5 / 53
【陥穽篇】1.陰陽師の弟子
陰陽師の弟子 ☆肆
しおりを挟む全体の三分の一を占めるほどの大きな顔。黄色く、どこを見ているのかわかりにくい焦点がずれた虚ろな目。頭にはどんなものでも貫けそうなほど鋭く長い二本の角。口元から覗く歯は不揃いでギザギザに尖っており、その巨躯は緑色の皮で覆われている。
そして、極めつけは。
「なんで! 顔が牛で! 身体が蜘蛛なわけ!」
「それは、あれが妖異『牛鬼』だからだな」
響が若干顔を引き攣らせて迫ってくる妖異から逃走する。そんな響の横で、氷輪がそのずんぐりな見た目にそぐわず軽快そうに並走しつつ悠然と解説する。
「特性としては、非常に残忍かつ獰猛。口からは毒を吐き、人間を食い殺すことを好む」
「……ご丁寧にドーモ」
見ればわかるような内容だった。というか、そもそも妖異は基本的に人を襲うものでは。
などと思いつつ、響はちらと背後を一瞥した。視線の先に、角と同等の鋭利な爪を持った八つの足を器用にカサカサと動かし、機械の残骸をなぎ倒しながら猛然と追いかけてくる化け物、牛鬼がいる。
よだれをまき散らしながら凄まじい形相で走る様は、さながら狂った闘牛のよう。
「…………」
響は無言で顔を正面へと戻し、動かす足にさらなる力を込めた。
「珍しいな、汝が怯えるなど」
「別に怯えてなんかない。ただ、虫とかああいう見た目がグロテスクなものが無理なだけっ」
「ふむ。ならば、深海魚などは――」
「もう恐怖の塊でしかない」
埒もない会話をするふたりの後ろで破壊音が響き渡る。
氷輪は響を見上げた。
「ところで響よ。汝はいつまでこうして逃げ回るつもりなのだ」
「それっ、思ってた、はぁっ、ところ……っ」
「軟弱者め。だから体力をつけるべきだと幾度も言っておろうに」
「っさいな……っ、は……!」
響はくっとうめいて、歯を食いしばった。
いささか持久力に欠ける響の身体では、さすがにこれ以上走り続けるのも限界に近くなってきていた。横っ腹が痛くなる前に、そろそろ次の行動に移らなければ。
響は右手で刀印を組みながら、くるりと身体を反転させた。正面に迫ってくる牛鬼を見据え、作った刀印の切っ先を向けて叫ぶ。
「縛れ! これは見えざる神力の縄、あらゆる動きを封ずるものなり!」
響の放った言霊が霊力の縄となり、牛鬼の身体にまとわりついた。妖異が一瞬動きを止める。
「どうだ……っ!?」
言い差して、響は目を瞠った。
牛鬼が咆哮しながらその巨体をよじり、呪縛を無理やり振りほどいたのだ。
「うわー、術を自力で破りやがった……」
なんて妖力だ、と愕然とする響を牛鬼はギロリと睨むと、突然口から何かを吐き出してきた。
弾丸のように飛んでくるそれは禍々しい紫色で、あきらかに粘り気のありそうな物体。
「……毒!」
響は咄嗟に懐から数枚の護符を抜き放った。符は術者の眼前で宙に浮かび、壁を織り成す。
直後、妖異の毒が護符の壁に激突した。
「ふぅ、ギリギリセー……」
「たわけが! 気を抜くな、避けろ!」
息を吐いた響の耳朶に、切迫した氷輪の声が突き刺さった。
「は?」
視線を向けると、響の目の前で壁を作っている護符が溶け始めていた。
毒の威力が、護符を上回っている。
「うっそ……っ」
体裁など気にかける余裕もなく、響は全力で横に転がった。
同時に壁が効力を失い、ほんの一瞬前まで響がいた場所にヘドロのような塊が着弾する。
即座に身を起こした響は、ジュジュゥ~ッという焼けるようななんとも嫌な音とともに、毒が付着した床が丸くえぐれるように溶ける様を目にした。
「…………」
頬に冷たい汗が流れるのを感じる。
先ほどの束縛術といい、こちらの術がいとも簡単に破られ続けている。なんともでたらめな力だ。
この牛鬼という妖異、そこらの雑魚妖異とは明らかに一線を画した力を持っている。
