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⑪ 妖精姫とタニアとシロ テオドール視点
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「タニアさんは口はきけないにしても、とても賢い子なようです。
ある程度の礼儀作法も身につけています。
言うことを聞かなかったりして、困らせられることは今のところ一度もありません。
シロもタニアさんを守るようにぴったりと寄り添っていて、本当に護衛のようです。
こちらが言うことも理解しているようで、驚くほど手のかからない犬です」
レティシアたちが公爵邸に来た翌日、マリッサはそう報告してきた。
「お美しいレティシア様はお仕えしがいのある方ですが、それにしてもタニアさんとシロが可愛くて……私だけでなく、既に多くの使用人たちが心を奪われております。
リーシアもフィオナもザックも、メロメロです。
私も、予想外の役得だと思っておりますよ」
こんなに嬉しそうな笑顔のマリッサを見るのは、いつ以来のことだろうか。
レティシアだけでなく、タニアとシロも使用人たちに受け入れられたようだ。
「旦那様も、タニアさんとシロを近くでご覧になったらいかがでしょう?きっと自然と笑顔になれますわ」
元からそうするつもりだったので、その日の夕食の席に招くことにした。
マリッサの言った通り、タニアもシロもとても行儀がよかった。
昨日見た時よりも肌にも髪にも艶が増したタニアは、まだ五歳だというのに、どこか完成されたような印象さえ受ける美しさだ。
側に来るように呼び寄せると、タニアとシロは並んでじっと俺を見つめた。
その四つの瞳には、確かな知性があるのが見て取れた。
そして、俺は生まれて初めて、子供に対して『可愛い』と思ってしまった。
シロを抱きしめ無言で訴えかけてきたのも、その後ぱっと笑顔になったのも、可愛いとしか言いようがなかった。
躊躇いながらも頭を撫でてやると、タニアとシロは嬉しそうに瞳を細めた。
それもまた可愛くて、そんなことを思う俺自身に戸惑った。
それからも、マリッサたちからの報告は続いた。
「今日はレティシア様たちは庭の散策をなさいました。
ちょうど薔薇が咲いていて、とてもきれいだと喜んでくださいました。
ただ、シロと追いかけっこをしていたタニアさんが薔薇の生垣に頭から突っ込んでしまって、ほっぺにひっかき傷ができてしまって……痕が残るほどの傷ではありませんが、リーシアとフィオナが大慌てでした。
ずっと狭い家の中だけで生活していたので、外にあるもの全てが珍しいのだろうとレティシア様はおおらかに笑っておられました」
という報告はマリッサから。
この邸での生活に慣れてきてから、タニアはお転婆な面を見せるようになった。
子供らしくていいことではないか。
まだ五歳なのだから、外で元気に遊びまわるといい。
「タニアさんは、お姫様が出てくるような絵本より、男の子が冒険の旅に出るような絵本がお好きなようです。
坊ちゃまが小さいころにお気に入りだった絵本を読んであげると、とても喜んでくださって、その後五回も繰り返し読むようにお願いされました」
という報告は家令から。
この家令は、俺が小さいころはいつも小言ばかり言っていたのに、今はタニアを膝にのせて絵本を読むのが楽しみでしかたがないそうだ。
「仕立屋がレティシア様とタニアさんのドレスを仕上がった分だけ持ってきてくれました。
お揃いのドレスにお二人とも大喜びで、手をつないでくるくる回っておられました。
シロも新しいスカーフをつけてもらって、その周りを走り回って……なんというか、もうここは楽園なんじゃないかってくらい、可愛かったです」
という報告はフィオナから。
フィオナは腕の確かな女性騎士なのだが、同時に可愛いものに目がないのだ。
レティシアもタニアもシロもそれぞれ可愛いが、全部まとまると可愛さが十倍くらいに跳ね上がるのだそうだ。
「お庭の片隅に咲いていた野花で、花冠の作り方をお教えしました。
レティシア様はタニアさんにつくってあげて、タニアさんはシロにつくってあげていました。
