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フェルナン王の戴冠式の日のことをジュールはまだ鮮明に覚えている。
先代国王と王太子の死という立て続けの不幸があったことから、民に安心を与えなくてはならないと、戴冠式は急がれた。
そして、父と兄の喪が開けてすぐに略式で決行された。人々は頼りない若き国王であっても歓声で迎えてくれた。
幼い頃から父や兄から、王冠にはある仕掛けが施されていると聞かされていた。
正しい王でなければ、王冠を被ることはできないのだと。だから立王太子の際に非公式に王冠を被らせる儀式があるのだそうだ。戴冠式のときに正しい王ではないと示されたら国家の威信にかかわるからと。
けれど、王太子として育てられていなかったフェルナンはいきなり本番で王冠を戴くことになってしまった。
正直なところ、あの時は教わった段取りを間違えるよりも、王冠の存在が怖かった。
父と兄の急死で即位することになった自分が、正しい王かどうかなど断言できるだろうか。雷でも降ってきて、お前はふさわしくない、とか拒まれたらどうすればいいのか。
結局のところ先代国王の血筋を引いているかどうかという意味だったと、後で聞かされたが、その時は何も知らなかったのだ。それほどフェルナンは王位とは無縁だった。
ゆっくりと恭しく差し出された儀礼用の王冠は見た目よりも重く、そして……。
それが頭に載せられた瞬間、膨大な情報が頭の中に流れ込んできた。そして、誰のものともつかない声が頭上から響いてきた。
ほんの一瞬の出来事だった。次の瞬間大きな拍手と歓声が会場内に響き渡った。
……ああ、王に認められたのか。僕は王であってもいいのか。
そう安堵してこぼれた笑みは周りの人々を魅了するほど美しかったと後々まで語られたが、本人はまったく気づいていなかった。
そんな思いをさせられた王冠をジュールが見間違えるはずもなかった。というより、明らかにそれは別物だった。
「……どうしてこんなバレバレな偽物持ってくるのかな」
シモンはもちろん、本物を見たことがあるサシャも首を横に振った。
ロラン司祭長から大公側の使者が王冠を届けに来たと連絡を受けて、確認に来たジュールたちは一瞥して溜め息をついた。
おそらく肖像画を参考に複製をつくらせたのだろうが、これは違う。
「今まで教会側が渋った理由がわかった気がする。……大公は戴冠式に使う王冠がどれだか知らないのかな」
ジュールが呟くとサシャが驚いた顔をした。
「え? 王冠って一つじゃないんですか?」
「一つじゃないよ。現存してるのは宝物庫に保管してるはずだ。戴冠式とかで使われる儀礼用の王冠と、通常の行事で使われるもの、あとは代々の国王が自分の好みで作らせたものがいくつかあるけど……」
シモンがやんわりとジュールの言葉を補足した。
「儀礼用の王冠はとても重いので、代々の国王陛下は日常の行事で使うのを嫌っていらしたんですよ。それで通常用の王冠が存在します。ただ、フェルナン陛下にいたってはほとんど王冠を被られませんでした。だから普段儀礼用の王冠はしまいっぱなしなんです」
「そうなんですか……」
平民として育ったサシャは王冠が複数あるとは思いもしなかったらしい。
ジュールは持って来た箱から王冠を取り出して、無造作に目の前の偽物とすり替える。
離れた場所で見守っていたロラン司祭長はそれを見て笑みを浮かべる。
「ああ、やっと戻ってきたのですね……。フェルナン王陛下の戴冠の際、当時の大司祭の補佐をしておりましたから、間近で拝見いたしました」
あの当時は大司祭がいたのだ。高齢だったために翌年亡くなった。うっかり王冠を落としたりしないように、数人が補佐についていた。
……あの中にロランがいたのか。あの時は自分の事で一杯だったから顔は覚えていないが。
ジュールはそう思ったけれど、サシャはそれを聞いてあまりいい気持ちではなかったらしい。わずかに眉を寄せていた。
「……念のために盗難防止の魔法をかけさせていただきます」
サシャはそう言って王冠の台や室内のあちこちに触れる。ロランはシモンではなくジュールに目を向けて問いかけてきた。
「ところで、あの魔法使い殿とは隣国でお会いになったのですか?」
