28 / 57
27 将軍閣下と巫女の覚醒
しおりを挟む
結婚式の朝、領館のホールに飾られた肖像画を見上げてハルはぼんやりと想像していた。
この人が僕の祖父でプロテアの女王に殺されたというのなら、僕はプロテアを憎むべきなんだろうか。
ただ、僕の父もプロテア人だ。プロテアの人たちまで憎むことはできない。
ハルは砦から見た対岸のプロテアの領土が荒廃した様子に、もどかしさを感じていた。
精霊に見捨てられた地は、細った木々と剥き出しの地面が続いていた。
おそらく精霊たちが完全にプロテアを見限ったのは、王配クリスティアンが最後の巫女だったハルの母を追い回し、そしてハリエットを死なせた時だろう。
だけど、プロテアの罪のない民が飢えることまで母が望んでいただろうか。
少なくとも巫女の望みが精霊を動かすのなら、民だけでも救う方法があればいいのに。
プロテアを浄化すれば精霊は戻ってくるだろうか。けれど、それで国が豊かになればまた女王が戦争を始めるだろう。
「……ハル?」
立ち尽くしていたハルにパーシヴァルが声をかけてきた。彼の背後には使用人たちも控えている。
「そろそろ支度をした方が良いだろう。おいで」
差し伸べられる手にハルは迷わず手を重ねた。
「……僕の役割とは何でしょうか……何をすればいいのか考えていたら……」
「ハルはハルだろう? 私の可愛い伴侶で、そして精霊にまで愛される優しい子だ。だが、ただの人である限り、結局のところ手の届く範囲しか力は及ばない。それを超えた役割など負う必要はない」
パーシヴァルはそう言ってハルの頭を撫でる。
パーシヴァルは無敗の将軍と呼ばれていても、戦場で味方を一人残らず無傷で済ませることはできなかった。それを悔いてか自分が血に塗れている、と口にすることもある。
彼もまた手が届かなくて歯がゆい思いをしたことがあるのだろうか。そのせいかその言葉は重く響いた。
「……そうですね。両親のこともあったのに、僕は……」
五年前、せっかく錆化病の薬を作ったのに、数が足りなくて両親は自分たちに使えなかった。そのことでハルは自分を責めた。
けれど、それは傲慢だったのではないかと今は思う。全てを救う力など、ただの人間にあるわけがない。毎日倒れそうになるほど薬を量産して、それでもダメだったのだから。
自分の力を見極めなくては。まずは精霊の巫女としてこの地の精霊に向き合うこと。
そして、国境を超えようと集まっているプロテア軍を退かせるために、彼らの戦意を削ぐこと。
……自分の立ち位置を忘れてはいけない。巫女であってもただの人間なのだから。
「すみません。水を差すようなことを言ってしまいました」
「大丈夫だ。結婚式前に花嫁が憂鬱になると聞いたことがあるからな」
「いえ、そういう事では……。僕はパーシヴァル様に不満なんてありませんから」
そう答えたら、パーシヴァルがふわりとハルを抱え上げた。
「私もだ。さあ、早く支度をしないと、あの慌て者の神官長が何をするかわからないぞ」
……そうだった。この二日間、師匠からの情報ではグレイヴズ神官長は張り切りすぎてあちこちにぶつかったり転んだりして生傷を順調に増やしているらしい。
今日の結婚式ではどこまで傷だらけになっていることやら。
そう思った時、先ほどまであれこれくよくよと思い悩んでいたことが少し軽くなったような気がした。
神殿の周りには大勢の人々が集まっていた。ハルは初めて領民の前に出ることになるので緊張したが、馬車が停まった瞬間にどこからともなく花びらが降り注いできて、人々がわっと歓声を上げた。
グレイヴズ神官長が人々に伝えたのは、領主であるパーシヴァルが伴侶を披露すること、そしてその伴侶はアルテア人を母に持ち精霊の巫女の資格があること。
それだけで人々はハルの素性を理解したらしい。元々アルテアでは精霊の巫女は王族から出ていたのだから。そして、ハルの顔を見て更にその確信を強めただろう。
「私一人が訪れてもここまで歓迎されたことはないな」
パーシヴァルがそう言って人々に穏やかな笑みを向けた。
二人が神殿の前に置かれた舞台の上に進む。淡青色の礼服をまとったハルがまず歩み出ると、その前にグレイヴズ神官長が一礼した。