数種類の花を組み合わせるのですけど、タニアさんがつくった花冠が一番バランスがよくてきれいな彩りになっていました。
タニアさんは美術系の才能があるのかもしれません」
という報告はリーシアから。
花冠の花は、きれいなものを選んで押し花にしてあるそうだ。
「シロは本物の護衛です。初めて見るメイドやら侍従やらを見つけると、必ず匂いを嗅ぎに行くのです。
素行に少し問題がある騎士がいたのですが、シロは一発でそれを見抜いたようで、その騎士が姿を見せると、唸って吠えて遠ざけたのです。
いつもは大人しくて可愛い犬なのに、その時は狼のような迫力がありました。
あの勘の良さと忠誠心は大したものです。犬にしておくのがもったいないくらいです」
という報告はザックから。
護衛騎士という視点から見ても、シロはとても頼りになるようだ。
タニアが生まれたころに庭に迷い込んできた犬、という話だったが、なんとも不思議な犬である。
レティシアのことを報告するように、と言いつけてあるのだが、報告の内容はタニアやシロに関することであることも少なくない。
そこからレティシアの様子も伝わってくるから構わないのだが。
タニアとシロは元気いっぱりで遊びまわり、多くの使用人たちに可愛がられ、レティシアはそれを優しく見守っている。
健やかに暮らしているようでなによりである。
俺の都合次第ではあるが、だいたい三日に一度は食事を一緒にとるようにしている。
レティシアもタニアも、明らかに表情が明るくなり、以前より健康的になった。
「最近、お庭にあるガゼボでお茶会をするのです。
使用人の皆さんが日替わりで参加してくださって、とても楽しいのですよ」
「タニアがなにかを拾ってじっと見ていたので、見せてってお願いしたら、緑色の小さなカエルを手渡してくれました。
わたくし、カエルに触るのは初めてで、なんだかひんやりしているのがおもしろくて、タニアと二人でそのまま眺めていたら、リーシアに悲鳴を上げられてしまいました……カエルはもといた場所に戻しましたわ」
「今日は雨で外に出られなかったので、厨房でクッキーの作り方を習いました。初めて作ったのですけど、ちゃんと美味しくできたのですよ。
ここの料理人の方は腕がいいだけでなく、教え方もお上手なのですね。
今度はマドレーヌの作り方を教えて下さるそうで、今からとても楽しみなのです」
「今日はタニアと刺繍を習いました。
恥ずかしながら、刺繍はわたくしもほとんどしたことがなくて……マリッサがつくってくれたお手本を見ながら頑張ったのです。
どちらが先に上達するかタニアと競争しているのですが……なんだか、負けるのはわたくしのような気がしますわ」
そんなごく普通の、だが幸せに満ちた日常のことをレティシアは話してくれる。
妹の成長を喜び、全ては俺と使用人たちのおかげだと感謝の心を忘れない。
姉妹の交わす笑顔には溢れるほどの愛情があり、それは俺の心まで温かくしてくれるようだった。
いつしか俺はレティシアからなにげない日々の話を聞くのが楽しみになっていた。
だが、こんなこともあった。
いつものように夕食の席に着いたレティシアとタニアが、二人揃ってどんよりと暗い顔をしているのだ。
「どうした?なにかあったのか?」
「はい、閣下……実は……」
八の字に眉を下げたレティシアが語ったのは、これまたなんとも微笑ましい話だった。
その日、昼くらいに通り雨が降った。
雨上がりのお庭もきれいだからとメイドに誘われ、いつものように散策に出た。
花や葉の上で水滴がキラキラ光っていて、つい気を取られている間に、タニアたちから目を離してしまった。
レティシアたちが見つけたときには、タニアとシロは水たまりで泥んこ遊びをしていた。
ほんの短い間だったのに、ふたりとも元の色がわからないくらい泥だらけになっていた。
しかも、そのままレティシアに飛びついてきたので、レティシアのドレスも同じようになってしまった……
「あまりにも汚すぎて、室内に入ることもできなくて、マリッサが魔法で水を出して洗い流そうとしてくれたのですが、それも楽しかったようで……タニアとシロがはしゃいで逃げ回って、このままでは洗っているのだかさらに汚しているのだかわからない、ということになって……わたくしとリーシアとフィオナでタニアとシロを捕まえて、泥を落としてからお風呂に入れました。
