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㊳アーレン視点
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モワデイルであの壁画とからくり時計を見た時から、嫌な予感がしていた。
そして、それは現実となり、俺の平穏はまたぶち壊されてしまった。
空を飛ぶドラゴンに、地上からの攻撃などほとんど無意味だ。
五千の兵は瞬く間に蹴散らされ、近隣は焦土と化すのだろう。
あの東の山脈への遠征では、俺も前線で戦っていた。
ルークのように怪我をしただけで済んだ兵士は、まだ幸運だった。
命を落としたものも数えきれないほどいるのだ。
前日に故郷の特産品だという甘い香りの茶を淹れてくれた兵士が、目の前で魔物に喰い殺された時は俺も死んでしまいたくなった。
そんなことが数えきれないほど起きて、次第に俺も心が麻痺していった。
だからといって、一つ一つの悲劇を忘れたわけではない。
書類の上ではただの数字として扱われる平民の兵士たちにも、それぞれに魂があるのだ。
ドラゴンを討伐できなかったら、また同じことが繰り返されるだけでなく、あの戦友たちの死が無駄になってしまう。
そんなことは許さない。
それに、約二年ぶりに兄の顔を見てはっきりした。
俺は、兄を憎いとは思っていないのだ。
あの王妃だって、ナディアと出会うきっかけをつくってくれたわけだから、今となってはそう憎くもない。
呪われたと思っていた時は俺の中に深く根を降ろしていた憎悪も怒りも、ナディアと過ごした日々のおかげでほとんど浄化されてしまった。
美しい菫色の瞳が俺に向けられる時、そこにはいつも深い愛情と信頼がある。
それは俺の心に空いた穴を塞ぐだけでなく、全てを優しく包んでくれる。
憎しみのような醜い感情を持ち続けるのは不可能だ。
今、菫色の瞳は、俺ではなくその手元を見つめている。
もう深夜だというのに、ランプの明かりの下で黙々と針を動かし続けるその横顔は真剣そのものだ。
俺はその集中を妨げないように、静かにじっと見守っている。
横になって体を休めるよりも、ナディアの全てを目に焼き付けておくことの方が今の俺には重要に思えた。
俺がドラゴン討伐に向かうと決めた時、ナディアは泣いていた。
だが、行かないでとは一言も言わなかった。
ただ俺に帰ってくることを約束させ、その後はすぐに気持ちを切り替えて剣帯をとりだして、俺を守ると言ってくれた。
そんなことを言ってくれたのは、ナディアが初めてだった。
俺はいつも守る側で、守ってもらったことなどなかったからだ。
ナディアのその強さに俺の胸は熱くなり、さらに愛しさが増した。
一刻も早くドラゴンを叩き殺して、愛しい妻の元に戻ってこなくては。
ナディアと俺の祝福の力を合わせたら、できないことなどないはずだ。
ナディアが針を置いたのは、翌日の昼に近い時間になってからだった。
剣帯を端から端まで検分し、満足な出来だったらしく笑みを浮かべて、ふぅっと息を吐き出した。
「……できた」
「お疲れ様」
声をかけると、ナディアが驚きに飛び上がりながら振り返った。
「びっくりした!眠ってたんじゃなかったの!?」
「きみが頑張っているのに、俺だけ寝ていられないよ。それに、もうすぐ昼だ」
「え!?もうそんな時間!?」
集中するとナディアは時間を忘れてしまう。
普段はしっかりしているのに、たまに危なっかしいところがあって、そこがまた可愛い。
「それ、見せてもらってもいいか?」
ナディアが差し出した剣帯を、丁寧に受け取った。
昨日、作りかけの段階で見せてくれた時は、縁取りの刺繍が途中までできているところだった。
今は、菫とスズランが交互になるよう編まれた花冠のように全体に刺繍がなされている。
「すごいな、これ……」
あったら有難いと言った加護が、全て最上級品質で付加されている。
その中にはナディアが今まで考えたこともなかった加護もあったようで、できるかどうかわからないといっていたものもあったが、そういったものも全てだ。
改めてナディアの持つ祝福の価値を思い知らされた。
「ありがとう、ナディア。疲れただろう?お茶を淹れようか」
それとも食事にしようか、と言おうとして目を向けると、ナディアは既にテーブルに突っ伏して眠ってしまっていた。
あれだけ長い間、集中して夜通し刺繍をしていたのだから、疲れるのも当然だ。
俺はナディアを起こさないようにそっと抱き上げて、寝室に運んで寝台に横たえた。
いつもは薔薇色の頬は血の気が薄く、目の下にはクマができている。