「ようこそおいでくださいました。新たなる精霊の巫女をお迎え出来ること、我らにとってこの上ない喜びでございます」
そうしてハルが膝をついて頭を下げると、神官長がそっと細いティアラを載せる。
「巫女ハロルド・ジーン・フォレット。どうか精霊と我らの絆を守り続けていただきたい」
「我が身に余る光栄です。僕の力の限り、務めを果たすことをお誓いいたします」
アルテア神殿が守ってきた巫女のティアラだという。これを身につけることでハルは正式に精霊の巫女として扱われるのだそうで、バーニーの薦めで結婚式の前にそれを民の前で見せることになっていた。
結婚式は結婚証明書への署名だけだから地味だし、ティアラの授与の方がよほど派手で民が盛り上がる、という理由だった。
ティアラをつけたハルが集まった人々に目を向けると、周囲にまばゆい光が弾ける。
精霊たちが舞台の回りではしゃいでいるのだろうか。前に挨拶を行った屋内とは違って外ならばまるで昼間の花火のように煌めいて美しい。
……だんだん彼らの存在が強く感じられるような気がする。どのくらいの数とか精霊の種類とか。きっとあの光の色が精霊の力を示しているんだ。
ハルは人々に笑顔を向けながらそう感じ取っていた。
「では、引き続き中で結婚式をいたしましょうか」
グレイヴズ神官長がそう言って顔を上げた。
* * *
パーシヴァルとハルが神殿での結婚式を終えて砦に戻ると、すでにバーニーが待ち構えていた。
「神殿の方は盛況だったようだね。こっちも周辺の住人たちが集まってるよ」
そう言われてパーシヴァルは周囲を見回した。普段は軍の関係者以外は近づかないのだが、今日は農民たちが砦の周りに集まっている。
「プロテア軍はやっと本隊が集結したところらしい。ついでにすでに閣下が砦に到着していることと、今日はアルテアの巫女と将軍閣下の結婚を祝う宴をやっているとばらまいておいた」
「それはお手数をおかけした。まあ、向こう岸からここまで矢は届かないだろうが、一応警戒させた方がいいでしょう」
砦までを射程に入れられるだけの設備が残っているとは思えない。こちらに入っている情報ではここにたどり着くまでに兵糧を奪われたり、物資を奪われたりと散々な目に遭っていて、不足した兵糧や物資を現地から接収しようとして住人たちと揉めたらしい。
プロテア軍を率いているレミントン将軍は、今回こそはアルテアを攻め落とすと息巻いてはいたが、予想外の遅れに疲れの色を隠せないでいるようだ。
おそらくすでに王配たちの帰国は手配されているだろう。それが決まったら彼らは完全な無駄足になる。
そんな軍を指揮する相手には同情すら覚えるパーシヴァルだった。
戦争はほとんどが準備で決まる。どれほど勇猛果敢を誇る猛将であっても、勢いだけで戦争ができるわけではない。準備が失敗しただけで、負け戦になる確立が跳ね上がる。
「まあ、そっちは僕も見張っておくよ。可愛い弟子の晴れ舞台に邪魔はさせないよ」
「……お師匠がハルを弟子にしたのは、彼が巫女だからですか?」
「そうだね。巫女の力を持つのに、誰も彼を守ってあげないから歯がゆかった。両親はハティを失ったことを引きずり続けていたし。でも、今は将軍閣下がいるから安心してるよ」
バーニーはハルのことを生まれた時から知っていたらしい。
「なかなかに重責だと思っております」
ハルの出自が明らかになるにつれて、本当に自分が伴侶に迎えて良かったのかと思うこともある。けれど、他の者に渡すつもりはない。
幸い自分の地位ならば彼を政治的にも守ることができる。そのことについては自分の父に感謝したい気持ちだった。
「重責だとわかってくれるのなら、将軍は見込みがあるよ。今日、これから起きることを見てもその気持ちを変えないでね」
バーニーはそう言って微笑む。
砦の屋上には宴席が設けられて、砦の部隊長や近隣の顔役などを招待している。本来宴会をするような場所ではないが、これから起きることを河の向こう岸にいるプロテア軍にも見せつけなくてはならないから、とバーニーが主張したのだ。