「……! 響、上だ!」
氷輪の鋭い声にはっと我に返り、響は反射的に後ろに飛び退いた。目の前の床にザクッと牛鬼の足の爪が突き刺さる。
「く……っ」
響はそのまま何度かバックステップし、牛鬼と距離をとった。
頬を伝って顎へと垂れてきた汗をぬぐい、荒くなった呼吸を整えながら考える。さて、この怪物をどう倒そう。生半可な術ではどうにも勝てそうにない。
響はため息を吐くと、傍らの式神に声をかけた。
「ねぇ、氷輪」
「なんだ」
「帰りたい」
「言っておる場合か!」
刹那、牛鬼が機械をなぎ倒しながら再び攻撃をしかけてきた。
響たちも再び逃走を開始。必死に足を動かす。
そうしてしばらく走り回っていたが、牛鬼の攻撃のせいで今や床は大破した機械や崩れたコンクリートの残骸で埋め尽くされている。
なんとか間隙を縫って走り続けるが、疲労で徐々に意識が散漫になり――。
「うわっ……!」
ふいに響の身体が傾ぐ。足をついた先の瓦礫を踏み、バランスを崩したのだ。
咄嗟に反応できず、足がもつれた響はそのまま派手に転倒する。
「ぐ……っ」
「響!」
響の少し前で止まった氷輪が、振り返って叫ぶ。
痛む間も惜しんで上体を起こし背後を見ると、かの化け物が鋭利な爪を振りかぶったところだった。
その先にあるのは――響の身体。
「……っ」
あんなものに貫かれたら、響の命は間違いなくない。
牛鬼が爪を振り下ろす。響の感覚のすべてがスローモーションになった。
迫ってくる牛鬼の爪が。
氷輪の怒声が。
絶体絶命の窮地を前に、響はそっと目を閉じる。――そして、言霊を放った。
「我が式神白澤・氷輪。本性を現せ」
瞬間、閃光が周囲を真っ白に染めた。そのあと、何かが崩れる物音が重く響く。
やがて光が収束していくのを感じ取り、響は目を開けてゆっくりと立ち上がった。
『――まったく。我が主ともあろう者が、けつまずくなど情けない』
パタパタと服についた埃を払う響の耳元に、厳かな声が入り込んできた。
そちらを見やると、そこには白銀に輝く巨体があった。
大きさは象ほど。全身は純白の滑らかな毛並みで、頭頂部からたてがみが生え、首回りにもふさふさの長毛がたくわえられていた。蹄を持つ四本脚はすらりと細長い。牛に似た造形の顔は牛鬼とは似ても似つかないほど精悍な細面で美しく、耳の上には一対の枝分かれした長い角が伸びている。
何よりも特徴的なのは、胴体の左右に三つずつある眼と、背から生えた四本の角だろう。
氷輪と名を与えられた神獣白澤の真の姿が、そこに顕現していた。
「氷輪」
呼びかけに、氷輪の目が響へと向く。その額には、吊り上がった両目の他にもうひとつの瞳があった。
先ほどまでの手のひらサイズは、力を抑えた仮の姿。その時に赤い線だった不可思議な文様こそが白澤の眼であり、正体を解放すると閉ざされていた七つの眼すべてが開眼するのだ。
麒麟や鳳凰に匹敵する神獣とされ、人語を話して万物に精通する、非常に知性の高い妖異。
それが、白澤。
氷輪の本性である。
『何をやっておるのだ、汝は』
響を見下ろす氷輪は神々しく、威厳に満ち溢れていた。
神獣が醸し出す神聖な霊気が、氷輪が全体にまとっているキラキラと輝く粉のようなものに現れている。
それはさながら、細氷――ダイヤモンドダストのようで。
『このようなことで我を頼るとはなんとしたことか。幾度も言うておるが、汝は緊張感というものも持てぬのか。これでは先が思いやられるぞ』
言いたい放題言われ、響の眉がぴくりと動く。こういった小言を言われることがわかっていたから、響は氷輪の力を極力借りたくなかったのだ。
「…………文句言うくらいなら、さっさと変化すりゃよかったのに」
思わずぼそっと呟くと、今度はそれを聞きとがめた氷輪の立て耳がぴくりと動く。
