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【陥穽篇】1.陰陽師の弟子
陰陽師の弟子 ☆壱
しおりを挟む薄暗い。
周囲にあるものが判然としなくなってきている。もう少し経てば辺りを暗闇が覆い、空に浮かぶ無数の星や月が輝きを見せ始めるだろう。もっとも、満月でもない限りは星影も月明かりも電灯代わりになりはしないだろうが。
ガサガサガサガサッ。
草の根をかき分けるような音がし、直後に木陰から飛び出してきた影がふたつ。
「――もーしつっこいなぁ」
うんざりしたようにぼやくと、別の声がした。
「不用意に隠形を解くからだ」
「わざと解いたんじゃないし。解けちゃったんだし」
むっとしたような声で返しながらも、一切気を抜かない。
息をひそめて慎重に辺りを窺っていると、ふいに背筋に冷たい何かが滑り落ちた。
「……っと!」
瞬時に飛び退ると、そのすぐ脇をものすごい速さで黒い影がよぎっていった。
「ほう、よく避けたな」
「茶化してないで、ちょっとは手伝ってくんない?」
「なぜ?」
「いやなぜって、式神だろ」
「そうだったか?」
「………………」
言い返しかけたが、そんな気力がない上に今はそんなことをしている場合ではない。先ほどよぎっていった影が目の前で、毛を逆立てながら唸っている。
人工の明かりが何ひとつない林の中、辺りはどんどん暗くなっていっているが、暗くても昼のように見渡せる 『夜目の術』というものを施しているので、そこは問題にならない。
改めて目前のそれを見る。
見てくれはトカゲのよう。しかし、毛が生えており、大型犬ほどの大きさで、肉を軽くさばけそうなほどの鋭利な爪を持っている。真っ赤な目を爛々とさせていた。
そして、なによりそれが醸し出している邪悪な気配。特殊な力を持つ者の目にしか映らない禍々しい気が、その全身から噴出していた。
明らかにこの世の生き物ではない。
「来るぞ」
飛びかかってきたトカゲもどきを、すんでのところで屈んで回避する。
バキバキバキッ! と背後から何かが破壊されるような音が、耳に飛び込んできた。
そちらへ視線を向けると、さっきまで自分が立っていた場所の真後ろにあった木が折れていた。
「――わぁ」
人間であればチェーンソーでもないと切り倒せないような木を、あの小さな形で体当たりひとつで倒してしまった。そんなものを人の身で食らっていたら、と思うと少しばかりひやっとする。
「気を抜くでない。次にああなるのは汝だぞ、響よ」
その言い草に、如月響は苛立たしげに声を荒げる。
「うるさいな……だったら氷輪がなんとかしてよ」
「人を頼るな」
「や、あんた人じゃないから」
『グルォオ――――――――!』
そんな緊張感に欠ける会話の間に割って入るように、叫び声が耳をつんざいた。
「そら、先方はお待ちかねだ。早々に調伏せよ」
「なんで上からなんだよ……」
ぶつぶつと文句を言いつつも、響は軽く深呼吸をして集中力を高める。それから、右手の人差し指と中指を立てて、刀に見立てた印――刀印を作った。
それと同時に、トカゲもどきが月光に牙を光らせ、襲いかかってきた。鋭利な爪が響めがけて伸びてくる。
早い――だが。
「臨、兵、闘、者、皆――」
こちらの方が一拍早い。
響は唱えながら、一言ごとに刀印を横に五回、縦に四回と交互に素早く動かし、九字を切る。
「陣、列、在、前!」
すると、響の眼前まで迫ったトカゲもどきが、響が織り成した不可視の障壁に阻まれ、弾き飛ばされた。
もんどりうって転がったトカゲもどきに狙いを澄まし、間髪入れずに真言を詠唱する。
「ノウマク・サマンダ・バザラダン・カン!」
刀印を標的に向けながら、鋭く言い放つ。
その瞬間、態勢を立て直して、今まさに再び襲いかからんとしていたトカゲもどきの動きがピタリと止まった。まるでなにかに絡みつけられ、四肢の動きを封じられたかのようだ。
トカゲもどきは必死にその呪縛を振り払おうともがくが、それ以上動くことができずにいる。もがきながらも、血走った目に凍てつくような輝きを放ち、響をギロリと睨みつけた。これがなかなかどうして迫力がある。