ハルが歌うことで一体なにが起きるというのか。
弦楽器を片手にハルが現れると、周囲の空気がざわめいたような気がした。
本当は巫女装束で行うのだそうだが、女性の服しかなかったので先ほどの礼服のままだ。
額にティアラが輝いていて、それを見ていると印象が違うように思えてくる。
『ハリエットの扮装をして歌うときは、僕の本来の声じゃないんです。バレないようにちょっと声色を替えてました』
ハルはそう言っていた。だから本当の歌声は別らしい。
ゆっくりと息を吐いてから、ハルはパーシヴァルに目を向けてきた。
そして、音を整えるように弦をつま弾くと、ハルは空に向かって歌い始めた。
その歌声は風の精霊が遠くまで響かせた。アルテアの人々に、そして国境に来ていたプロテア軍の兵士たちにも届くように。
優しく響く声に合わせて様々な色の光が砦の周りに浮かぶ。
精霊たちがその歌を喜んで舞い踊っているようだった。
花びらが舞い散る。そして。
集まった光が空を覆い、そのまま大地に降り注ぐ。
その光は何故か河の向こう岸には届かない。
ハルの意思は精霊たちには伝わらないのだろうか。
パーシヴァルはふと思った。
ハルはプロテアの女王や王配に対しては怒りを抱いているだろう。そうするだけの理由がある。
けれど、彼はプロテアの民が困窮していることには心を痛めているようだった。
彼は優しい人間だ。五年前の疫病の時も薬を量産するために努力していたという。そんな彼が罪もない人たちが苦しむことを望むだろうか。
不意に大地が光を帯びた。
精霊の光が宿ったように。
砦から徐々に広がった光がやがて河を越えていく。
プロテアの領土まで広がったそれが、ふっと消える。
隣にいたバーニーがふっと微笑んだ。
「……そうか。やはり君はそれを望むのか」
そう呟いた声は小さく、おそらくパーシヴァルにしか聞き取れなかっただろう。
やがて歌が終わると、精霊たちは満足して去ったのか周囲は静かになった。
空気に混じっていた気配も薄れていく。
パーシヴァルは立ちあがってハルに歩み寄った。
「……精霊に言いたいことは伝えられたか?」
そう問いかけると彼は少し上気したように頬を染めて微笑んだ。
「きっと……わかってもらえると思います」
……精霊に国境はない。あるのは巫女の意思だけ。
巫女がもし国境の向こうにも心を向けるのなら、その力は国境を越えるだろう。
彼の優しさと強さを改めて知ると愛おしさがこみ上げてきて、パーシヴァルはハルを抱きしめた。
「ただ、ちょっとだけ彼らの悪戯が過ぎたような気がするんですけど」
「え?」
パーシヴァルは眉を寄せた。
悪戯とは何事なのか。
身を乗り出して河の向こう岸を眺めていたバーニーが突然笑い出した。
居合わせた皆で見に行って、その光景に言葉を失う。
枯れ木のような貧相な木々があっただけの場所に壁のように茨が生い茂っていた。
その茨の蔓はどうやらプロテア軍の駐屯していた場所にも取り囲むように伸びている。
「……戦争になるのは嫌だけど、プロテアの人たちには罪はないと伝えたんです……そしたら……」
ハルがぽつりと言った。
……さっきの光はそれだったのか。ハルの浄化の力が届いた部分に精霊たちが手を加えたということだろうか。
「……まあ、あの茨を取り除くころには疲れて河を越えようとは思わないだろうな」
ハルが味方でよかった。予想外の事態を引き起こされて軍の統制が利かなくなるのは間違いない。あのまま茨に手こずっていたら、王都に捕らえられた特使たちが帰国するだろう。そうなれば軍を退くしかなくなる。
何という力だろう。下手をすれば政治的に利用されかねない。精霊の巫女というのがどれほどの力を持つのかパーシヴァルは知らなかった。祈祷師の類かと思っていたくらいだ。
……プロテアがハルを奪いに来るのはこのせいなのか。
パーシヴァルはそう思いながら、バーニーに言われた重責の意味がますます重くなることに気づいた。
……それでも、ハルを誰かに渡すつもりはない。ハルを守る役目を誰かに譲るつもりもない。
思わず肩を抱き寄せて、ハルの頬にキスをした。
「よく頑張った。ハルは立派だ」
