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7.魚心と水心
しおりを挟む「え、お母さん!?」
俺は思わず素っ頓狂な声を上げ、入ってきた人物に視線を戻した。
四十代前後と思しき女性が険しい表情で卓也をじっと見つめている。一方、卓也のほうは怯えたように縮こまり、目をウロウロとさせていた。
「栄路くん、こっち」
「おわっ」
海涼さんに袖を引かれ、俺はそのままカウンターの奥まで連れていかれた。
状況がまったく呑み込めていない。海涼さんは至って冷静で涼しげだが、俺は混乱を極めている。
こんな偶然があるか? まさか、これが今回の精霊の祝福なのか? 精霊の力で母親を引き寄せた、とか。だって、そうでもないとこんな狙ったかのような状況になるとは到底思えない。
「ひとまず、私たちは黙って見守りましょう」
そう言われてしまえば何も言えない。俺は込み上げる疑問の数々を喉の奥にねじ込み、海涼さんとともにそっとフロアの様子を窺うことにした。
余談だが、海涼さんの腕の中にいつの間にかちゃっかりとメルが収まっていた。一切鳴くことなく大人しているメルは、成り行きを静かに見守る気のようだった。この落ち着き様、やっぱりこいつのほうが兄貴なのかもしれない。
「…………」
「…………」
沈黙が続き、重苦しい空気が室内に澱んでいる。外が雨ということもあり、それがより目に見えてわかるようだった。
俺はハラハラとしながら眺めていることしかできない。がんばれ、卓也……!
しばらくして、ようやく気まずい沈黙が破られた。
「お母さん、あの……」
口火を切ったのは卓也だ。勇気を振り絞って声を出したのだろうが、何を言うかまとまっていなかったのか続く言葉が出てこない。
「……その手に持ってるものは?」
口をパクパクさせ必死に言葉を探す卓也に、卓也母がふいに話しかけた。
「え、あ、これは――」
卓也が答えようとしたその時、アロマキャンドルがぽうっと光を宿した。
息を呑んだ俺の鼻に、微かな甘い匂いが触れた。これは……もしや、バニラか? ってことは、あのアロマキャンドルの香りじゃないか。
本来なら、こんな香りが広がるはずない。だって、火がついていないのは当然として、瓶の口すら封じられたままだ。本体に鼻を近づけたのならまだしも、そんな状態で香りがここまで届いてくることなんて、本来ならあり得ないはずだ。
だが、それを可能にしたのが、あれに宿った精霊の力。精霊の祝福が作用したからに他ならない。
フロアに焦点を戻すと、視線の先で卓也母が瞠目している。あの反応には見覚えがあった。樋口さんの時とまったく同じ。とすると、卓也母の反応は、おそらくこのバニラの香りに対してだろう。
「お母さん、ごめんなさい! お、怒ってる、よな……?」
ついに卓也が謝った。一度言葉を発したおかげか、彼はその勢いのまま言葉を続ける。
「あれ、本心じゃなくって、ついカッとなって言っちゃっただけなんだ……! おれ、最低なこと言った……反省してる。あの、だから、本当にごめん!」
卓也が精いっぱい言葉を尽くして謝るが、卓也母はびくともしない。言葉を発しない母に、卓也が怯んだように肩を縮こませている。
やがて卓也母は我に返ると、泣き出しそうな顔をしている息子を見て顔を俯かせた。
「……バカ」
「お母――」
「私が怒ってるのは、あんたがこんな雨の中傘もささずに飛び出していったことよ!」
叫ぶように言って、卓也母は卓也を引き寄せるようにしてぎゅっと抱きしめた。突然のことに、卓也は戸惑いを隠せずにいる。
「どれだけ心配したかわかってるの!? こんなに身体濡らして! 風邪引いたらどうするのよ!」
「ご、ごめ……」
「でも、無事でよかった……っ」
続けられた言葉は、心の底から出たような声音だった。卓也ははっとした表情を浮かべ、それから顔をくしゃっと歪めると母の身体を抱き返した。微かにすすり泣くような声が聞こえてくる。
……なんか、俺までもらい泣きしそうだ。感動的な場面に水を差したくないからなんとか堪える。
少しして二人は身体を離すと、卓也がずっと手に持ったままだったアロマキャンドルをおずおずと母親に差し出した。
「お母さん、あの、これ……」