幻術でティエリーに印象を寄せてはいるが、ボロを出さないようにジュールは顔を引き締める。
「はい。アラムで魔法を学んだ優秀な人物だと」
「そうですか……。もし、呪いのことで知識があれば、伺いたいことがあるのですが」
「呪いですか」
「ええ。王宮内で最近幽霊騒ぎが起こっていまして。呪いではないかと、教会に対策を求められているのです。先ほども王冠を持って来た使者殿から催促されまして……」
ああ。それか。ジュールは自分が仕掛けた幻術が順調に効果を上げていると知って満足した。ただ、それはただの幻で、それを呪いだと思うのは後ろ暗いことがあるからだ。
オーレリアンがかけられた本物の呪いに比べたらただの児戯だ。
「呪術は魔法使いの間でも禁忌とされるものと聞いています。それに、この国には魔法使いは……」
そう言いかけてから気づいた。ロランはサシャを疑っているのだ。
その上で、若いジュールならうっかりと何かを口にすると思って声をかけたのではないか。それとも試しているのか。
「……魔法使いは少ないですから、その可能性は低いのでは? そもそも体調が悪ければ悪い夢を見ることもあるのではないでしょうか。呪いというのは命も削るすさまじいものだと、セブラン卿に聞いたことがあります」
「ええ……まあたしかに」
セブランの兄オーレリアンが呪いに苦しんでいても教会は何もできなかった。そのことをロランも聞いていたのだろう。セブランの名を出されたら強気には出られないはずだ。
仮にも大公は王を名乗って権力を振るっている人物だ。それを呪おうというのなら、幻程度ですませるような生半可な事はしないだろう。
ジュールは決戦を前に大公の判断力を鈍らせるために王宮に幻術を仕掛けた。それに怯えるのなら後ろめたいことをやっていた証拠だ。神経質になって追い詰められていけば、人間の本性が現れる。
そもそも、サシャなら冗談抜きで大公を四分割にするくらい一瞬でできる。そうしないのは、ジュールがそれを命じないからだ。
……大公を倒すのはあくまで今この国にいる人々の仕事なのだ。すでに死んだことになっているフェルナン王でも、通りすがりのただの平民に過ぎないジュール・ラルカンジュでもない。
「それに、証拠もなく供の者を疑われるのは、僕としては不快です。あなたは先代国王の時と同じ過ちを繰り返すおつもりですか」
ジュールが静かにそう告げると、ロランは深く一礼した。
「……失礼致しました」
サシャも会話が聞こえていたのだろう。足を止めてこちらを見ていた。
教師が出来のいい教え子を褒めるような眼差しで。
いや、サシャのことを疑われたんだから、普段の僕だったら相手をとことん凹むまでやっつけるよ。けど、今ロランは僕のことをティエリーだと思っているんだから、ティエリーの名誉のために穏便に済ませただけだから。
少し気恥ずかしくなって、ジュールは口元を手で覆った。
「今夜はどうします? 隠れ家に戻りますか?」
夕食の後、サシャがジュールに問いかけてきた。
「明日が戴冠式だから、狙って来るとしたら今夜だろう。だから今日は迎え撃つ。サシャはシモンをティエリーのところに送ってきて。シモンはティエリーの支度を手伝ってくれればいい」
明日、大公は戴冠式を強行する予定だ。けれど、ジュールたちはその戴冠式と同じ日にティエリーの戴冠式を決行するつもりだった。今日中にティエリーの率いるスーリ連合軍は王都近郊の森にたどり着く。全ての兵力が合流してから移動するのでは時間がかかりすぎるので、ラザールの率いる国境警備軍の精鋭中心の部隊が先行している。
サシャが瞬間移動の門を設置している森だ。そこに密かに陣取って待機している。
「……お二人だけで大丈夫なのですか」
シモンが心配そうに問いかけてきた。
「サシャが罠を仕掛けてるから大丈夫だ。明日は打ち合わせ通りにと伝えて欲しい」
シモンはジュールの前に膝をついた。
「どうか、お忘れなきよう。ティエリー様はあなた方のことを心から心配なさっています。危険であれば、ご自分を守るようになさっていただきたい」
サシャが瞬間移動の魔法を発動させる。
「では、すぐに戻りますので」
一瞬翡翠の瞳に案じるような色が見えた。ジュールを一人ここに残して行くからだろう。
「大丈夫だ」
ジュールはそう言って頷いた。
