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シンデレラ
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テーブルの上に置かれたつまみは、ハーブ入りカマンベールチーズとドライフルーツだった。釣りを返して来ようとするので、要らないと僕は言う。帰りに寄ったスーパーで、財布に入れてある非常用現金を男に渡し、僕が酒を買う間に赤ワインに合うつまみを買ってくるよう頼んだのだ。
「ワインのつまみは色に合わせろって言うんすよ。まあチーズは赤でも白でも合うんすけど」
「詳しいようだが、そういえばバルがどうとか言っていたな」
「そうそう、学生の頃、賄い目当てで厨房で働いてたんす。包丁さばきはなかなかのもんすよ。料理作るのも楽しかったんすけどねぇ」
チーズの袋を開けながら、眉尻を下げて男が苦笑した。顔の印象を消していた大仰な伊達眼鏡は既に外していた。前髪を上げているおかげで、いつもは隠れがちな眠たげな目が今日はよく見えている。ラウンジでは丁寧だった口調もぞんざいに戻っていた。聞き慣れているせいか、こちらのほうが落ち着く。
「やりがい搾取でもされたのか?」
「いやぁ、調理台が低くて腰が痛くって……」
それは君の脚が長すぎるのだ。ソファの座面から相変わらず浮いている脚を眺めながら、海外モデル並みのこの肢体に映えるであろう、あのオーダースーツのことを思い出していた。
招待された観劇では、まぶしいライトに照らされ、舞台上で生き生きと違う人間を演じる男に目を奪われて、全くストーリーが頭に入って来ないという失態を犯してしまった。だから、『デート』では必ず僕の得意分野に引きずりこんで主導権を奪わねば気が済まなかったのだ。
だが、僕にはこれといった趣味がない。特に他人と時間や体験を共有できるような趣味ともなれば皆無に等しい。だから服でも買ってやろう、と思ったのだが――おそらく、無意識のうちにあの観劇が影響していたように思う。
劇中、スーツにロングコート姿の刑事役の彼はとてもスマートで、特にコートの裾を翻すさまなどはとても絵になっていた。小汚いブルーカラーに犯されるのを絶対正義としていた僕が、エリート部下にいじめられながら犯されるというシチュエーションというのも良いかもしれない、と気持ちが揺らいだほどにはよく似合っていた。
ただ、いかんせんスラックスの長さが少し足りていないのがずっと気になっていたのだ。あの男が長身に合ったスーツを着ている姿が見たいと思いながら、舞台の上の彼をずっと目で追っていた。その無念さが心の底にあったように思う。
フルオーダースーツを拒否され、彼の全てを僕の見立てで飾り立てられなかったことに関しては不満だが、あの店の腕は信用している。きっとあのプランでも格好よく仕上げてくれることだろう。
冬になったら、あの店でロングコートを買ってやろう。それとも、体型に合ったワイシャツが先か。いずれにしろ、彼の身体データは既に僕が押さえているので何でも作り放題だ。物を大切にするそうなので、有無も言わせず押しつけてしまえばこっちのものだろう。よそ見している男を眺めながら、僕は頬杖をついた手の下で不敵に笑った。
「――そういや、ここって調理器具とかないんすよね」
男が背後へと首を伸ばし、冷蔵庫しかないカウンターキッチンを覗きこんでいる。
「ワイングラスと栓抜きしかないな」
元々がセックス専用の部屋なのだ。持ちこんだ調度品は、トイレ・バス関係以外なら足拭きマットと掛け時計ぐらいだろうか。カトラリーすらないのは考えものかもしれない、と袋の上に無造作に転がされた個包装のチーズを見ながら思う。
「フライパンでもあればねぇ。材料買って何か作ったんすけど。知ってます? 赤ワインとごぼうって意外と合うんすよ。きんぴらとか、牛肉とごぼうのしぐれ煮とか」
「へぇ。……君は家でも自炊するのか?」
「それがねぇ、今のうちの台所ヤバいんすよ。トータルで幅1mもなくて何もできねーんすわ」
足らぬ足らぬは工夫が足らぬとはいうが物事には限度ってもんが、と男はぶつぶつ文句を垂れている。料理ができる人間ほど、非実用的な台所を憎むのかもしれない。