お風呂のお湯もすぐ茶色くなって、大変でした……」
「そうか、それは大変だったな」
俺が笑いを堪えながらタニアに視線を向けると、いつもなら真っすぐに見つめ返してくるのに、今日は気まずそうな顔で目を逸らした。
こんな顔もするようになったのか、とタニアの成長が垣間見れた気がした。
きっとレティシアにこっぴどく叱られたのだろう。
タニアとシロに説教をするレティシア、というのも可愛かったのではないだろうか、なんてことを思ってしまった。
「それで……せっかく閣下がお揃いで仕立ててくださったドレスが、ダメになってしまったのです」
ここでやっと俺はレティシアが気に病んでいることを理解した。
申し訳ありません、と頭を下げるレティシアとタニアの後で、マリッサの頬が緩んでいるのが見える。
レティシアとタニアに仕立てたドレスが数着ダメになったところで、また仕立てればいいだけのことだ。
落ち込むほどのことではないのだが、レティシアの感覚ではそうもいかないのだろう。
「泥遊びなど、だれでも一度は経験することだ。そこまで気にする必要などない。また近いうちに仕立屋を呼ぼう」
「いいえ、いけません!わたくしたちは、もう十分によくしていただいておりますから!」
喜んでもらえると思った提案だったのに、思いがけないほどの勢いで断られてしまった。
「わたくし、安上りな愛人になるとお約束しました。
高価なものを強請ることはしないと……閣下とのお約束を、違えるわけにはまいりません!
ドレスは、他にもありますから、新しく仕立てていただく必要はございません。
閣下のお気持ちだけで、わたくしたちは嬉しいのです」
そういえば、取引を俺にもちかける際、レティシアはそんなことを言っていた。
取引のことなど知らない使用人たちの顔が険しくなり、責めるような目で俺を一斉に見た。
今ここにいる使用人たちは、俺が生まれる前から、もしくは俺が小さいころから我が家に仕えているものたちばかりで、当主である俺にも遠慮がないのだ。
「あの時其方が言ったのは、夜会で着るような派手なドレスのことだろう。
普段着のドレスくらい、いくら仕立てても構わないのだぞ。
それに、其方が強請っているのではなく、俺が仕立てるように勧めているのだ」
「ですが……」
レティシアの愁眉はまだ開かない。
「あの……よろしいでしょうか」
ここで声を上げたのは、リーシアだった。
「新しく仕立てるのではなく、街で古着を買ってくる、というのはいかがでしょうか。
古着なら、ダメになったレティシア様のドレス一着くらいの値段で、二十着は買えます。
これなら、汚れてしまっても処分するのに抵抗は少ないのではないでしょうか。
レティシア様はガーデニングにも興味をお持ちですし、汚れてもいい衣類というのがあったら便利だと思うのです」
いい提案だ。
レティシアも興味を惹かれたようで、碧の瞳に輝きが戻った。
「それから、当然ながら街にはいろんなお店がございます。
美味しいお菓子のお店や、本屋や、野菜や果物の市場など、レティシア様はご覧になったことがないのではないでしょうか。
そういったところでちょっとしたお買い物をするのも、楽しいものですよ。
旦那様、レティシア様とタニアさんを街にお連れしてもよろしいでしょうか」
レティシアとタニアは期待に満ちた瞳を俺に向けた。
よく似た二人の顔には、『行きたい!』とお揃いで書いてあり、それがまた微笑ましい。
「いいだろう。好きなものがあれば、いくらでも買ってくるといい。タニアにもいい経験になるだろう。
ただし、フィオナとザックは必ず連れて行くように」
「はい、閣下!ありがとうございます!」
やっといい笑顔を見せてくれた二人に、俺と使用人たちは和やかな気分になった。
レティシアたちが来てから、邸の中は見違えるほど明るくなった。
俺としては、ここまで大きな影響があるとは思っていなかったのだが、これはレティシアだけでなくタニアとシロによるところも大きい。
レティシアたちの周りにはいつも笑顔が満ちている。
タニアとシロが戯れている姿は、俺から見ても可愛らしい。
