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ホームズ関連エッセイ
大空白時代にホームズが日本に来たら
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1891年5月4日にスイスのライヘンバッハの滝でモリアーティ教授をバリツによって倒したホームズは、モラン大佐らモリアーティ一味の残党を倒すためにホームズは死亡したと偽りました。
ホームズが失踪していた期間は大失踪期間などという呼び名もありますが、一般的には大空白時代と呼ばれています。その大空白時代の期間は1891年5月4日から1894年4月5日の数年間です。
その大空白時代にホームズが日本に来ていたらどのようなことがあったのか、ということを本頁で考えたいと思います。
【食事】
もし大空白時代にホームズが日本に来たとして、どのようなものをホームズは食べたのでしょうか。
大空白時代の時、日本は明治時代です。明治と言えば文明開化であり、日本に西洋の文明が入ってきました。しかし日本は必死になって西洋の文明を取り入れて、舞踏会などを開いて世界中から笑われてしまいました。鹿鳴館などがそれです。
とまあ、日本が世界で笑われたと言っても、その後ヨーロッパ諸国を日本趣味『ジャポニズム』が席巻しました。
文明開化の中でもっとも有名な食べ物は、何と言っても『牛鍋』でしょう。文明開化以前は動物の肉を食す習慣がありませんでした。
ホームズが栄養価の高いローストビーフが好きなようですが、牛肉という点では牛鍋との共通点があります。長編『バスカヴィル家の犬』では、ダートムアの荒野の岩屋でホームズは牛肉の缶詰などを食べていました。
もしかすると、ホームズは日本で牛鍋を食べて好きになったかもしれません。ただ、牛鍋は日本人の好むような味付けだったようで、ホームズの口に合わなかった可能性もあります。
1894年の『新編家政学 下巻』の『第七拾五章 西洋料理法』の『第二項 牛肉の煮方』には牛鍋の簡単な作り方が書かれています。それによると、鍋に多く水を入れて沸騰するまで煮てから、その鍋に十五分ほど牛肉を入れます。肉が煮え始めたら水を取り除き、焦がさないように注意しながら熱します。また、煮て熟する前に食塩を加えるようです。
少し蛇足をしますと、1898年の『家事教科書 上巻』の第九章『食品の良否』には『白米は粒々よく揃ひて形肥え色白くして光澤あるをよしとする』や『干魚にて一種の辛味を有する者は必ず害あり』などの食品の良否が書かれています。その中には『鳥獣肉も亦䡗固にして之を指にておせば彈力を感ずるものをよしとす』のような良い肉を見分ける方法が書かれていました。牛鍋を作る際に当時の人はこのような見分け方を用いたのでしょうか。
また、当時の日本では米が頻繁に食べられていて、これが原因で脚気になる人もいたようです。米も栄養価が高いので、ホームズが食べていたと考えられます。
1893年の『家政学 上』の『本邦料理』の頁には、来客の際にもてなす料理について書かれています。それによると、炎熱の頃は味を淡泊にして清涼を感じるような食べ物にし、寒冷の候ならば味を濃厚にして暖気を感じる食べ物にするということです。ホームズもこのようなもてなしを受けたかもしれません。
大空白時代にホームズが日本に来ていたのならば密入国していたことになりますので、かなり長い時間が掛かったと考えられます。すると、ホームズが日本に到着したら冬に近くなっていたはずなので、上記の『味を濃厚にして暖気を感じる食べ物』でもてなされたでしょう。
当時の日本の本には西洋の料理の作り方などを書いているものも多く、ホームズは日本でイギリス料理などのヨーロッパの料理を食べることも出来ました。
しかし例外のようなものもあります。1888年の『軽便西洋料理法指南 実地応用一名・西洋料理早学び』の『牛肉カツレツ』の頁にて当時のカツレツの作り方が書かれています。それによると、まず牛肉のロースとランの一斤を四つに切って筋を取り去ります。鉈かフラスコの瓶を使って肉を薄くなるまで叩いて延ばし、薄くなった肉の両面へ胡椒を付けて、小麦粉と卵の黄身、パン粉も付けます。その肉を鍋に入れて、肉が隠れるくらい油を注ぎます。火を掛けて沸騰したら肉を取り出して、油気を取ります。これでカツレツが完成のようです。