『思い違えるな、人間。我は妖退治をするためにいるのではない。汝に興味を持ったから式神の任に甘んじておるのだ。よもや、それを忘れたわけではあるまいな』
そう言って、氷輪はついと三つの目をすがめた。
『この白澤が目をかけたのだ。我を失望させてくれるでないぞ、降魔士――いや、降魔の力を持つ者よ』
勝手なことばっか言ってくれちゃって。ちょっとは人を慮る気持ちとかないのか。
尊大な物言いに響はうんざりしたような顔をしたが、反論は面倒だしそんなことをしているほどの余裕もないので押し黙るに留める。
そのとき、ガラガラと瓦礫が落ちるような音が響き渡った。視線をやれば、そこには機械の残骸から這い出てくる牛鬼の姿が。
牛鬼は、氷輪が本性に戻る瞬間に放たれた霊気によって弾き飛ばされていた。それで今の今までひっくり返っていたのだろう。
体勢を立て直した牛鬼が憤怒の形相で響たちを睨みつけるやいなや、ザザザッと八本の脚を器用に高速で動かし、響たちのほうに突進してきた。
『醜悪な妖風情が、白澤たる我に刃向うか』
氷輪が冷やかに言う。その顔には、凄惨な笑みが浮かんでいた。
『笑止。己の身の程もわきまえぬ下賤の輩が甚だしい。我との格の違い――身をもって思い知るがよい!』
瞬間、氷輪の霊気が爆発した。
波紋のように広がった霊気が猛牛のごとき勢いで迫ってきていた牛鬼に叩き込まれ、いとも容易く吹き飛ばした。
牛鬼はごろごろと転がり、けたたましい音を立ててコンクリートの壁に激突した。衝撃で壁が崩れ、巨大な穴が開く。
再び瓦礫に埋もれた牛鬼だったが、すぐさま起き上がった。体勢を整えながらも、その目は響に狙いを定めている。
「……氷輪のあれ受けて、まだ来るんだ」
『あの状態の妖異には、我の力は効力を発揮せぬ。汝の手で調伏するほかに道はない』
二度も吹っ飛ばされたためか、さすがにすぐに突撃してくるようなことはなかったが、牛鬼が退散するような気配は微塵もなかった。響を凝視する両の眼は真っ赤に充血し、口の両端から唾液を閉まりなく垂らしている。ただ響を食うことしか頭にないのだろう。
氷輪の言うとおり、あれは完全に気づいている状態だ。
『ゆえに、我の手出しはここまで。響、早々にあれを滅せよ』
響は鬱屈とした息を吐き出した。まったく、本当に厄介だ。
うんざりもいいところだが、ここまで来たらもうやるしかない。響はすっと表情を引き締めて策を巡らせる。
「それじゃあ、氷輪。とりあえず外に連れてって」
『…………。よもや、逃げ帰ろう、などというわけではあるまいな』
「そう言ったらどうする?」
『汝を牛鬼にくれてやる』
「ひど……」
これが式神の言うことなのだろうか。人でなしにもほどがある。いや、氷輪はそもそもが人ではない。
「あーもう、いいからさっさと乗せろってば」
ぞんざいな言い草に氷輪は眉をひそめたが、主人の雰囲気が一変していることに気づき、にやりと笑った。
『――よかろう』
身を屈めた氷輪に、響はさっとその背に乗り込んだ。角の間に上手く身体を入り込ませ、ぎゅっと角を掴む。
『落ちるなよ』
「落とさないでよ――」
響が言い切る前に氷輪が地を蹴り、ふわりと飛翔した。
ぐんぐんと上昇していく氷輪は、天井に向かって空を駆る。
『抜けるぞ』
注意喚起を受け、響は体勢を低くして角を掴む腕に力を込める。
直後に、轟音が響き渡った。
衝撃をやり過ごして響がゆっくりと顔を上げると、差すような強い光が視界に飛び込んできた。あまりの眩しさに思わず目を細める。
夕陽だ。視界いっぱいに橙に染まった景色が広がる。氷輪が天井を突き抜けて外に出たのだ。
ほどなくして、下のほうから何かが崩壊するようなすさまじい音が轟いた。
視線を落とすと、建物の壁からもくもくと砂埃が舞っていた。砂の煙が薄らいでくると、壁には巨大な穴が開いているのが見え、そこから黒い影が現れる。