「え、私に?」
「えっと、お詫びっていうか……いつも、あ、ありがとう……」
卓也が照れ隠し気味にそう言う。まるで母の日のプレゼントかのようだ。卓也母は卓也とその手にあるものを交互に見比べると、やがて嬉しそうに顔を綻ばせながらプレゼントを受け取った。
「ありがとう。これは何?」
「アロマキャンドルって言うらしくて──」
卓也が海涼さんから受けた説明を母親にしてやっている。それを聞いている母親の表情はとても柔らかかった。
先ほどとは一転、穏やかな空気が流れ始めた──と思いきや、突如としてカランとドアベルが鳴ると同時に、入り口の扉が勢いよく開いた。
「卓也、こんなとこにいたのかよ!」
「このっ、驚かせやがって!」
卓也と同じぐらいの年頃の二人の男子だった。彼らは肩で息をしており、ズボンの裾の色が変わっていた。濡れた地面を走ってきたようだ。
「え、え? なんで、お前らが……」
卓也が目を見開いて困惑している。そんな彼に、二人の男子は詰め寄るようにして言い募った。
「お前の母ちゃんから聞いたんだよ! 卓也がどこに行ったか知らないかって」
「そうだぞ、それであっちこっち探してたんだからな!」
どうやら、卓也の同級生らしい。いなくなった卓也を一緒に探してくれていたようだ。もしかして、この二人がつい意地を張って嘘をついてしまったという友達だろうか。
「……ごめん」
そう思っていると、卓也とバチッと目が合った。俺は顎でクイッと友達を示した。卓也ははっとすると頷いて、二人に向き直った。
「あ、あと、二人に謝らなきゃいけないことがあって……」
一旦そこで言葉を切った卓也は、ぎゅっと目をつぶり、そして口を開いた。
「前レアカード持ってるって言ったけど、実はあれ……ウソ、なんだ! ほんとは持ってなくって。えっと、だから、ウソなんかついて、ごめん!」
卓也ががばっと頭を下げる。遠目からでも、握られた拳が震えているのがわかった。もしかしたら、嫌われるかもしれない。友達を失くしてしまうかもしれない恐怖を抱えて、それでも卓也は勇気を振り絞った。
「バーカ、知ってるよそんなこと」
「……え?」
しかし、二人の友人は怒った風もなく、呆れたような顔をしていた。
「あのなぁ、何年の付き合いだと思ってんだよ? お前のウソぐらいわかるっつーの」
「そーそー。俺だって本気にしてなかったぜ。だって、卓也ウソ下手だし」
「なっ、お、お前らなぁ!」
散々な言い草に、卓也が思わずといった感じで声を荒げる。しかし、嘘をついたこと自体は完全に卓也が悪いし、本人も自覚があるからかそれ以上言葉を続けられずにいる。
「……でも、ごめんな」
「え?」
「いや、まさか、お前がそこまで悩んでたなんて思わなくってさ……」
「俺たちも意地悪だったかもなって話してたんだ。だから、俺たちもごめん」
からかいから一転、二人が後悔の滲んだ表情を浮かべて卓也に謝った。その反応は予想外だったのか、今度は卓也が態度を一転させ、い、いいって、悪いのはおれだし……とばつが悪そうに頭を掻いている。
「よし。じゃあ、これで仲直りだな」
「俺たちは気にしてないし、卓也ももう気にすんなよ」
友人二人がニッと笑い、拳を突き出す。すると、ようやく卓也も笑顔を浮かべた。
「うん!」
そうして自身の拳を当て、三人で笑い合った。きっと、仲間内で日常的にやっているサインか何かなのだろう。これぞまさに青春であろう。
その時、卓也母が持っていたアロマキャンドルから光が抜け出した。精霊だ。以前見た時と同じように、精霊はパチッと泡が弾けるようにして消えた。
迷いの根源がなくなり、精霊もまた役割を終えて消失した。海涼さん風に言うと、精霊が迷いを連れて行ったことにより、一連は丸く収まったのだった。
「この度は、うちの息子が大変ご迷惑をおかけしました」
場が少し落ち着きを取り戻した頃、卓也母が俺たちに向けて深々と頭を下げた。その横で、卓也も慌てて頭を下げる。なぜか、友人の二人も同じようにしている。いい友達だな。
「いいえ、無事に仲直りできたようで何よりです」
海涼さんが首を振ってやんわりと微笑む。卓也母はもう一度頭を下げた。
