたのがその陰陽師だ。どれだけ有能な陰陽師を抱えられるかが、貴族の立身出世の命運を左右するといっても過言ではないほど陰陽師の存在は大きかった。
当時のほとんどの貴族は専任の陰陽師を抱え、彼らに己の出世に邪魔な相手を呪術で呪うよう命じたり、逆に自分に向けられた呪詛を返すよう命じたりと、それはもうドロドロの闇社会だったそうだ。
覇権争い自体はどの時代でも横行しているものだが、現代ではさすがに呪い呪われというようなことはもうない。そういった呪術は古式降魔術に分類されており、その古式は今やまともに扱える術者がいないほど廃れてしまっている。対妖異に特化しているカデイ式は、呪いなどとは縁遠い。
そもそも、呪い系統の術はとうの昔に禁忌指定されている。使用者には、ライセンス未取得者が降魔術を扱うよりも重い罰則が科せられるようになっているのだ。
そういった背景があるので、この現代において呪詛のような呪術が用いられることは皆無に等しい。解呪はともかく、妖異と戦うだけならば呪詛など必要性は皆無に等しい。
だというのに、響はなぜか隠形や調伏法以外の術も師から教え込まれていた。
「解呪、呪詛返し……」
氷輪は何やら思案する風情で黙り込んだ。そんな氷輪を気にもせず、響は渋い顔で今は真っ暗なスマホの画面に目を落とす。
「てか、なんで起きてること知ってるんだよ……」
響の師である土御門深晴は、なんでもお見通しだ。今回の通話も狙ったようなタイミングだった。深晴は響が起きていることを知っていて、電話をかけてきたのだ。
しかしながら、その内容は意味不明。どうしても今言わなきゃいけないことだったのかと、脳裏で疑問符が乱舞している。
ただ単にからかいたいがために通話をしてきたとしか思えないが、なんと思おうが響に師の思惑を推し量ることなどできるはずもなかった。あの人は、何を考えているのか絶対他人に掴ませないのだ。
「はぁ、せっかくさっぱりしたのにもっかい洗わなきゃじゃん、もー……」
がくりとうなだれた響は、氷輪に目を向けた。
「氷輪、周りに誰かいる?」
思考の淵から引き戻された氷輪は、結界の外に顔だけ出し、周囲の様子を伺った。
「否、人の気配はせぬ」
「そ」
氷輪の返答を受けて響は結界を解くと、再び水道に向かった。さっと顔を洗い、湿ったハンカチで首元も拭うと、来た道を戻り始める。
「ときに、響よ」
響の頭上に乗っかった氷輪が、響に話しかけた。
「汝はその解呪、呪詛返しの法をまこと覚えておるのか?」
「う……」
響は言葉を詰める。
師には思わずああ返したが、実のところ記憶は朧気であった。普段使わない、というよりほとんど使ったことがないような術を、今この場でしっかり思い出せるかと聞かれたら、自信を持って頷くことはできない。
「ならば、さらっておいたほうがよいやもしれぬぞ」
「なんでさ」
「考えてもみよ。無意味なことだけを言ってくるような人間なのか、汝の師は」
「それは……」
「もしや、前触れもなく突如汝のもとに現れ、術を披露して見せよなどと申す気やもしれぬ」
否定できない。それどころか、十分にあり得る。
もしできなければ、どんな目に合うか。想像するだけで怖気が走る。
いやでも待てよ、解呪ならともかく、呪詛返しは呪い限定の術で、呪詛を受けた対象がなければ使えない。そんな術をどう披露しろというのだろう。さすがに無茶振りがすぎるのではないだろうか。
首を捻った響だったが、ふいにある可能性が脳裏をよぎった。
呪詛返しはその対象、もしくは己自身に術による呪いの類がかかった状態でなければ効果をなさないもの。
ということは、まさか――。
響の顔が一気に青ざめる。やりかねない、あの師なら。いやさ、あの悪魔なら。
突然顔色を変えた響に気づき、氷輪は首を傾げた。
「響? どうしたのだ」
「…………わたし、死ぬかもしれない」
「は?」