牛鬼だ。響たちと同じく壁を破壊して出てきたのだ。
響は妖異から視線を外し、ざっと辺りを見渡した。どこか開けた場所がないかと探していると、アスファルトで埋められた空間を見つけた。ところどころひび割れて、その割れ目から雑草がびっしりと生えている。部分的に薄っすらと白い線が見えるところからすると、おそらく以前は駐車場として使われていたのだろう。
「氷輪、あの駐車場っぽいとこに降りて」
指示を出すと、滑空していた氷輪が言われた通りに高度を下げ、広い空間の中央にふわりと着地した。
響は氷輪から降りて、ある方向を向く。凄烈な気を放つ大妖はそんな響の背後に控え、じっと主を見つめている。
なんだかプレッシャーを感じる、気がする。
居心地の悪さを感じながら、しかし特に気負うことなく、牛鬼へ意識を集中させる。
響は右手首につけていた薄桃色の珠が連なる数珠を外すと、左手に握り込んだ。静かに息を吐き出し、右手で刀印を組む。
ほどなくして、豪快な破壊音が響いた。響のちょうど真向かい、コンクリートの壁をぶち破って牛鬼が姿を現す。
牛鬼は獲物の姿を見つけると、猛烈な勢いで突っ込んでくる。距離はどんどん縮まっていき、残り十メートルほどとなった。
響はそれをじっと見据える。先ほどまでのような半端な術は効かない。ならば、それ以上の術をぶつけるしかないだろう。
響はゆっくりと呼吸をし、組んだ刀印を標的へと向ける。
「――不動金剛明王に帰依し奉る」
詠唱し、刀印を素早く動かす。
右斜め上、次に左へ横一文字に引き、右斜め下、左斜め上、最後に左斜め下。
一筆で描き上げられたそれは――五芒星。
宙に五芒星を描いたと同時に、牛鬼の足元が光を放ち始めた。
「猛る神威は不動の枷、邪鬼悪鬼の行く手を阻みたまえ!」
霊力の宿った言上が凛と放たれる。
響の眼前には、人間の脆弱な身体などいとも容易く切り裂く長い爪が。
しかし、牛鬼の爪が響に届くことはなかった。
なぜなら、巨大な妖異は指一本動かせないからだ。
腕を振り上げた姿勢で停止している牛鬼。凶悪な形相で動こうと必死にもがいているようだが、ぴくりとも動かない。
神仏の強力な神威を借りて敵の動きを拘束する、金縛りの降魔術。
響は視線を前方に据えたまま後ろに数歩下がり、牛鬼と充分な距離をとった。そうして、妖異へと向けていた腕を真上に上げる。
同時に、先ほど取り出した数珠を上空へ放り投げた。そして、目を瞑って静かに言霊を紡ぐ。
「鳴神よ、天駆ける一筋の煌めきよ。その一閃のもとに、悪しきものへと裁きを下せ――」
その瞬間、宙を舞っていた数珠がばっと弾け飛んだ。繋がるものをなくした珠は、しかし落下することなく、術で拘束された妖異の頭上で巨体を囲むように円を織り成した。
かっと目を見開き、響が掲げていた腕を一気に振り下ろす。
「雷神招来、急々如律令!」
叫び声と同時に、円を描いていた数珠が光を帯び、稲妻が迸った。十数個の珠が生み出した閃光は直下の牛鬼に突き刺さり、辺りを一瞬白く染め上げる。
断末魔の叫びが地を揺るがした。
牛鬼の背には、響が召喚した稲妻の焼け跡がある。それがじわじわと蝕むように牛鬼の身体に広がっていく。
牛鬼は裂けた口からよだれをまき散らし、血走った目を見開いて悶え苦しんでいる。
やがて焼け跡が全体を覆うと、牛鬼は動かなくなった。まもなく、妖異の巨体は砂がこぼれるように消えていく。
辺りに立ち込めていた妖気も消え失せ、平穏な空気が漂い始める。
「はぁ~~~~~……」
妖気が完全に消失したことを認め、響は緊張を解いて肺が空になるくらいの息を吐き出した。
『ふっ、まずまずと言ったところか』
その声に背後を顧みると、それまで一切手出しをしなかった氷輪がにやりと笑みを浮かべていた。
『この程度こなせないようであれば、我はとんだうつけを見込んでしまったことになるところであったぞ』
