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シンデレラ
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どうにもいたたまれなかった。身のやり場に困るというか、何だったんだ今の甘ったるい雰囲気は。しかも僕自身、あの男と何かが――何かは分からないが――あの瞬間通じあってしまったような、そんな気がしていた。ああ、どうにも落ち着かない。せっかく主導権を握っていたはずなのに、何故僕がこんなに掻き乱されなければならないのか。
デートなんて、いつもと違うことをしたからだ。
それならば、僕と彼の『通常』に戻ればいい。
そうだ。あの男といえばセックスなのだ。だから、スーツ姿を見ても、食事姿を見ても、彼に対して何かしらエロティシズムを感じてしまうのだ。あの妙に反り返った長い指だとか、大きめの口だとか、喉仏の曲線だとか――。
僕は煩悶しながらシャワーを浴び、体内の下準備を終えた。髪を乾かし、きちんとセットする。素肌にワイシャツをまとい、予備に置いていたネクタイを首元で締める。スラックスのベルトを適切な位置で止めると、埃を払った革靴に足を納めた。
彼に乱されるために完璧にセットアップされた鏡の中の自分の姿をチェックし、僕はバスルームを出た。これでいい。元に戻ろう。だが、一歩踏み出してぎょっとした。部屋の電気が消えていたのだ。
半ば焦りながら薄明るいベッドの方を見る。ヘッドボードの弱い灯りに照らされ、長い脚を投げ出してベッドサイドに座っていた男と目が合った。彼のジャケットはソファに掛けられ、薄手のカットソーが筋肉のラインを浮き上がらせている。男は可笑しげに微笑した。
「あー、服、着てきちゃったんすか」
「えっ」
予想外の言葉に僕は思わず足を止め、自分の姿を見回した。何がだ。いつもこうだろう。
「まあいいや、脱がせるのも楽しみのひとつっすよね」
僕は完全に困惑していた。男がいつもの『ご主人様』の顔をしないのだ。それにこの薄暗い部屋。いつもの煌々とした灯りとは違って、どこかムーディな薄橙色のやわらかな光が落ち着かない。
おいでと言わんばかりに長い腕を広げられ、僕は品質の悪いロボットのようにぎくしゃくした動きで彼へと歩み寄る。腕をゆるく引っ張られ、彼の太ももを跨ぐように座らされた。ちょうど顔の高さが同じ位置になるように。
「一日デートしてください、恋人っぽい感じで――そう、お願いしたっすよね」
微笑みながら男が言った。僕は当惑して至近距離にある彼の顔を無言で見つめた。
「今日が終わるまでは恋人っぽい感じでよろしくお願いしたいんすけど――駄目すか?」
最後の方には水に濡れた犬のような情けない表情になりながら、男は僕の目を覗きこんだ。ひどく困惑しつつも考える。確かに、願いをきいてやろうと言ったのは僕だし、一方的に約束を破棄するのはしのびない。
どうせ今日だけ。
それなら、まあ――。
「……分かった」
「やったー」
頷くと、男は嬉しそうに笑った。長い腕でぎゅうと抱きしめ、頬や目元、耳たぶに口づける。手持ちぶさたな僕は彼の肩口に恐る恐る手をかけた。
「――好きっす」
「っ……!?」
耳元に口づけながら男が囁いた。ワイシャツ越しに彼の体温を感じ、長い腕ががっしりと僕を囲いこんでいることに気づいて震えが走った。――逃げられない。
「甲本さん」
