ものぐさ降魔士奇譚

玖凪 由

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【陥穽篇】3.もうひとつの盟約

もうひとつの盟約 ☆参

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 校内に鳴り響く予鈴が、授業開始五分前を告げた。教室外にいた者は移動を、教室にいた者は広げていたものや動かしていた机を片付け、昼休みを満喫まんきつしていた生徒たちが次の授業に備えて準備を始める。

 図書館へと続く階段を降りきり、廊下を行きう生徒たちに混じって、ゆらも教室に向かって歩き始める。

 響は常日頃から昼休みは外で過ごしている。校舎裏に人通りが皆無な場所があり、そこで氷輪ひのわとともに昼食を取り、次の授業まで時間をつぶしているのだ。

 これは普通科にいた時から変わらない。響にとって校内で唯一の憩いの場所と言っても過言ではないほど、そこは落ち着ける場所だった。

 ただ、雨の日が続くこの時期には適していない。吹きさらしなので当然雨で濡れることになるからだ。

 雨は朝から変わらず降り続いている。雨脚は今朝方よりかは弱まっているものの、ぱらぱらと降る雨の中で昼食を取る根性はさすがの響にもない。

 だから、こういう天気の悪い日は、仕方なく第二候補としての図書館に行くことにしていた。

 嘉神かがみ学園の図書館の外にはちょっとした休憩スペースがあり、テーブルが数個置かれている。そこは飲食可能な場所なので、昼食をとることができた。

 そこも図書館の周りということもあって静かで、ひとりの時間を過ごすのには申し分ない場所である。

 しかし、そこは使う生徒も少なからずおり、また図書館を利用すべく通っていく生徒もいるため、完全には落ち着けない。いくら響が他人への関心が淡泊たんぱくであるとはいっても、周りに人がいる状態でリラックスすることは難しかった。氷輪とも気軽に会話もできない。

 まぁ、別にそれはさほど問題ではない。あるじと式神だからといって、一緒にいればずっと話しているというわけでもないのだ。お互い口数が多いほうではないし、話さないときはまったく話さない。その状態がつらいかつらくないかの差である。

 とにもかくにも、こういった理由で響は第二候補を好んで使うことはなかった。やはり誰の目もないところが一番落ち着くのだ。

 目的の場所に辿り着いた響は、廊下にある自分のロッカーからこのあと必要な教材を取り出した。

 そして、教室に入る。その教室の入り口には電光掲示板のようなものが設置されており、『Aクラス』と表示されていた。

 これは昼休み後の授業が始まる予鈴のときに切り替わる。今はAクラスとなっているが、少し前までは三年生の教室であることを示していたはずだ。

 昼休みを終えた午後からは、降魔科ごうまかは専門の特別授業が行われる。

 授業内容は大きく分けて二つ。降魔士になるために必要な知識を教わる座学と、対妖異戦を想定した術を実際に使っての実技がある。

 実技は修練場にて行われるが、座学はこの教室が使われるのである。

 響が教室に入ると、Aクラスの降魔科生の大半がすでに自分の席についていた。本鈴まで二分を切っているのだからこんなものだろう。中にはもう教材を開いて予習している熱心な者もいる。

 Aクラスは、総勢四十名にも満たない人数で構成されている。一般授業のクラスはだいたい四十人で均等にクラス分けされているが、この特別授業のクラス分けは特殊だ。

 Aクラスはひとつしかない。それに対し、B以下のクラスは教室が複数ある。

 Bは二クラス、CとDは三クラスずつあるのだ。そして、このクラス構成も三学年混合と特殊な仕様となっていた。上のクラスほど上級生が多いのだが、その中に下級生も普通に混じっている。

 このように目に見えて実力の差がわかるほど、降魔科は完全実力主義で厳しいところであった。

 ただし、このクラスの数は変動する。

 というのも、降魔科には昇格システムというものがあり、年に二回行われる実力検定で基準ラインに達する判定がなされた場合、クラスを繰り上げることができるのだ。

 例えばCクラスの生徒が実力検定に合格すれば、Bクラスに所属できるようになるといった具合だ。

 クラスが上のほうが降魔士になりやすい。だからAクラス以下の降魔科生はこの検定に合格するために必死に自己研鑽けんさんを積んでいる。

 最初にクラスが下のほうに振り分けられたからといって、それで終わりではない。いくらでも上位クラスに入るチャンスはあるのだ。

 完全実力主義だからこそ、己を磨き続けステータスを上げていけば、実力でい上がることが可能なのである。

 そしてこのシステムによって、ある程度の人数を超すとクラスが減ったり増えたりする。主にDとBクラスに関係があり、毎年三学期にはDクラスが減り、Bクラスが増えているといったケースがほとんどだ。