そう告げるとハルは嬉しそうに身を寄せてきた。
この人が僕の祖父でプロテアの女王に殺されたというのなら、僕はプロテアを憎むべきなんだろうか。
ただ、僕の父もプロテア人だ。プロテアの人たちまで憎むことはできない。
ハルは砦から見た対岸のプロテアの領土が荒廃した様子に、もどかしさを感じていた。
精霊に見捨てられた地は、細った木々と剥き出しの地面が続いていた。
おそらく精霊たちが完全にプロテアを見限ったのは、王配クリスティアンが最後の巫女だったハルの母を追い回し、そしてハリエットを死なせた時だろう。
だけど、プロテアの罪のない民が飢えることまで母が望んでいただろうか。
少なくとも巫女の望みが精霊を動かすのなら、民だけでも救う方法があればいいのに。
プロテアを浄化すれば精霊は戻ってくるだろうか。けれど、それで国が豊かになればまた女王が戦争を始めるだろう。
「……ハル?」
立ち尽くしていたハルにパーシヴァルが声をかけてきた。彼の背後には使用人たちも控えている。
「そろそろ支度をした方が良いだろう。おいで」
差し伸べられる手にハルは迷わず手を重ねた。
「……僕の役割とは何でしょうか……何をすればいいのか考えていたら……」
「ハルはハルだろう? 私の可愛い伴侶で、そして精霊にまで愛される優しい子だ。だが、ただの人である限り、結局のところ手の届く範囲しか力は及ばない。それを超えた役割など負う必要はない」
パーシヴァルはそう言ってハルの頭を撫でる。
パーシヴァルは無敗の将軍と呼ばれていても、戦場で味方を一人残らず無傷で済ませることはできなかった。それを悔いてか自分が血に塗れている、と口にすることもある。
彼もまた手が届かなくて歯がゆい思いをしたことがあるのだろうか。そのせいかその言葉は重く響いた。
「……そうですね。両親のこともあったのに、僕は……」
五年前、せっかく錆化病の薬を作ったのに、数が足りなくて両親は自分たちに使えなかった。そのことでハルは自分を責めた。
けれど、それは傲慢だったのではないかと今は思う。全てを救う力など、ただの人間にあるわけがない。毎日倒れそうになるほど薬を量産して、それでもダメだったのだから。
自分の力を見極めなくては。まずは精霊の巫女としてこの地の精霊に向き合うこと。
そして、国境を超えようと集まっているプロテア軍を退かせるために、彼らの戦意を削ぐこと。
……自分の立ち位置を忘れてはいけない。巫女であってもただの人間なのだから。
「すみません。水を差すようなことを言ってしまいました」
「大丈夫だ。結婚式前に花嫁が憂鬱になると聞いたことがあるからな」
「いえ、そういう事では……。僕はパーシヴァル様に不満なんてありませんから」
そう答えたら、パーシヴァルがふわりとハルを抱え上げた。
「私もだ。さあ、早く支度をしないと、あの慌て者の神官長が何をするかわからないぞ」
……そうだった。この二日間、師匠からの情報ではグレイヴズ神官長は張り切りすぎてあちこちにぶつかったり転んだりして生傷を順調に増やしているらしい。
今日の結婚式ではどこまで傷だらけになっていることやら。
そう思った時、先ほどまであれこれくよくよと思い悩んでいたことが少し軽くなったような気がした。
神殿の周りには大勢の人々が集まっていた。ハルは初めて領民の前に出ることになるので緊張したが、馬車が停まった瞬間にどこからともなく花びらが降り注いできて、人々がわっと歓声を上げた。
グレイヴズ神官長が人々に伝えたのは、領主であるパーシヴァルが伴侶を披露すること、そしてその伴侶はアルテア人を母に持ち精霊の巫女の資格があること。
それだけで人々はハルの素性を理解したらしい。元々アルテアでは精霊の巫女は王族から出ていたのだから。そして、ハルの顔を見て更にその確信を強めただろう。
「私一人が訪れてもここまで歓迎されたことはないな」
パーシヴァルがそう言って人々に穏やかな笑みを向けた。
二人が神殿の前に置かれた舞台の上に進む。淡青色の礼服をまとったハルがまず歩み出ると、その前にグレイヴズ神官長が一礼した。