怪訝な氷輪に、今脳裏によぎった考えを話す。それを聞いた氷輪が呆れて首を振った。
「それは、いくらなんでも考えすぎではないか?」
「氷輪は知らないんだ、あの人の恐ろしさを……」
だからそんなことが言えるんだ、と響が頭を抱えている。さすがの氷輪も憐みの情をほんの少しばかり抱いたので、尻尾で震える主の肩を軽く叩いた。
「とにもかくにも、しかと復習しておくが吉、ということであろう」
「……はぁー、やるしかないか」
面倒だが、師の玩具になるよりはマシだ。
さぁて、どうやったかなーと思い悩み始める響の頭上で、氷輪もまた思考に耽る。
さすがの深晴でも、解呪や呪詛返しの術をやってみせろなどと、言ってくることはないだろう。ましてや、そんなことのために響へ呪詛をかけるつもりなど、いくらなんでもないはずだ。と思いたい。
しかし、だとすれば一体なんのためにそんなことを言い出したのか。わざわざこんな時間に電話をかけてくるほどなのだから、まったくの無意味――ということはないはずだとは思っている。
そうと仮定すれば、理由はひとつしかない。
何かを〝視た〟のだ。
土御門深晴は代々続く陰陽師家系の末裔。それも、大昔に名を馳せ、今も語り続けられている伝説の大陰陽師、安倍晴明を祖とする正統な血族『土御門』家、その現当主だ。
陰陽師は魑魅魍魎の調伏以外に、占術なども専門としていた官職。偉大な祖の血を受け継ぐ深晴もまた、占術を得意としている。特に星を読んでその人の一生を占じる腕に長け、その読みは正確無比とも言えるほど。
ということは、深晴はこれから起こることを予期し、そのために響に忠告したのではないだろうか。いずれ……否、近いうちにその術を使うときが来るのだと。
それは、もしかしたら響が見た夢に関係していたりもするのかもしれない。
ここまですべて氷輪の憶測でしかないが、大方間違ってはいないという確信があった。
なんだか胸のあたりが嫌に騒ぐ。
響にああ言ったのは、そのほうが本人もやる気になるだろう、と考えてのことだった。結果、本人にいらぬ不安を抱かせてしまったが、一応やる気は見せたので良しとしよう。
なんだか、それすらも向こうの思惑通りな気がしてならない。もう少しわかりやすく告げてやればいいものを、わざわざあんな回りくどく、一見無意味なやり取りだと思わせるような形にするとは。癪に障るが、そばに氷輪がいることがわかっているからこそ、あえてあんな言い方をしたのだろう。
そのせいで響は勘違いして、あらぬ方向へと思考を飛ばしてしまったが、どうせそれすらも計算の内で楽しんでいるに違いない。本当にいい性格をしている。
氷輪は不機嫌そうに鼻を鳴らすと、記憶を掘り起こそうと唸っている響の背を尻尾でぺしっと叩き、活を入れるのだった。
「おはよー……って、どしたの、響。なんかすんごい疲れたような顔してるけど」
「別に……」
寮の食堂にて、人の顔を見るなり目を丸くした梨々花にぶっきらぼうに答え、響はもそもそと朝食を食べ進める。
昨晩、響は自室に戻ったあと泥のように眠った。師からの電話でどっと疲れが出たせいで、ベッドに上がった途端、倒れるようにして意識を手放したのだ。
それから朝の起床時間までぐっすり眠ることができたのだが、絶対に〝おかげ〟とは思ってやらない。結果的に助かったのだとしても、いらない心労を負わされたほうが印象に強いので〝せい〟だと言い張る。
現に、ぐっすり眠れはしたが、どういうわけか疲労は残ってしまっているのだから。
「てか、勝手に座らないでくんない……」
当たり前のように対面に席を取った梨々花に、響が怪訝な顔で不満を漏らす。
「いいじゃない、減るもんじゃないし」
しかし、梨々花はまったく気にした様子もなく、そのまま朝食を食べ始めた。
勝手なクラスメートにこれ以上何か言う気力も起こらず、響は深々と息を吐いた。
今度から食堂でも隠形するしかないか……などと画策する響に、梨々花がふいに話しかけた。