 では、Aクラスに入ればそれでいいのかといえば、そういうわけではない。昇格があるということは、もちろん降格もある。

 降格の例はあまりないが、授業でかんばしい結果が残せなかったり、規則違反を繰り返したりなどした場合は、降格ないし普通科への転科、最悪退学もあり得るのだ。

 だからAクラスの生徒も自分の実力に胡坐あぐらをかくことなく、日々精進している。降格しないようにもそうだが、より高みの『統括会』に入るため。そして、立派な降魔士になるために。

 教室後方のドアから入り、自席に向かう響に気づいた何人かの生徒が顔をゆがめる。どれも響を嫌悪けんおするような表情だ。

 それを気にもせず、響は自席に着く。すると、響のほど近い席の生徒たちがぼそぼそと話し出した。

「……あいつ、よくこのAクラスにいられるよな」
「……珍しい術が使えるってだけでここに入れたんでしょ?」
「……お膳立ぜんだてしてもらった功績で、いい気にならないでほしいよな」

 小声ではあるが、わざと聞こえるように言っている。

 実際響の耳にも届いていたが、それすらも一切関心を寄せずに教材と筆箱を机に準備していた。

「――――」

 かたわらにいた氷輪にも当然それは聞こえており、我の存在にすら気づかぬ程度の実力で大層なことを抜かしよるわ、と露骨に不機嫌そうな表情で尻尾をぱたりと振る。

 雷獣らいじゅう襲来の一件での響たちの活躍は、降魔科中に広がっていた。

 梨々花りりか竜之介りゅうのすけの二人は主に同学年の降魔科生に絶賛されていたが、響にだけは誰ひとりとしてそのことで話しかけてくる者はいなかった。

 響も雷獣調伏の件に関わっていたことを知っているが、それをわざわざ称賛しようなどという気にはならない。どうせ梨々花と竜之介が上手くサポートしたおかげで、響もそれなりに貢献できただけのことだろうという認識だった。

 響が術をかけやすいようにと、二人が動いてくれたのは事実だ。しかし響がいなければ、二人も雷獣を倒すことはできなかった。

 あの戦闘は、三人で掴み取った勝利なのだ。

 一連の流れは、他の降魔科生たちも聞いているはずだ。しかし、それを知ってもなお、周囲は響に対して半信半疑であった。

 それだけ、響へのヘイトは根深い。結局、この一件を通しても、響のことを認める降魔科生はほとんどいなかった。

 ゆえに、たびたびこうやって響への陰口が叩かれていたりする。本人がまったく堪えていないというのも、他の生徒には鼻持ちならないといったところなのだろう。

 そんな中、響の力を目の当たりにした梨々花と竜之介だけは、多少なりとも態度を改めている。梨々花は元々そこまで当たりは強くなかったが、竜之介は以前のように言いがかりをつけてくることがなくなった。

 ただ侮蔑ぶべつの色こそなくなりはしたが、響に並々ならぬ闘志を燃やしている。他の降魔科生とは違い、竜之介のそれは響の実力を認めた上での対抗心であるため、けっして悪いことではないのだが。

 と、前方のドアから、人影が教室に入ってきた。すると、おしゃべりに興じていた生徒が一斉に口をつぐむ。

 三十代前半ぐらいの若い男で、髪は短く切りそろえた焦げ茶。背は高めで、面差しには柔らかみがあり、優男やさおとこ風の外見をしている。それ以外はあまりこれといった特徴がないこの男性こそAクラスの担任、鵜飼うかい兼人けんとだった。