くすぐるような声で名前を呼ばれ、心拍数が跳ね上がる。どうしてその名を、と思い、あの社長がばらしてしまったのだと思い出す。男のアドリブで名を呼ばれたときも驚いたが、あんなものは今の比ではない。抱きしめる彼にも伝わりそうなほど激しくなった鼓動に息が苦しくなる。
「今日、甲本さんが名前を呼んでくれたとき、すっごい嬉しかったんっす。ああ、俺の名前、ちゃんと覚えててくれたんだ……って」
当然だ。君に声をかける前から調べて知っていたのだのだから。当初、人数的に名前を呼ぶ必然性がなかったので口にしなかったのだが、いざ呼ぼうとすると何だか気恥ずかしく、そのまま機会を損失してしまった。ラウンジでの一件のような、照れくささを忘れさせるほどのことでも起きなければ、きっと今後も呼ばないだろう。
「ーー甲本さんのこと、好きっす」
やめろ。言うな。今夜だけの、ただの恋人ごっこなんだろうが。叫び出したいほどにくすぐったい。耳元で囁かれる声はどこまでも甘く、やわらかく、僕をぐずぐずに溶かそうとする。まるで蜘蛛だ。毒を注入して、麻痺した獲物を捕食する蜘蛛。身じろぎしても、長い腕に阻まれてしまう。男の大きな掌が背中を這い、首筋から後頭部にかけて当てがわれた。親指が短く刈り上げた襟足を、ざり、と逆撫でする。僕は予感に固く目を閉じた。
「っ……」
やわらかな唇が僕の唇をついばむ。かすかなチョコレートの匂い。ちゅ、ちゅ、とリップ音を鳴らし、男は何度も優しく口づける。僕が自分から綻ぶまでずっと。かすかに唇を開くと、その隙間を男の舌が舐める。
「ん……」
歯列を割って熱い舌が入りこむ。かすかに甘い気がしたのは錯覚だろうか。器用な舌が僕の舌に絡みつき、巻きつくようにしごきあげた。かと思えば、上顎の凹凸をくすぐり、摩擦で腫れぼったくなった唇を甘噛みする。
いつもなら男がキスしてくるのは、もう僕がとろとろに溶けているときに、どさくさに紛れてのことだ。僕が、そんなまどろっこしいことはしなくていいと最初に言ったから。けれど――。
「ん、ふ……」
冷静なうちに口内の性感帯を全て暴かれる。舌同士がこすれあう、ぬめりの下のざらつき。口蓋を舐められるくすぐったさ。思いのほか過敏な唇。くちゅくちゅと頭に響く湿った水音。己の感度の良さをこれでもかと思い知らされる。
「……キス、まだ嫌いすか」
鼻先と唇を触れ合わせたまま男が訊く。
「いや」
食い気味に否定してしまい、僕は照れ隠しに小さく咳払いし、囁くように答えた。
「――君がしたいのならすればいい」
「じゃあ、します」
僕とは対照的に何の屈託もなく言ってのける男に全身の血が熱くなる。こうした身体の反応はいったい何の感情から来ているのだろう。体温が上がって、息苦しくて、鳩尾の奥で何かが燻っている。本来なら不快でしかない反応であるはずなのに、それはどこか甘く、くすぐったい。僕は悔し紛れに、口づけの合間に質問をぶつけた。
「……どうしてそんなにキスをしたがる?」
「んー……、繋がってる感じがするから、すかね」
そう言うと、男は笑って軽く口づけた。体格的に安易に繋がることができない以上、男にとってはセックスの代わりだったのかもしれない。きっと、これまでの四人の恋人とやらとも、こうやって何度もキスをしてきたのだろう。愛しげに頭を撫でながら、何度も。
――そう思うと、何となく不快だった。
「後は、食べちゃいたいほどかわいいって言うっしょ。そういうやつっすかね」
「……僕が? かわいいか?」
「ちっちゃくてかわいいっす」
思い切り不審な表情の僕に、男は愛しげに笑う。君に比べれば誰だって小さいだろうに。小さければ誰でもかわいいのか。誰にでもそんな笑顔を向けるのか。誰でもいいのか。