部屋に一人残されてから、ジュールは首から下げていた魔法具が光っていることに気づいた。オーレリアンからの通話らしい。彼はスーリから王都を目指す部隊に加わっているはずだ。
「……オーレリ?」
『気になる占の結果がでましたので。非常に大きな闇を纏った者が、あなたと賢者様を狙っています。……どうかお一人にはならないよう……』
「いや、今絶賛一人でいるんだけど……」
そう言いかけて、外が突然暗くなったのに気づいた。さっきまで外からは明日の式典の支度をしている人の越えが聞こえていたがそれも消え失せている。
「来たみたいだな」
そう言って魔法具をシャツの中にしまい込む。そっと誓いの指輪のある手を握り込むと周囲の気配に集中した。
不意に室内の空気が重くなった。
「……っ」
「……おや。お一人かな」
突然目の前に真っ黒い闇の柱が立った。柱、と見えたのは長身の黒衣の男。
頭の両側に大きな獣の角があることを除いたら、一見人間にしか見えない。
その男の面差しが、サシャにそっくりなのを見て、ジュールはその正体を察した。
黒い髪と浅黒い肌。唯一違うのは瞳の色だ。血のように鮮やかな緋色。
「人の身で私の前で立っていられるとは、なかなかの逸材だ」
男はまったく表情のない顔でそう言った。
「……僕が一人だと知って現れたのではないのか?」
「そうだ。だがその指輪があればすぐに私の気配が向こうに伝わるだろうから、手短に言う。お前の肉体を返してやる。だからアレから手を引いてもらう。筋書きはこうだ。自分を陥れた者が討たれ、新たな王が立ったのをきっかけに先代国王が奇跡の復活を遂げる。めでたしめでたしだろう?」
「めでたいのはそっちの頭だろう?」
そう言われて喜んで手を取るわけがない。そんなことをしてサシャに何の利益があるのか。それに、邪魔ならここでジュールに手をかければいいだけなのに、男はそれ以上近づいて来ない。
「国王という権力も財力も欲しいままの地位にあって美貌にも恵まれていた男が、凡庸な子供になって市井に紛れて暮らすのは気の毒だと思っただけのことだ。どのみち拒否は認めない」
「何だって?」
どういうことだ。大公が討たれたら自分を強引に復活させるというのか。あの保全した棺の中の肉体に、また魂を移し替えると? すでに何らかの仕掛けが成されているというのか?
「……時間切れだ。言っておくがアレに話してもどうにもならないぞ。魂を抜き取るのは我らの本業だからな。アレがただの半魔である限りは我らには及ばない」
それだけを告げるとその黒い影はふっとかき消えた。
それと同時に床に転移魔法の陣が浮かぶ。サシャが戻ってきたのだ。
「ジュール。無事ですか」
そう言いながらジュールに駆け寄ってきた。
さっきまでの空気の重さも消え失せて、窓の外ではまだ慌ただしく行き交う人の声が聞こえてきた。
……あれが、悪魔か。
ジュールは隠しても仕方ないとサシャに話そうと顔を上げた。
「わかっています。あの男が来たのでしょう。何か誘われませんでしたか?」
「それが……」
誘われたというより、決定事項を淡々と告げられたようだった。
「……あなたをあの身体に返すと?」
サシャの瞳に怒りの色が見えた。
「なんて勝手なことを……そんなことをして何になるというのです。それでどうして私があなたを諦めると?」
「それは思った。僕をフェルナンに戻したところで、サシャが僕から離れるはずがないよね? サシャが好きなのは僕の魂なんだし」
それとも、サシャが離れざるをえない状況に持ち込むつもりだろうか。
「すでに何かの術式が仕掛けられているのかもしれない……。けれど、明日の計画は変えられない……だから、もし何かあったら……」
おそらくは大公が突然戴冠式を思いついたあたりから、あの悪魔の差し金だったのではないだろうか。きっと自分たちの行動に気づかれていたのだ。
「何があろうと関係ありません。私はあなたを愛しています。あなたの望まないことはしません。……誰にもさせません」
サシャはジュールの肩を掴んで縋るように抱きついてきた。
「……うん。僕も同じだ。サシャを愛してる。だからサシャの望まないことはしない……させない」
だから抗おう。ジュールは決意した。
何故今になってあの悪魔は、ジュールに接触してきたのか。まずはそこからだ。