そうして、卓也の友人二人は先に外に出て行った。その時に外がちらっと見えたが、朝から降り続いていた雨脚はだいぶ弱まっており、空も心なしか明るくなっていた気がした。じきに止みそうな雰囲気だったのだ。
「よかったな、卓也」
俺の言葉に卓也は大きく頷いた。その表情は嬉しそうに緩んでいる。ここに来たときとは正反対に、晴れやかな表情になっていた。
「あの、おれ、こんなに迷ってバカだったなって」
こんなことなら、もっと早くに言えばよかった。
そう続けられた言葉はおそらく友達とのことだろう。たしかに、そうしていれば母親と喧嘩することもなかったかもしれない。
しかし、海涼さんはそんなことないわと首を振った。
「あまり自分を責めないでね。卓也くんはしっかり向き合えたんだから」
卓也が照れくさそうに後頭部を掻く。そんな卓也に、海涼さんは言葉を繋ぐ。
「ご家族と、それからお友達を大切にね」
「は、はい!」
卓也は元気に返事をすると、ぺこりと頭を下げてこちらに背を向ける。そして、店内のテーブル席に座っている母親のほうを見た。
「お母さん、帰ろうよ」
「お母さんはまだ用事があるから、卓也はお友達と一緒に先に行ってなさい」
「? わかった」
そうして、卓也は友達が待つ外に出て行った。閉まった扉越しに騒がしい声が聞こえてくる。男子三人で盛り上がっているのだろう。
在りし日の俺たちを見ているようだった。俺の脳裏に地元でよくつるんでいた三人の顔が浮かぶ。あいつらも、卓也の友人たちみたいな連中だった。ウマが合って、くだらないことでバカ笑いして、なんだかんだ一番楽しい場所だった。
……などとしんみりしてしまっているが、俺がやつらと離れてからまだ半年も経っていない。無論、今生の別れをしたわけでもないし、連絡を取ろうと思えばすぐに取って会える。
けれど、そんな短い期間が随分と昔のことのようだと感じてしまっている。俺の生活は大学入学でガラリと変わってしまったから、懐かしい気持ちになってしまっているのかもしれない。
大学でも友人知人が何人も増えた。今までつるんだことのないタイプの友人もできた。でも、だからこそ、こうも思ってしまう。ああ、やっぱ何年も付き合いのある友達っていいもんだな、と。
「すみません、木下さん。お待たせしました」
カウンターに移動していた海涼さんが、小さな紙袋を持って卓也母のもとに向かう。その中には、卓也がプレゼントしたアロマキャンドルが入っている。
海涼さんが何か袋に入れると言って、少し待ってもらっていたのだ。卓也がこれを母親にプレゼントすると決めた直後に、母親のほうが来てしまったため裸のままだった。さすがは海涼さんだ。俺なんてまったく気がつきもしなかった。反省せねば。
「わざわざすみません。ありがとうございます」
卓也母は立ち上がってその紙袋を受け取った。そして、それに視線を落とし、ふっと表情を和らげた。
「変なことを言いますが、このアロマキャンドルから懐かしい匂いが漂って来たんです」
蓋も空いていないのに、変な話ですよね、と卓也母は苦笑した。俺たちは何も言わない。なぜなら、それが事実で精霊の仕業だと知っているからだ。
「それで、香ったこの匂いでふと思い出したんですよ」
卓也がまだ小さな子どもだった時に使っていた柔軟剤の香り。今はもう変えてしまったけれど、あの匂いにひどく似ていたのだという。
「なんだか懐かしい気持ちになりました」
「子どもの成長は早いですものね」
海涼さんがくすくす笑うと、本当にと同意した卓也母は優しい母親の表情を浮かべていた。
「何から何まで本当にお世話になりました。大切に使わせていただきます」
「ありがとうございます。ぜひ、そうしてあげてください」
卓也母ははいと頷き、ぺこりと頭を下げた。その仕草が先ほどの卓也を彷彿とさせ、やはり親子なのだなと思い頬が緩む。
そして、卓也母も店を出て行き、【Glace】は穏やかな静寂を取り戻した。店内の精霊たちもまた、いつのまにやら常時の自由遊泳に戻っている。
「ふぅ~……」
俺はなんだか気が抜けて、盛大に息を吐き出してしまった。ほんの数時間で濃厚な時間を過ごした。まるで嵐が去ったかのようで、どっと疲れが出たのだ。
テーブルに片手をついて休んでいる俺に涼やかな声がかかる。
「栄路くん、お疲れ様」
