人工幽霊

桐山

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人工幽霊

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 さめざめと泣く女の顔が、薄闇の中にぼんやりと浮かんでいる。
 その輪郭は曖昧だ。どこも、かしこも。磨りガラス越しに眺めているようだから、歳の頃もはっきりとしない。細い顎、長い髪、赤い唇。そしてすすり上げる声でどうにか性別を判断できる程度だろう。
 けれど、オレは知っている。名前は、櫛本リコ。三十も半ばの年増で職業は専業主婦。身長百六十センチ前後、体重は……まあ、そう太くもない。
 目の前に現れた女の幽霊、そのプロフィールをこうもすらすらと言えるのは。生前、彼女がオレの妻だったからだ。


「……」
 無言でしげしげと見つめた。姿は見えても声が届かないのは確認済みだ。何度呼びかけても大声で叫んでも、リコは俯けた顔をちらとも上げない。真っ暗な部屋にうずくまり、今日もひたすらに涙ぐんでいる。
 はぁ、溜息をついてオレは片手をさしのべた。髪の一筋でも撫でてやろうと思ったが、指先は相手の頭をあっけなく突き抜けてしまう。不鮮明なホログラムだと言われれば、疑わず納得してしまうかもしれない。
 しかし、『これ』は立体画像とは似て異なるものだ。死んだ人間の思念を再生する装置によって出現した、いわば『人工幽霊』。近頃開発されたばかりの先端技術だ。
 とある企業からプロジェクトの話を持ち掛けられ、被験体として登録したのは今から半年ほど前のこと。悪夢のようなあの事故にあったのは、つい一か月前のことだった。


 ここ数十年で車の運転は各段に楽になったという。親の昔話でしか知らないが、昔は自分の手と足、目と脳味噌だけで動かしていたらしい。
 それが今や、ハンドルもブレーキもほとんど操作せずに済む。あらかじめ目的地を入力すれば、最短ルートを計算して勝手に走り出してくれるから。道路上に見えないレールが敷かれているようなものだ。車両に埋め込まれたチップが逐一位置情報をチェックして、きっかり車線の真ん中を前後の車と適切な距離を取りつつ進む。正真正銘の『自動車』ってわけ。
 とはいえ、ドライバーの役割は完全に失われてはいない。たとえば行く手にいい感じのバーを見つけたりしたら、スピードを落として駐車場に入りたくなるだろう。人類にはまだ、そういう判断くらいは自分でしようという気があるようだ。
 だからあの日もオレは、鼻歌なんか歌いながらフロントガラス越しの景色を眺めていた。晴れ過ぎても曇り過ぎてもいないちょうどいい天気の日曜日、少しアルコールも入っていい気分で。たとえどんなに酔っぱらってたって交通量が多くたって、最新の衝突回避システムが装備されているから安心だった。車同士が一定の距離まで近づくと、センサーが感知して強制的にブレーキがかかる。しかも全方位対応、追突も正面衝突もありえない。実際、以前は年に何十万件と起こっていた交通事故は今では数えるほどだ。経験するのはレア中のレア。
 遭遇したところで、別に嬉しいもんでもなかったけどね。


 鉄骨だ。対向車に積まれた荷物の固定が甘かった。さすがのAI様でも避けられない、ほんの一瞬のうちに起きた出来事だった。
 今でもフラッシュバックする。バカでかいトラックとすれ違いざま、ふっと頭上に落ちてきた影、なんだと思う間もなくあっさりと割れたガラスの細かな破片、天井が潰れる大きな、あれは嫌な音だった、ぐしゃりみたいな、ばしゃりみたいな、鼓膜が破裂したんじゃないかってくらいのひどい――
 ……あまり思い出したくはない記憶だ。もっとも、その先はぷっつりと途切れ暗転して終わる。
 ともかく、運が悪かった。あと数秒でも違っていたら、重さ数トンの鉄の柱は助手席を直撃なんかせずに済んだろう。
 多少の怪我くらいはしても、死ぬことはなかったに違いない。


 それにしても、と、頭を振って不快な感覚を払おうとする。『人工幽霊』のβテストに申し込んでおいたのは、こうなれば良かったのかどうなのか。
 リコの亡霊は相変わらずすすり泣きを続けている。不明瞭で意味は聞き取れないまでも、何か恨み言らしきものを涙の合間に呟いているのがわかる。なかなか鬱々とする光景が、延々繰り返されるようになってからもう半月は過ぎている。
 最初の頃は、さすがに感慨深いものがあった。この世から永遠に失われたはずの命と向き合っているんだ、当然だろう。企業から渡されたマニュアルや誓約書の類にあまり目を通さないままサインをしてしまったが、『人工幽霊』は単なる記録再生体ではないということは理解しているつもりだ。
 不完全とはいえ、リコは生前から引き継いだ意識を保持している、自我がある。セルフイメージに基づく肉体さえ構築している――元素の結びつきが弱すぎて、ほとんど幻影と変わらないにしても。
 だからこそ悔しいだろう、悲しいだろう。こんな形で人生を終えなければならなかった運命を呪いもするだろう。平均寿命から考えれば、あと七十年は生きられたはずなのに、と。
『なぜ、あなたは生きているの?』。
 そんな気持ちにも、なっておかしくはないだろう。