先代国王と王太子の死という立て続けの不幸があったことから、民に安心を与えなくてはならないと、戴冠式は急がれた。
そして、父と兄の喪が開けてすぐに略式で決行された。人々は頼りない若き国王であっても歓声で迎えてくれた。
幼い頃から父や兄から、王冠にはある仕掛けが施されていると聞かされていた。
正しい王でなければ、王冠を被ることはできないのだと。だから立王太子の際に非公式に王冠を被らせる儀式があるのだそうだ。戴冠式のときに正しい王ではないと示されたら国家の威信にかかわるからと。
けれど、王太子として育てられていなかったフェルナンはいきなり本番で王冠を戴くことになってしまった。
正直なところ、あの時は教わった段取りを間違えるよりも、王冠の存在が怖かった。
父と兄の急死で即位することになった自分が、正しい王かどうかなど断言できるだろうか。雷でも降ってきて、お前はふさわしくない、とか拒まれたらどうすればいいのか。
結局のところ先代国王の血筋を引いているかどうかという意味だったと、後で聞かされたが、その時は何も知らなかったのだ。それほどフェルナンは王位とは無縁だった。
ゆっくりと恭しく差し出された儀礼用の王冠は見た目よりも重く、そして……。
それが頭に載せられた瞬間、膨大な情報が頭の中に流れ込んできた。そして、誰のものともつかない声が頭上から響いてきた。
ほんの一瞬の出来事だった。次の瞬間大きな拍手と歓声が会場内に響き渡った。
……ああ、王に認められたのか。僕は王であってもいいのか。
そう安堵してこぼれた笑みは周りの人々を魅了するほど美しかったと後々まで語られたが、本人はまったく気づいていなかった。
そんな思いをさせられた王冠をジュールが見間違えるはずもなかった。というより、明らかにそれは別物だった。
「……どうしてこんなバレバレな偽物持ってくるのかな」
シモンはもちろん、本物を見たことがあるサシャも首を横に振った。
ロラン司祭長から大公側の使者が王冠を届けに来たと連絡を受けて、確認に来たジュールたちは一瞥して溜め息をついた。
おそらく肖像画を参考に複製をつくらせたのだろうが、これは違う。
「今まで教会側が渋った理由がわかった気がする。……大公は戴冠式に使う王冠がどれだか知らないのかな」
ジュールが呟くとサシャが驚いた顔をした。
「え? 王冠って一つじゃないんですか?」
「一つじゃないよ。現存してるのは宝物庫に保管してるはずだ。戴冠式とかで使われる儀礼用の王冠と、通常の行事で使われるもの、あとは代々の国王が自分の好みで作らせたものがいくつかあるけど……」
シモンがやんわりとジュールの言葉を補足した。
「儀礼用の王冠はとても重いので、代々の国王陛下は日常の行事で使うのを嫌っていらしたんですよ。それで通常用の王冠が存在します。ただ、フェルナン陛下にいたってはほとんど王冠を被られませんでした。だから普段儀礼用の王冠はしまいっぱなしなんです」
「そうなんですか……」
平民として育ったサシャは王冠が複数あるとは思いもしなかったらしい。
ジュールは持って来た箱から王冠を取り出して、無造作に目の前の偽物とすり替える。
離れた場所で見守っていたロラン司祭長はそれを見て笑みを浮かべる。
「ああ、やっと戻ってきたのですね……。フェルナン王陛下の戴冠の際、当時の大司祭の補佐をしておりましたから、間近で拝見いたしました」
あの当時は大司祭がいたのだ。高齢だったために翌年亡くなった。うっかり王冠を落としたりしないように、数人が補佐についていた。
……あの中にロランがいたのか。あの時は自分の事で一杯だったから顔は覚えていないが。
ジュールはそう思ったけれど、サシャはそれを聞いてあまりいい気持ちではなかったらしい。わずかに眉を寄せていた。
「……念のために盗難防止の魔法をかけさせていただきます」
サシャはそう言って王冠の台や室内のあちこちに触れる。ロランはシモンではなくジュールに目を向けて問いかけてきた。
「ところで、あの魔法使い殿とは隣国でお会いになったのですか?」
幻術でティエリーに印象を寄せてはいるが、ボロを出さないようにジュールは顔を引き締める。
「はい。アラムで魔法を学んだ優秀な人物だと」
