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【陥穽篇】3.もうひとつの盟約
もうひとつの盟約 序
しおりを挟む飛廉。
それは鳥のような頭部に角を頂き、鹿のような身体で豹文があり、蛇のような尾を持つ、古代中国の神獣である。
また、風を自在に操るという力を持つため、風の神〝風伯〟の名を冠する。
この飛廉は、紀元前二十六世紀頃、今でいう中国を統治した五帝のひとり、黄帝の王座を奪わんと乱を起こした魔神、蚩尤の陣営について戦った。琢鹿(※)の野で行われたこの戦いは、『琢鹿の戦い』と呼ばれている。
死闘の果て、勝利を収めたのは黄帝軍。敗れた蚩尤が捕らえられ処刑されたあと、飛廉は黄帝に帰順し忠義を尽くした。
改心し黄帝について善行を働いたことにより、やがて飛廉は民衆から信仰されるようになっていったという――。
△ △
飛廉は木々が生い茂る山道をゆったりと歩いていた。
否、〝道〟ではない。道とは、人がなんの障害もなく安全に通れるところを道というのであって、異形の妖にはその道理は通用しない。妖が歩くところが道となるのだ。
飛廉の体躯は大きく、全長三メートルをゆうに超える。それも立ったときの姿で、今はたたまれているが腰のあたりに生えている翼を広げれば、横幅もかなり取る。
それほどの巨躯だというのに、飛廉は木々の林立する狭い空間を難なく通過できている。
木々が避けているのだ。実際に樹木が動いているわけではない。それでも、飛廉が通ろうとしているところを邪魔しないよう、木々が道を開けている。その表現が一番適切だろう。
不思議としかいいようがないこの現象は、ここが飛廉の住まう風伯山だから起こり得ることだった。
ふいにざわざわと木立が揺れた。
『……む?』
飛廉は頭をもたげ、上空を見上げた。
おかしい。風伯であるこの自分が起こさぬ限り、ここに風が吹くことなどあり得ない。そのはずなのに、今風が吹いた。
なんだか妙な胸騒ぎがする。
一度、上空から様子を見てみるか。
そう思い、顔を戻した飛廉は、目の前が真っ暗であることに気がついた。
『な、なんだこれは……』
見渡せば、先ほどの風景はいずこかに消え失せ、辺り一面を漆黒の闇が支配していた。
どういうことだ。自分は今の今まで山の中にいたはずなのに。いつの間にこんなところに。どこだここは。
『この……!』
翼を広げ、風を巻き起こす。四方八方に飛ばしたが、それが闇を払うことはなかった。
どこまでも続く闇。一筋の光すらも差さない、深い闇。
飛廉は妖であり、長命の神獣だ。暗闇など怖くはない。
しかし、今まで体感したことのないこの事態には、焦燥を余儀なくされていた。
一刻も早くこの闇から抜け出して、何が起こっているのかを突き止めなければ。
こうなったら一度飛んで――。
『……!?』
飛翔しようと地を蹴ろうとしたが、しかしそれは叶わなかった。
なぜなら身体が動かなかったからだ。それだけでなく、声を発することもできなかった。
気づけば、身体の自由が何もかも利かなくなっていたのだ。
飛廉はこのいまだかつてない異常事態に、わけもわからずただただ翻弄されるばかり。
そのとき、ふっとそばに気配が生じた。
何者だ。
誰何の声は、しかし発せられない。飛廉の胸の内に留まるのみ。
気配の主は、どういうわけか目に映らない。依然として視界は闇に覆いつくされている。
身体の自由が一切利かない飛廉に唯一できることは、神経を研ぎ澄ませることだけ。
気配の主が、妖異なのか人間なのか、それはわからない。けれども、感じ取れる気配は禍々しく、まとわりつくようにねっとりとしていて、不快感を覚える。気分が悪くなるような気配だ。――あのお方とは全然違う。
お前が、この状況を作り出したのか。一体何をした。目的は。
湯水のように溢れてくる疑問が喉の奥で絡まる。声が発せられないのがひどくもどかしい。
睨みつけることはおろか、歯ぎしりすらもできない。
「―――――……」
ふいに、呪文のようなものが聞こえた。すると、それまで微動だにできなかったのに、飛廉の口が勝手に開いていくではないか。
なんだ。何をする気だ。
戸惑う飛廉の開いた口の中に、何かが流し込まれる感覚がした。
なんだこれは、何をする、やめろ……!
ドロドロといたそれは、とてつもない味がした。言葉に言い表しがたい、ひどい味。
しかし動けぬ身では吐き出すこともできないまま、その流し込まれたものがゆっくりと喉を通っていく。
どくんと、鼓動が跳ねる。
直後、強烈な苦痛が飛廉を襲った。
あまりにも凄まじい衝撃に飛廉は堪らずくずおれ、その場でのたうち回る。
そう、くずおれ、のたうち回った。
飛廉は身体の自由を取り戻していたのだ。いつの間にか。
しかし、そんなことは今の飛廉には考えが及ばない。他のことを考える余裕など一切ないほどの痛苦が身体中を駆け回っているのだ。
『がぁあああああ…………っ!』
苦しい。痛い。熱い。
すべての痛苦が一斉に襲いかかってくるようだ。身体中を掻きむしりたくなるような衝動に駆られる。飛廉の足先が蹄ではなく鋭利な爪だったのならば、今頃身体中血みどろであったことだろう。
喉が張り裂けそうなほどの咆哮を上げながら、その場でのたうち回ることしかできない。
どれほどそうしていただろうか。
飛廉の中で荒れ狂っていた痛苦は、やがて少しずつ落ち着いてきた。
しかし、それで終わりではなかった。
『―――――……っ』
次に飛廉を襲ったのは。
抗いようのない、激しい飢餓感。
喉がひどく乾き、腹がひどく減っている。
ああ、どうにかなってしまいそうだ。
なんでもいい。なんでもいいから口の中に入れたい。喉を潤わせたい。腹を満たしたい。
…………え
そのとき、声がした。
……食ら、え……
おぞましい声が、耳朶に這い寄ってくる。
……人間を、食らえ……!
言葉が耳の奥で反響し、飛廉の意思を侵食していく。
食らう。人間を。
無意識にその言葉を自分も繰り返していた。思考がどんどん蝕まれていく。
――飛廉
闇に染まる寸前、飛廉の脳裏に過った言葉と顔。
――飛廉。……を……なさい
大切なお方との誓約。決して違えぬと誓い、胸に刻み込んだ大事な約束。
片時も忘れまいと、思っていた。
絶対に、忘れてはいけないものなのに。
それなのに。
どんな約束だったのか、誰と結んだものだったのか――思い出せない。
言葉の大事な部分が欠け、浮かび上がった顔は輪郭がぼやけて判然としない。
思い出さなければ。でなければ、自分は――。
けれども、なけなしの意志の上に猛烈な飢餓が覆いかぶさり、飛廉の思考を奪う。
……食らえ……人間を、食らえ……!
この飢餓を満たす、ただそれだけしか考えられなくなる。
一瞬差しかけた光は、しかし飛廉の意識とともに、深く昏い闇の中へと呑み込まれていった。
△ △
※正確には、琢鹿の琢の偏は王ではなくさんずい。旁も若干異なる。
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