「…………」
響がしげしげと自分を眺めていることに気づき、氷輪は怪訝そうに首を傾げた。
『なんだ』
「や、氷輪の本性もだいぶアレだけど、こっちはまだ平気なんだよなーと思って」
初めはなんのことかわからなかった氷輪だが、響のグロいもの嫌いのことだと気づくとくわっと牙を剥いた。
『この不埒者めが! 我をあのような醜悪極まりないものと同視するとは何事か!』
いやだって、身体中に目が九個もあって角だっていくつも生やしてる生き物なんか普通気持ち悪いじゃん。
という言葉を響はすんでのところで飲み込んだ。これ以上言うと本気でへそを曲げてしまう。
冗談冗談と適当に謝る響に、ふんとそっぽを向いた氷輪の身体が突如白く光り出す。そして光が消えた時には巨大な姿はなく、代わりのように手のひらほどの大きさでちょこんと座る氷輪の姿があった。先ほどまでの凄烈な霊気はすっかりなりを潜めている。常時の姿に戻ったのだ。
その直後、ピシリと何かが割れるような乾いた音が響く。響が目を向けた先に、効力を失って地に転がっていた数珠があった。薄桃色だった珠はそのどれもが黒ずみ、ひびが走っている。
そして次の瞬間、十数個の珠は一斉に砕け散った。粉々に破砕した残骸は、夕陽を受けてキラキラときらめきながら風に流されていく。
「あの程度の術で、もう使い物にならなくなるのか」
「ま、百均のやつだしねー」
「仮にも降魔調伏は神聖な儀式のうちに数えられるであろう。だというのに、それに対して安価な媒体を使うというのはいかがなものか」
いささか渋い顔を作って呟く氷輪に、響はやれやれと首を振り、言い含めるように滔々と語り出す。
「あのね、ものすごーい霊力が込められた霊験あらたかな術具にいくらかかると思ってんの? あいにくそんなもんを買えるほど、この学生の身の上に金銭的余裕はないのです。てか、そんなご大層なもんがなくても、安物だろうとそれで術が出せるんだからなんの問題もないじゃん」
高級な降魔道具は維持費もばかにならない。手入れを怠れば、その術具が本来持っている力が衰えてしまうことだってあるのだ。
その点、百円均一など格安で簡単に手に入るものは、使用はほぼ一度きりの消耗品となってしまうが使い勝手がいいのだ。正当な降魔専用道具の購入価格とその後の維持費を考えれば、こちらのほうがコスパ的にも断然いい。
「それに、重要なのは道具じゃない。道具を扱う術者自身なんだよ」
いつになく真剣な面持ちで、きっぱりと言い切る。
そんな主をじっと見つめて、氷輪は漸う口を開いた。
「もっともらしいことを言っておるが、立派な術具が買えない自身を正当化したいだけではないか?」
少しの間が空く。
「そんなことないし」
発言とは裏腹に、響の顔は明後日の方へ向いている。
氷輪が疑わしい表情で主を見ていると、突然響の身体がふらっとよろめき地に手をついた。
「響? おい、どうした……っ」
先の戦闘でどこかやられたのだろうか。まさか躱したと思っていた毒を実は食らっていた、とかではないだろうな。
思わず駆け寄った氷輪に、屈み込んだ響が力の抜けた声をもらした。
「……っあー、だっる。つっかれたぁ、もー動きたくなぁい」
「…………」
氷輪は脱力のあまり、言葉を返す気力も湧かずに黙り込んだ。
この学生、強大な力を持つがいかんせん体力がない。ついでに緊張感もない。あるのはただ無気力だけだ。
無気力があるというのはまた矛盾しているな、などと益体もないことを思っていた氷輪はふと気配を感じ、がばっと顔を上げた。
「……? なに、どしたの」
突然氷輪の神経が尖ったことに気づいた響が目を向ける。
しばらく視線をある一点に向けたまま微動だにしなかった氷輪だが、やがて首を振った。
「……気のせいか」