 鵜飼が教卓に手荷物を置くとほぼ同時に、本鈴が鳴り響く。

「さて、授業を始めるぞ」

 チャイムが鳴り止んだタイミングで鵜飼はそう切り出し、授業が開始する。

「今日は、まず妖異の種類について復習していく」

 鵜飼は話しながら、黒板にチョークを走らせていく。

「妖異には人間を襲うものと、そうでないものがいる」

 人を食べ、より強い力を得ることに貪欲な妖異が、食人種の妖異。

 それ以外の妖異は、妖異と同じ括りにされがちだが、神獣や霊獣などと呼ばれる類のものたちだ。

「我々は、主にこの食人種のことを妖異と指して呼び、調伏対象としている」

 説明しながら、鵜飼が黒板につらつらと書き込んでいく。

「で、この食人種の妖異は人間を襲うが、霊力を持っている者を優先して捕食する傾向にある」

 より強くより高い霊力の持ち主ほど、取り込んだときに妖異は強い力を手に入れられるからだ。

「その中で、妖異が何よりも優先し、それこそ喉から手が出るほど血肉を欲する人間がいる。それが――輝血かがちだ」
「…………」

 響の胸の奥が一瞬ざわっとする。

 鵜飼の視線は響の目と合うことなく、話が進められていく。

「輝血は知っての通り、膨大な霊力を有する人間を指す。きみたち降魔科生の誰よりもその霊力量は多い」

 言った直後に、鵜飼は頭を振った。

「いや、多いなんてレベルじゃないな。どんなに優れた降魔士でも、霊力の総量は輝血に遠く及ばない。桁違いと言ってもいい。かつ、その霊力の性質も違う。清冽で純度が極めて高い」

 ここまではいいなと言って、鵜飼は続ける。

「そんな輝血は、妖異にとってはまさに極上の餌だ。もし妖異が輝血を食らえば、一晩で街ひとつを壊滅させられるほどの膨大な力を得ることになる」

 そこで、鵜飼は教室中を見回した。

「輝血について知っていることを上げてもらおうか。不破ふわ、どうだ」
「はい」

 指名されて立ち上がったのは、短くり上げられた髪をした男子生徒だった。長身でがっしりとした体格をしており、チャイナ服のような詰襟つめえりのブレザーをかっちり着込んでいる。

 この特注制服の着用している彼は、統括会副会長の不破要一よういちだ。

「輝血は血筋などの法則性は一切なく、ふいに生まれる。非常に稀有けうな存在で、日本全国で五十人もいないとされています」
「そのとおりだ」

 輝血は生まれ持った性質だ。先天性のもので途中から輝血になるということは絶対にない。

 望んで得られるものでもなく。

 望んでもいないのに勝手に付与される。

 それが、輝血だ。

「保持する霊力の量が違うというだけで、それ以外は他の人間と変わりない。だから人間側には、その人が輝血であるかどうかは、ぱっと見では判断がつかないんだ。しかし、妖異にはそれがわかる」

 妖異にとって、輝血はひと際存在感を放っているように感じられるのだという。だから視界に入らずとも、ある程度遠隔えんかくからでも輝血の存在を感知できるほどに、輝血の霊力は絶大なのである。

 ちなみに、霊力を持つ者を優先して襲うということは、当然その対象に降魔士も入っている。しかし降魔士がその霊力を使って放つ術は妖異に効果てきめん。だから、一定以上知能のある妖異は迂闊うかつに近寄らないのだ。

「膨大な霊力を持つがゆえに、輝血は生まれながらにして妖異からその身を狙われる。それは生きている間ずっと付きまとう輝血の業だ」

 その時、一年生が手を挙げた。

「霊力の量が多いんですよね? だったら、降魔士になったほうがいいんじゃないですか?」
「お、いいところに着目したな」

 鵜飼は頷いた。

「たしかに、そんな輝血を術者にできれば、降魔士にとっても多大な戦力となることだろう」

 霊力とは、端的に言えば術者が術を発動する際に消費する力だ。術を発動するには霊力だけでなく、体力と精神力も必要となるのだが、霊力がなければまず術を放つことができない。

 霊力量にも個人差があり、持つ霊力が多ければ多いほど、術者としてはかなり有利であることに間違いはない。

 しかし、と鵜飼は真剣な表情を作った。

「昔――かなり昔だ、降魔士がまだ陰陽師おんみょうじと呼ばれていた時代。輝血でありながら術者になった者が何人かいた。しかし、どの術者も大成たいせいすることはなかった」