レティシアとの愛人契約がいつまで続くかはわからないが、このままタニアが成長するのを見届けるのも悪くないと思っていた。
ある程度の礼儀作法も身につけています。
言うことを聞かなかったりして、困らせられることは今のところ一度もありません。
シロもタニアさんを守るようにぴったりと寄り添っていて、本当に護衛のようです。
こちらが言うことも理解しているようで、驚くほど手のかからない犬です」
レティシアたちが公爵邸に来た翌日、マリッサはそう報告してきた。
「お美しいレティシア様はお仕えしがいのある方ですが、それにしてもタニアさんとシロが可愛くて……私だけでなく、既に多くの使用人たちが心を奪われております。
リーシアもフィオナもザックも、メロメロです。
私も、予想外の役得だと思っておりますよ」
こんなに嬉しそうな笑顔のマリッサを見るのは、いつ以来のことだろうか。
レティシアだけでなく、タニアとシロも使用人たちに受け入れられたようだ。
「旦那様も、タニアさんとシロを近くでご覧になったらいかがでしょう?きっと自然と笑顔になれますわ」
元からそうするつもりだったので、その日の夕食の席に招くことにした。
マリッサの言った通り、タニアもシロもとても行儀がよかった。
昨日見た時よりも肌にも髪にも艶が増したタニアは、まだ五歳だというのに、どこか完成されたような印象さえ受ける美しさだ。
側に来るように呼び寄せると、タニアとシロは並んでじっと俺を見つめた。
その四つの瞳には、確かな知性があるのが見て取れた。
そして、俺は生まれて初めて、子供に対して『可愛い』と思ってしまった。
シロを抱きしめ無言で訴えかけてきたのも、その後ぱっと笑顔になったのも、可愛いとしか言いようがなかった。
躊躇いながらも頭を撫でてやると、タニアとシロは嬉しそうに瞳を細めた。
それもまた可愛くて、そんなことを思う俺自身に戸惑った。
それからも、マリッサたちからの報告は続いた。
「今日はレティシア様たちは庭の散策をなさいました。
ちょうど薔薇が咲いていて、とてもきれいだと喜んでくださいました。
ただ、シロと追いかけっこをしていたタニアさんが薔薇の生垣に頭から突っ込んでしまって、ほっぺにひっかき傷ができてしまって……痕が残るほどの傷ではありませんが、リーシアとフィオナが大慌てでした。
ずっと狭い家の中だけで生活していたので、外にあるもの全てが珍しいのだろうとレティシア様はおおらかに笑っておられました」
という報告はマリッサから。
この邸での生活に慣れてきてから、タニアはお転婆な面を見せるようになった。
子供らしくていいことではないか。
まだ五歳なのだから、外で元気に遊びまわるといい。
「タニアさんは、お姫様が出てくるような絵本より、男の子が冒険の旅に出るような絵本がお好きなようです。
坊ちゃまが小さいころにお気に入りだった絵本を読んであげると、とても喜んでくださって、その後五回も繰り返し読むようにお願いされました」
という報告は家令から。
この家令は、俺が小さいころはいつも小言ばかり言っていたのに、今はタニアを膝にのせて絵本を読むのが楽しみでしかたがないそうだ。
「仕立屋がレティシア様とタニアさんのドレスを仕上がった分だけ持ってきてくれました。
お揃いのドレスにお二人とも大喜びで、手をつないでくるくる回っておられました。
シロも新しいスカーフをつけてもらって、その周りを走り回って……なんというか、もうここは楽園なんじゃないかってくらい、可愛かったです」
という報告はフィオナから。
フィオナは腕の確かな女性騎士なのだが、同時に可愛いものに目がないのだ。
レティシアもタニアもシロもそれぞれ可愛いが、全部まとまると可愛さが十倍くらいに跳ね上がるのだそうだ。
「お庭の片隅に咲いていた野花で、花冠の作り方をお教えしました。
レティシア様はタニアさんにつくってあげて、タニアさんはシロにつくってあげていました。
数種類の花を組み合わせるのですけど、タニアさんがつくった花冠が一番バランスがよくてきれいな彩りになっていました。
タニアさんは美術系の才能があるのかもしれません」
という報告はリーシアから。
花冠の花は、きれいなものを選んで押し花にしてあるそうだ。