僕じゃなくても、いいと言うのか。
――自分の中で生まれた強い思いに僕は愕然とした。そして、唐突に理解する。
僕は彼に選ばれたいのだ。
他の誰でもない僕を選んで欲しいのだ。
「……甲本さん?」
真顔のまま茫然としていた僕に彼が呼びかけた。彼の顔を見る。眉尻を下げ、どこか心配そうな表情をしていた。僕は彼の肩口に添えていたままの手を滑らせ、彼の頬から耳、後頭部を撫でた。
そして、僕の方から口づけた。
「……!」
決して上手くはないだろう。むしろぎこちなかったが、勢いのわりに歯をぶつけなかっただけマシと言えよう。迎え入れるように開かれた唇に舌を差し入れてはみたが、どうやったって相手の上顎にまで届く気がしない。彼の口内で舌先同士を遠慮がちにすりあわせていたのだが、気がつくと、いつの間にか突き出した僕の舌が彼に吸われていた。
「んあ、あっ……」
開いたままの唇で僕は喘ぐ。ちゅぱ、じゅぷ、といやらしく粘ついた音が、押さえこまれた頭に容赦なく響く。背中や腰を撫でていた方の掌が脇腹へとたどりつき、そのまま胸元を撫でられ、僕の身体は跳ねた。
「ンあっ!」
薄いワイシャツの生地の上から、既に固く尖って待っていた乳首をくすぐられ、甘い電流が僕の身体を走り抜けた。彼は僕に口づけながら、ネクタイを引っ張り抜き、丁寧にシャツのボタンをひとつずつ外し、スラックスから裾を出し、じっくりと僕を解体していく。
「今日は全部脱ぎましょ」
半開きの唇から、吸われて甘く痺れる舌を少し出したままぼんやりしている僕に彼が囁いた。そのまま靴の踵を掴まれ、脱がされる。靴下も取られて素足となった。僕は何だか鎧を剥がされていくような心許なさを覚え、身をよじらせる。
「恥ずかしい?」
「っ……」
ベッドの上にゆっくりと抱きかかえるように押し倒され、耳元で囁かれながら、もう片方の靴も脱がされる。ああ、靴下も抜き取られてしまった。特に何の変哲もない足。だが、それは革靴という僕の象徴を脱ぎ去った、無防備でむきだしの生身だ。彼の指が足の甲を軽くなぞり、ゆっくりと離れていった。
「甲本さん、舐めていいすか?」
「……どこを」
「甲本さんのきもちいいとこ」
笑いを含んだやわらかな声が鼓膜を震わせた。名前を呼ぶのをやめさせたい。頭がおかしくなってしまいそうだ。彼の声で名前を呼ばれるたび、ぞくぞくと皮膚が粟立つ。やめさせたい。けれど。
「甲本さん、駄目?」
「んぅ……」
これまで彼に言わせていた、いやらしく低俗な罵倒を投げつけられた時とはまた違う興奮があった。名も知らぬマゾ豚ではなく、『甲本勝生』というひとりの男として、彼に認知され、今こうして欲情されているということ。その事実が僕をくすぐりながらも昂らせる。耳たぶをしゃぶる彼に、いいよ、と僕は小さくつぶやいた。
「あ……」
彼は嬉しげに首筋に吸いついた。何度も口づけを落とし、時に舐めながら身体を辿っていく。薄い胸を撫で、ぴんと勃った乳首に向かって大きく口を開いた。濡れた舌が小さくひらめき、乳輪ごと、じゅうと吸われる。
「んっ、んぅ……っ!」
吸われ、甘噛みされ、転がされ、僕は未知の感覚に身をよじった。ワイシャツの上から指でひっかかれるのが好きだった。だが、彼が僕の胸元に吸いつき、赤い舌で小さな突起を舐め回しているさまが、薄暗い橙色の灯りのなか、ひどく淫猥で、同時に何故だかかわいらしく映った。僕は彼の頭を腕に抱いた。指を固い髪に差し入れ、頭皮をやわらかく撫でる。
「それ好き。もっと撫でて」
彼がくすぐったげに笑った。いつもなら、ねだるのは僕だ。卑猥な言葉で自分を貶めて、彼が与えてくれる恥辱を請う。けれど、今日はいつもとは違うから僕は口を噤んだ。代わりに胸元を押しつけ、もっととねだる。
「あっ、あぁ……」
片方は唇で、片方は指で尖りをもてあそばれ、僕は彼の頭を抱きこむようにして身をよじる。首をもたげ、彼の頭頂に鼻先を埋めるように。ひときわ強く、ちゅう、と吸われ、腰が跳ねた。それでようやく、僕は自分が既に痛いほどに勃起していることに気づいた。彼の指がスラックスの中で窮屈そうに主張する曲線を撫で上げた。
「おっぱい吸われて勃起しちゃったんすね。えっちな甲本さん、かわいいっす」
「う、う……っ」
耳元で囁かれるやわらかな低い声が我慢できないほどにくすぐったくて、僕は彼の肩口にすがりついて呻った。あんた本当にいやらしいな、とこれまで何度も『ご主人様』に言ってもらっていた。意味合いだってそんなに変わらない。それなのに、どうして僕はこんなに――歓喜で泣きそうになっているのだろう。
その間にも彼の器用な手は、ベルトを外し、ファスナーを下ろし、下着の上から形を確かめるようにゆるくしごいていた。大きな掌が尻の方へと滑り、スラックスを脱がせていく。裸の脚を爪先まで確かめるように彼が撫でた。
「ねえ、ちんぽ舐めてもいいすか」
「え」
広げた脚の間に座った男が僕の下着に手をかけながら言った。僕はワイシャツ一枚を引っ掛けたまま、ヘッドボードの方へとずり上がる。彼が僕のを舐めるのか。考えたこともなかった。フェラチオは支配関係を叩きこまれる恥辱を含む行為だと僕は思っていた。喉奥を突かれて吐きそうになりながら、酸欠のなか、雄の匂いと味を飲みこまされて、それでも興奮して気持ちよくなってしまう、そういう行為だと。それを彼がしたいと言う――。
「いい、よ」
掠れた声で返事をする。足先から抜いた下着を床に置き、彼はひとつ笑うと僕の屹立へと顔を寄せた。同時に、尻の谷間を指が這う。既に中に仕込んでおいたローションのぬめりをまとわせ、いたずらに入口を指の腹で撫で回す。
「あ、あっ……」
体内に指がもぐりこむ。同時に、熱い舌が裏筋を舐め上げた。片方の太腿を腕の中に抱えこみ、指でちんぽを支えながら舌先で弄ぶ。半分皮をかぶった濡れた先端を、赤い舌がふやかしながら優しく剥いていく。一方で、体内では長い指が勝手知ったる様子で僕の弱いところを暴いていく。
「んぅ……!」
ヘッドボードと枕を背に、仰向けの胎児のように身を丸くして僕は快感に呻いた。メスイキが主体になってからというもの、ちんぽへの刺激だけでは物足りなくなっていたものの、ちんぽをしゃぶる彼から僕は目が離せなかった。
大きな口で一口で飲みこんで、頬を僕の形に膨らませているさまだとか、ハーモニカのように横ぐわえに舌を滑らせるさまだとか、ときおり上目遣いに僕を見るいやらしい顔だとか――。膨れ上がる視覚情報に脳のニューロンが焼き切れそうだ。
「あ、っ、っ……!」
体内の指が増え、先端を口に飲みこんだまま、竿を握った大きな手が上下にしごき始めた。身体の奥でとろける快感と直接的な鋭い快感が混ざり合い、僕は無意識のうちに制止するように太腿で彼の頭を挟む。
「もうイッちゃいそうすか?」
「ふ、ぁ……」
彼はちんぽを片手に苦笑しながら、抵抗する太腿に軽く歯を立てた。力がこもり、浮き上がった腱が甘噛みされる。それが妙に絵になっていて、ぞくぞくと僕の皮膚を甘く粟立てた。
「いいすよ、イッても」
「いや――」
腹の奥で渦巻く射精欲に抗いながら、僕は言葉を捻り出す。ここで射精してしまえば気持ちいいだろう。けれど、僕はもっと気持ちいいことを既に知っている。嫌と言うほどに。切望するほどに。