「そうですか……。もし、呪いのことで知識があれば、伺いたいことがあるのですが」
「呪いですか」
「ええ。王宮内で最近幽霊騒ぎが起こっていまして。呪いではないかと、教会に対策を求められているのです。先ほども王冠を持って来た使者殿から催促されまして……」
ああ。それか。ジュールは自分が仕掛けた幻術が順調に効果を上げていると知って満足した。ただ、それはただの幻で、それを呪いだと思うのは後ろ暗いことがあるからだ。
オーレリアンがかけられた本物の呪いに比べたらただの児戯だ。
「呪術は魔法使いの間でも禁忌とされるものと聞いています。それに、この国には魔法使いは……」
そう言いかけてから気づいた。ロランはサシャを疑っているのだ。
その上で、若いジュールならうっかりと何かを口にすると思って声をかけたのではないか。それとも試しているのか。
「……魔法使いは少ないですから、その可能性は低いのでは? そもそも体調が悪ければ悪い夢を見ることもあるのではないでしょうか。呪いというのは命も削るすさまじいものだと、セブラン卿に聞いたことがあります」
「ええ……まあたしかに」
セブランの兄オーレリアンが呪いに苦しんでいても教会は何もできなかった。そのことをロランも聞いていたのだろう。セブランの名を出されたら強気には出られないはずだ。
仮にも大公は王を名乗って権力を振るっている人物だ。それを呪おうというのなら、幻程度ですませるような生半可な事はしないだろう。
ジュールは決戦を前に大公の判断力を鈍らせるために王宮に幻術を仕掛けた。それに怯えるのなら後ろめたいことをやっていた証拠だ。神経質になって追い詰められていけば、人間の本性が現れる。
そもそも、サシャなら冗談抜きで大公を四分割にするくらい一瞬でできる。そうしないのは、ジュールがそれを命じないからだ。
……大公を倒すのはあくまで今この国にいる人々の仕事なのだ。すでに死んだことになっているフェルナン王でも、通りすがりのただの平民に過ぎないジュール・ラルカンジュでもない。
「それに、証拠もなく供の者を疑われるのは、僕としては不快です。あなたは先代国王の時と同じ過ちを繰り返すおつもりですか」
ジュールが静かにそう告げると、ロランは深く一礼した。
「……失礼致しました」
サシャも会話が聞こえていたのだろう。足を止めてこちらを見ていた。
教師が出来のいい教え子を褒めるような眼差しで。
いや、サシャのことを疑われたんだから、普段の僕だったら相手をとことん凹むまでやっつけるよ。けど、今ロランは僕のことをティエリーだと思っているんだから、ティエリーの名誉のために穏便に済ませただけだから。
少し気恥ずかしくなって、ジュールは口元を手で覆った。
「今夜はどうします? 隠れ家に戻りますか?」
夕食の後、サシャがジュールに問いかけてきた。
「明日が戴冠式だから、狙って来るとしたら今夜だろう。だから今日は迎え撃つ。サシャはシモンをティエリーのところに送ってきて。シモンはティエリーの支度を手伝ってくれればいい」
明日、大公は戴冠式を強行する予定だ。けれど、ジュールたちはその戴冠式と同じ日にティエリーの戴冠式を決行するつもりだった。今日中にティエリーの率いるスーリ連合軍は王都近郊の森にたどり着く。全ての兵力が合流してから移動するのでは時間がかかりすぎるので、ラザールの率いる国境警備軍の精鋭中心の部隊が先行している。
サシャが瞬間移動の門を設置している森だ。そこに密かに陣取って待機している。
「……お二人だけで大丈夫なのですか」
シモンが心配そうに問いかけてきた。
「サシャが罠を仕掛けてるから大丈夫だ。明日は打ち合わせ通りにと伝えて欲しい」
シモンはジュールの前に膝をついた。
「どうか、お忘れなきよう。ティエリー様はあなた方のことを心から心配なさっています。危険であれば、ご自分を守るようになさっていただきたい」
サシャが瞬間移動の魔法を発動させる。
「では、すぐに戻りますので」
一瞬翡翠の瞳に案じるような色が見えた。ジュールを一人ここに残して行くからだろう。
「大丈夫だ」
ジュールはそう言って頷いた。
部屋に一人残されてから、ジュールは首から下げていた魔法具が光っていることに気づいた。オーレリアンからの通話らしい。彼はスーリから王都を目指す部隊に加わっているはずだ。