 私は死んでもあなたが幸せであるならそれでいい、みたいに思われるような夫ではなかったという自覚はある。亡くなった妻と、幽霊という姿ではあるが再会を果たして涙の一つも流れなかったのが何よりの証拠だ。向こうが笑顔で抱きついてくる可愛げがあればオレの反応も違ったかもしれないのに、こうもめそめそされては気が滅入るばかりだ。
 まあ、思い返せば当初から愛の薄い結婚生活だった。やはり『こいつで手を打つか』みたいな感覚でするものではない。仕事先に、ちょっと上手く行きそうな可愛い女性社員がいる。今回はこういう形で終わりを迎えたわけだが、遅かれ早かれ離婚は言い出すつもりだった。
 ……『終わり』。
 毎晩毎夜立ち現れて、陰鬱な泣き言を延々と聞かされる。
 この状況に、いつ終わりが来るのだろうか。


 端末を立ち上げ、契約企業から送られていたテキストのファイルを展開した。以前は途中で読むのを放棄した、膨大な文字と数字記号の羅列を読み取っていく。
 ……
 少しずつ『人工幽霊』についての理解が深まるにつれ、オレの中に生まれたとある懸念が段々に大きくなる。
 生きていた時の記憶はあっても、幽霊は全てを覚えているわけではないらしい。生身の人間のものよりずっと朧で、ところどころ抜け落ちていて、思い違いも少なくない。状況の認識能力に著しい偏りが出る影響で、文字通りでも思考の意味でも極端に視野が狭くなる。加えて死亡する直前の感情に強く引き摺られる傾向があり、例えば誰かを憎みながら死んでいったのであれば、いわゆる『化けて出た』後の思考はそれ一辺倒になりがちだ、とも。
 執着のあまり、恨む相手を自分のいる場所に招こうと……はっきり言えば殺そうとするケースもありうるとの記載があった。こんな重大事項、もっと最初の方に太字ででかでかと書いておけよ。
 しかも最悪なのは、奴らはそれを実行できる手段がある、ということ。
 単なる疑似人格の3D画像ではない『人工幽霊』は固有の意思と、多少ながらも物理的にこの世に干渉できる能力を持っている。
 キッチンのナイフを持ち上げるとか派手なことはできないけれど、例えば。車のプログラムに干渉して一時的な不具合を起こし、事故を誘発するとかは。


「……ごめんな」
 今日も今日とて辛気臭い顔で泣くリコに話しかけた。やはり多少なりとも罪悪感がある、どうせ聞こえはしなくとも謝罪しておくに越したことはない。
「一緒に連れて行きたいんだろ? あの世に」
 ゆっくりと、パソコンの電源を入れる。目当てのアプリが表示されるのを待つ間も言葉を継ぐ。
「お前だって、薄々気付いていたんだろうしな。その……まあ、あれやこれやを」
 率直に言って、妻を愛してはいなかった。けれどリコの方は本当にオレにベタ惚れで、時に冷たくあしらっても健気に後をついてくる犬みたいなところがあった。
「でも、オレはまだ生きていたいんだ」
 悪いが、地獄に付き合ってやる気はない。リコが何らかの方法でオレを殺害しようと考えている確証などなかったが、たとえあっちにその気がなかったって同じことだ。このままずっと幽霊として付き纏われたりしたら生き地獄、おちおち新しい女と再婚もできない。
「……だから」
 パソコンはリコの死角にある。画面に現れたアイコンを押し、複数の手順を踏んでプログラム削除の準備を進めていく。
 オレは、今。妻に二回目の死を与えようとしている。
「ほんと。悪いけど」
 一度もう覗いてるんだから、あっちの世界に行くハードルは低いだろ。
 『プロダクトAGを本当に無効にしますか』。最終の意思確認に、イエスを選択した。特殊な機器で調整した、磁場や湿度などあらゆる条件を整えた空間にしか『人工幽霊』は存在できない。絶妙なバランスを保つために二十四時間体制で動き続けているプログラムを止めるのは、人間に例えるなら大気中の酸素を抜き取るようなものだ。
「じゃあな。リコ」
 別れの挨拶を口にした直後、オレは自分の身体に異変を覚えてうろたえた。
 ……なんだ、これは。
 おかしい、ただでさえ暗い室内がどんどん真っ黒に塗り潰されていく。停電なんかじゃない、目だ、オレの目が見えない、何も見えなくなってしまう。
 ああ、音も……リコの泣き声も掠れて聞こえないぞ、どうなっているんだ。
 この、感覚。不快で不安で、叫び出したくなるような衝動は以前にもどこかで。
 いつだ、どこだ、うああ、知っている。思い出したくない、ほんの刹那の間でも、もう二度と体験したくはなかった『あれ』。
 崩れる。自分が、オレの身体が、精神が、存在そのものがばらばらに分解されて無くなっていく、失われる、消える、損なわれる、還元されていく。
 遠い深いどこかへ引き寄せられて引き離されていく……オレの自我がオレの概念と。
なんで忘れていた、どうして目を逸らしていたんだ、これが再生した意識の限界なのか。
い、嫌だ、嫌だ嫌だいやだいやだいやだ! まだかろうじて残っている本能が叫ぶ、

 ――『また』、死にたく、ない!

 ……

 リコにむかって、てをのばした。

 たすけて、くれ。

 ぷろぐらむを、とめるのを、とめて、くれ。

 ……ああ。

 あのひ。

 うんてんしていたのが、

 おれだった、なら。

 くそっ……

 く、……

 …


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