「シロは本物の護衛です。初めて見るメイドやら侍従やらを見つけると、必ず匂いを嗅ぎに行くのです。
素行に少し問題がある騎士がいたのですが、シロは一発でそれを見抜いたようで、その騎士が姿を見せると、唸って吠えて遠ざけたのです。
いつもは大人しくて可愛い犬なのに、その時は狼のような迫力がありました。
あの勘の良さと忠誠心は大したものです。犬にしておくのがもったいないくらいです」
という報告はザックから。
護衛騎士という視点から見ても、シロはとても頼りになるようだ。
タニアが生まれたころに庭に迷い込んできた犬、という話だったが、なんとも不思議な犬である。
レティシアのことを報告するように、と言いつけてあるのだが、報告の内容はタニアやシロに関することであることも少なくない。
そこからレティシアの様子も伝わってくるから構わないのだが。
タニアとシロは元気いっぱりで遊びまわり、多くの使用人たちに可愛がられ、レティシアはそれを優しく見守っている。
健やかに暮らしているようでなによりである。
俺の都合次第ではあるが、だいたい三日に一度は食事を一緒にとるようにしている。
レティシアもタニアも、明らかに表情が明るくなり、以前より健康的になった。
「最近、お庭にあるガゼボでお茶会をするのです。
使用人の皆さんが日替わりで参加してくださって、とても楽しいのですよ」
「タニアがなにかを拾ってじっと見ていたので、見せてってお願いしたら、緑色の小さなカエルを手渡してくれました。
わたくし、カエルに触るのは初めてで、なんだかひんやりしているのがおもしろくて、タニアと二人でそのまま眺めていたら、リーシアに悲鳴を上げられてしまいました……カエルはもといた場所に戻しましたわ」
「今日は雨で外に出られなかったので、厨房でクッキーの作り方を習いました。初めて作ったのですけど、ちゃんと美味しくできたのですよ。
ここの料理人の方は腕がいいだけでなく、教え方もお上手なのですね。
今度はマドレーヌの作り方を教えて下さるそうで、今からとても楽しみなのです」
「今日はタニアと刺繍を習いました。
恥ずかしながら、刺繍はわたくしもほとんどしたことがなくて……マリッサがつくってくれたお手本を見ながら頑張ったのです。
どちらが先に上達するかタニアと競争しているのですが……なんだか、負けるのはわたくしのような気がしますわ」
そんなごく普通の、だが幸せに満ちた日常のことをレティシアは話してくれる。
妹の成長を喜び、全ては俺と使用人たちのおかげだと感謝の心を忘れない。
姉妹の交わす笑顔には溢れるほどの愛情があり、それは俺の心まで温かくしてくれるようだった。
いつしか俺はレティシアからなにげない日々の話を聞くのが楽しみになっていた。
だが、こんなこともあった。
いつものように夕食の席に着いたレティシアとタニアが、二人揃ってどんよりと暗い顔をしているのだ。
「どうした?なにかあったのか?」
「はい、閣下……実は……」
八の字に眉を下げたレティシアが語ったのは、これまたなんとも微笑ましい話だった。
その日、昼くらいに通り雨が降った。
雨上がりのお庭もきれいだからとメイドに誘われ、いつものように散策に出た。
花や葉の上で水滴がキラキラ光っていて、つい気を取られている間に、タニアたちから目を離してしまった。
レティシアたちが見つけたときには、タニアとシロは水たまりで泥んこ遊びをしていた。
ほんの短い間だったのに、ふたりとも元の色がわからないくらい泥だらけになっていた。
しかも、そのままレティシアに飛びついてきたので、レティシアのドレスも同じようになってしまった……
「あまりにも汚すぎて、室内に入ることもできなくて、マリッサが魔法で水を出して洗い流そうとしてくれたのですが、それも楽しかったようで……タニアとシロがはしゃいで逃げ回って、このままでは洗っているのだかさらに汚しているのだかわからない、ということになって……わたくしとリーシアとフィオナでタニアとシロを捕まえて、泥を落としてからお風呂に入れました。
お風呂のお湯もすぐ茶色くなって、大変でした……」
「そうか、それは大変だったな」