頭を振った氷輪は、ふいに自分の身体が浮くのを感じた。
「ぬおっ」
何事かと氷輪は目を白黒させる。その眼前には据わった目をした響の顔。響が氷輪の首根っこをむんずと掴んで、自分の目の前にぶら下げたのだ。
「な、何をするのだっ、放せ!」
「人の質問ガン無視で、勝手に自己完結させるな。どうしたのかって聞いてるんだけど」
じたばたともがいていた氷輪だったが、やがて観念して呟いた。
「……何やら視線を感じた気がしたのだ」
「視線?」
響は先ほど氷輪が見ていた方向へ顔を向けた。しかし、特に変わったところは見受けられない。
「我の気のせいだったようだがな」
「どうせ氷輪を狙ったカラスかなんかじゃないの? こんなの食べたってお腹壊すだけだってのに」
「……前々から汝には言いたいことが山ほどあったのだ。まず我を開放し、そこへ直れ」
「やなこった」
「……っ、この……!」
「てか、さすがにもう帰んないと夕飯抜きになるし。やー、それにしてもホント身体重い。今夜はぐっすり眠れそー」
「ええい、ひとの話を聞け!」
短い手足を振り回してわめく氷輪を放り投げ、ものぐさな降魔術使いはよっこらせと立ち上がって伸びをした。
足元からやかましく何か聞こえるが、響は無視を決め込む。
やれやれ、思わぬできごとのせいでひどい目にあった。嘆息し、肩をぐるぐると回していた響の脳裏にふと引っかかるものがあった。
そもそもあんな巨大な妖異が、一体どこから出現した? 人里ならともかくこんな街外れの廃工場に出現する意味がわからない。
妖異は人を襲い、災厄を振りまくもの。ならばあの女子生徒たちを狙って?
もしくはその逆か。女子生徒たちが響と同様に妖気を感じて駆けつけたほうだろうか。
それにしてはお粗末なものだったが。降魔科生のくせに抵抗もせずに怯えてるだけってどうなんだ。もし、自分が来なかったらどうなっていたことか。
「…………」
これは、助けたことになるのだろうか。
妖異から人を助けるだなんて、これではまるで、降魔士のよう――。
「……っ」
響は慌てて頭を振って思考を打ち消す。違う、そんなんじゃない。今日のはたまたまだ。氷輪に唆されて、そうなってしまっただけだ。自分の意志で助けたかったわけじゃない。
自分は、ただ。
自分の身を守れさえすれば、それでいいのだから。
「っと、そうだ」
踵を返しかけた響は、自分が先ほど牛鬼の意識をこちらへ向けるために、隠形の術を解いてしまっていたことを思い出した。
いけないいけない、また面倒なことになるところだった。
空はすでに日が沈み、わずかに明るみを残すだけとなっている。じきに夜の帳が辺りを覆うだろう。そうすれば、魔の領分だ。
響は術をかけ直すと、ひょいと氷輪のほうに首を巡らす。
「氷輪ー、帰るよ」
声をかけ、響の頭上に飛び乗った氷輪はまだ憤然としていた。そんな式神を適当になだめすかしながら、響は今度こそその場をあとにした。
0
お気に入りに追加
21
あなたにおすすめの小説
隣の家に住むイクメンの正体は龍神様でした~社無しの神とちびっ子神使候補たち
鳴澤うた
キャラ文芸
失恋にストーカー。
心身ともにボロボロになった姉崎菜緒は、とうとう道端で倒れるように寝てしまって……。
悪夢にうなされる菜緒を夢の中で救ってくれたのはなんとお隣のイクメン、藤村辰巳だった。
辰巳と辰巳が世話する子供たちとなんだかんだと交流を深めていくけれど、子供たちはどこか不可思議だ。
それもそのはず、人の姿をとっているけれど辰巳も子供たちも人じゃない。
社を持たない龍神様とこれから神使となるため勉強中の動物たちだったのだ!
食に対し、こだわりの強い辰巳に神使候補の子供たちや見守っている神様たちはご不満で、今の現状を打破しようと菜緒を仲間に入れようと画策していて……
神様と作る二十四節気ごはんを召し上がれ!