なるほど、それなら――。
「揃えるか」
「何をっすか?」
「調理器具」
「……ここに?」
器用に片方だけ眉を上げ、男が信じられないといった表情をこれでもかと見せつけた。……まあ確かに本来ここはセックス専用の部屋だしすぐにハウスクリーニングを入れるもののプレイがプレイなので衛生面的に疑問視してしまうのも仕方のないことかもしれない。僕はごまかすように早口でまくし立てた。
「なら、この部屋の隣と下も借りてるからそこに揃えよう。あ、何なら君が住めばいいのでは? どっちの部屋がいい?」
喋りながら、これは我ながら良いアイディアだと思った。空き部屋を遊ばせておくより合理的だ。誰も住まない家はすぐ傷む。
「……いや、無茶言わんでくださいよ。そんな金ないっすから」
大きく手を振って難色を示す男に僕は言い募る。
「もちろん家賃は今までどおり僕が払う。何なら調度品も揃えよう。君はただ、都度掃除したりして、空き部屋のコンディションを維持してくれればいいんだ。何も両方やれとは言わない。住む方だけでいい」
「よくねーっす……」
男は額を押さえ、呆れたように溜め息をついた。彼はこうやって僕の贈り物を度々拒む。僕が与える物は全て、君という存在が受け取るべき正当なる対価だというのに。経済観念が異なると苦労する。どうすれば分かってもらえるのだろう――。
飲まないとやってらんねーっすわ、と男が袋に入ったままのワインを指さした。それに関しては全くの同感だった。
「ん? まだ何か入ってンすね?」
「――ああ」
取り出したワインの栓を抜いていると、気づいた男がビニール袋の外からそれが何か当てようと見回していた。いつ出そうかと考えてはいたのだが、取り出すなら今しかない。袋から出し、そっとそれを彼の前に置いた。プラスチックのフォークと一緒に。
「――ケーキ」
男がポツリと言った。角の丸い透明のケースに入れられた一切れのチョコレートケーキ。残念ながら有名店とのコラボではないし、専門店の作でもない、ただの量産品でしかないけれど。
「本当は食べたかったんだろうと思って」
「……へへ、すっごい嬉しい」
フォークを手に男がへにゃりと笑った。これは受け取るのか。どうしてこんな安物のケーキで、本当に嬉しそうに君は笑うのだろう。
ケースを外し、ケーキ側面に巻かれたビニールを取ると、男は尻ポケットから取り出したスマホを起動する。ピースサインとケーキを被写体に、ポピンと間の抜けたシャッター音が部屋に響いた。
「記念にね。……あ、膝と手が写っちゃったけど大丈夫すかね」
そう言って男がスマホ画面をこちらに向けた。確かに、よく見ると向かいに座る僕の一部が切り取られて写りこんでいた。中指だけ反り返った見慣れたピースサインとともに、僕が買ったケーキが思い出として男のスマホの中に残されていく。
それは――何だかとても、くすぐったい気がした。
「あれっ、ひとつだけ? あんたは食べないんすか?」
「――甘すぎるのは苦手なんだ」
「ドライフルーツは大丈夫っすかね。……あー、確かにこれは濃厚。やっぱお高いスーパーは違うなー。おいしいっす、これ」
行儀よく手を合わせてからフォークで切り取ると、大きな口にかけらを放りこんで、にこにこと男が笑う。いい大人なのに子供じみた所作をするせいか、僕よりも頭ひとつ以上背が高くて、一回り体格の大きな三十路男性が微笑ましく思えてしまう。
それに、今日の食事のときから思っていたのだが、僕はこの男が物を食べている姿が思いのほか好きなようだ。大きく口を開き、一口で綺麗に食べる。それは豪快で、どこかエロティックに見えるのだ。どうにも目が離せない。
そんなことを考えながら、チーズよりも、ドライフルーツよりも、彼がケーキをちまちま消費していく姿を肴に僕はグラスを傾けていた。
「……そんな顔で見ないでくれます?」
しばらくすると、男が僕の視線に気づいたのか、恥ずかしそうにフォークを噛みながら言った。酒精が回り、少し熱い自分の頬を僕は撫でる。
「――そんな顔、とは?」
「何か……すっごい優しい顔、してます」
そう言うと、男はじっと僕の目を見つめた。
その目の縁には潤んだ光が滲む。
ごくり、と喉を鳴らしたのは僕か、彼か。
まるで空気が溶けた飴のように甘く肌に粘りついて――。
「――シャワーを浴びてくる」
僕はグラスに残ったワインを一気に飲み干すと、彼の方を振り返りもせずにバスルームへと早足で向かった。
「ワインのつまみは色に合わせろって言うんすよ。まあチーズは赤でも白でも合うんすけど」
「詳しいようだが、そういえばバルがどうとか言っていたな」
「そうそう、学生の頃、賄い目当てで厨房で働いてたんす。包丁さばきはなかなかのもんすよ。料理作るのも楽しかったんすけどねぇ」
チーズの袋を開けながら、眉尻を下げて男が苦笑した。顔の印象を消していた大仰な伊達眼鏡は既に外していた。前髪を上げているおかげで、いつもは隠れがちな眠たげな目が今日はよく見えている。ラウンジでは丁寧だった口調もぞんざいに戻っていた。聞き慣れているせいか、こちらのほうが落ち着く。
「やりがい搾取でもされたのか?」
「いやぁ、調理台が低くて腰が痛くって……」
それは君の脚が長すぎるのだ。ソファの座面から相変わらず浮いている脚を眺めながら、海外モデル並みのこの肢体に映えるであろう、あのオーダースーツのことを思い出していた。
招待された観劇では、まぶしいライトに照らされ、舞台上で生き生きと違う人間を演じる男に目を奪われて、全くストーリーが頭に入って来ないという失態を犯してしまった。だから、『デート』では必ず僕の得意分野に引きずりこんで主導権を奪わねば気が済まなかったのだ。
だが、僕にはこれといった趣味がない。特に他人と時間や体験を共有できるような趣味ともなれば皆無に等しい。だから服でも買ってやろう、と思ったのだが――おそらく、無意識のうちにあの観劇が影響していたように思う。
劇中、スーツにロングコート姿の刑事役の彼はとてもスマートで、特にコートの裾を翻すさまなどはとても絵になっていた。小汚いブルーカラーに犯されるのを絶対正義としていた僕が、エリート部下にいじめられながら犯されるというシチュエーションというのも良いかもしれない、と気持ちが揺らいだほどにはよく似合っていた。
ただ、いかんせんスラックスの長さが少し足りていないのがずっと気になっていたのだ。あの男が長身に合ったスーツを着ている姿が見たいと思いながら、舞台の上の彼をずっと目で追っていた。その無念さが心の底にあったように思う。
フルオーダースーツを拒否され、彼の全てを僕の見立てで飾り立てられなかったことに関しては不満だが、あの店の腕は信用している。きっとあのプランでも格好よく仕上げてくれることだろう。
冬になったら、あの店でロングコートを買ってやろう。それとも、体型に合ったワイシャツが先か。いずれにしろ、彼の身体データは既に僕が押さえているので何でも作り放題だ。物を大切にするそうなので、有無も言わせず押しつけてしまえばこっちのものだろう。よそ見している男を眺めながら、僕は頬杖をついた手の下で不敵に笑った。
「――そういや、ここって調理器具とかないんすよね」
男が背後へと首を伸ばし、冷蔵庫しかないカウンターキッチンを覗きこんでいる。
「ワイングラスと栓抜きしかないな」
元々がセックス専用の部屋なのだ。持ちこんだ調度品は、トイレ・バス関係以外なら足拭きマットと掛け時計ぐらいだろうか。カトラリーすらないのは考えものかもしれない、と袋の上に無造作に転がされた個包装のチーズを見ながら思う。
「フライパンでもあればねぇ。材料買って何か作ったんすけど。知ってます? 赤ワインとごぼうって意外と合うんすよ。きんぴらとか、牛肉とごぼうのしぐれ煮とか」
「へぇ。……君は家でも自炊するのか?」
「それがねぇ、今のうちの台所ヤバいんすよ。トータルで幅1mもなくて何もできねーんすわ」
足らぬ足らぬは工夫が足らぬとはいうが物事には限度ってもんが、と男はぶつぶつ文句を垂れている。料理ができる人間ほど、非実用的な台所を憎むのかもしれない。
なるほど、それなら――。
「揃えるか」
「何をっすか?」
「調理器具」
「……ここに?」
器用に片方だけ眉を上げ、男が信じられないといった表情をこれでもかと見せつけた。……まあ確かに本来ここはセックス専用の部屋だしすぐにハウスクリーニングを入れるもののプレイがプレイなので衛生面的に疑問視してしまうのも仕方のないことかもしれない。僕はごまかすように早口でまくし立てた。
「なら、この部屋の隣と下も借りてるからそこに揃えよう。あ、何なら君が住めばいいのでは? どっちの部屋がいい?」
喋りながら、これは我ながら良いアイディアだと思った。空き部屋を遊ばせておくより合理的だ。誰も住まない家はすぐ傷む。
「……いや、無茶言わんでくださいよ。そんな金ないっすから」
大きく手を振って難色を示す男に僕は言い募る。
「もちろん家賃は今までどおり僕が払う。何なら調度品も揃えよう。君はただ、都度掃除したりして、空き部屋のコンディションを維持してくれればいいんだ。何も両方やれとは言わない。住む方だけでいい」
「よくねーっす……」
男は額を押さえ、呆れたように溜め息をついた。彼はこうやって僕の贈り物を度々拒む。僕が与える物は全て、君という存在が受け取るべき正当なる対価だというのに。経済観念が異なると苦労する。どうすれば分かってもらえるのだろう――。
飲まないとやってらんねーっすわ、と男が袋に入ったままのワインを指さした。それに関しては全くの同感だった。
「ん? まだ何か入ってンすね?」
「――ああ」
取り出したワインの栓を抜いていると、気づいた男がビニール袋の外からそれが何か当てようと見回していた。いつ出そうかと考えてはいたのだが、取り出すなら今しかない。袋から出し、そっとそれを彼の前に置いた。プラスチックのフォークと一緒に。
「――ケーキ」
男がポツリと言った。角の丸い透明のケースに入れられた一切れのチョコレートケーキ。残念ながら有名店とのコラボではないし、専門店の作でもない、ただの量産品でしかないけれど。
「本当は食べたかったんだろうと思って」
「……へへ、すっごい嬉しい」
フォークを手に男がへにゃりと笑った。これは受け取るのか。どうしてこんな安物のケーキで、本当に嬉しそうに君は笑うのだろう。
ケースを外し、ケーキ側面に巻かれたビニールを取ると、男は尻ポケットから取り出したスマホを起動する。ピースサインとケーキを被写体に、ポピンと間の抜けたシャッター音が部屋に響いた。
「記念にね。……あ、膝と手が写っちゃったけど大丈夫すかね」
そう言って男がスマホ画面をこちらに向けた。確かに、よく見ると向かいに座る僕の一部が切り取られて写りこんでいた。中指だけ反り返った見慣れたピースサインとともに、僕が買ったケーキが思い出として男のスマホの中に残されていく。
それは――何だかとても、くすぐったい気がした。
「あれっ、ひとつだけ? あんたは食べないんすか?」
「――甘すぎるのは苦手なんだ」
「ドライフルーツは大丈夫っすかね。……あー、確かにこれは濃厚。やっぱお高いスーパーは違うなー。おいしいっす、これ」
行儀よく手を合わせてからフォークで切り取ると、大きな口にかけらを放りこんで、にこにこと男が笑う。いい大人なのに子供じみた所作をするせいか、僕よりも頭ひとつ以上背が高くて、一回り体格の大きな三十路男性が微笑ましく思えてしまう。
それに、今日の食事のときから思っていたのだが、僕はこの男が物を食べている姿が思いのほか好きなようだ。大きく口を開き、一口で綺麗に食べる。それは豪快で、どこかエロティックに見えるのだ。どうにも目が離せない。
そんなことを考えながら、チーズよりも、ドライフルーツよりも、彼がケーキをちまちま消費していく姿を肴に僕はグラスを傾けていた。
「……そんな顔で見ないでくれます?」
しばらくすると、男が僕の視線に気づいたのか、恥ずかしそうにフォークを噛みながら言った。酒精が回り、少し熱い自分の頬を僕は撫でる。
「――そんな顔、とは?」
「何か……すっごい優しい顔、してます」
そう言うと、男はじっと僕の目を見つめた。
その目の縁には潤んだ光が滲む。
ごくり、と喉を鳴らしたのは僕か、彼か。
まるで空気が溶けた飴のように甘く肌に粘りついて――。
「――シャワーを浴びてくる」
僕はグラスに残ったワインを一気に飲み干すと、彼の方を振り返りもせずにバスルームへと早足で向かった。
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