幼馴染み

ナメクジ

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記憶

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「どうだ?患者の様子は?」
とある病院の、窓から真昼の日差しが強く差し込む一室。私は後輩に先日入院してきたばかりの患者について質問する。
「はい、今日は比較的安定していたかと。つい先程、臥床しました。薬は投与してません。」
「そうか、分かった。だが、最近独話が多くなってるみたいだからな。状態の急変に備えておいてくれ。」
「了解。」
私の指示に後輩は襟を正しながら答えた。

 患者名、須藤章司。年齢、14歳。在籍している中学校で授業中、突如独話を始める。当初は教師も注意で済ませていたが、時間が経つにつれて声量が拡大、異常を感じた教師が彼に接近する。焦点の合わない黒目、筋肉の機能を一切感じられない脱力感から、彼が正気ではないと断定し、即時119へ連絡。付近の病院へ搬送される。診断の結果、精神的な病の可能性が極めて高いためこの病院へ移送される。

 病名などの詳細は控えるが後天的に発現した精神の病を患っている。幻覚、幻聴などが主な症状。幾度のカウンセリングによって原因は幼少から受けてきた両親からの虐待、同級生からの虐め、更に最近、両親が自殺を実行したことなどの苛酷な現実からの逃避であると考えられる。

「彼には、東郷静香という少女が見えている。分かっているとは思うが、否定は絶対ダメだ。肯定もダメ、君にとっても患者のとっても毒だからな。あくまでも話半分で、適当に話しを合わせること。」
後輩に、既に承知の上であろう指摘を念のため伝える。
「ご指摘ありがとうございます。」
軽く受け流しても良いのに、生真面目で、低頭な性格をしている後輩は妙に畏って応答する。
「君のその裏表の無い真面目な性格は現代において類稀なる長所ではあると思うが、少々危機感を覚えるな。この仕事において、全方位に対してそれを発揮していると疲弊していくだけだぞ。少し砕けた方が良いと思うよ。」
「申し訳ありません。以後気を付けます。」
いつも先輩に対する配慮は驚くほど鋭敏な癖に、こういう所は絶望的に鈍重な後輩。話し方が一塵も砕けてないことに驚愕する。

「ま、いいや。それより後輩君、君に聞きたいことがある。」
「なんでしょうか?」
「記憶に質ってあると思う?」
「質、ですか?」
私の突拍子のない質問に後輩は、しばらく困惑の表情を見せた後
「そうですね、記憶は個人個人の歴史の証明。平凡な環境を生きてきた者には大した証明は出来ません。しかし、特殊な環境を生き抜いてきた者には濃厚な証明が可能です。そのような差異が存在する以上、質はあると考えて良いと思います。」
と、これまた真面目な意見を淡々と述べる。
「あー、なるほどね。じゃ、私の意見言っていい。」
「はい。」
「じゃあ言うよ。まず、記憶っていうのは現在より前の時間、過去のものしか存在しないよね。当然だけど。そして、過去に人力で戻ることは不可能。これも当然。でも、人は何故か過去に対して感傷的になったり、後悔の念から遡行を考えたりする。勿論、そんな思考する時間は無意味だよね。どんなに遡行願望があっても、修正願望があっても現在に過去を引っ張ってくることはできないから。結局、現在において存在しないんだよ、色も、重みも、高さも。過去というものは記憶の中で輪郭だけを保って存在している。でも中身がない以上質はないってことでいいんじゃない?これが私の意見。」

「成る程。まず、私と先輩では質という言葉の意義について少々見解が異なるようですね。価値として捉えるか、物体自体の構成要素として捉えるか。…しかし、何故このような質問を?」
後輩は、思慮深い表情から一転、怪訝な表情で私に問う。意図が全く分かりません、と文句の一つでも言いたげだ。
「君は突然私が意図を汲み取ることの難しい、もやが掛けられたような奇問を通り魔的に吹っかけてきたって思ってるよね。」
少し後輩を挑発してみた。自分でも理不尽であるのは理解しているが、どうしても後輩の堅苦しい態度を崩してみたかったのだ。
「いえ、そのような愚考は片隅にもありません。お気に障ったのであれば誠心誠意謝罪いたします。申し訳ありません。」
まるで謝罪会見時の政治家のように頭を深々と下げて謝罪をする後輩。後輩の鉄の要塞の前では私の挑発など小さな鉄砲玉でしかなかった。崩すどころか微傷の一つすらつけることはできない。
「別に怒ってるわけじゃないよ。ただそうかなーと勝手に思っただけ。ただの私見だから気にしなくていい。それより、質問の意図なんだけど、須藤章司。彼が起因だ。」
「須藤章司、ですか。」
「そう、先程まで話題にしていた患者。彼は東郷静香、という少女を見ているよね。この東郷静香は彼の幼少からの記憶を映した存在なんだ。だから幼馴染みなんだよ。多分。自身に付き纏う苦痛を乖離する。一つの逃避方法だよね。彼の場合、東郷静香という少女を創造して、乖離先とした。そこで、私はある疑問が湧いたんだ。果たして彼の見ている東郷静香とは?記憶の顕在である彼女の姿は?色は?身長は?体重は?そして、つい先程語った結論に辿り着いたのだが、他の人の意見も聞きたかった。それだけだよ。」
「それで、東郷静香を記憶という言葉に置き換えて私に質問したのですね。」
私は静かに頷く。
「と、話し込んでるうちに日が暮れてしまったな。」
気付けば、窓から差し込んでいたのは間もなく沈下する夕陽の懐古的な淡い光。
「じゃ、引き継ぎが終了したら私達は帰ろうか。まだ消化不良ではあるかもしれないけどね。」
「了解。」
文句一つ言わずに作業を開始する後輩を傍目に、私は換気をしようと窓を開ける。緩やかなそよ風に吹かれ、微かに揺れる木の葉の立てる小音に耳をくすぐられるのだった。
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