「やればできるではないか」
「氷輪が手伝ってくれてれば、もっと早くにできたんだけどねー」
「人のせいにするでないわ」
「だから、あんた人違うって」
再び埒もない会話をしていると、低い唸り声が耳に突き刺さった。
『ガルルルルルルッ……』
トカゲもどきが、恨みつらみのこもったような目でこちらを凝視していた。
『キ、サマ……ッ』
トカゲもどきが言葉を発すると、氷輪が尻尾を一振りする。
「ほう、こやつ人語を解せるのか」
呑気な声を無視し、響はトカゲのような姿をした妖異を見つめる。
『コノ術……降魔士カ……ッ』
「いや違うから」
『ナンダト……!?』
あっさり答えると、たどたどしく聞き取りづらい声に驚きが滲む。響は妖異から少し距離をとり、制服のスラックスのポケットから細長い紙切れ――霊符を抜き出した。
『降魔士デナイノナラ……何者ダ!』
「何者って言われてもなー……」
妖異の問いに、響はううんとしばし考える。
「なんだろ……降魔、の術を使う者? とか?」
『……ッ、フザケタ、コトヲ……!』
響の曖昧な言葉に、血走った眼で妖異が叫ぶ。
だってそうとしか答えられないし、と本人としては至って真面目に答えたつもりだったのだが、お気に召さなかったようだ。
『貴様ヲ……』
ふいに妖異がにたりと嗤う。
『貴様ヲ食ライ、更ナル力ヲ……ッ』
響は露骨に顔をしかめ、うんざりしたように嘆息する。
またそれか。
「響、もうよかろう」
「わかってるってーの」
気だるげに答え、響は妖異をひたと見据えた。
「悪いけど、食われてやるつもりなんてないから」
そうして降魔の術を使う者は目を閉じ、指に挟んだ符に霊力を込める。
「オン・マカラギャ・バザロシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャク・ウン・バン・コク!」
詠唱し、気合いもろとも一気に符を放った。
投げた符は直線を描いて飛び、トカゲもどきの額に張りつく。すると、そこから眩い閃光が放たれた。
『ギィイァア――――――――――!』
思わず耳を塞ぎたくなるほどのすさまじい咆哮が響き渡った。
キーンと耳鳴りが木霊し、響は思わず耳をおさえた。すごい声だ。普通のトカゲはそんな声を出しはしない。たぶん。
やがて苦しそうに身をよじっていたトカゲもどきの輪郭が徐々にぼやけていき、溶けるように消えていった。
「ふう……」
響は額に滲んだ汗を拭った。
「ようやく終わったか」
息を吐いていると、足元から声が聞こえてきた。
「まあ、まずまずといったところだな」
「なぁにを偉そうに。結局氷輪はなんもしなかったじゃん」
「ふん、あの程度の雑魚の一匹や二匹で我の助けがいるようでは、この先が思いやられ……」
「あーはいはいもういいでーす」
滔々と語る声を遮り、響は再び息を吐いてしゃがみこんだ。そして、足元にいたものを拾い上げる。
持ち上げたものを前にかざして、しげしげと眺める。
それは、子牛に似た形状をしていた。あくまで限りなく子牛に近いというだけで、実在の該当動物とはだいぶ毛色が違う。
大人の手のひらほどの大きさで、金色の大きな目に明るい灰白色のふさふさとした毛並みだ。背中にはいぼのようなぼっちが四つあり、額にひとつと胴体の複数個所に短めの横線のような不可思議な赤い文様がある。
この世の生物のどれにも当てはまらない様相のこの生き物も、先ほどのトカゲもどきも、人々から恐れられる人外の化生だ。
ぽってりとした図体で蹄のついた短い脚をぶらーんとさせていたそれは目をしばたたかせると、不遜に口端を吊り上げた。
「なんだ、我の美しさに見蕩れておるのか?」
「…………」
響は無言で手を離した。べしゃっと何かが潰れるような音が聞こえたような気がしたが、気にしない。
こんなふざけた生き物が実はかの有名な霊獣だなんて、誰が思うだろうか。響自身、いまだに半信半疑なのだ。世の不条理を感じざるを得ない。
「……なぁぁんんんじぃぃぃぃ」
この世の不思議について響が思考を巡らせていると、地の底から這うようなおどろおどろしい声が足元から聞こえてきた。