「あ、すんません。何もしてないくせにこんな疲れた感じ出しちゃって……」
「そんなことないわ。栄路くんがお話を聞いてくれたから、卓也くんも安心できたんだと思う。きっと、私じゃ上手くいかなかった」
絶対にそんなことはない。海涼さんは聞き上手だということは、バイト中に会話をしている俺が一番よくわかっている。
海涼さんは俺に気を遣ってくれたのだろう。本当に俺は何もしていないのだが、彼女の優しさを無下にするのはよくない。俺は出かけた否定の言葉を飲み込んで、役に立ったならよかったですとだけ言って受け止めておくことにした。
「メルもお手柄ね。偉いわ」
海涼さんは、いつの間にやらテーブルの上に乗っかっていたメルを撫でた。メルがフニャッと嬉しそうに鳴く。
海涼さんの言うとおり、メルが外に出ようとしなければ卓也の存在に気づけなかっただろう。なんでわかったのか――などとは聞くまい。聞いたところでメルは猫だから答えられないし、もはやこれがメルの能力なのであると受け入れたほうが楽だ、いろいろと。
うんうんと頷いていた俺だったが、はたと思い出した。
「てか、そうだ。海涼さんは、なんでわかったんですか?」
「うん?」
「卓也の母親のことですよ。来ることがわかってたみたいでしたけど……」
安堵の気持ちが大きすぎてすっかり忘れていたが、卓也母がここにやってきたことが今のところ一番の謎だった。
俺の疑問に、海涼さんはああと思い至ったようで、あっさり種明かしを披露してくれた。
「私が連れてきたの」
「……ど、どうやって?」
おかしいな、疑問が増えてしまった。これならまだ精霊の力と言われたほうが信憑性がある。海涼さんってどこか不思議な雰囲気あるし。自分には特になんの力もないとは言っていたが、やっぱり彼女にも相応の能力的な何かがあるのでは……。
俺のおっかなびっくりな視線を受けて、海涼さんは笑いながら言葉を続けた。
「実は、この辺で卓也くんを何度か見かけたことがあるの」
「え、そうなんですか?」
海涼さん曰く、卓也はこの辺に住んでいるらしい。店の前を通りかかるのを海涼さんは何度も目撃していたのだそうだ。
「もちろん、卓也くんのお家がどこにあるかまでは知らないんだけど」
卓也を俺に任せて外に出た海涼さんは、この周辺を歩いていた。そうして、さほど時間を置かずにひとりの女性を見つけた。傘をさして何かを探すようにキョロキョロしているのを見て、彼女が卓也の母親で、息子を探しているのだとすぐにわかった。
それで声をかけ、卓也が【Glace】にいることを伝えたらしい。向こうも海涼さんが近所の雑貨屋で働いていることを知っていたようで、特に疑うことなく信じたそうだ。
「で、十分ぐらいしたら入ってきてくださいってお願いしたのよ」
それがちょうどあのタイミングだったのか。海涼さんのタイムキーパーが的確過ぎて怖いぐらいだ。
そして、海涼さんが外に出た理由がようやくわかった。あの時、なぜ外なのだろうかと一瞬引っかかりはしたのだが、卓也のこともあったためあまり深く考えなかった。海涼さんは卓也が近所の子だと知っていたからこそ、誰か家族が探しているかもしれないと踏んだのだ。海涼さんのその予想は見事的中。そして、卓也母を卓也と引き合わせることができたというわけだ。
俺は心底感心した。やっぱり海涼さんはすごい。勘が良いだけでなく、自分の知見や経験則などから予想を導き出した。なんて聡明な人なんだろうか。逆に魔法よりもすごいと思う。
「でも、お友達が来たのにはびっくりしたけど」
そんな海涼さんでも、それは予想外だったらしい。おかしそうに笑っている海涼さんに、俺はたしかにと頷いた。
「……いい友達ですね」
「ええ、本当にね」
卓也は本当にいい友達を持っている。それは、卓也自身もいいやつだからだ。でなければ、こんな雨の中探してくれたりなどしないだろう。
そこで、ふと考える。俺の昔馴染みたちならどうだろうかと。もし卓也と同じような状態になった時、あいつらは俺を探してくれるだろうか。昔の俺だったのならば、間違いなく探してくれる。そう言い切れる自信があった。
けれど、今の俺は? 大学デビューで変わった気になって、旧友との関係をおざなりにした俺だとしたら、果たして探してもらえるのだろうか。