私の入る余地なんてないことはわかってる。だけど……。
さくしゃ
恋愛
キャロルは知っていた。
許嫁であるリオンと、親友のサンが互いを想い合っていることを。
幼い頃からずっと想ってきたリオン、失いたくない大切な親友であるサン。キャロルは苦悩の末に、リオンへの想いを封じ、身を引くと決めていた——はずだった。
(ああ、もう、)
やり過ごせると思ってた。でも、そんなことを言われたら。
(ずるいよ……)
リオンはサンのことだけを見ていると思っていた。けれど——違った。
こんな私なんかのことを。
友情と恋情の狭間で揺れ動くキャロル、リオン、サンの想い。
彼らが最後に選ぶ答えとは——?
⚠️好みが非常に分かれる作品となっております。
仲町通りのアトリエ書房 -水彩絵師と白うさぎ付き-
橘花やよい
キャラ文芸
スランプ中の絵描き・絵莉が引っ越してきたのは、喋る白うさぎのいる長野の書店「兎ノ書房」。
心を癒し、夢と向き合い、人と繋がる、じんわりする物語。
pixivで連載していた小説を改稿して更新しています。
「第7回ほっこり・じんわり大賞」大賞をいただきました。
帝都の守護鬼は離縁前提の花嫁を求める
緋村燐
キャラ文芸
家の取り決めにより、五つのころから帝都を守護する鬼の花嫁となっていた櫻井琴子。
十六の年、しきたり通り一度も会ったことのない鬼との離縁の儀に臨む。
鬼の妖力を受けた櫻井の娘は強い異能持ちを産むと重宝されていたため、琴子も異能持ちの華族の家に嫁ぐ予定だったのだが……。
「幾星霜の年月……ずっと待っていた」
離縁するために初めて会った鬼・朱縁は琴子を望み、離縁しないと告げた。
後宮出入りの女商人 四神国の妃と消えた護符
washusatomi
キャラ文芸
西域の女商人白蘭は、董王朝の皇太后の護符の行方を追う。皇帝に自分の有能さを認めさせ、後宮出入りの女商人として生きていくために――。 そして奮闘する白蘭は、無骨な禁軍将軍と心を通わせるようになり……。
【完結】孤独な少年の心を癒した神社のあやかし達
フェア
キャラ文芸
小学校でいじめに遭って不登校になったショウが、中学入学後に両親が交通事故に遭ったことをきっかけに山奥の神社に預けられる。心優しい神主のタカヒロと奇妙奇天烈な妖怪達との交流で少しずつ心の傷を癒やしていく、ハートフルな物語。
*丁寧に描きすぎて、なかなか神社にたどり着いてないです。
おにぎり屋さんの裏稼業 〜お祓い請け賜わります〜
瀬崎由美
キャラ文芸
高校2年生の八神美琴は、幼い頃に両親を亡くしてからは祖母の真知子と、親戚のツバキと一緒に暮らしている。
大学通りにある屋敷の片隅で営んでいるオニギリ屋さん『おにひめ』は、気まぐれの営業ながらも学生達に人気のお店だ。でも、真知子の本業は人ならざるものを対処するお祓い屋。霊やあやかしにまつわる相談に訪れて来る人が後を絶たない。
そんなある日、祓いの仕事から戻って来た真知子が家の中で倒れてしまう。加齢による力の限界を感じた祖母から、美琴は祓いの力の継承を受ける。と、美琴はこれまで視えなかったモノが視えるようになり……。
第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞をいただきました。
コンフィズリィを削って a carillonist
梅室しば
キャラ文芸
【フキの花のオルゴールは、たった一つの抑止力だった。】
潟杜大学に通う学生・甘粕寛奈は、二年生に進級したばかりのある日、幼馴染から相談を持ちかけられる。大切なオルゴールの蓋が開かなくなってしまい、音色が聴けなくて困っているのだという。オルゴールを直すのを手伝ってくれるのなら、とびきりのお礼を用意しているのよ、と黒いセーラー服を着た幼馴染はたおやかに微笑んだ。「寛奈ちゃん、熊野史岐って人の事が好きなんでしょう? 一日一緒にいられるようにしてあげる」
※本作はホームページ及び「pixiv」「カクヨム」「小説家になろう」「エブリスタ」にも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる