ものぐさ降魔士奇譚

玖凪 由

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【陥穽篇】1.陰陽師の弟子

陰陽師の弟子 ☆拾

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 玲子れいこの言葉に、氷輪ひのわがほくそ笑む。

 ゆらははぁっと息を吐き、頭を掻いた。

「まー、そのために来ましたしね」

 ありがとうと一言告げ、玲子は手早く状況を伝えた。

 現在、瘴気しょうきによって電波がやられていること。そのため、降魔科生への連絡も降魔士への救援要請も不可能であること。一応、降魔科生の帰還は約一時間後となっていること。そして、結界が破損状態にあること。

 聞いていた響の表情がどんどん険しくなっていく。

 正直、事態は最悪である。

 頼みの綱の結界さえ健在であれば、降魔科生たちが戻ってくるまで耐えていればいいだけだった。しかし、その結界が破られかけているとなると話は大きく変わってくる。

 氷輪があざけるようにふんと鼻を鳴らした。

『大方、これほどのあやかしの大群による奇襲なぞ、想定しておらなんだのであろう』

 言外に、考えの甘さを指摘されているようだった。

 玲子はほぞを噛む。父への侮辱とも取れるその発言に、普段の玲子であればたとえ相手が神獣であっても一言物申していたであろう。しかし、突きつけられている現実を思うと返す言葉が見つからず、甘んじて受け入れるしかない。

「…………面目もありません」

 悔しさを無理やり飲み下し、玲子は結界外に目をやった。つられるように、響もそちらに顔を向ける。

 多種多様の妖異が、正門前に依然としてひしめき合っていた。妖異が押し寄せるごとに、結界に入った亀裂が徐々に大きくなっていっている。

『このままでは結界が持たぬことは自明の理』

 氷輪がどうすると視線を送ってくる。それを受けて、玲子は苦悩の表情を浮かべた。

 妖異たちは結界を破ろうと、生じたほころびへ攻撃を仕掛けている。そのせいで、結界の力がどんどん弱まっていっているのだ。

 この状況を覆すには、一度結界を結び直す必要がある。

 だが、果たして自分にそれができるのか。当代最高の術者とうたわれる父が施した、これだけの広範囲の結界を、この自分が結び直すことが。

 自分はまだまだだという自覚はある。嘉神学園降魔科主席であろうと、偉大なる父にはいまだ遠く及ばないと思っている。失敗が許されないこの状況で、その父の術を補うというのはかなりの難題だ。

 もし失敗すれば自分と響だけでなく、避難している普通科生や教師の身が危うくなる。

 玲子はいやと頭を振って、マイナスな思考を打ち消した。何を弱気になっているのだ。これでは幸徳井の名が泣く。

 できるとかできないとかではない。やらなければならないのだ。

 今それができるのは、自分しかいないのだから。なんとしてでも、やり遂げてみせる。

 覚悟を決めた玲子は、響に身体を向けた。

「如月さん」

 そうして、響をじっと見つめながら考えを伝える。

「私は結界を結び直します。その間、如月さんには結界が破られないよう、妖異の相手をしてもらいたいの」

 かなりの無理を言っている自覚はある。それがどれだけ大変なことなのか、想像がつかないほど馬鹿ではない。

 それに、玲子は響に対して〝ある気がかり〟を持っている。その真偽を見定める前に、こんなことを安易に頼んでいいはずがない。

 それはわかっている。全部承知の上でなお、結界を修復するにあたってはどうしてもやってもらわなければならないことだった。

 現時点での頼みの綱は、この降魔術を使える普通科生しかいないのだ。

 案の定、玲子の言葉を聞いた響が思い切り顔をしかめる。

「え、これを一人で? いやいや、さすがにそれはきっつ――」
『小娘、結界修復は如何様いかようにやるつもりか』

 みなまで言わせず、響を遮って氷輪が玲子に問いかけた。ちょっと、という抗議の声を黙殺し返答を待つ氷輪へ、玲子は頷いて説明する。

「嘉神学園の結界は、六個の結界装置で展開されており、敷地内を囲むように等間隔に設置されたそれらに霊力を一定量注ぐことで、結界術式が起動するようになっています」

 それは氷輪もすでに知っていた。伊達に響の授業中に暇を持て余して校内を散策してはいない。

「私は、これからその装置すべてに自身の霊力を注ぎます。そうして父の術式を上書きし、新しく結界術式を構築します」
『時間は』
「三……いえ、二十分もあれば」

 氷輪は玲子が言い直したのを聞き逃さなかった。本当なら三十分は欲しいだろうところを、それを大幅に短縮してやってみせると言ったのだ。

 ほう、なかなかどうして、見どころがあるやもしれん。

 氷輪は口端を吊り上げた。

『よかろう。結界修復の間、この響が妖どもの引きつけ役を担おうぞ』
「はぁ? ちょっと氷輪、なに勝手に……」
『汝はこの小娘を手助けするため、ここまで来たのであろう。ならば、その程度やって然るべきではないか』