閉店作業をしながら見た窓の外では、雨は止み晴れ間が覗き始めている。だというのに、俺の心は依然として雲がかかったようだった。
▼ ▼
「――こ、こんにちは」
よく晴れた空の下、【Glace】開店準備のために店先で掃き掃除していた俺の背中に突然声がかかった。
振り返って視界に入った人物に、俺はおっと目を見開く。
「卓也じゃねーか」
卓也の一件があったのは一昨日。実に一日ぶりだった。
「どうだ、その後の調子は。特に問題はないか?」
「はい、おかげさまで」
頷く目の前の卓也にはあの時の影がなく、本当に上手くやれているようだった。まぁ、実はちょっと知っていたけど。
というのも、昨日卓也の母親が【Glace】を訪れた。迷惑をかけたお詫びと言うことで、菓子折りを持ってきてくれたのだ。
卓也母の話し相手は主に海涼さんが行い、俺はその会話を遠巻きに聞いていた。そして、その会話の中で卓也の話題が出たのだ。海涼さんが卓也の様子を聞くと、朝から友達と遊びに行ったとのことで、わだかまりのせいでしばらく遊べていなかった分をさっそく取り戻しそうとしているようだった。
「そうか。よかったな」
俺がそう言うと、卓也ははいと素直に頷いた。
「今日も遊びに行くのか?」
「そうなんですけど……その前に、お兄さんに用があって」
「俺に?」
はてと首を傾げると、卓也は肩にかけていたショルダーバッグから財布を取り出した。
「あの、お金、返しに来ました」
「お金?」
「アロマキャンドルの……」
「……あー」
思い出した。そういえば、仲直りできたら貸した金を返しに来いとかなんとか言ったっけか。すっかり忘れていた。
「本当は封筒か何かに入れて持って来たほうがよかったんですけど、いくらだったか忘れちゃって……。あの、値段教えてもらえませんか?」
「や、いいって。気にすんなよ」
あの時ああ言ったのは、卓也がプレゼントを躊躇するのを阻止する意味合いもあった。ああ言えば断りづらかろうという打算があっただけだ。だから、端から金を返してもらおうなんて思っていなかった。
だが、卓也は本気にしたらしい。別にそのまま忘れ去られていてもよかったのだが、卓也は律儀に返しに来てくれた。その気持さえ見られれば十分だ。
「え、でも、そんな……」
困惑する卓也に、俺は肩をすくめた。
「本当に気にしなくていいんだ。なんだ、その、俺からの餞別ってことにしといてくれよ」
実を言うと想像よりもけっこういい値段がしたのだが、まがいなりにもバイトをしている俺でさえこうなのだ。収入源がお年玉か、たまのお小遣いぐらいしかない中学生に払わせるわけにもいかないだろう。プレゼントを提案したのは俺なんだし、ここは責任持って最後までかっこつけるとしよう。
「か、かっけぇ……」
ん? と思って焦点を合わせると、卓也が何やら熱い視線を俺に向けている。
なんだか既視感があるような……。そう思って少し考え、思い当たった。この視線、真木にそっくりなのだ。あのキラキラとした尊敬のような眼差しを、卓也もしていた。
俺が一瞬たじろぐと、はっと我に返った卓也が慌ててがばっと頭を下げた。
「ありがとうございます! このご恩は一生忘れません!」
「お、おう」
一生はちょっと大げさな気はするが、気圧された俺は頷くことしかできない。
「あの、お兄さんって高校生ですか?」
「いや、一応大学生だ。一年生だけどな」
俺は苦笑交じりに答える。ぶっちゃけ高校生と大学生ってそんな見分けつかないよな。実際、俺は半年前までは高校生だったわけだし。
「だ、大学生……!」
ますますかっけぇ、と卓也がキラキラの目を向けてくる。ま、眩しい……てか、なんだ? こう、むず痒いな。
「ほ、ほら、行かなくていいのか?」
友達と約束してんだろ? と言うと、卓也はそうだったと気づいたようだ。一瞬去りかけた卓也だったが、ふいに俺を真っ直ぐ見つめてきた。
「おれ、お兄さんみたいになれるよう頑張ります!」
「ええ……!?」
卓也は再びがばっと頭を下げると、驚く俺に背を向けて駆けて行った。
元気のいい奴だ……てか、卓也ってああいうキャラなのか? いやそれはともかく、もしかしなくても、俺、カッコつけすぎたか……?