「ね、響は何やるか決めた?」
脈絡も主語も一切ない出し抜けな問いかけに、響は白米を口に運びながら眉根を寄せた。
「はい? 何が?」
「学園祭のクラスの出し物よ。今日ホームルームで決めるって言ってたじゃない」
そうだっただろうか。言われてみれば、そんな話があったようななかったような。
「もしかして、聞いてなかったの?」
「…………」
図星をつかれ、響は黙々と朝食を食べ進めることで誤魔化す。何も誤魔化せてはいない。
そんな響を梨々花は呆れたように見ていたが、すぐに仕切り直す。
「まぁいいわ。で、響は何やりたい?」
「何って、別になんでもいい」
いずれにしても響には関係なかった。そういった行事ごとを楽しむ質ではないし、積極的に参加するつもりも端からない。
小中学生時代もそうだった。学校には行事ごとがつきものだが、響はひっそりと集団に埋もれるように過ごしていた。
体育祭や授業の一環による遠出などなど、そのすべてを楽しんだりすることなくただ淡々と最低限決められたものだけこなし、修学旅行に関しては休んでいる。
空気のごとく己の気配を絶ち、面倒ごとを押しつけられぬよう立ち回った。
まるで自分などいないかのように。もう、そうすることが当たり前になっていた。
だって、そうしないと日常を過ごせなかったから。
だから、今回もそう。これまでと同様、適当に淡々と最低限にやり過ごす。それだけだ。
響の張り合いのない反応に、梨々花がえーつまんないわねーと少し口を尖らせた。
「あたしはね、喫茶店やりたいなって。ベタだけど、やっぱ学園祭と言えばこれって感じするでしょ?」
「知らないよ……」
聞いてないし、どうでもいいし。ていうか、話しかけてこないでほしい。
そんな心の声が表情に滲み出ているのを見てとった氷輪が、気づかれぬようそっと目を細めた。
本当に億劫ならばいちいち相槌など打たず、無視すればいいものを。
面倒がっているくせにどこか律儀な響を、氷輪は面白いものでも見るかのように眺めるのだった。
そうして談笑、といっても梨々花がほぼ一方的に話しているだけの会話をしていると、ふいに横合いから声がかかった。
「――少しいいかしら」
二人が目を向けた先には、厳かな制服を身にまとった女子生徒がいた。
ナポレオンカラーの襟に、肩にエポーレットがついたブレザー。インバーテッドプリーツのスカートのひだの内側からは、品のある藍色が覗いていた。
限られた者にしか着用を許されていない、降魔科の特注制服。軍服のようなこのデザインの制服を着こなす人物は、この学園にひとりしかいない。
「と、統括会長!?」
驚いて思わず立ち上がろうとした梨々花を、玲子がそっと制す。
「そのままで。ごめんなさいね、食事中に」
「い、いえ、そんな……! ど、どうかされましたか?」
「二人に――正確には、篁くんを含めたあなたたち三人にお話があります。今日の昼休み、統括会室に来ていただけますか」
思わず響と梨々花は顔を見合わせた。
「ええと……あたしたち、何かしてしまったのでしょうか?」
梨々花が不安そうに問うと、玲子は首を振った。
「いいえ、そうではありません。けれど、重要なお話です」
そう言った玲子はいつものように凛とはしているが、その面持ちは幾分か固い。
「わ、わかりました」
梨々花が頷く。統括会長からの指令だ。自分たちが現在受けている罰則のこともあり、拒むことなどできるはずもなかった。
響も面倒だなと思いながらも、不承不承に頷く。
「ありがとう。篁くんには、副会長から伝えてもらっています」
ではまた昼休みに、と言い残し、玲子が颯爽と去って行く。
その姿が消えたところで、梨々花がガチガチに固まっていた肩の力を一気に抜いた。
「び、びっくりしたぁ……まさか、会長がこんな時間に食堂にいるなんて」