「――君のでイキたい」
そう言って、指を咥えこんだままの入り口をぎゅうと締めつけた。一瞬彼はぽかんとした後、ゆっくりと薄く笑った。その笑顔に、身体が先に反応して、ぞくりと腹の奥が甘く疼く。それは情欲に濡れた雄の笑みだった。
デートなんて、いつもと違うことをしたからだ。
それならば、僕と彼の『通常』に戻ればいい。
そうだ。あの男といえばセックスなのだ。だから、スーツ姿を見ても、食事姿を見ても、彼に対して何かしらエロティシズムを感じてしまうのだ。あの妙に反り返った長い指だとか、大きめの口だとか、喉仏の曲線だとか――。
僕は煩悶しながらシャワーを浴び、体内の下準備を終えた。髪を乾かし、きちんとセットする。素肌にワイシャツをまとい、予備に置いていたネクタイを首元で締める。スラックスのベルトを適切な位置で止めると、埃を払った革靴に足を納めた。
彼に乱されるために完璧にセットアップされた鏡の中の自分の姿をチェックし、僕はバスルームを出た。これでいい。元に戻ろう。だが、一歩踏み出してぎょっとした。部屋の電気が消えていたのだ。
半ば焦りながら薄明るいベッドの方を見る。ヘッドボードの弱い灯りに照らされ、長い脚を投げ出してベッドサイドに座っていた男と目が合った。彼のジャケットはソファに掛けられ、薄手のカットソーが筋肉のラインを浮き上がらせている。男は可笑しげに微笑した。
「あー、服、着てきちゃったんすか」
「えっ」
予想外の言葉に僕は思わず足を止め、自分の姿を見回した。何がだ。いつもこうだろう。
「まあいいや、脱がせるのも楽しみのひとつっすよね」
僕は完全に困惑していた。男がいつもの『ご主人様』の顔をしないのだ。それにこの薄暗い部屋。いつもの煌々とした灯りとは違って、どこかムーディな薄橙色のやわらかな光が落ち着かない。
おいでと言わんばかりに長い腕を広げられ、僕は品質の悪いロボットのようにぎくしゃくした動きで彼へと歩み寄る。腕をゆるく引っ張られ、彼の太ももを跨ぐように座らされた。ちょうど顔の高さが同じ位置になるように。
「一日デートしてください、恋人っぽい感じで――そう、お願いしたっすよね」
微笑みながら男が言った。僕は当惑して至近距離にある彼の顔を無言で見つめた。
「今日が終わるまでは恋人っぽい感じでよろしくお願いしたいんすけど――駄目すか?」
最後の方には水に濡れた犬のような情けない表情になりながら、男は僕の目を覗きこんだ。ひどく困惑しつつも考える。確かに、願いをきいてやろうと言ったのは僕だし、一方的に約束を破棄するのはしのびない。
どうせ今日だけ。
それなら、まあ――。
「……分かった」
「やったー」
頷くと、男は嬉しそうに笑った。長い腕でぎゅうと抱きしめ、頬や目元、耳たぶに口づける。手持ちぶさたな僕は彼の肩口に恐る恐る手をかけた。
「――好きっす」
「っ……!?」
耳元に口づけながら男が囁いた。ワイシャツ越しに彼の体温を感じ、長い腕ががっしりと僕を囲いこんでいることに気づいて震えが走った。――逃げられない。
「甲本さん」
くすぐるような声で名前を呼ばれ、心拍数が跳ね上がる。どうしてその名を、と思い、あの社長がばらしてしまったのだと思い出す。男のアドリブで名を呼ばれたときも驚いたが、あんなものは今の比ではない。抱きしめる彼にも伝わりそうなほど激しくなった鼓動に息が苦しくなる。
「今日、甲本さんが名前を呼んでくれたとき、すっごい嬉しかったんっす。ああ、俺の名前、ちゃんと覚えててくれたんだ……って」
当然だ。君に声をかける前から調べて知っていたのだのだから。当初、人数的に名前を呼ぶ必然性がなかったので口にしなかったのだが、いざ呼ぼうとすると何だか気恥ずかしく、そのまま機会を損失してしまった。ラウンジでの一件のような、照れくささを忘れさせるほどのことでも起きなければ、きっと今後も呼ばないだろう。
「ーー甲本さんのこと、好きっす」
やめろ。言うな。今夜だけの、ただの恋人ごっこなんだろうが。叫び出したいほどにくすぐったい。耳元で囁かれる声はどこまでも甘く、やわらかく、僕をぐずぐずに溶かそうとする。まるで蜘蛛だ。毒を注入して、麻痺した獲物を捕食する蜘蛛。身じろぎしても、長い腕に阻まれてしまう。男の大きな掌が背中を這い、首筋から後頭部にかけて当てがわれた。親指が短く刈り上げた襟足を、ざり、と逆撫でする。僕は予感に固く目を閉じた。
「っ……」
やわらかな唇が僕の唇をついばむ。かすかなチョコレートの匂い。ちゅ、ちゅ、とリップ音を鳴らし、男は何度も優しく口づける。僕が自分から綻ぶまでずっと。かすかに唇を開くと、その隙間を男の舌が舐める。
「ん……」
歯列を割って熱い舌が入りこむ。かすかに甘い気がしたのは錯覚だろうか。器用な舌が僕の舌に絡みつき、巻きつくようにしごきあげた。かと思えば、上顎の凹凸をくすぐり、摩擦で腫れぼったくなった唇を甘噛みする。
いつもなら男がキスしてくるのは、もう僕がとろとろに溶けているときに、どさくさに紛れてのことだ。僕が、そんなまどろっこしいことはしなくていいと最初に言ったから。けれど――。
「ん、ふ……」
冷静なうちに口内の性感帯を全て暴かれる。舌同士がこすれあう、ぬめりの下のざらつき。口蓋を舐められるくすぐったさ。思いのほか過敏な唇。くちゅくちゅと頭に響く湿った水音。己の感度の良さをこれでもかと思い知らされる。
「……キス、まだ嫌いすか」
鼻先と唇を触れ合わせたまま男が訊く。
「いや」
食い気味に否定してしまい、僕は照れ隠しに小さく咳払いし、囁くように答えた。
「――君がしたいのならすればいい」
「じゃあ、します」
僕とは対照的に何の屈託もなく言ってのける男に全身の血が熱くなる。こうした身体の反応はいったい何の感情から来ているのだろう。体温が上がって、息苦しくて、鳩尾の奥で何かが燻っている。本来なら不快でしかない反応であるはずなのに、それはどこか甘く、くすぐったい。僕は悔し紛れに、口づけの合間に質問をぶつけた。
「……どうしてそんなにキスをしたがる?」
「んー……、繋がってる感じがするから、すかね」
そう言うと、男は笑って軽く口づけた。体格的に安易に繋がることができない以上、男にとってはセックスの代わりだったのかもしれない。きっと、これまでの四人の恋人とやらとも、こうやって何度もキスをしてきたのだろう。愛しげに頭を撫でながら、何度も。
――そう思うと、何となく不快だった。
「後は、食べちゃいたいほどかわいいって言うっしょ。そういうやつっすかね」
「……僕が? かわいいか?」
「ちっちゃくてかわいいっす」
思い切り不審な表情の僕に、男は愛しげに笑う。君に比べれば誰だって小さいだろうに。小さければ誰でもかわいいのか。誰にでもそんな笑顔を向けるのか。誰でもいいのか。
僕じゃなくても、いいと言うのか。
――自分の中で生まれた強い思いに僕は愕然とした。そして、唐突に理解する。
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他の誰でもない僕を選んで欲しいのだ。
「……甲本さん?」
真顔のまま茫然としていた僕に彼が呼びかけた。彼の顔を見る。眉尻を下げ、どこか心配そうな表情をしていた。僕は彼の肩口に添えていたままの手を滑らせ、彼の頬から耳、後頭部を撫でた。
そして、僕の方から口づけた。
「……!」
決して上手くはないだろう。むしろぎこちなかったが、勢いのわりに歯をぶつけなかっただけマシと言えよう。迎え入れるように開かれた唇に舌を差し入れてはみたが、どうやったって相手の上顎にまで届く気がしない。彼の口内で舌先同士を遠慮がちにすりあわせていたのだが、気がつくと、いつの間にか突き出した僕の舌が彼に吸われていた。
「んあ、あっ……」
開いたままの唇で僕は喘ぐ。ちゅぱ、じゅぷ、といやらしく粘ついた音が、押さえこまれた頭に容赦なく響く。背中や腰を撫でていた方の掌が脇腹へとたどりつき、そのまま胸元を撫でられ、僕の身体は跳ねた。
「ンあっ!」
薄いワイシャツの生地の上から、既に固く尖って待っていた乳首をくすぐられ、甘い電流が僕の身体を走り抜けた。彼は僕に口づけながら、ネクタイを引っ張り抜き、丁寧にシャツのボタンをひとつずつ外し、スラックスから裾を出し、じっくりと僕を解体していく。
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「恥ずかしい?」
「っ……」
ベッドの上にゆっくりと抱きかかえるように押し倒され、耳元で囁かれながら、もう片方の靴も脱がされる。ああ、靴下も抜き取られてしまった。特に何の変哲もない足。だが、それは革靴という僕の象徴を脱ぎ去った、無防備でむきだしの生身だ。彼の指が足の甲を軽くなぞり、ゆっくりと離れていった。
「甲本さん、舐めていいすか?」
「……どこを」
「甲本さんのきもちいいとこ」
笑いを含んだやわらかな声が鼓膜を震わせた。名前を呼ぶのをやめさせたい。頭がおかしくなってしまいそうだ。彼の声で名前を呼ばれるたび、ぞくぞくと皮膚が粟立つ。やめさせたい。けれど。
「甲本さん、駄目?」
「んぅ……」
これまで彼に言わせていた、いやらしく低俗な罵倒を投げつけられた時とはまた違う興奮があった。名も知らぬマゾ豚ではなく、『甲本勝生』というひとりの男として、彼に認知され、今こうして欲情されているということ。その事実が僕をくすぐりながらも昂らせる。耳たぶをしゃぶる彼に、いいよ、と僕は小さくつぶやいた。
「あ……」
彼は嬉しげに首筋に吸いついた。何度も口づけを落とし、時に舐めながら身体を辿っていく。薄い胸を撫で、ぴんと勃った乳首に向かって大きく口を開いた。濡れた舌が小さくひらめき、乳輪ごと、じゅうと吸われる。
「んっ、んぅ……っ!」
吸われ、甘噛みされ、転がされ、僕は未知の感覚に身をよじった。ワイシャツの上から指でひっかかれるのが好きだった。だが、彼が僕の胸元に吸いつき、赤い舌で小さな突起を舐め回しているさまが、薄暗い橙色の灯りのなか、ひどく淫猥で、同時に何故だかかわいらしく映った。僕は彼の頭を腕に抱いた。指を固い髪に差し入れ、頭皮をやわらかく撫でる。
「それ好き。もっと撫でて」
彼がくすぐったげに笑った。いつもなら、ねだるのは僕だ。卑猥な言葉で自分を貶めて、彼が与えてくれる恥辱を請う。けれど、今日はいつもとは違うから僕は口を噤んだ。代わりに胸元を押しつけ、もっととねだる。
「あっ、あぁ……」
片方は唇で、片方は指で尖りをもてあそばれ、僕は彼の頭を抱きこむようにして身をよじる。首をもたげ、彼の頭頂に鼻先を埋めるように。ひときわ強く、ちゅう、と吸われ、腰が跳ねた。それでようやく、僕は自分が既に痛いほどに勃起していることに気づいた。彼の指がスラックスの中で窮屈そうに主張する曲線を撫で上げた。
「おっぱい吸われて勃起しちゃったんすね。えっちな甲本さん、かわいいっす」
「う、う……っ」
耳元で囁かれるやわらかな低い声が我慢できないほどにくすぐったくて、僕は彼の肩口にすがりついて呻った。あんた本当にいやらしいな、とこれまで何度も『ご主人様』に言ってもらっていた。意味合いだってそんなに変わらない。それなのに、どうして僕はこんなに――歓喜で泣きそうになっているのだろう。
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「ねえ、ちんぽ舐めてもいいすか」
「え」
広げた脚の間に座った男が僕の下着に手をかけながら言った。僕はワイシャツ一枚を引っ掛けたまま、ヘッドボードの方へとずり上がる。彼が僕のを舐めるのか。考えたこともなかった。フェラチオは支配関係を叩きこまれる恥辱を含む行為だと僕は思っていた。喉奥を突かれて吐きそうになりながら、酸欠のなか、雄の匂いと味を飲みこまされて、それでも興奮して気持ちよくなってしまう、そういう行為だと。それを彼がしたいと言う――。
「いい、よ」
掠れた声で返事をする。足先から抜いた下着を床に置き、彼はひとつ笑うと僕の屹立へと顔を寄せた。同時に、尻の谷間を指が這う。既に中に仕込んでおいたローションのぬめりをまとわせ、いたずらに入口を指の腹で撫で回す。
「あ、あっ……」
体内に指がもぐりこむ。同時に、熱い舌が裏筋を舐め上げた。片方の太腿を腕の中に抱えこみ、指でちんぽを支えながら舌先で弄ぶ。半分皮をかぶった濡れた先端を、赤い舌がふやかしながら優しく剥いていく。一方で、体内では長い指が勝手知ったる様子で僕の弱いところを暴いていく。
「んぅ……!」
ヘッドボードと枕を背に、仰向けの胎児のように身を丸くして僕は快感に呻いた。メスイキが主体になってからというもの、ちんぽへの刺激だけでは物足りなくなっていたものの、ちんぽをしゃぶる彼から僕は目が離せなかった。
大きな口で一口で飲みこんで、頬を僕の形に膨らませているさまだとか、ハーモニカのように横ぐわえに舌を滑らせるさまだとか、ときおり上目遣いに僕を見るいやらしい顔だとか――。膨れ上がる視覚情報に脳のニューロンが焼き切れそうだ。
「あ、っ、っ……!」
体内の指が増え、先端を口に飲みこんだまま、竿を握った大きな手が上下にしごき始めた。身体の奥でとろける快感と直接的な鋭い快感が混ざり合い、僕は無意識のうちに制止するように太腿で彼の頭を挟む。
「もうイッちゃいそうすか?」
「ふ、ぁ……」
彼はちんぽを片手に苦笑しながら、抵抗する太腿に軽く歯を立てた。力がこもり、浮き上がった腱が甘噛みされる。それが妙に絵になっていて、ぞくぞくと僕の皮膚を甘く粟立てた。
「いいすよ、イッても」
「いや――」
腹の奥で渦巻く射精欲に抗いながら、僕は言葉を捻り出す。ここで射精してしまえば気持ちいいだろう。けれど、僕はもっと気持ちいいことを既に知っている。嫌と言うほどに。切望するほどに。
「――君のでイキたい」
そう言って、指を咥えこんだままの入り口をぎゅうと締めつけた。一瞬彼はぽかんとした後、ゆっくりと薄く笑った。その笑顔に、身体が先に反応して、ぞくりと腹の奥が甘く疼く。それは情欲に濡れた雄の笑みだった。
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