 正論を受け、響はぐっと言葉を詰める。

『いい加減腹をくくり、汝は己が役目をまっとうせよ』
「……なんで命令形なんだよ」

 ぶちぶちと文句を垂れる響をよそに、氷輪は玲子へ顔を向けた。

『我らは結界外で妖どもの気を引く。さすれば、邪魔も減るというもの』
「それは、とても助かります」

 氷輪の提案に頷いた玲子は、響へ視線を移した。

「大変なのはわかっているわ。けれど、なんとかお願いできないかしら」

 響は若干複雑な面持ちで玲子を見た。

 あれだけ術は使うなって言ってたのに、許可した途端にけっこう容赦なく人を使ってくるじゃんこの人……。

 多少不満に思うものの、もうここまできたらやるしかない。そのために、リスクを冒してまでわざわざこんなことをしているのだから。

「はぁ……しょうがないですね」
「ありがとう」

 不承不承の承諾に、玲子は眉を下げて申し訳なさそうな顔をしながら素直に礼を述べる。

「では、お願いします」

 頭を下げる玲子に氷輪はひとつ頷く。そして、響を乗せて飛翔し、結界の外へ出ていった。

 それを見送った玲子は、すっと表情を引き締める。時間に猶予はない。自分も行動に移さなければ。

 玲子はもう一度、正面にうごめく有象無象の妖異たちを見やると、鋭い視線を送った。

    お前たちに、この結界を絶対に壊させはしない。

 そうして、玲子は各所に設置された結界装置を巡るべく踵を返したのだった。





「で、どうすんの、これ」
『それは汝がどうにかすべきことだ』
「うーわ、すっごい言い草。自分であんな大口叩いておいて、結局は人任せですかそーですかあ」
『……ふむ、やはり多いな』
「聞けよ」

 結界外に出た響たちは、集団の頭上に滞空しながら対策を練る。

『とにかく、汝は彼奴きゃつらの注意を引き撹乱かくらんせよ。でなければ、小娘が結界を張り直す前に破壊されるぞ』
「って言われてもなー……」

 響は地上を見下ろす。これだけの数の注意を引くとなると、かなり骨が折れる。生半可なことでは効果が得られない。

 響は仕方ないとばかりに首を振り、手首にかけていた数珠を外す。

「氷輪、あいつらの頭上ギリギリを飛んで」

 主の意図を瞬時に汲み取り、氷輪は高度を落とした。

 指示通り、妖異たちの頭上すれすれを滑空する氷輪の上で、響は数珠を放る。

「ノウマク・サマンダ・ボダナン・ヂリテェイ・ソワカ!」

 真言しんごんを唱えると、弾け飛んだたまが光の刃となり、妖異たちへ突き刺さる。

 叫び声を上げながら消失していく妖異を尻目に、響は自身のあちこちから数珠を取り出して、同様の術を使って妖異を調伏していく。

 響は今、自身に隠形おんぎょうの術をかけている状態だ。妖異たちはどこからともなく繰り出される攻撃に、少なからず混乱しているようだった。結界への意識も多少は逸れているように見える。

 術を放ちながら、響はここに来る前に寮の自室から持ってきた手持ちの数珠が、どんどん減っていくのを見て渋い顔をした。

「あーあ、また買ってこなきゃいけないや……」

 まったく、これ使えるようになるまでけっこう時間がかかるんだぞ、と響は術を放ちながらぶつぶつ悪態をつく。

 響は普段、術に使う道具を百円均一などの一般の店で購入している。だが、専門店ではなく一般の店で見繕ったものは、買ってすぐには術具としては使えない。元々それ専用で作られたものではないのだから当然だ。

 そのため、しばらく術者が肌身離さず身につけておく必要がある。そうすることで、術者の霊力が対象物に宿り、術具としての機能を持つことになるのである。

 もっとも、こんなことをするのは、独特な術の使い方をする響ぐらいしかいないし、響だからこそできることとも言えるのだが。

 空中を滑空し妖異たちが次々と調伏されていくのを眺めながらも、しかし氷輪の表情は浮かない。

 ここへ向かう前に感じたひと際強い妖力。その出どころがわからないのだ。

 存在は確かに感じるのだが、どれがその妖力を持つ妖なのかが判然としない。響がこれだけ調伏しても消えないということは、まだどこかにいるはずなのだ。

 氷輪は地上を睨んで、ずっとその妖異を探していた。身体の大小は関係ない。強い妖力を持つものは、身体の大きさを変えられるどころか、他のものに擬態することも可能なのである。

 どれだ、一体どこにいる。

 その時、背の上から疲れたような声が上がった。

「はー、氷輪、ちょっとタイム。休憩させて……」
『なに? ……仕方のない奴だ』

 氷輪は高度を上げた。安全な高さまで行って氷輪が滞空すると、響はばふっとその背に倒れこんだ。

「あーしんど……もうそろそろ限界なんですけどー」
『もう力尽きたのか? 汝は霊力と体力の差が激しすぎるのだ』
「わたしの場合、どれだけ鍛えても、体力と霊力が比例することはないんだってばー」

 氷輪は無言で背の上を一瞥した。響は特に気にした風もなく、間延びした声で正門のほうへ目を向ける。

「会長さん、まだかなー?」
『あれほどの結界だ。そう易々と結び直せるものでもなかろう』
「むー」

 不満げに唸った響は、ふと思いついた。

「てゆーか、氷輪がこいつら追い払ってくれればよくない?  氷輪の霊気、嫌がるんでしょ?」

 霊性の高い人間を好んで捕食する妖異だが、氷輪が発する霊気は人間の持つ霊力とはまた性質が違うのだという。そこまで力のない妖異はその霊気を恐れ、避ける傾向にある。白澤が魔除けの象徴とされる所以はここにあった。

 もっとも、この効力は氷輪が本性に立ち戻ったときでしか発揮されない。力を極限まで抑えた普段の姿は霊気も封じているからだ。

 響の指摘を、しかし氷輪は鼻で笑い飛ばした。

「いかに我といえど、これほどの数を蹴散らすことは不可能だ。霊気を全力で解放したとて、焼け石に水というもの」

 それに、万一それができたとしても、氷輪はそんなことをしてやる気などなかった。

 氷輪は慈善で式神になっているわけではない。人間が妖異の餌になろうが正直どうでもよかった。

 いくら神獣に分類されようと、決して人間の味方というわけではないのだ。人間には興味がなく、霊気を嫌う妖異からは近寄られない。ただそれだけなのである。

 けれども、響には興味を持った。この人間が切り拓く未来を見るために、自分はここにいる。だから響が動かなければ、意味がないのだ。

 そんな式神の思惑など露とも知らない響が憂鬱そうな吐息をこぼす。

「はぁ、やっぱわたしがやるしかないのかぁ」
『さよう。わかったのなら、そろそろ再開を――」

 言いかけたとき、ふいに氷輪の耳が雑音を拾い上げた。

『……?』

 音がしたほうへ顔を向けた氷輪は、そこで繰り広げられている光景を目の当たりにして息を呑んだ。

『…………!』

 式神の異変を感じ取り、響は顔を上げる。

「氷輪?」
『響、あれを……!』

 いつになく逼迫ひっぱくした声に、響は怪訝そうに身を起こして氷輪の目線を追った。

 そして、言葉を失う。

「……なに、あれ」

 正門から少し離れた場所。

 そこで、一匹の妖異が周りの妖異を食っていた。

 人間の女性のような外見をした妖異だ。身体をほとんど覆うほどの黒髪に、ボロボロの着物をまとっている。

 その妖異が手当たり次第に近場の妖異に襲いかかり、その胴体に噛みついて一心不乱に食いちぎっているのだ。

 異様な光景に、響の背筋に言いようのない怖気が走る。

「氷輪、あれ、なんかやばい気がする」
『うむ。──行くぞ』

 氷輪が急降下し、件の妖異へ接近する。響は刀印を構えた。

「オン――」

 詠唱しかけた刹那、その妖異の妖気が爆発した。凄まじい妖気が旋風を巻き起こし、肉迫していた響たちを襲う。

「うわ……っ」
『くっ、しっかり掴まれ!』

 氷輪が慌ててその場を離れる。ギリギリのところで直撃を免れ、ことなきを得た。

 やがて竜巻のごとく逆巻いていた妖力の奔流ほんりゅうが消える。その妖力の元を見て、響は目を見開いた。

 そこに、先ほどまでなかった巨体が現れていたのだ。

 見覚えのある姿に、響は思わず唸る。

「あいつは……牛鬼ぎゅうき!」

 そう、その巨体はつい先日も調伏ちょうぶくした牛鬼そのもの。しかし、目の前の牛鬼はこの間の個体よりもさらに大きい。

「なんか、でかくない……?」

 以前遭遇した牛鬼もかなりの大きさだったというのに、それ以上の巨躯を誇っている。二階、いや三階建ての建物にも相当しようというほどだ。

 そして、なによりも妖力が桁違いだった。牛鬼から強い妖気が滲み出ており、それがビリビリと肌を刺激して言いようのない不快感を与える。

 氷輪がいぶかしげに目をすがめた。

『妙だな』
「牛鬼って、あんなに大きくないよね?」
『そうではない。牛鬼は本来、水辺に出没する妖異なのだ』
「ええ……ここ思いっきり陸なんですけど……」

 この辺りに水辺はない。思い切り山際だ。そして、前回も牛鬼は屋内にいた。

 というか、氷輪はそれを知っていたなら、前に出くわしたときに言ってほしかった。

『ゆえに妙だと申しておる。水辺を住処とする牛鬼がなぜこのようなところに出現し、学園を襲撃しているのか』
「いい加減、水辺での生活に飽きちゃったとか?」
『いい加減なのは汝だたわけ者。つまらぬ冗談を言っている場合ではない――そら、動くぞ』

 牛鬼は八本ある足の後ろ二足を支えに身体を浮かし、前二足で結界に爪を立て、攻撃し始めた。

 結界が大きく震える。バチバチバチッ! と、スパークのような燐光が散った。

「ちょ、人がせっかく妖異の気を引いてたってのに、なんてことしてくれてんだあのバカ妖異!」

 響が罵倒するも、牛鬼には一切の効力がない。

 そのとき、校舎のほうから二体の藍炎の蛇が躍り出てくるのが見えた。見覚えのある炎蛇にそれが出てきた方向からして、玲子が放ったに違いない。

 炎蛇たちが牛鬼に迫り、挟み込むようにして牛鬼に巻きつく。煩わしそうに身じろぎした牛鬼が咆哮を上げ、妖力を爆発させた。堪らず離れた炎蛇に、牛鬼の毒がかかる。二体の蛇は溶け、そのまま消失してしまった。

「あーあ、やられちゃった」
『先ほど他の妖異を大量に食らったためか、妖力が膨れ上がっておるようだ。あの程度の術では、あれには通用せぬ』

 氷輪の言葉に、響は眉をひそめた。同族を食らってレベルアップとはなんとも趣味が悪い。

「ていうか、さっきのなんなの? 妖異って共食いとかしちゃうわけ?」
『わからぬ』

 その声には険が滲んでいる。響はぱちくりと瞬きした。あらゆる知識を持つ白澤ですら把握していないことが、今目の前で起こっているというのか。

『そのようなことはあとだ。今、汝には他にやるべきことがあるだろう』

 氷輪がちらと背の上を仰ぎ見た。

『して、響よ。このままでは結界が破壊されることは必至。なんとする』
「なんとするってったって……」

 ううんと唸ったそのとき、右腕に微かな痛みが走った。

「なんだ……?」

 そこでようやく、自分の腕に切り傷が刻まれていることに気がついた。先ほどの旋風で負ってしまったらしい。少し血の滲んだ裂傷が見える。

『怪我か』
「あーまぁ、そんなたいしたもんじゃないけど」
『ならば早急に治せ。隠形の意味がなくなるぞ』
「わかってるって……あ」

 言いかけて、ふと響の脳裏に閃くものがあった。

「いいこと思いついちゃった」

 そうして、響はやおら携帯端末を取り出した。


   ▼    ▼


 結界装置に霊力を注いでいた玲子は、呆然と結界の外を見ていた。

「なんなの、あれは……」

 玲子の目の前には彼女の腰ほどの高さの石柱があり、その頭部にはテニスボールほどの大きさの丸い水晶のようなものが埋め込まれていた。結界術式が刻まれた霊晶れいしょうだ。

 玲子の右手はその水晶に乗せられており、注いでいる霊力に反応して石がぼんやりとした光を放っていた。

 嘉神学園を覆うこの結界術式もカデイ式降魔術にて施されたものであったが、これほどの大規模な術式だといかに最速化されたカデイ式といえど、術の発動にそれなりの時間を要した。むしろ、これでもかなり発動時間を短縮させてはいるのだ。

 響のおかげで、妖異の結界への攻撃が弱まっている。その結果、玲子はすでに五つの結界装置への準備を終えていた。

 そして今まさに、最後の装置へ取りかかり始めたところだった。

 ここまで順調に事が運んでおり、もう少しで結界が修復できる――というところで、あの謎の旋風が巻き起こったのだ。結界の中からでもわかるほどの強い妖力がひしひしと伝わってくる。

 脳裏で警鐘が鳴っている。あれはまずい、と。

 竜巻が収まると、その中からそれまでなかった巨体が姿を現していた。玲子は目を剥く。

「まさか、牛鬼……!?」

 さしものことに呆然と立ちすくんでいると、牛鬼がのそりと動き、結界を攻撃し始めた。鋭利な爪が振り下ろされ、霊力の膜に亀裂が走る。

「いけない……!」

 まだ結界は修復の途中だ。このままでは結び直す前に破壊されてしまう。

 玲子は咄嗟に上空へ手を伸ばした。

「双炎蛇、召喚!」

 始動語に応え、藍色の炎の蛇が二体出現する。藍炎の蛇たちはうねりながら牛鬼へ突進していった。

 牛鬼に巻きついた炎蛇だったが、牛鬼が妖力を爆発させたせいで振りほどかれた。そこに牛鬼が毒を吐きかける。毒がかかった二体の蛇は溶け、力を失い消えてしまった。

「くっ……」

 玲子は悔しそうに顔を歪める。今発動できる最大の術だったというのに、いとも容易く掻き消されてしまった。

 全力で術をぶつけることさえできれば、もっとダメージを与えることができるはずだ。けれど、結界修復に霊力を注いでいるこの状況では、どうしてもあの程度の半端な術しか発動できない。

 万事休す。

 と、その時、ふいにスカートのポケットが震えた。断続的に続くそれは、スマホのバイブ音に間違いない。

 空いている手で端末を取り出すと通話が来ており、ディスプレイには響の名前があった。昼に響と会ったとき、今後時間の示し合わせがしやすいようにと連絡先を交換しておいたのだ。

「もしもし……」
『――あ、会長さん、ですよね』

 通話に出ると、いつもの平淡な声が聞こえてきた。

「如月さん、あれはどうなっているの?」
『さぁ……それはわたしにもわかりません。そっちは結界のほう、どうなんですか?』
「あともう少し、なのだけど……牛鬼がこのまま攻撃を続けたら間に合わない」

 無意識に拳を握り締めながら答えると、そうですか、と短く返ってくる。

 そうして少しの間のあと、響は唐突にこんなことを言い出した。

『会長さん。ひとつ、取り引きしませんか』
「は……? 取り引き?」

 反芻はんすうすると、はいと応えがあった。

『わたしがあの牛鬼をなんとかするんで、その代わりに私を解放してください』

 響の言いたいことを即座に理解し、玲子は眉根を寄せた。

「……それは、もう監視はつけず自由にしてほしい、ということかしら」
『そうです』

 玲子は言葉に窮する。響の要求を呑んでしまえば、降魔の資格を持たない術者を野放しにしてしまうことになる。

 しかし、あのまま帰っていてもよかったのに、彼女は駆けつけてくれた。この間言い渡した命令を破ったとはいえ、彼女が来てくれなければ今頃すでに結界は破壊されていて、最悪の結末となっていたかもしれないのだ。

 しかもこちらは協力を要請した身。彼女の意向は多少なりとも聞き入れてしかるべきである。

 玲子は苦渋の思考の末――決断した。

「……わかったわ」
『やった』

 端末の向こう側で嬉しそうな声が聞こえた。しかし、玲子には気になる部分がある。

「でも、なんとかすると言ってもどうやって? 意識を逸らすことなんて、そう簡単にはできないでしょう」
『ああ、それは大丈夫です。――アイツらは、わたしみたいな人間の血が大好きらしいんでね』

 少しの間を空けてから聞こえた自嘲気味な声が、いやに耳に刺さった。

「それって……」
『じゃ、そういうことなんで。取り引きのこと、絶対約束ですからね』

 言いかける玲子を遮って響がまくし立てたあとで、別の声が入りこんだ。

『小娘よ。汝は己が役割をしかと果たせ』

 白澤の厳かな言葉を最後に、通話がプツリと切れる。

 玲子はふっと顔を上げた。牛鬼の頭の近くに、突然何かが現れる。宙に浮く白い四つ足の生き物――氷輪だ。肉眼でははっきりと見えないが、おそらくその背には響がいるはず。どうやら隠形の術を解いたようだ。

 と、突如氷輪の背の上から風が放たれ、牛鬼の顔面に直撃した。すると明らかに牛鬼の態度が豹変する。

 再び氷輪たちの姿が掻き消えた。咆哮を上げた巨躯が方向転換し、学園から離れていく。

 おそらく響たちを追いかけているのだろう。隠形をかけ直したのは牛鬼だけを引きつけるため、といったところか。

 遠のいていく姿を見送る玲子の脳内に、先ほどの響の言葉が反響した。

 ――アイツらは、わたしみたいなやつの血が大好きらしいんでね

「如月さん、あなたはやっぱり……」

 目を伏せ、玲子はぽつりと呟いた。

「『輝血かがち』――なのね」


   △    △


「もしや、あやつは輝血なのではないか?」
「輝血、ですって……?」

 かえでの口からようやく出てきた言葉に、玲子は瞠目してしばらく言葉を失った。

「そんなはずないわ……だって、そんな……」

 にわかには信じがたく、玲子は頭を振った。

 輝血。

 それは、非常に高い霊力を持って生まれた人間のことを指す。

 輝血は降魔士になる人間が持つ霊力とは比べ物にならないほどの、膨大な霊力をその身に宿している。

 ただ霊力が高いというだけなので、当たり前だが見た目やそれ以外のものは普通の人間と変わらない。そのため、人間には輝血であるかどうか判別するのが非常に困難だ。

 しかし、妖異は輝血の霊力を、本能で敏感に察知することができる。

 妖異にとって、輝血は極上の餌。輝血を食らった妖異は膨大な力を獲得し、一国を滅ぼすことができるほどの凶悪な大妖たいようへと為り変わる。

 よって、輝血は常に妖異からその身を狙われてしまう。だから、輝血として生まれた者は、基本的に降魔士の庇護下におかれる。場合によっては、妖異の入ることができない聖域で一生のほとんどを過ごすこともあるという。

 輝血は望まずして高い霊力を宿し、ふいに生れ落ちる。家柄に関係なく、法則性も一切ない。遺伝するものでもないのだ。

 生まれながらにして、否応なく自由を奪われる存在。あまりにも過酷な業をその身に背負わされているのが輝血である。

 だから、輝血が普通の子どもと同じように学校に通う、などということができるはずもないのだ。

 玲子の動揺を見て取り、楓は軽く頭を振った。

「気持ちはわかる。わしも確証を持っておるわけではないからの」

 じゃがな、と楓が言葉を繋いだ。

「そう考えれば、あやつがこれほどまでに妖異と遭遇するのも、やたらと隠形しておったのにも納得がいくとは思わんか?」
「それは、たしかに……」

 楓の言葉には説得力があり、そう言われて玲子にも思いつくものがあった。

「もしそうなら、古式を操るのにも一応説明がつく……」

 響が輝血だと仮定して、リスクの高い古式をわざわざ使う理由。響に術を教えた人物が古式使いだったから、という理由を除いてあるとすればひとつだけ。

 輝血はカデイ式降魔術が使えないのだ。

 輝血の霊力は、普通の霊力とその性質がそもそも違う。純度と密度が高く、精錬されているのである。

 そのため、輝血の霊力はその実扱いが非常に難しかった。カデイ式術具に霊力を注ぐと、術具は輝血の霊力に耐えられず、オーバーヒートを起こして使い物にならなくなる。

 より正確に言うと、霊晶と輝血の霊力の相性が悪く、適合しないのだ。ゆえに、術が発動できない。これは、カデイ式を開発するうえで行われた数多の研究の中で確認された正確な情報である。

 こういった事情から、霊晶を術発動のかなめとするカデイ式では、輝血の人間が降魔士になることができないのだ。

 だが、古式は違う。

 古式は術を発動するのに諸神諸仏に力を請うため、かなりの霊力が必要とされる。この点、無尽蔵ともいえる霊力を持つ輝血の人間にとって、古式はむしろうってつけの術法であった。

 とはいえ、降魔士がまだ陰陽師で古式が使われていた時代でも、輝血の人間が術者となって大成した事例がない。

 過去、輝血でありながら術者となった数少ない者たちは、例外なくみな妖異に食われて命を落としたからだ。

 そして、輝血を食らい膨大な力を得た妖異が巻き起こした惨劇は、今でも語り継がれている。

 だから、輝血を術者にすることは危険とし、要保護となったのだ。

 楓が言った通り、響が輝血であるならばすべてに説明がつく。これほどまでに頻繁に妖異と遭遇するのも、カデイ式を一切使わずに古式を操るのも。

「けれど、いくら可能性が高くても、それを確かめることは難しいわ」

 玲子が苦々しく言うと、楓も難しそうな顔をして唸る。

「そうじゃな。じゃから問題なんじゃ」

 響が輝血であるかどうかを、率直に確認することははばかられた。なぜなら、これはかなりデリケートな問題だからだ。

 輝血はその霊力のせいで妖異を呼び寄せてしまうため、人々から忌避きひされている。昔は幸福の象徴などといった神聖で尊い人間として崇められたりもしていた。そこから『輝血』と呼ばれ始めたのだという。

 しかし、科学の発展した現代においては、あまりそういったものを重視しなくなった。今となっては〝妖異を呼びよせ、周囲に災いを振りまく者〟という認識のため疎まれてすらいる。

 だから、輝血の人間は自分が輝血であることを隠す。ただ霊力が高いということ以外は他の人間と差などないというのに、それだけで別種族のように扱われるのが耐えられないから。

 彼女の真相に迫ったかと思いきや、逆に頭の痛い事態となった。

「これは、少し時間をかける必要があるようね」

 彼女が本当に輝血であるのかどうかを、見極めるために。


   △    △


 昨日の楓との話し合いで、しばらく様子見ということになった。だから、玲子は響と下校を共にしようということになったのだ。

 だが、真実が今明かされた。

 如月響は、間違いなく輝血だ。

 玲子の脳裏で、それまでバラバラだったいくつかのピースがカチリとはまる。

 だから彼女は、術の行使を禁止したあのとき豹変したのだ。

 降魔士になるつもりもない彼女が降魔術を身につけたのは、輝血ゆえに妖異から狙われないよう、自身の身を守るため――。

 輝血はその性質のせいで、普通に生活していくことが極めて困難だ。しかし響は、古式降魔術を習得して人並みに生活しているどころか、堂々と妖異に立ち向かっている。

 驚くべきことだ。この事実が知れ渡れば、降魔士界は大きく揺らぐだろう。

 いや、今は悠長に感心している場合ではない。彼女は輝血でありながら、危険を冒してまで牛鬼を引きつける囮となってくれたのだ。

 ならば、こちらも全力を尽くさなければ、彼女の勇気に報いられなくなる。

 そんなことは許されない。己の矜持きょうじにかけて。

 そのとき、玲子の視界の端に明るさが差し込んだ。はっとしてそちらへ焦点を合わせると、それまでぼんやりとした光を放っていた霊晶がくっきりと青く輝き、緩やかに明滅を繰り返している。必要な霊力が溜まりきったのだ。

 大きな攻撃がやんでいる今がチャンスだ。

 霊晶に手を乗せたまま、玲子は全神経を集中させた。

「守護結界、起動」

 そう呟くと、結界装置から青い光線が放たれた。視線を巡らせれば、別の場所からも上空に光の柱が立ち上っているのが見えた。

 その数は全部で六。すべての結界装置が正常に起動していることを確認し、玲子は慎重に術式を組み上げていく。

「術式、構築」

 すると、六つの光柱がさらに上空に伸び、結界に突き当たった。光は膜を貫くことなく、突き当たったところから結界にぴたりと張りつくようにして、どんどん広がっていく。

 やがて、青い光は結界全体に行き渡り、内側から覆い尽くした。

 気を抜くな。最後の最後まで集中しろ。

 己を叱咤し、すっと息を吸い込んだ玲子は、全霊で言霊を吐き出した。

「広域結界、再展開――!」

 刹那、一瞬周囲が白く染め上がった。そのあと光の粒子が弾け飛ぶ。

 玲子は目を閉じ、神経を集中させた。結界に綻びがないか入念に探るが、それらしいものは何も感じられない。

 結界は完全に修復されたのだ。

 それを確信した玲子はようやく肩の力を抜き、深く息を吐き出す。なんとか、無事に結界を結び直すことができた。

 額に滲んだ汗を拭う。思った以上に消耗している。結界術式を発動させるためにかなりの霊力を使っただけでなく、嘉神学園の広大な敷地内を全力疾走で一周したようなものなのだから、当然といえば当然のことだった。

 しかし、玲子は足にぐっと力をこめ、己を奮い立たせる。まだだ、まだ何も終わっていない。あの異様な牛鬼の相手を引き受けた響のことが気がかりだ。

 とはいえ、彼女のもとへ行こうにも妖異が邪魔でそれも叶いそうにない。蹴散らして行くのはいくらなんでも強引すぎる。今の結界修復で霊力も体力もだいぶ削られている。万一、途中で力尽きてしまえばそれまでだ。

 響のように空を翔ける手段があれば一番よかったのだが、あいにくと玲子にはそのすべがない。

 一体、どうすれば。

 ままならない状況に玲子が奥歯を噛み締めた――そのとき、正門に群れていた妖異が突然消し飛んだ。

 そこから、人影が数名現れる。

「玲子!」
「……! 楓!」

 傍に駆け寄ってきた友人でもある同期の姿を見て、玲子は目を見開いた。

「オレたちもいるよ~ん」

 少し遅れて、満瑠みつる要一よういちも滑り込んできた。どうやら、降魔科生がようやく帰還したようだ。

 楓の脇には白い虎がいた。全身真っ白で不思議なオーラをまとっており、その目に瞳はない。ここにはいない統括会メンバーが所有する式鬼しきだった。

愛生あきの式鬼も一緒なのね」
「うむ。必要があれば使ってくれと言付かっておる」

 三人で妖異を蹴散らしながら一直線に向かって来たのだが、その隙間はすでに埋められている。要一がひしめき合う妖異の群れを警戒しながら、玲子へ声をかけた。

「会長、一体何がどうなっているんだ」
「一時間ほど前に、突如妖異が集まりここを襲撃してきたの。原因は不明よ」

 結界修復の件も含め、今まであったことをかいつまんで説明し、玲子は安堵の息を吐いた。

「でも、あなたたちが来てくれてよかったわ。この瘴気のせいで、どこにも連絡がつかなかったの」
「じゃろうな」

 楓が頷く。そうだろうと思い、降魔士にはすでに救援要請の手配は済ませていた。じきにこちらへ到着することだろう。

 それを聞いて、玲子がほっと胸を撫で下ろす。

「助かるわ。他の降魔科生は?」
「離れたところに止まったバスの中で待機させている」

 実習を終えて戻ってきた降魔科生は、学校を目の前にして異変に気づいた。降魔士に連絡したあと、ここには統括会メンバーと一部の教師が向かってきたのだと、要一が答えた。

「で、会長ひとりだけだと大変だと思って、オレとコガちゃんと要ちゃんが先に強行突破してここまで来たんだ~。残りは後ろで妖異の相手してるってわけ」

 こんな状況にも揺ぎなく、相変わらずの糸目で微笑を浮かべている満瑠は感嘆の声を上げた。

「にしても、さっすが会長だね~。結界を直しながら、ここを守ってたなんてさぁ」
「……いいえ、私ひとりではないわ」

 玲子が首を振ると、要一は怪訝そうな顔をした。

「なに? なら他に誰が……」
「如月さんに、力を貸してもらったの」
「な、なんだと!?」

 目を剥く要一の横で、満瑠がひゅうと口笛を吹く。

「話には聞いてたけど、その子けっこうやるねぇ」

 玲子は響たちが去っていったほうを見やった。

「私だけではここまで持たせることはできなかった」

 悔しいが、それは事実だ。

「で、やつは今どこに……」

 要一が辺りを見回す。楓が険しい顔をした。

「ここへ来る途中、巨大な牛鬼が裏山の方へ向かっていくのを目にした。もしや……」

 玲子が、ええと頷く。

「牛鬼を引きつれて、学園から離れていったわ。私が修復している間、結界を攻撃されないように」

 そうして、玲子は楓を真っ直ぐ見つめた。

「楓、やっぱりあなたの予想通りだったわ」

 それだけでなんのことか察した楓は色を失った。

「なんと……」

 それなのに、囮役を引き受けたのか。

 さしものことに絶句する楓だったが、なんのことかわからない要一が困惑気味に訊ねる。

「なんの話をしているんだ?」
「如月さんは、輝血だったの」

 要一はぽかんと口を開けた。あまりに衝撃的な発言に、理解するのに時間を要しているのだろう。対する満瑠はへぇと糸目を一瞬うっすらと開け、面白そうに口端を吊り上げていた。

 詳しい説明はあとだと言って、玲子は同期たちを順繰りに見回した。

「あなたたちはここで妖異の相手をしていてくれるかしら」

 楓がわかりきっていながらも、玲子へと問いかけた。

「おぬしはどうするつもりじゃ」
「如月さんのもとへ行くわ」

 結界を修復し終え、降魔科生の先鋭たちが戻ってきた今、玲子の気がかりは囮になってくれた響のことだけとなった。このまま彼女に任せきりで放っておくことはできない。

「わかった。ここはわしらに任せておけ」

 楓の言葉に、玲子がこくりと頷く。そんな彼女の足元に、虎の式鬼が近寄った。瞳のない目が玲子の顔をじっと見つめている。

「……乗せていってくれるの?」

 思わずそう聞くと、虎は玲子の前に背を向けて立った。どうやら、それが答えのようだ。

「ありがとう。……少し借りるわね、愛生」

 式鬼の意志は、主の意志。あとで本人に直接礼を伝えなければ。

 玲子が虎の背に乗り込んだところで、満瑠が一歩前に進み出た。

「そんじゃ、会長のために、オレが道作ってあげるよ」
「助かるわ」

 満瑠が腰にいていた刀を抜いた。これも術具で、妖力や妖異しか斬れない霊刀である。

 刀を大上段に掲げて構え、満留はうっすらといつも閉じているようなその目を開けた。

「キミたち、そこジャマだから――どいてね」

 そして、一息に振り下ろした。

 霊力が斬撃となり、正面から直線状の妖異を一閃のもとに薙ぎ払う。

 妖異を次々と消滅させていく斬撃を追うがごとく、玲子を乗せた虎の式鬼は瞬間的に開けられた道を駆け抜けていった。

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