しかし上記のようなカツレツは、諸説ありますがフランス語の『コートレート』と英語の『カットレット』が明治時代に洋食屋に伝わっていつの間にか『カツレツ』になったものらしいです。つまり、当時のイギリスのものとはまったく別種のものです。イギリスなどでのカツレツ(cutlet)は炒め焼きで、牛肉を叩き延ばしてからバターで炒めます。
カツレツをヨーロッパの料理だと聞いたホームズは、カツレツを見たことがなくて混乱したのではないでしょうか。
【明治の倫理観】
ホームズが日本に来たら、日本のどこに関心を持ったのかが気になります。街並みとかはホームズから見たら田舎でしょうし、明治の日本はホームズに誇れる何かがあるのかと真剣に考えました。
そして、日本の倫理観ならホームズに誇れるのではないかと思いつきます。イギリスでは犯罪が多かったですが、日本は平和なイメージがあります。戦争はありましたが、日本の倫理観にホームズは関心を持った可能性はかなりあると思います。
では、当時の日本の倫理観をどうやって調べるか。そして思い出したのが、当時の学校の道徳の教科書です。早速私は本を探し始めます。
私は片付けるのが苦手で様々なものがぐちゃぐちゃになっていますが、目当ての教科書は思いのほか簡単に見つかりました。
明治25年、つまり1892年の道徳の教科書となります。1892年なら大空白時代ですから、本頁を書くにもちょうど良いです。
タイトルは『小學修身訓 巻之四』で、高等科生徒用とあるので高等小学校の生徒の教科書だということです。
当時は尋常科とか高等科などが小中学校にありました。尋常小学校は六年で卒業になり、義務教育は終わります。尋常小学校卒業後に高等小学校に入学する者もいて、高等小学校では二年間勉強をします。つまり、高等小学校は現在で言うところの中学一年生や中学二年生が学ぶ場所です。
当時、道徳は修身と言いました。この中学生の道徳の教科書には、当時の倫理観を垣間見ることが出来る頁があります。それが『第四章 誠實』の頁です。この章では誠実な人の基準などが書かれていて、当時の倫理観を知るには適しています。
それによると、『誠実な人は不正に得た金を求めることはなく、自分の誠をつくす』ようです。『自分の誠を尽くす』ということは、どんなことにも誠心誠意で取り組むということでしょう。
誠実かつ仁慈な人は他人の貧乏を哀れに思って恩を売るともあり、当時の倫理観が何となくわかります。他に、誠実で得た信用は石よりも堅いようです。
また、誠実かつ公平な人は自分の利益を考えずに国の利益だけを考えるというものも書かれていました。そういう人達は国の宝と例えられています。
私も愛国者ですが、さすがにそこまでは考えられません(笑)。まあ、日本が好きだからこそ、ホームズと日本を結びつけたようなエッセイを書いているわけですが......。
【ホームズと指紋】
ホームズが捜査に指紋を利用するのはあまりありませんでした。時代が時代であり、指紋で個人を特定するという概念がなかったからです。
指紋で犯人を特定する小説としては、世界に先駆けて『幻燈』という快楽亭ブラックの口演速記のものがあります。これは日本で出版されたものであり、出版年は1892年です。1892年は大空白時代で、快楽亭ブラックは日本在住のイギリス人でした。
ホームズが大空白時代に日本に来ていたら、この『幻燈』を読んでいたかもしれません。『幻燈』で扱っているのは指紋で犯人を特定すると言うより、正確には指紋と手の平の隆線模様での鑑定で犯人を特定する作品です。指紋には変わりありませんが。
日本で『幻燈』をホームズが読んだと仮定したら、それを起因としてホームズは指紋に興味を示し始めたことでしょう。その後、指紋の知識を収集していったと考えるのが妥当です。
1895年に発生した指紋を中心とする事件である短編『ノーウッドの建築士』を、ホームズは指紋の知識によって解決しています。
大空白時代に日本に来て『幻燈』を読み、捜査などにおける指紋の重要性を知ったからこそホームズは『ノーウッドの建築士』事件を解決出来たのかもしれません。
ただ、ホームズの指紋の知識は豊富ではなかったようで、1897年に発生した短編『アベ農園』の事件では、指紋を用いるべき捜査で指紋を一切捜査に役立てませんでした。ホームズの持つ指紋知識が足りなかったから、捜査に指紋は用いなかったのだと解釈出来ます。