 なぜなら、戦闘の最中に妖異に食われ、命を落としたからだ。

 質問した一年生が固唾かたずを飲み込む。それを見ながら、鵜飼は続けた。

「そして、輝血を食らった妖異がそのあとどうなったかは、このページにある通りだ」

 鵜飼が示した教科書のページには、現在までの間にあった妖異によって引き起こされた大きな災害がいくつも載っていた。

 気候を操ったり地形を変動させたりといった天災並の強大な妖力を持った妖異が引き起こした災害の中に混じり、輝血を食らった妖異によってもたらされた事件があった。

 天災級の妖異による被害も相当なものだが、輝血の力を得た妖異が起こした事件は、その比ではなかった。

 当時名を馳せていた術者総がかりで、あの手この手を尽くしてどうにか輝血を食らった妖異を調伏することに成功した。

 しかし、被害は深刻だった。大小様々な街や村がいくつも壊滅し、死傷者も計り知れないほど出たのだという。市井しせいの者たちはもちろん、術者も相当の数の人間が犠牲となった。

 被災地はどこも一面血の海となっていたようで、文字通りの地獄絵図だったらしい。

 輝血を取り込んだ妖異が残した爪痕つめあとは、あまりにも大きすぎたのだ。

「こういった理由で、輝血を術者とすることは危険とされた」

 それからもうひとつ、と鵜飼は続ける。

「輝血は古式降魔術――かつては陰陽術と呼ばれていた術式ならともかく、カデイ式を使うことができないんだ」

 カデイ式降魔術は、陰陽術を改良して構築された新しい降魔術式だった。

 陰陽術は陰陽道の思想から構築された呪術形態で、神道や仏教などを取り入れている。つまり神仏の聖なる力を借り、悪しきものを祓う呪術である。

 非常に強力な術式だが、神仏の力の一端を使うためには、呪文の詠唱や結印けついんといった正しい所作を必要とした。それをおこたると、術が正常に発動しないどころか、自分に跳ね返ってくる恐れもあったのだ。

 そこで近年になって新たに登場したのが、現代降魔術たる〝カデイ式降魔術〟だ。

 カデイ式は、術式を記憶させておくことができる物質、〝霊晶れいしょう〟を組み込んだ術具を使う。霊晶を加工して作られた術具に霊力を流し、始動語としての言霊を放てば術が発動するという仕組みだ。

 始動語と言っても、術の効果を示す任意の言葉を唱えればいいだけ。例えば、爆発させる系統の術であれば、〝爆〟と一言唱える。それだけで術が簡単に放てるのだ。この始動語も、誤作動防止のためのセイフティー代わりのようなもので、本来であればそんなものがなくとも術を放つことができる。

 これにより、いちいち長い呪文を唱えたり、結印をしたりといった所作をとる必要がなくなったのだ。それにひとつの術に消費する霊力も格段に減った。術の発動がより簡略化そして高速化され、強力な反面、相応のリスクも伴う陰陽術よりもはるかに安全性も高まった。

 降魔科生が制服の右肩付近につけている校章。あれは霊晶が組み込まれた『適霊機てきれいき』というもので、霊力を術者自身に最適になるよう整え、記憶させた術を速やかに発動させるという性能が備わっている。これによって、降魔科生は降魔術を行使できるのだ。

 欠点は、術の威力が陰陽術に比べて多少落ちてしまうことと、霊晶が組み込まれた術具でないと術が発動できないという点が挙げられるが、それを鑑みたとしても、やはりカデイ式降魔術のほうが利点が多い。

 様々な観点から見て陰陽術をしのぐレベルにまで達したカデイ式は瞬く間に浸透していき、その結果、陰陽術はどんどん使われなくなり廃退はいたいしていった。現在はカデイ式が主流で、降魔士育成機関でも教えられているのもカデイ式である。

 ゆえに今やほとんど使われなくなった陰陽術は過去のものとされ、古式降魔術と呼ぶのが一般的となっていた。

「なぜ輝血がカデイ式を使えないのか。それはカデイ式術具に輝血の霊力を流すと、霊力の質の差から、術具が輝血の霊力に耐え切れずにオーバーヒートを起こしてしまうからだ」