「ようこそおいでくださいました。新たなる精霊の巫女をお迎え出来ること、我らにとってこの上ない喜びでございます」
そうしてハルが膝をついて頭を下げると、神官長がそっと細いティアラを載せる。
「巫女ハロルド・ジーン・フォレット。どうか精霊と我らの絆を守り続けていただきたい」
「我が身に余る光栄です。僕の力の限り、務めを果たすことをお誓いいたします」
アルテア神殿が守ってきた巫女のティアラだという。これを身につけることでハルは正式に精霊の巫女として扱われるのだそうで、バーニーの薦めで結婚式の前にそれを民の前で見せることになっていた。
結婚式は結婚証明書への署名だけだから地味だし、ティアラの授与の方がよほど派手で民が盛り上がる、という理由だった。
ティアラをつけたハルが集まった人々に目を向けると、周囲にまばゆい光が弾ける。
精霊たちが舞台の回りではしゃいでいるのだろうか。前に挨拶を行った屋内とは違って外ならばまるで昼間の花火のように煌めいて美しい。
……だんだん彼らの存在が強く感じられるような気がする。どのくらいの数とか精霊の種類とか。きっとあの光の色が精霊の力を示しているんだ。
ハルは人々に笑顔を向けながらそう感じ取っていた。
「では、引き続き中で結婚式をいたしましょうか」
グレイヴズ神官長がそう言って顔を上げた。
* * *
パーシヴァルとハルが神殿での結婚式を終えて砦に戻ると、すでにバーニーが待ち構えていた。
「神殿の方は盛況だったようだね。こっちも周辺の住人たちが集まってるよ」
そう言われてパーシヴァルは周囲を見回した。普段は軍の関係者以外は近づかないのだが、今日は農民たちが砦の周りに集まっている。
「プロテア軍はやっと本隊が集結したところらしい。ついでにすでに閣下が砦に到着していることと、今日はアルテアの巫女と将軍閣下の結婚を祝う宴をやっているとばらまいておいた」
「それはお手数をおかけした。まあ、向こう岸からここまで矢は届かないだろうが、一応警戒させた方がいいでしょう」
砦までを射程に入れられるだけの設備が残っているとは思えない。こちらに入っている情報ではここにたどり着くまでに兵糧を奪われたり、物資を奪われたりと散々な目に遭っていて、不足した兵糧や物資を現地から接収しようとして住人たちと揉めたらしい。
プロテア軍を率いているレミントン将軍は、今回こそはアルテアを攻め落とすと息巻いてはいたが、予想外の遅れに疲れの色を隠せないでいるようだ。
おそらくすでに王配たちの帰国は手配されているだろう。それが決まったら彼らは完全な無駄足になる。
そんな軍を指揮する相手には同情すら覚えるパーシヴァルだった。
戦争はほとんどが準備で決まる。どれほど勇猛果敢を誇る猛将であっても、勢いだけで戦争ができるわけではない。準備が失敗しただけで、負け戦になる確立が跳ね上がる。
「まあ、そっちは僕も見張っておくよ。可愛い弟子の晴れ舞台に邪魔はさせないよ」
「……お師匠がハルを弟子にしたのは、彼が巫女だからですか?」
「そうだね。巫女の力を持つのに、誰も彼を守ってあげないから歯がゆかった。両親はハティを失ったことを引きずり続けていたし。でも、今は将軍閣下がいるから安心してるよ」
バーニーはハルのことを生まれた時から知っていたらしい。
「なかなかに重責だと思っております」
ハルの出自が明らかになるにつれて、本当に自分が伴侶に迎えて良かったのかと思うこともある。けれど、他の者に渡すつもりはない。
幸い自分の地位ならば彼を政治的にも守ることができる。そのことについては自分の父に感謝したい気持ちだった。
「重責だとわかってくれるのなら、将軍は見込みがあるよ。今日、これから起きることを見てもその気持ちを変えないでね」
バーニーはそう言って微笑む。
砦の屋上には宴席が設けられて、砦の部隊長や近隣の顔役などを招待している。本来宴会をするような場所ではないが、これから起きることを河の向こう岸にいるプロテア軍にも見せつけなくてはならないから、とバーニーが主張したのだ。
ハルが歌うことで一体なにが起きるというのか。
弦楽器を片手にハルが現れると、周囲の空気がざわめいたような気がした。