俺が笑いを堪えながらタニアに視線を向けると、いつもなら真っすぐに見つめ返してくるのに、今日は気まずそうな顔で目を逸らした。
こんな顔もするようになったのか、とタニアの成長が垣間見れた気がした。
きっとレティシアにこっぴどく叱られたのだろう。
タニアとシロに説教をするレティシア、というのも可愛かったのではないだろうか、なんてことを思ってしまった。
「それで……せっかく閣下がお揃いで仕立ててくださったドレスが、ダメになってしまったのです」
ここでやっと俺はレティシアが気に病んでいることを理解した。
申し訳ありません、と頭を下げるレティシアとタニアの後で、マリッサの頬が緩んでいるのが見える。
レティシアとタニアに仕立てたドレスが数着ダメになったところで、また仕立てればいいだけのことだ。
落ち込むほどのことではないのだが、レティシアの感覚ではそうもいかないのだろう。
「泥遊びなど、だれでも一度は経験することだ。そこまで気にする必要などない。また近いうちに仕立屋を呼ぼう」
「いいえ、いけません!わたくしたちは、もう十分によくしていただいておりますから!」
喜んでもらえると思った提案だったのに、思いがけないほどの勢いで断られてしまった。
「わたくし、安上りな愛人になるとお約束しました。
高価なものを強請ることはしないと……閣下とのお約束を、違えるわけにはまいりません!
ドレスは、他にもありますから、新しく仕立てていただく必要はございません。
閣下のお気持ちだけで、わたくしたちは嬉しいのです」
そういえば、取引を俺にもちかける際、レティシアはそんなことを言っていた。
取引のことなど知らない使用人たちの顔が険しくなり、責めるような目で俺を一斉に見た。
今ここにいる使用人たちは、俺が生まれる前から、もしくは俺が小さいころから我が家に仕えているものたちばかりで、当主である俺にも遠慮がないのだ。
「あの時其方が言ったのは、夜会で着るような派手なドレスのことだろう。
普段着のドレスくらい、いくら仕立てても構わないのだぞ。
それに、其方が強請っているのではなく、俺が仕立てるように勧めているのだ」
「ですが……」
レティシアの愁眉はまだ開かない。
「あの……よろしいでしょうか」
ここで声を上げたのは、リーシアだった。
「新しく仕立てるのではなく、街で古着を買ってくる、というのはいかがでしょうか。
古着なら、ダメになったレティシア様のドレス一着くらいの値段で、二十着は買えます。
これなら、汚れてしまっても処分するのに抵抗は少ないのではないでしょうか。
レティシア様はガーデニングにも興味をお持ちですし、汚れてもいい衣類というのがあったら便利だと思うのです」
いい提案だ。
レティシアも興味を惹かれたようで、碧の瞳に輝きが戻った。
「それから、当然ながら街にはいろんなお店がございます。
美味しいお菓子のお店や、本屋や、野菜や果物の市場など、レティシア様はご覧になったことがないのではないでしょうか。
そういったところでちょっとしたお買い物をするのも、楽しいものですよ。
旦那様、レティシア様とタニアさんを街にお連れしてもよろしいでしょうか」
レティシアとタニアは期待に満ちた瞳を俺に向けた。
よく似た二人の顔には、『行きたい!』とお揃いで書いてあり、それがまた微笑ましい。
「いいだろう。好きなものがあれば、いくらでも買ってくるといい。タニアにもいい経験になるだろう。
ただし、フィオナとザックは必ず連れて行くように」
「はい、閣下!ありがとうございます!」
やっといい笑顔を見せてくれた二人に、俺と使用人たちは和やかな気分になった。
レティシアたちが来てから、邸の中は見違えるほど明るくなった。
俺としては、ここまで大きな影響があるとは思っていなかったのだが、これはレティシアだけでなくタニアとシロによるところも大きい。
レティシアたちの周りにはいつも笑顔が満ちている。
タニアとシロが戯れている姿は、俺から見ても可愛らしい。
レティシアとの愛人契約がいつまで続くかはわからないが、このままタニアが成長するのを見届けるのも悪くないと思っていた。
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