視線を下げると、据わった目でこちらを仰いでいる狛犬もどきが。なんだコレ。いつの間にこんなところに。
「存在自体をなかったことにするでないわ!」
何も言っていないが視線でわかったのか、子牛もどき――氷輪が吠える。
「響よ、この偉大なる我に対して、よくもこのような無礼極まりない振る舞いができるな。汝のような人間は初めてだぞ」
「はいはい、それは身に余る光栄でーす」
「褒めておらぬわ!」
がおうと吠える声を気にもせず、響はぐるぐる肩を回す。
「我を一体なんと心得る! 常ならば、汝ごとき人間風情が口をきける存在ではないのだぞ!」
「はいはい」
怒れる氷輪を、響が適当にいなす。『氷輪』というのは、この妖異が式神となる際に響が与えた名だった。
星がチカチカと瞬き始めた上空をちらと見やり、なおもぎゃんぎゃんと言い募っている氷輪をさらりと無視して、響は少し離れたところに転がっている自分の荷物のもとに向かった。
響は学生の身。それも高校生だ。明日も普通に授業があり、いつまでもこんなところにいるわけにはいかない。早急に帰らねば。
それに、日が沈んだ林の中というのは存外怖い。ましてやこの時間は、『逢魔ヶ時』と呼ばれる時間帯。読んで字のごとく、魔や災いに逢うと言われる時刻。つまり、獣や人ならざる〝モノ〟達が活動し始める時刻なのである。
「あーあ、もうこんな時間だ……。早く帰らないと夕飯抜きになっちゃう」
指定鞄を拾い上げた響は、適当にパタパタと土埃を払い落として左肩にかけた。
すると、文句に疲れて諦めた氷輪が見た目に反して軽々跳躍し、響の鞄の上に収まった。ここが氷輪の普段からの定位置である。
氷輪は妖異なのでたいした重さを感じない。これが一番楽な形なのだ。
「ところで響よ。どうするのだ?」
左脇から氷輪が首を巡らせて尋ねてきた。意味がわからず、響ははてと小首を傾げた。
「どうするって、何が?」
「この有様に決まっておろう」
言われて響が周囲を見渡すと、木が何本も折れたり土が抉られたりしていた。
あのトカゲもどきが暴れまわった爪痕だ。まるで嵐が去ったあとかのようなひどい惨状である。
…………。
「よし、帰るか」
「見なかったことにするつもりか」
「仕方ない。こっちにできるのは妖異を祓うことだけ。壊れたものを直すことはできないし」
「ほう。して、本音は?」
「色々めんどくさい」
出た、響の十八番『めんどくさい』。
予想通りの言葉に氷輪は嘆息した。この人間はなにかと面倒がる節があるのだ。
「まぁ、あとは任せよ」
「誰に」
「なんとかしてくれそうな人……とか?」
「えらく適当だな」
「ま、なんとかなるって」
「汝な……」
「さ、帰ろ帰ろ。もうお腹減りすぎて死にそー」
まだ何か言いたげな式神から意識を逸らし、響はその場を後にした。
神代より幾星霜、妖怪変化や魑魅魍魎の類が二十一世紀の現代日本においてもなお、全国各地で跋扈《ばっこ》していた。
そういった人外の異形の総称として『妖異』と呼ばれるそれらは、人に仇なすものたちだ。人家を襲い、家畜や人を食らい、厄災をもたらす。
そんな世の中で、その悪しきものたちを退け、調伏することを生業とした『降魔士』という存在が人々の安寧を守っている。
降魔士の前身は陰陽師。陰陽師は気象や吉凶を占うことを主な責務としていた国家の役職だが、ときには呪術を使って妖異を祓うこともあった。
今から約百五十年前の明治初期、政府の改革によって数多くの陰陽師が所属していた機関『陰陽寮』が廃止された。
陰陽寮が解体されたことに伴い、陰陽師という職業も自然消滅していったが、それまで陰陽師が一手に担っていた占術系統と妖異調伏系統が分離し、それぞれが個別の専門職となった。
その中で、妖異退治を務める役職は名を改め、今現在も活躍している。
高い霊力を持ち、常人の目には映らない妖異や霊気を視る力があり、妖異を調伏する呪法たる降魔術を操り、人々の暮らしを守る。
それが、降魔士という存在なのだった。
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