 カデイ式を構築した段階で、輝血にも実験を行った。近年になって、輝血をなんとかして術者にできないかという動きが再びあったのだそうだ。輝血ほどの霊力保持者をただ保護しておくだけではもったいないのではないか、と。

 そしてその結果、前述の通りのことが起き、カデイ式では輝血は術者になり得ないことが発覚したのだ。

「カデイ式の登場はおよそ百五十年前。今じゃ古式を教えられる者もほとんどいない。諦めた研究者たちは、やはり輝血は保護することが第一となり、降魔士の重要な役割のひとつになっている」
「――――……」

 輝血の保護、ね。

 響の胸の奥に、暗い何かがよどむ。

 それは授業が終わるまで、ずっとそこに居座り続けた。





 鳴り渡ったチャイムを合図に、授業が終了する。

「次は実技だ。みんな遅れないように修練場に移動するように」

 そう言って、鵜飼が教室を出ていく。Aクラスの生徒たちが各々準備を始める。

 降魔科専用の特別授業は二限あり、一限六十分の一般授業に対し特別授業は九十分もある。

 授業編成は座学が多め。実技は基本的に修練場で行われるため、他クラスとの兼ね合いで使える日取りが決まっている。Aクラスはないが、他クラスは時たま場内を半分に分けて二クラス同時に使うこともあるのだとか。

 響は伸びをして徐々に教室を出ていくクラスメートたちを横目に、ゆっくり準備をする。

「人間はまこと勝手な生き物よな。己に害をなさないからと、我のような存在を瑞獣ずいじゅうなどと呼び、さも人間の味方かのように扱いおって」

 人間どもの主観でしかないではないか。短絡的にもほどがある。

 と、氷輪が不満そうにぼやいている。先ほどの授業で気に入らないところがあったらしい。

「そもそも我らが人間に害をなさないのは、ひとえに興味がないというだけのこと。取るに足らぬ存在を気にかける必要がどこにあるというのだ」
「…………」
「完璧かつ至高の存在たる我からすれば、不完全で下劣な人間という種族のほうがよほど異形であるというに」
「…………」

 何やら憤然ふんぜんとしている氷輪に、響は沈黙をもって返す。周りに人がいるため返事ができないからだ。いや、もし誰もいなかったとしても、特に反応はしなかったかもしれない。

 人々が神獣だの瑞獣だのとあがめる白澤はくたくの本音がこれである。他の人間が知ったらどう思うのだろう。

 とは思ったものの、響も別段気になるわけではなく、どうでもいいようなことだったので深くは考えない。

「今日さー、輝血の話あったじゃん?」

 あー実技めんどくせーと気だるげに教科書を片していた響の耳に、ふいに言葉が飛び込んできた。

「ずっと守ってもらえるんだよなー。降魔士が闘っている間、自分は安全地帯でぬくぬくとしてられんだし。いいご身分だぜ」
「えー? でも輝血ってずっと結界内に閉じこもってちゃいけなくて、自由に外出できないんだろ? 俺はやだぜ、そんなの」
「あーそれはたしかに俺も勘弁だわ」
「すんごい霊力持ってんのに術者にもなれねーし、狙ってくる妖異にびくびくしながら過ごさなきゃいけないなんて」

 なんつーか、かわいそー。

 話している生徒たちは、授業内容を振り返っているだけなのだろう。五限開始間際の時とは違い、別に響に聞こえることを想定して言っているわけではない。

 そのうち、彼らも談笑を続けながら教室を出ていった。

「…………」

 何を言われても平然としていた響の面持ちに、今は微かな変化がある。それに気づかぬ振りをし、氷輪が響を促した。

「――なんじが最後だ。遅れるぞ」
「わかってるっての」

 妖異から狙われる輝血は降魔士に守ってもらえる。

 そうなのだろう。――普通は。

 しかし、生まれながらにして当たり前の普通が否応なく剥奪はくだつされているのにも関わらず、さらにその普通でさえ享受きょうじゅできない者もいることを響は知っている。響だけが、知っている。

 そして、降魔士をも含めた人々が、輝血を快く思っていないことも。

 響は一瞬ぎゅっと目をつむる。このもやもやは自分が生きている限り、一生消えることはないだろう。

「ほんっと、めんどーだなぁ……」

 胸の内に留まっていた何かを吐き出すかのように嘆息たんそくし、響は修練場に向かうのだった。


   ▼    ▼


 統括会室内にノック音が響いた。

「どうぞ」

 玲子れいこが声を上げると、ガチャリとドアが開かれた。入ってきた人影を見て、玲子はひとつ瞬きをした。

「鵜飼先生?」
「すまない、ちょっといいか」

 挨拶もそこそこな鵜飼の表情から、かなり逼迫ひっぱくした事態であることがうかがい知れ、一同は気を引き締めた。

 統括会長、幸徳井こうとくい玲子。副会長、不破要一。会計、名倉なくら満瑠みつる

 書記兼広報、吾妻あがつま愛生あき平良たいら和希かずきルカ。庶務兼諜報ちょうほう古河こがかえで

 放課後、統括会メンバーは六人全員、珍しく一堂に会していた。会議の日や緊急招集でもかけない限り、誰かしらいないのが統括会の常だ。各々仕事をしたり、何かしらの用事で普段は席を外していたりする。

 それで、と玲子が促す。

「どうかされましたか」
「近頃の事件、きみらも知っているな?」

 直截ちょくせつ的に鵜飼が尋ねてくる。たったそれだけの言葉だが、統括会メンバーにはなんのことかすぐに思い当たった。

「〝羅刹らせつ〟のことかの」

 老人のような独特な口調で、楓が応じる。彼女のまとう特注制服は、一言でいえば忍者装束のそれだ。全身真っ黒で、首元にはスカーフ、二の腕まで届く手甲をはめ、極端に露出の少ない格好である。

「ああ、そうだ」
「何か進展があったんですか?」
「それが――」

 重々しい口振りで鵜飼から告げられた話の内容に、統括会一同の表情がどんどん険しくなっていく。

「それは、確かなんですか?」
「ああ、ほぼ間違いないとのことだ」

 鵜飼はぐるりと役員たちを見回した。

「今忙しい時期なのはわかっているが、きみらの力が必要だ」
「上のお達しならば仕方ありません。それに、我々の力が必要とされているのであれば、それに応じるまでです」

 玲子が毅然きぜんとそう言うと、数名が賛同するように頷いた。

「ハイハーイ、それオレやりたい。ちょうど退屈してたんだ~」

 手を挙げておちゃらけた調子でそう言ったのは、コート風の丈の長いブレザーを羽織った満瑠だ。糸目ということもあり、その表情は笑っているようだった。

 そんな満瑠を、要一がたしなめる。

「名倉、不謹慎ふきんしんだぞ」
「え~、だって最近骨のあるやつと全然遭わないんだもん。もーつまんなくってさぁ」

 そうして、満瑠はそばに立てかけていた愛刀の柄頭えがしらに手をやった。

「オレは妖異が斬れれば、それだけでいいから」

 糸目がうっすら開く。その瞳が一瞬怪しく光った気がした。

「相変わらずだね、ミツルは」

 キザな動作でルカがやれやれと首を振ると、少し長めのブロンズヘアが揺れた。

 全身真っ白の特注制服で、まるで外国の貴公子のようだ。事実、ルカはイタリア系のハーフである。

「くらっちの気持ちはわからんでもないが、そういうわけにもいかないだろ。なぁ、先生?」

 愛生が尋ねると、鵜飼が苦笑交じりに頷いた。

「そうだな、これはAクラス全体に関わることだ。不確定要素も多い。名倉には悪いが、誰かひとりに任せるということはできそうもないな」
「ちぇ~」

 不満そうに唇を尖らせた満瑠からは、先ほどの鋭利な雰囲気は微塵も感じられない。

 そんな統括会の様子を見ながら、鵜飼は知らずほくそ笑んだ。

 鵜飼は彼らが一年生だった頃から知っている。元々持っていたポテンシャルは相当のものだったが、統括会に入り進級したことでそれがさらに頼もしさを感じさせていた。

 自分の生徒の成長に喜びを覚えるのも一瞬、鵜飼は再び表情を険しくした。

「それとだな……」

 担任の歯切れがふいに悪くなった。それを不思議に思いながらも、玲子たちは続く言葉を待つ。

 少しして、鵜飼は難しい顔をしながらようようと切り出した。

「向こうの要請で、なんだが――」

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