「……オーレリ?」
『気になる占の結果がでましたので。非常に大きな闇を纏った者が、あなたと賢者様を狙っています。……どうかお一人にはならないよう……』
「いや、今絶賛一人でいるんだけど……」
そう言いかけて、外が突然暗くなったのに気づいた。さっきまで外からは明日の式典の支度をしている人の越えが聞こえていたがそれも消え失せている。
「来たみたいだな」
そう言って魔法具をシャツの中にしまい込む。そっと誓いの指輪のある手を握り込むと周囲の気配に集中した。
不意に室内の空気が重くなった。
「……っ」
「……おや。お一人かな」
突然目の前に真っ黒い闇の柱が立った。柱、と見えたのは長身の黒衣の男。
頭の両側に大きな獣の角があることを除いたら、一見人間にしか見えない。
その男の面差しが、サシャにそっくりなのを見て、ジュールはその正体を察した。
黒い髪と浅黒い肌。唯一違うのは瞳の色だ。血のように鮮やかな緋色。
「人の身で私の前で立っていられるとは、なかなかの逸材だ」
男はまったく表情のない顔でそう言った。
「……僕が一人だと知って現れたのではないのか?」
「そうだ。だがその指輪があればすぐに私の気配が向こうに伝わるだろうから、手短に言う。お前の肉体を返してやる。だからアレから手を引いてもらう。筋書きはこうだ。自分を陥れた者が討たれ、新たな王が立ったのをきっかけに先代国王が奇跡の復活を遂げる。めでたしめでたしだろう?」
「めでたいのはそっちの頭だろう?」
そう言われて喜んで手を取るわけがない。そんなことをしてサシャに何の利益があるのか。それに、邪魔ならここでジュールに手をかければいいだけなのに、男はそれ以上近づいて来ない。
「国王という権力も財力も欲しいままの地位にあって美貌にも恵まれていた男が、凡庸な子供になって市井に紛れて暮らすのは気の毒だと思っただけのことだ。どのみち拒否は認めない」
「何だって?」
どういうことだ。大公が討たれたら自分を強引に復活させるというのか。あの保全した棺の中の肉体に、また魂を移し替えると? すでに何らかの仕掛けが成されているというのか?
「……時間切れだ。言っておくがアレに話してもどうにもならないぞ。魂を抜き取るのは我らの本業だからな。アレがただの半魔である限りは我らには及ばない」
それだけを告げるとその黒い影はふっとかき消えた。
それと同時に床に転移魔法の陣が浮かぶ。サシャが戻ってきたのだ。
「ジュール。無事ですか」
そう言いながらジュールに駆け寄ってきた。
さっきまでの空気の重さも消え失せて、窓の外ではまだ慌ただしく行き交う人の声が聞こえてきた。
……あれが、悪魔か。
ジュールは隠しても仕方ないとサシャに話そうと顔を上げた。
「わかっています。あの男が来たのでしょう。何か誘われませんでしたか?」
「それが……」
誘われたというより、決定事項を淡々と告げられたようだった。
「……あなたをあの身体に返すと?」
サシャの瞳に怒りの色が見えた。
「なんて勝手なことを……そんなことをして何になるというのです。それでどうして私があなたを諦めると?」
「それは思った。僕をフェルナンに戻したところで、サシャが僕から離れるはずがないよね? サシャが好きなのは僕の魂なんだし」
それとも、サシャが離れざるをえない状況に持ち込むつもりだろうか。
「すでに何かの術式が仕掛けられているのかもしれない……。けれど、明日の計画は変えられない……だから、もし何かあったら……」
おそらくは大公が突然戴冠式を思いついたあたりから、あの悪魔の差し金だったのではないだろうか。きっと自分たちの行動に気づかれていたのだ。
「何があろうと関係ありません。私はあなたを愛しています。あなたの望まないことはしません。……誰にもさせません」
サシャはジュールの肩を掴んで縋るように抱きついてきた。
「……うん。僕も同じだ。サシャを愛してる。だからサシャの望まないことはしない……させない」
だから抗おう。ジュールは決意した。
何故今になってあの悪魔は、ジュールに接触してきたのか。まずはそこからだ。
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