とまあ、大空白時代にホームズが日本に来た根拠の一つとして、ホームズと指紋の関係があるのではないでしょうか。江戸川乱歩によると、『幻燈』は快楽亭ブラックの創作ではなくイギリス小説のパクりかもしれないようですが、今となっては手掛かりは何も残っておらず、それは推察に過ぎないので無視することにしました(笑)。
ホームズが失踪していた期間は大失踪期間などという呼び名もありますが、一般的には大空白時代と呼ばれています。その大空白時代の期間は1891年5月4日から1894年4月5日の数年間です。
その大空白時代にホームズが日本に来ていたらどのようなことがあったのか、ということを本頁で考えたいと思います。
【食事】
もし大空白時代にホームズが日本に来たとして、どのようなものをホームズは食べたのでしょうか。
大空白時代の時、日本は明治時代です。明治と言えば文明開化であり、日本に西洋の文明が入ってきました。しかし日本は必死になって西洋の文明を取り入れて、舞踏会などを開いて世界中から笑われてしまいました。鹿鳴館などがそれです。
とまあ、日本が世界で笑われたと言っても、その後ヨーロッパ諸国を日本趣味『ジャポニズム』が席巻しました。
文明開化の中でもっとも有名な食べ物は、何と言っても『牛鍋』でしょう。文明開化以前は動物の肉を食す習慣がありませんでした。
ホームズが栄養価の高いローストビーフが好きなようですが、牛肉という点では牛鍋との共通点があります。長編『バスカヴィル家の犬』では、ダートムアの荒野の岩屋でホームズは牛肉の缶詰などを食べていました。
もしかすると、ホームズは日本で牛鍋を食べて好きになったかもしれません。ただ、牛鍋は日本人の好むような味付けだったようで、ホームズの口に合わなかった可能性もあります。
1894年の『新編家政学 下巻』の『第七拾五章 西洋料理法』の『第二項 牛肉の煮方』には牛鍋の簡単な作り方が書かれています。それによると、鍋に多く水を入れて沸騰するまで煮てから、その鍋に十五分ほど牛肉を入れます。肉が煮え始めたら水を取り除き、焦がさないように注意しながら熱します。また、煮て熟する前に食塩を加えるようです。
少し蛇足をしますと、1898年の『家事教科書 上巻』の第九章『食品の良否』には『白米は粒々よく揃ひて形肥え色白くして光澤あるをよしとする』や『干魚にて一種の辛味を有する者は必ず害あり』などの食品の良否が書かれています。その中には『鳥獣肉も亦䡗固にして之を指にておせば彈力を感ずるものをよしとす』のような良い肉を見分ける方法が書かれていました。牛鍋を作る際に当時の人はこのような見分け方を用いたのでしょうか。
また、当時の日本では米が頻繁に食べられていて、これが原因で脚気になる人もいたようです。米も栄養価が高いので、ホームズが食べていたと考えられます。
1893年の『家政学 上』の『本邦料理』の頁には、来客の際にもてなす料理について書かれています。それによると、炎熱の頃は味を淡泊にして清涼を感じるような食べ物にし、寒冷の候ならば味を濃厚にして暖気を感じる食べ物にするということです。ホームズもこのようなもてなしを受けたかもしれません。
大空白時代にホームズが日本に来ていたのならば密入国していたことになりますので、かなり長い時間が掛かったと考えられます。すると、ホームズが日本に到着したら冬に近くなっていたはずなので、上記の『味を濃厚にして暖気を感じる食べ物』でもてなされたでしょう。
当時の日本の本には西洋の料理の作り方などを書いているものも多く、ホームズは日本でイギリス料理などのヨーロッパの料理を食べることも出来ました。
しかし例外のようなものもあります。1888年の『軽便西洋料理法指南 実地応用一名・西洋料理早学び』の『牛肉カツレツ』の頁にて当時のカツレツの作り方が書かれています。それによると、まず牛肉のロースとランの一斤を四つに切って筋を取り去ります。鉈かフラスコの瓶を使って肉を薄くなるまで叩いて延ばし、薄くなった肉の両面へ胡椒を付けて、小麦粉と卵の黄身、パン粉も付けます。その肉を鍋に入れて、肉が隠れるくらい油を注ぎます。火を掛けて沸騰したら肉を取り出して、油気を取ります。これでカツレツが完成のようです。
しかし上記のようなカツレツは、諸説ありますがフランス語の『コートレート』と英語の『カットレット』が明治時代に洋食屋に伝わっていつの間にか『カツレツ』になったものらしいです。つまり、当時のイギリスのものとはまったく別種のものです。イギリスなどでのカツレツ(cutlet)は炒め焼きで、牛肉を叩き延ばしてからバターで炒めます。
カツレツをヨーロッパの料理だと聞いたホームズは、カツレツを見たことがなくて混乱したのではないでしょうか。
【明治の倫理観】
ホームズが日本に来たら、日本のどこに関心を持ったのかが気になります。街並みとかはホームズから見たら田舎でしょうし、明治の日本はホームズに誇れる何かがあるのかと真剣に考えました。
そして、日本の倫理観ならホームズに誇れるのではないかと思いつきます。イギリスでは犯罪が多かったですが、日本は平和なイメージがあります。戦争はありましたが、日本の倫理観にホームズは関心を持った可能性はかなりあると思います。
では、当時の日本の倫理観をどうやって調べるか。そして思い出したのが、当時の学校の道徳の教科書です。早速私は本を探し始めます。
私は片付けるのが苦手で様々なものがぐちゃぐちゃになっていますが、目当ての教科書は思いのほか簡単に見つかりました。
明治25年、つまり1892年の道徳の教科書となります。1892年なら大空白時代ですから、本頁を書くにもちょうど良いです。
タイトルは『小學修身訓 巻之四』で、高等科生徒用とあるので高等小学校の生徒の教科書だということです。
当時は尋常科とか高等科などが小中学校にありました。尋常小学校は六年で卒業になり、義務教育は終わります。尋常小学校卒業後に高等小学校に入学する者もいて、高等小学校では二年間勉強をします。つまり、高等小学校は現在で言うところの中学一年生や中学二年生が学ぶ場所です。
当時、道徳は修身と言いました。この中学生の道徳の教科書には、当時の倫理観を垣間見ることが出来る頁があります。それが『第四章 誠實』の頁です。この章では誠実な人の基準などが書かれていて、当時の倫理観を知るには適しています。
それによると、『誠実な人は不正に得た金を求めることはなく、自分の誠をつくす』ようです。『自分の誠を尽くす』ということは、どんなことにも誠心誠意で取り組むということでしょう。
誠実かつ仁慈な人は他人の貧乏を哀れに思って恩を売るともあり、当時の倫理観が何となくわかります。他に、誠実で得た信用は石よりも堅いようです。
また、誠実かつ公平な人は自分の利益を考えずに国の利益だけを考えるというものも書かれていました。そういう人達は国の宝と例えられています。
私も愛国者ですが、さすがにそこまでは考えられません(笑)。まあ、日本が好きだからこそ、ホームズと日本を結びつけたようなエッセイを書いているわけですが......。
【ホームズと指紋】
ホームズが捜査に指紋を利用するのはあまりありませんでした。時代が時代であり、指紋で個人を特定するという概念がなかったからです。
指紋で犯人を特定する小説としては、世界に先駆けて『幻燈』という快楽亭ブラックの口演速記のものがあります。これは日本で出版されたものであり、出版年は1892年です。1892年は大空白時代で、快楽亭ブラックは日本在住のイギリス人でした。
ホームズが大空白時代に日本に来ていたら、この『幻燈』を読んでいたかもしれません。『幻燈』で扱っているのは指紋で犯人を特定すると言うより、正確には指紋と手の平の隆線模様での鑑定で犯人を特定する作品です。指紋には変わりありませんが。
日本で『幻燈』をホームズが読んだと仮定したら、それを起因としてホームズは指紋に興味を示し始めたことでしょう。その後、指紋の知識を収集していったと考えるのが妥当です。
1895年に発生した指紋を中心とする事件である短編『ノーウッドの建築士』を、ホームズは指紋の知識によって解決しています。
大空白時代に日本に来て『幻燈』を読み、捜査などにおける指紋の重要性を知ったからこそホームズは『ノーウッドの建築士』事件を解決出来たのかもしれません。
ただ、ホームズの指紋の知識は豊富ではなかったようで、1897年に発生した短編『アベ農園』の事件では、指紋を用いるべき捜査で指紋を一切捜査に役立てませんでした。ホームズの持つ指紋知識が足りなかったから、捜査に指紋は用いなかったのだと解釈出来ます。
とまあ、大空白時代にホームズが日本に来た根拠の一つとして、ホームズと指紋の関係があるのではないでしょうか。江戸川乱歩によると、『幻燈』は快楽亭ブラックの創作ではなくイギリス小説のパクりかもしれないようですが、今となっては手掛かりは何も残っておらず、それは推察に過ぎないので無視することにしました(笑)。
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