玲子を筆頭に、統括会メンバーが他の降魔科生たちが集まる時間帯の食堂にいることは稀だ。彼らは、朝はだいぶ早い時間帯に朝食を取り、晩は逆に遅い時間帯に取ることが多い。
朝も晩も食事の時間帯は定められているが、統括会のメンバーだけは特例で時間外の食事が認められている。
統括会は降魔科全体のまとめ役として、様々な仕事を担っているがゆえに多忙だ。
それと、己の鍛錬に時間を割いていることもある。授業以外での学園施設の使用は申請が必要だが、統括会メンバーだけに許された特権でもあった。
役割で多忙だからこそ、そういったところで時間を作り、自分を磨いているのだ。
だから、統括会メンバーがこの時間帯に食堂に姿を現すことは、相当に珍しいことだった。
「でも、こんなとこで朝から会長に会えたのは、なんかラッキーだわ」
本当、いつ見ても凛々しくて素敵、と梨々花が頬に両手を添えてうっとりとしたような表情を浮かべている。
玲子はその実力と容姿から、男女問わず人気が高い。学園きっての才媛であり、まさに高嶺の花。男子からはいわずもがな、自分もあんな風になれたら、と女子間でも憧れている生徒はかなり多い。
その例に漏れず、梨々花も玲子に対して憧れの気持ちを抱いていた。しばし嬉しさを噛み締めていた梨々花だったが、ふと首を捻った。
「にしても、重要なお話ってなんだろ……。会長のあの雰囲気、なんかただならぬって感じだったけど」
「さぁね」
響には毛ほどの興味もなかった。とりあえず、面倒ごとでなければいいとだけ思っている。
「あたしたち三人にってことは、今やってる統括会の手伝いのことかしら。何か、大事なことを任せてくれるとか?」
味噌汁をすすっていた響は思いっきり眉をしかめる。面倒ごとは嫌だと思った矢先にこれだ。本当に勘弁してほしい。
対する梨々花は何やら目を輝かせている。それを見て、それまで黙っていた氷輪が口を開いた。
「嬉しそうだな、小娘」
「だって間近で統括会の先輩方が仕事しているところを見られるのよ? こんなチャンスめったにないんだから!」
統括会には、メンバーだけに許された特注の制服、降魔士への斡旋など、統括会には魅力的な特典が多い。そのため、降魔科生の誰もが統括会入りを目指して努力している。
だから罰則とはいえ、統括会の働きを肌で感じ取れる今のこの状態は、統括会入りを目指す者にとって絶好の機会なのであった。
梨々花と竜之介もその例に漏れず、統括会入りを目指している。統括会がどんな仕事をしているのかを見ていれば、自分がそこに入るために何が必要なのかを勉強できると、二人は現状を前向きに捉えていた。
ふむと頷いた氷輪は、ついと響に視線を滑らせた。
「だそうだぞ、響」
「あっそ」
極度の面倒くさがりの響には、梨々花たちの考えは一ミリも理解できない。むしろ、そんな大変な統括会に入るなど、こちらから願い下げである。一般生徒だったらやらなくてもいいようなことをわざわざやりたがるだなんて、酔狂としか思えなかった。
だいぶ失礼なことを思いつつ、響はひたすら朝食を食べ進める。
そんなことよりも、響はさっさとこの場を離れたかった。玲子の登場により、さきほどから食堂中の視線がこちらに向いてしまっている。
めったに姿を見ない統括会メンバー、それもそのトップたる玲子が食堂にいた上に、一年生に話しかけたのだ。降魔科生たちにはそれだけで注目するには十分だった。
響にはそれが大変鬱陶しく、居心地が悪くて仕方がない。
そうして流すように残りを一気に食べ終えた響は、ごちそうさまでしたと手を合わせてからすっと立ち上がった。その頭上にすかさず氷輪が乗っかる。
「って、ちょっと、響早すぎじゃない!? あたしまだなんだけど!」
「だから知らないって」
すげない態度で一蹴し、梨々花を置いてトレーを返却口に持って行ってから、響は食堂を後にした。
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