こんなになるまで俺のために頑張ってくれたのだと思うと、愛しさがこみあげてくる。
茶色の柔らかな前髪をそっとかきあげ、額にキスをした。
そして、それは現実となり、俺の平穏はまたぶち壊されてしまった。
空を飛ぶドラゴンに、地上からの攻撃などほとんど無意味だ。
五千の兵は瞬く間に蹴散らされ、近隣は焦土と化すのだろう。
あの東の山脈への遠征では、俺も前線で戦っていた。
ルークのように怪我をしただけで済んだ兵士は、まだ幸運だった。
命を落としたものも数えきれないほどいるのだ。
前日に故郷の特産品だという甘い香りの茶を淹れてくれた兵士が、目の前で魔物に喰い殺された時は俺も死んでしまいたくなった。
そんなことが数えきれないほど起きて、次第に俺も心が麻痺していった。
だからといって、一つ一つの悲劇を忘れたわけではない。
書類の上ではただの数字として扱われる平民の兵士たちにも、それぞれに魂があるのだ。
ドラゴンを討伐できなかったら、また同じことが繰り返されるだけでなく、あの戦友たちの死が無駄になってしまう。
そんなことは許さない。
それに、約二年ぶりに兄の顔を見てはっきりした。
俺は、兄を憎いとは思っていないのだ。
あの王妃だって、ナディアと出会うきっかけをつくってくれたわけだから、今となってはそう憎くもない。
呪われたと思っていた時は俺の中に深く根を降ろしていた憎悪も怒りも、ナディアと過ごした日々のおかげでほとんど浄化されてしまった。
美しい菫色の瞳が俺に向けられる時、そこにはいつも深い愛情と信頼がある。
それは俺の心に空いた穴を塞ぐだけでなく、全てを優しく包んでくれる。
憎しみのような醜い感情を持ち続けるのは不可能だ。
今、菫色の瞳は、俺ではなくその手元を見つめている。
もう深夜だというのに、ランプの明かりの下で黙々と針を動かし続けるその横顔は真剣そのものだ。
俺はその集中を妨げないように、静かにじっと見守っている。
横になって体を休めるよりも、ナディアの全てを目に焼き付けておくことの方が今の俺には重要に思えた。
俺がドラゴン討伐に向かうと決めた時、ナディアは泣いていた。
だが、行かないでとは一言も言わなかった。
ただ俺に帰ってくることを約束させ、その後はすぐに気持ちを切り替えて剣帯をとりだして、俺を守ると言ってくれた。
そんなことを言ってくれたのは、ナディアが初めてだった。
俺はいつも守る側で、守ってもらったことなどなかったからだ。
ナディアのその強さに俺の胸は熱くなり、さらに愛しさが増した。
一刻も早くドラゴンを叩き殺して、愛しい妻の元に戻ってこなくては。
ナディアと俺の祝福の力を合わせたら、できないことなどないはずだ。
ナディアが針を置いたのは、翌日の昼に近い時間になってからだった。
剣帯を端から端まで検分し、満足な出来だったらしく笑みを浮かべて、ふぅっと息を吐き出した。
「……できた」
「お疲れ様」
声をかけると、ナディアが驚きに飛び上がりながら振り返った。
「びっくりした!眠ってたんじゃなかったの!?」
「きみが頑張っているのに、俺だけ寝ていられないよ。それに、もうすぐ昼だ」
「え!?もうそんな時間!?」
集中するとナディアは時間を忘れてしまう。
普段はしっかりしているのに、たまに危なっかしいところがあって、そこがまた可愛い。
「それ、見せてもらってもいいか?」
ナディアが差し出した剣帯を、丁寧に受け取った。
昨日、作りかけの段階で見せてくれた時は、縁取りの刺繍が途中までできているところだった。
今は、菫とスズランが交互になるよう編まれた花冠のように全体に刺繍がなされている。
「すごいな、これ……」
あったら有難いと言った加護が、全て最上級品質で付加されている。
その中にはナディアが今まで考えたこともなかった加護もあったようで、できるかどうかわからないといっていたものもあったが、そういったものも全てだ。
改めてナディアの持つ祝福の価値を思い知らされた。
「ありがとう、ナディア。疲れただろう?お茶を淹れようか」
それとも食事にしようか、と言おうとして目を向けると、ナディアは既にテーブルに突っ伏して眠ってしまっていた。
あれだけ長い間、集中して夜通し刺繍をしていたのだから、疲れるのも当然だ。
俺はナディアを起こさないようにそっと抱き上げて、寝室に運んで寝台に横たえた。
いつもは薔薇色の頬は血の気が薄く、目の下にはクマができている。
こんなになるまで俺のために頑張ってくれたのだと思うと、愛しさがこみあげてくる。
茶色の柔らかな前髪をそっとかきあげ、額にキスをした。
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