本当は巫女装束で行うのだそうだが、女性の服しかなかったので先ほどの礼服のままだ。
額にティアラが輝いていて、それを見ていると印象が違うように思えてくる。
『ハリエットの扮装をして歌うときは、僕の本来の声じゃないんです。バレないようにちょっと声色を替えてました』
ハルはそう言っていた。だから本当の歌声は別らしい。
ゆっくりと息を吐いてから、ハルはパーシヴァルに目を向けてきた。
そして、音を整えるように弦をつま弾くと、ハルは空に向かって歌い始めた。
その歌声は風の精霊が遠くまで響かせた。アルテアの人々に、そして国境に来ていたプロテア軍の兵士たちにも届くように。
優しく響く声に合わせて様々な色の光が砦の周りに浮かぶ。
精霊たちがその歌を喜んで舞い踊っているようだった。
花びらが舞い散る。そして。
集まった光が空を覆い、そのまま大地に降り注ぐ。
その光は何故か河の向こう岸には届かない。
ハルの意思は精霊たちには伝わらないのだろうか。
パーシヴァルはふと思った。
ハルはプロテアの女王や王配に対しては怒りを抱いているだろう。そうするだけの理由がある。
けれど、彼はプロテアの民が困窮していることには心を痛めているようだった。
彼は優しい人間だ。五年前の疫病の時も薬を量産するために努力していたという。そんな彼が罪もない人たちが苦しむことを望むだろうか。
不意に大地が光を帯びた。
精霊の光が宿ったように。
砦から徐々に広がった光がやがて河を越えていく。
プロテアの領土まで広がったそれが、ふっと消える。
隣にいたバーニーがふっと微笑んだ。
「……そうか。やはり君はそれを望むのか」
そう呟いた声は小さく、おそらくパーシヴァルにしか聞き取れなかっただろう。
やがて歌が終わると、精霊たちは満足して去ったのか周囲は静かになった。
空気に混じっていた気配も薄れていく。
パーシヴァルは立ちあがってハルに歩み寄った。
「……精霊に言いたいことは伝えられたか?」
そう問いかけると彼は少し上気したように頬を染めて微笑んだ。
「きっと……わかってもらえると思います」
……精霊に国境はない。あるのは巫女の意思だけ。
巫女がもし国境の向こうにも心を向けるのなら、その力は国境を越えるだろう。
彼の優しさと強さを改めて知ると愛おしさがこみ上げてきて、パーシヴァルはハルを抱きしめた。
「ただ、ちょっとだけ彼らの悪戯が過ぎたような気がするんですけど」
「え?」
パーシヴァルは眉を寄せた。
悪戯とは何事なのか。
身を乗り出して河の向こう岸を眺めていたバーニーが突然笑い出した。
居合わせた皆で見に行って、その光景に言葉を失う。
枯れ木のような貧相な木々があっただけの場所に壁のように茨が生い茂っていた。
その茨の蔓はどうやらプロテア軍の駐屯していた場所にも取り囲むように伸びている。
「……戦争になるのは嫌だけど、プロテアの人たちには罪はないと伝えたんです……そしたら……」
ハルがぽつりと言った。
……さっきの光はそれだったのか。ハルの浄化の力が届いた部分に精霊たちが手を加えたということだろうか。
「……まあ、あの茨を取り除くころには疲れて河を越えようとは思わないだろうな」
ハルが味方でよかった。予想外の事態を引き起こされて軍の統制が利かなくなるのは間違いない。あのまま茨に手こずっていたら、王都に捕らえられた特使たちが帰国するだろう。そうなれば軍を退くしかなくなる。
何という力だろう。下手をすれば政治的に利用されかねない。精霊の巫女というのがどれほどの力を持つのかパーシヴァルは知らなかった。祈祷師の類かと思っていたくらいだ。
……プロテアがハルを奪いに来るのはこのせいなのか。
パーシヴァルはそう思いながら、バーニーに言われた重責の意味がますます重くなることに気づいた。
……それでも、ハルを誰かに渡すつもりはない。ハルを守る役目を誰かに譲るつもりもない。
思わず肩を抱き寄せて、ハルの頬にキスをした。
「よく頑張った。ハルは立派だ」
そう告げるとハルは嬉しそうに身を寄せてきた。
1
お気に入りに追加
114
あなたにおすすめの小説