がりがりと後頭部を掻く。意図せず、真木二号ができあがってしまった。やめてくれ、本当に俺はそんな大した人間じゃないんだ──そう思う気持ちはあるのに、どこか照れくさくてあまり悪い気はしなかった。
「っと、いけね」
気づけば開店時間を数分オーバーしていた。俺は慌てて扉にかかっている木の板を「OPEN」へと変える。
「誰か来ていたの?」
店内に戻った俺は、メルを抱えた海涼さんにそう尋ねられ、はいと頷いた。
「卓也が通りかかって。それでちょっと話してたんですけど、そのせいで遅くなっちゃいました」
すみませんと謝ると、海涼さんは首を振った。
「いいのよ。卓也くん、大丈夫そうだった?」
「はい、これから友達と遊びに行くそうです」
「そう。卓也くんが元気になってよかったわ」
「そうですね」
何はともあれ、精霊の祝福のおかげもあって卓也の一件はベストなところに落ち着いた。そういえば、今回は目の当たりにできないものとばかり思っていたが、予想外のできごとが重なった結果、奇しくもその瞬間に居合わせることができた。
今回は香りで、木下親子を結び付けた。また、母親と和解したことがきっかけで、卓也は友人たちへ正直に話をすることができて仲直りするに至った。
まだ二回しか経験していないうえでの勝手な推測だが、精霊の祝福というのは思ったよりも些細なもののようだ。精霊の存在を知らない一般人からは、少し不思議な、でも強い違和感を覚えるほどではないほどの、ほんの些細なできごと。海涼さんが背中を押すと言っていたが、まさしくそのとおりのことを精霊はしてくれる。
「卓也くんは、考えすぎちゃったのかもね」
あのくらいの歳の子は仕方のないことだけど、と海涼さんが言い、俺もそれに同意する。中学生は特に思春期および反抗期真っ盛りで、身体だけでなく心も未成熟な状態だ。小さなことでも深く考えすぎたり、意固地になってしまったりで、結果的にうまくいかないことが多々出てくる。
……まぁ、大学生であるはずの俺も、今まさにそれにぶち当たっている。卓也よりも少しばかり先を生きているというのに。
少し落ち込んでいる俺の耳に、海涼さんの声がすっと入り込んできた。
「たとえ喧嘩したりわだかまりがあったとしても、人の縁はそんなに簡単に切れないわ。それが家族や友達といった強く大切な絆ほどなおさらね」
海涼さんが穏やかな表情でメルを撫でながら、優しく言葉を紡ぐ。
「誠意をもって相手に接すれば、相手もまたその誠意にはきっと答えてくれる。もちろん全員が全員というわけじゃないけど、自分のことを想ってくれている相手なら気持ちは必ず届くはずよ」
「…………」
――たとえ喧嘩したりわだかまりがあったとしても、人の縁はそんなに簡単に切れないわ。それが家族や友達といった強く大切な絆ほどなおさらね
海涼さんのその言葉は、俺の胸に重く響いた。卓也は勇気を振り絞って一歩踏み出した。精霊の祝福もあったとはいえ、卓也は進むことができたのだ。
――それなのに、仲直りを促した俺がこのままでいいのか? 本当に?
俺みたいになりたいと、純真無垢な気持ちをぶつけてきた中学生が頑張っているのに、俺は立ち止まったままで本当にいいのか?
「わっ、メル?」
メルが俺の肩に乗ったかと思うと、尻尾でぱしぱしと俺の背中を叩いてきた。一瞬何事かと思ったが、なんとなくわかってしまった。
「……そう、だよな。今度は俺の番だ」
メルは文字通り俺の背中を叩いた。それが意味することに気づいた俺の中で、不思議と決意が固まっていった。
「ありがとな、メル」
俺が礼を言うと、メルはフニャッと力強く鳴いた。心なしかオッドアイの両目が細められている気がする。まるで、エールを送ってくれているかのようだ。
ちぇっ、兄貴面しやがって。ちょっと生意気だけど、今はそれが心強く温かかった。
メルと笑い合っていた俺は気がつかなかった。海涼さんが俺を優しげな眼差しで見つめ、がんばれと口を動かしたことに。
「さて。明日から連休だし、今日も一日よろしくね、栄路くん」
「はい!」
海涼さんの声掛けに返事し、俺は店内掃除の準備に取り掛かる。はたきを手に取りつつ、連休で自身のやるべきことについて考えを巡らせるのだった。
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