私訳源氏物語

高橋悠

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桐壺(光源氏誕生から12歳まで)

桐壺更衣死す

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 その年の夏の事。若宮を産み、御息所みやすどころと呼ばれる桐壺は、この先の事が頼りなく思われて健康を損ねた。養生するために里に帰るお願いをしてみるのだけれど、帝は愛おしさのあまり、どうしてもお許しにならない。この数年の間、ずっと病気がちであった桐壺の事だからと、ましてやいつもご覧になられていたので「もう少し、ここで養生すればよい」とばかり仰るうちに、日に日に桐壺の様態は重くなり、わずか五日、六日経った頃には、もう酷く衰弱していた。桐壺更衣の母は、泣きながら帝にお願い申し上げて、ようやく里に帰ることが許されたのであった。このような時なので、決してあってはならないが、もしも桐壺が亡くなり、その穢れが若宮に及んではいけないからと用心して、若宮を宮中に残して里に帰られた。
 もう死期が近づいている者を、宮中にいつまでも置いておくわけにもいかないので、最愛の桐壺と別れてしまうのは仕方がない。だからといって、その別れの日に見送ることも出来ない。その不安な思いを帝はどうしようもなく抱えておられる。
 里帰りする直前、艶々と美しく、また可愛らしかったあの桐壺が、病気で酷くやつれてしまっている。桐壺はこんな風に、ここで帝と別れなければならないのかと思うと、とても悲しく、何も言葉に出来ない。そんな抜け殻のような桐壺をご覧になった帝は、後先考えないほどに取り乱し、泣きながら、思いつく限りの約束を一生懸命なさろうとするが、桐壺はお返事申し上げることも出来ない。桐壺の眼差しは虚ろとなり、全身から力が抜けて、いよいよ意識不明の重体で横たわっているので、帝はどうしたものかと戸惑うばかりである。
 いったんは複数の人で引くぐるまにて里帰りする事を許す宣旨を出しておきながらも、帝はその未練を断ち切れず、また桐壺の更衣をお部屋に戻し、どうしても手放してやることが出来ずにいらっしゃる。帝は「命には限りがあるが、その限りある道でさえ、どちらかではなく、一緒に旅立とうと約束したではあるまいか。いくら何でも、私をここに残して里に帰ったりはしないだろう、きっとそうであろう」と叫ばれる。さすがに瀕死の桐壺も、帝のお気持ちをいたわしく思ったのか

〽「かぎりとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり」(限りのある命だから、このように別れて道は悲しいけれど、私がたいのは死出の旅路ではなくて、この命をこそたいのでございます)

「こんなことになるのだと、分かっていたら…」そのあとに何を言おうとしたのか、息が絶え絶えで、もうすこし申し上げたい事がお有りな様子であったが、とても苦しそうに声が途絶えていった。
 帝は、一層の事、どうなってもよいから、この場で成り行きを見届けたいとお思いになったが、そうはいかなかった。「今日から始まる祈祷を、しかるべき高僧たちが承っており、それを今晩から始めますので…」と周囲の者たちが口にする。帝はたまらなくなったが、とうとう仕方なく桐壺一行の里帰りをお許しになった。
 それからというもの、帝は胸に込み上げるものがあり、一睡もなさらず夜明けを待ちかねていらっしゃる。まだ帝が桐壺の安否を確かめるために送った使いが帰ってくるだけの時間も経たないうちに、そのどうしようもなく気掛かりな気持ちを漏らしておられたが…。
 「夜中を過ぎるころに、とうとう桐壺の更衣がお亡くなりになりました」と言って、桐壺の家の者が泣き騒ぐ場面に遭遇した使いの者が宮中にがっくりとした様子で帰ってきた。その知らせを聞くや否や、帝は気が動転し、何の分別もつかぬ様子でお部屋に閉じこもってしまわれたのであった。 
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