帝国皇子のお婿さんになりました
クリム
BL
帝国の皇太子エリファス・ロータスとの婚姻を神殿で誓った瞬間、ハルシオン・アスターは自分の前世を思い出す。普通の日本人主婦だったことを。
そして『白い結婚』だったはずの婚姻後、皇太子の寝室に呼ばれることになり、ハルシオンはひた隠しにして来た事実に直面する。王族の姫が19歳まで独身を貫いたこと、その真実が暴かれると、出自の小王国は滅ぼされかねない。
「それなら皇太子殿下に一服盛りますかね、主様」
「そうだね、クーちゃん。ついでに血袋で寝台を汚してなんちゃって既成事実を」
「では、盛って服を乱して、血を……主様、これ……いや、まさかやる気ですか?」
「うん、クーちゃん」
「クーちゃんではありません、クー・チャンです。あ、主様、やめてください!」
これは隣国の帝国皇太子に嫁いだ小王国の『姫君』のお話。
僕を拾ってくれたのはイケメン社長さんでした
なの
BL
社長になって1年、父の葬儀でその少年に出会った。
「あんたのせいよ。あんたさえいなかったら、あの人は死なずに済んだのに…」
高校にも通わせてもらえず、実母の恋人にいいように身体を弄ばれていたことを知った。
そんな理不尽なことがあっていいのか、人は誰でも幸せになる権利があるのに…
その少年は昔、誰よりも可愛がってた犬に似ていた。
ついその犬を思い出してしまい、その少年を幸せにしたいと思うようになった。
かわいそうな人生を送ってきた少年とイケメン社長が出会い、恋に落ちるまで…
ハッピーエンドです。
R18の場面には※をつけます。
【R18】青き竜の溺愛花嫁 ー竜族に生贄として捧げられたと思っていたのに、旦那様が甘すぎるー
夕月
恋愛
聖女の力を持たずに生まれてきたシェイラは、竜族の生贄となるべく育てられた。
成人を迎えたその日、生贄として捧げられたシェイラの前にあらわれたのは、大きく美しい青い竜。
そのまま喰われると思っていたのに、彼は人の姿となり、シェイラを花嫁だと言った――。
虐げられていたヒロイン(本人に自覚無し)が、竜族の国で本当の幸せを掴むまで。
ヒーローは竜の姿になることもありますが、Rシーンは人型のみです。
大人描写のある回には★をつけます。
おっさん家政夫は自警団独身寮で溺愛される
月歌(ツキウタ)
BL
妻に浮気された上、離婚宣告されたおっさんの話。ショックか何かで、異世界に転移してた。異世界の自警団で、家政夫を始めたおっさんが、色々溺愛される話。
☆表紙絵
AIピカソとAIイラストメーカーで作成しました。
美少年に転生したらヤンデレ婚約者が出来ました
SEKISUI
BL
ブラック企業に勤めていたOLが寝てそのまま永眠したら美少年に転生していた
見た目は勝ち組
中身は社畜
斜めな思考の持ち主
なのでもう働くのは嫌なので怠惰に生きようと思う
そんな主人公はやばい公爵令息に目を付けられて翻弄される
純情将軍は第八王子を所望します
七瀬京
BL
隣国との戦で活躍した将軍・アーセールは、戦功の報償として(手違いで)第八王子・ルーウェを所望した。
かつて、アーセールはルーウェの言葉で救われており、ずっと、ルーウェの言葉を護符のようにして過ごしてきた。
一度、話がしたかっただけ……。
けれど、虐げられて育ったルーウェは、アーセールのことなど覚えて居らず、婚礼の夜、酷く怯えて居た……。
純情将軍×虐げられ王子の癒し愛
国王様は新米騎士を溺愛する
あいえだ
BL
俺はリアン18歳。記憶によると大貴族に再婚した母親の連れ子だった俺は5歳で母に死なれて家を追い出された。その後複雑な生い立ちを経て、たまたま適当に受けた騎士試験に受かってしまう。死んだ母親は貴族でなく実は前国王と結婚していたらしく、俺は国王の弟だったというのだ。そして、国王陛下の俺への寵愛がとまらなくて?
R18です。性描写に★をつけてますので苦手な方は回避願います。
ジュリアン編は「騎士団長は天使の俺と恋をする」とのコラボになっています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる