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シンデレラ
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腹は膨れたはずだがまるで食べた気がしない――そんなことを思いながら、ホテルラウンジの高い高い天井を何となく見上げた。アシンメトリーなデザインのシャンデリアが、黒っぽい天井をバックに星空のようにきらめいていた。テーブルの様子を見てか、すかさず食後の紅茶を持ってきてくれたウェイトレスのお姉さんに俺は小さく頭を下げる。
「おぉー、やっぱいい香りですね」
「そうか」
俺にも分かる香り高さの紅茶のおかげで少し人心地つけたような気がする。何しろここでの食事ときたら、マダムのお帽子をひっくり返したような大皿にちんまりと盛られた緑色のパスタやら、単なる飾りなのか食べられるのか判別のつかない装飾過剰なサラダなど、何とも意識の高いお食事ばかりで、オーガニック高級食材とスーパー特売の区別もつかないような貧乏舌には何が何やらだったのだ。
だが、それ以上に俺を萎縮させていたのはこの空間そのものだ。エントランスに車を置いてホテル側に駐車を任せるという、噂に名高いあのバレーサービスを実際に目の当たりにしたときから、俺の緊張は既に臨界点に到達していた。
燕脂と焦茶と合間にあしらわれたシックな金を基調とした広大な空間に集う、いかにも上流階級の人々のさざめくような笑顔の群れ。内心はともかく、外見だけでも取り繕わねばなるまいと、買ってもらったばかりの高級ジャケットを鎧にして、背筋を伸ばし、言葉遣いも丁寧に、俺はこの空間にいかにも馴染んでいるふうを演じた。アウェイな俺はともかく、ここがホームである男に恥をかかせるわけにはいかないからだ。
そんなわけで、演技の一環で覚えたマナー知識を記憶からひっぱり出し、知識でどうにもできないところは正面の男の慣れた仕草をカンニングしたりしながら、何とか無難に食事を終えたのだった。正直なところ、味のことは印象に残っていない。連れてきてくれた男には口が裂けても言えないが。
「まだ何か追加したい物はあるか?」
男がメニューを差し出す。お義理でぺらぺらとめくってみると、華やかな菓子細工が目に飛びこんできて、俺は思わず喜びの声を小さくあげた。
「わ、アフタヌーンティーやってるんですね、ここ。へー、チョコケーキ美味しそ……」
有名なベルギーチョコの店とのコラボ企画に弾んだ俺の声は尻すぼみに消えていった。高級ホテル開催として想定していたお値段の倍はしていたからだ。
「そういえば、君はよくスイーツの写真をSNSにあげていたな。なら、それも頼むか」
「いやっ、ちょ、あの、もう時間外になりそうなんで」
手を上げかけた男を俺は必死に止める。
「いいのか? 好きなんだろう?」
「いいですいいです、もう胸いっぱいで」
怪訝そうな男に手を振りながら微笑する。しかし、制止はしたものの、早くここから出たい気持ちと、もう少し話していたい気持ちが俺の中で拮抗していた。車の運転中や食事中、俺も男もあまり喋らなかった。あれはあれで心地の良い沈黙だったように思うけれど、男のことを知りたい気持ちだって多分にあるのだ。
馥郁たる香りの紅茶に背を押され、少しリラックスした俺は男に聞こえるだけの声量で礼を言った。
「今日は色々とありがとうございました」
「別に――いいさ」
コーヒーを口にした男が大きな二重の目を細めて笑った。それはとても自然な笑顔に思えて、つい俺の胸は自惚れて高鳴ってしまう。
「ここ、来慣れてる感じですよね。やっぱデートとかで?」
「いや、人と来るのは初めてだ」
チン、とカップとソーサーのぶつかる硬い音がささやかな喧騒に小さく響いた。やっちまった。どぎまぎして余計なことを口走ってしまった。そういえば、俺はこの人の『初めて』なのだ。そういう可能性もなきにしもあらずだったのに。
「……別にモテなかったわけじゃないぞ」
じろりと上目遣いで男は睨んだ。何だかムキになっているかのようで、拗ねているさまがどうにもかわいらしい。
「高校生の頃、学校の帰りに知らない女子から告白されたことが数度ある」
「まあ、そのルックスならそうでしょうねえ。んで?」
「君と付き合うことで僕に何のメリットがあるんだ、と訊いた」
「……うわあ」
俺は思わず眉をひそめ、片手で口元を覆った。勇気を振り絞って告白した女の子かわいそう。
「他に言い方ってもんがあるでしょうよ……」
「ないね。なら、君ならどうするんだ? プレゼンもなしに判断なんて――」
「俺ならオッケーしますよ」
「は?」
信じられないモノを見る目つきで見られた。そもそも、俺は見ず知らずのあんたと初日に寝てるんすよ、と言いたかったがぐっとこらえる。
「そんなの、これから知ればいいだけのことじゃないですか。俺はわりと来る者拒まずというか……、好きになってくれた人を好きになっちゃうタイプなんで」
名前とか甘い声で呼んでくれたらもうイチコロですね。おどけて言う俺に、男が眉をひそめた。
「単純すぎないか?」
「いやー、実際そんなもんですよ」
「信じられないな」
「いい実例がここにいますけど、何なら試してみます?」
俺は顔を突き出し、伊達眼鏡を少しずらしてニヤッと笑う。男は鼻白んだ様子で椅子に背を埋めた。ちょっとした冗談なのに、そんなに引かなくてもいいじゃない。
「なんてね。でもまあ、それで四人ぐらい付き合ったんですけど……全部フラれちゃいました。優しいだけでつまらない男だってね」
まともにセックスできない分、精一杯優しくしようと俺なりに頑張っていたのだが、どうやらそれは全て裏目だったらしい。彼らはどうも俺の見た目から、粗暴にも近い『男らしさ』があると思っていたようで、満足させられなかったいずれの相手にも二股をかけられてフラれた。いわく、だってお前思ってたよりつまんないから、と。
俺はわざとらしいほどに自嘲的な笑みを浮かべ、大袈裟に肩をすくめた。大体こうやって話にオチをつけると役者仲間は爆笑してくれる。お前がいい奴なのは保証するんだけどなぁ、とか、俺が女ならほっとかないぜ、なんて肩を叩かれて複雑な感じに慰められたりなどもする。俺の鉄板自虐ネタだった。
目の前の男もきっと笑うだろう。彼が俺に求めているのは、プレイ中に現れる野卑なご主人様であって、普段の俺なんてどうでもいいのだから。
――だが、男は笑わなかった。
「そいつらは人を見る目がないな」
男は、アンティーク椅子にコーヒーカップを片手に足を組み、偉そうにそっくり返って笑う。それは、自分で選定した最高のどんぐりコレクションを見せびらかす甥っ子の表情にそっくりだった。
俺に俺を自慢してどうするんだ。
嬉しいやら可笑しいやら可愛いやらで顔が緩むのを止められず、俺は俯いて手の甲で鼻先をこすった。誤解しちゃうでしょう、こんなの。この人は俺のままでも受け入れてくれてるのかなって。
「――酒が飲みたいな」
その言葉に、かすかに赤らんだ顔の下半分を手で隠し、目だけで男を見上げる。男は何だか優しい表情で俺を見つめていた。やめてよそんな顔、と思う。好きだと自覚すると、その人の良いところばかりが目につくようになって、雪だるま式に好きになっていってしまうのだ。拒絶されるつらさを思い出して尻ごみするのは一瞬のこと、気がつくとボーダーライン以上に踏み出してしまっている。俺というやつはいつもそうだ。
「買って帰ろう。赤ワインがいいな」
「……甘口? 辛口?」
「ミディアムボディの甘口の気分かな」
「肴にはチーズ辺りが鉄板ですかね。俺、昔、バルの厨房で働いてて――」
和やかな談笑。雇われご主人様とマゾ犬という胡乱な関係の俺と男がこんな風に何気ない話ができるとは。一歩どころか、かなり前進できている。勇気を出して誘ってみて良かった。そうやって内心嬉しさを噛み締めていた時、華やいだ女の声が唐突に投げかけられた。
「ねえ、コウモト君じゃない?」
俺たちの席の横から声をかけたのは、ロングの黒髪をゆるく巻いた、パンツスーツ姿の三十代ぐらいの女性だった。額を出した髪型と凛々しい眉、豊満な胸の下で腕を組み、片足に重心をかけて肩幅に足を広げたポーズに自信と気の強さを感じる。コウモト君と呼ばれた男が驚いた顔で立ち上がる。
「これは社長――こんばんは。こんなところで奇遇ですね」
「出張でね、今日ここに泊まってるの。今、取引先と商談して帰って来たところ」
土曜日なのにお仕事とは大変っすな、と思いつつ、唐突に手持ち無沙汰になった俺は残っていた紅茶に口をつける。冷めた紅茶からは香りが消え、舌には渋みだけが残った。天井まであるガラス窓の外は既に暗く、明るいラウンジを鏡のように反射していた。アンティーク椅子に腰掛け、紅茶を傾ける俺でないような俺と目が合う。
――今日はもうこれでお開きだ。寂しいが仕方がない。彼女は男の取引先の社長さんなのだろう。彼にとって軽くあしらって良い人間ではないのだ。
十二時の鐘は鳴った。馬車はカボチャに、御者はネズミに、美しいシンデレラはボロをまとった灰かぶりに――。俺は暇を告げるために立ち上がる。さてどうやってここから一人で帰ろうか、と考えながら。
「あ、ごめんなさいね。コウモト君、こちらの方は?」
立ち上がった俺の背の高さに、縁取られた大きな目を瞬かせながら、女が驚きを微笑で塗り隠す。
「初めまして。あの――」
「こちらは、僕の……大学の先輩で、望月さん」
俺の顔も見ず、遮るように男が言った。瞬きの増加と少し早口な喋り方に、かすかな焦りが見てとれる。俺の名前をちゃんと覚えていたのか――。そんな意外さと嬉しさはおくびにも出さず、そういう役を振るのなら、と俺は誠実そうな微笑を浮かべて頷いた。スマートカジュアルな服装で助かった。これなら上っ面で覆い隠せる。
「どうも、望月です」
「初めまして。コウモト君にはいつもお世話になっています」
女も名乗り返した。俺のは本名兼芸名なのだが、男が言ってしまったのだから仕方がない。もし将来有名になって、万が一何かあったりしたらその時考えよう。俺が退去を切り出そうと口を開いた時、女が楽しげにぱちんと小さく手を打ち鳴らした。
「そうだわ、良かったら今から私の部屋でみんなで飲まない? バーで飲もうかと思ってたんだけど、それがいいわ!」
女は華やいだ笑顔を浮かべた。そこに見えるのは、媚びるでも取引を笠に着るでもない純粋な享楽だ。これはどうすべきだろう。男が付き合うのなら、俺もついていったほうがいいのだろうか。
「いえ、社長、今日は――」
男の言葉。
ちらりと見ると、男も俺を見上げていた。
少し困ったようなかすかな皺を眉根に寄せて。
覚悟を決めて、ひとつ息を吸う。
「――申し訳ないのですが、今日のところはコウモト君は私に譲ってもらえませんかね?」
俺はにこやかに笑いながら、男の肩に手を伸ばし、軽く二度叩いた。二人とも目を丸くして俺を見上げている。大学の先輩。気さくで誠実な感じで。彼の背に手を当てたまま、アドリブで俺は喋り出す。
「今日は偶然彼と再会できたんですよ。随分と久しぶりで、いろいろと積もる話もしたいですし、申し訳ないのですが」
「あら、あら、そう? ごめんなさいね、こちらこそ急にお誘いしちゃって」
断りの返事に対して眉尻を下げた女の苦笑には、プライドを傷つけられた怒りのようなものは見えなかった。酒好きで大らかな、きっぷのいい姐御肌。おそらくはそういう人なのだろう。
他者を演じるにあたって人間観察は欠かせない。よほどの狸や異星人でもない限り、考えていることは大体分かる――と思う。
「すみません、そういうことですので、次に機会がありましたら是非」
俺の言葉を継いで、男が頭を下げた。小さく手を振って女が笑う。
「ほんとごめんね。コウモト君が何だか楽しげだったから声かけちゃったの。じゃあ私もう行くわね。ごゆっくりなさってね」
そう言うと、女はときおりこちらを振り向いて会釈しながらエレベーターの方へと立ち去っていった。俺たち二人は彼女の姿が見えなくなるまで立ち尽くし、同時に溜め息をついた。緊張がとけていく。
「……みっともないところを見せてしまったな」
「いや、全然大丈夫です」
「助かったよ」
「……もしかして、あの人に迫られたりとか、してるんで?」
そういう感じの女性には見えなかったのだが、男が心底安心したという顔をしていたので、念のため訊いてみる。俺の言葉に目を丸くした男は、小さく声をあげて、さも可笑そうに笑った。
「まさか。あの人は僕と同じ歳の子供がいるんだぞ」
「えっ」
「いい取引先なんだが――酒癖がちょっと」
「あー……」
彼女がまさかの大狸ならぬ大虎――いや、美魔女だったとは。女性の見た目の年齢はあてにならないという実例がうじゃうじゃいる世界の端に身を置きながら情けない。俺の人を見る目なんてまだまだだった。顎をさすり感慨にふける俺をちらりと見上げ、男はさりげなく伝票を手にした。
「何より、君の先約が優先だろう? ――さあ、帰ろう」
目を細めてこちらを一瞥すると、男はすたすたと出口へと向かっていく。その背中を見ながら、俺は思わず溜め息をついた。
何でそういうことをさらっと言ってしまうのだろう。俺はこの人に選ばれたんだ。そんな自惚れと喜びが溢れ出して止まらない。こんなに好きになってしまって大丈夫だろうか。でも自分を止められない。
出口で男が呼んでいる。
シンデレラの延長戦が始まった。
「おぉー、やっぱいい香りですね」
「そうか」
俺にも分かる香り高さの紅茶のおかげで少し人心地つけたような気がする。何しろここでの食事ときたら、マダムのお帽子をひっくり返したような大皿にちんまりと盛られた緑色のパスタやら、単なる飾りなのか食べられるのか判別のつかない装飾過剰なサラダなど、何とも意識の高いお食事ばかりで、オーガニック高級食材とスーパー特売の区別もつかないような貧乏舌には何が何やらだったのだ。
だが、それ以上に俺を萎縮させていたのはこの空間そのものだ。エントランスに車を置いてホテル側に駐車を任せるという、噂に名高いあのバレーサービスを実際に目の当たりにしたときから、俺の緊張は既に臨界点に到達していた。
燕脂と焦茶と合間にあしらわれたシックな金を基調とした広大な空間に集う、いかにも上流階級の人々のさざめくような笑顔の群れ。内心はともかく、外見だけでも取り繕わねばなるまいと、買ってもらったばかりの高級ジャケットを鎧にして、背筋を伸ばし、言葉遣いも丁寧に、俺はこの空間にいかにも馴染んでいるふうを演じた。アウェイな俺はともかく、ここがホームである男に恥をかかせるわけにはいかないからだ。
そんなわけで、演技の一環で覚えたマナー知識を記憶からひっぱり出し、知識でどうにもできないところは正面の男の慣れた仕草をカンニングしたりしながら、何とか無難に食事を終えたのだった。正直なところ、味のことは印象に残っていない。連れてきてくれた男には口が裂けても言えないが。
「まだ何か追加したい物はあるか?」
男がメニューを差し出す。お義理でぺらぺらとめくってみると、華やかな菓子細工が目に飛びこんできて、俺は思わず喜びの声を小さくあげた。
「わ、アフタヌーンティーやってるんですね、ここ。へー、チョコケーキ美味しそ……」
有名なベルギーチョコの店とのコラボ企画に弾んだ俺の声は尻すぼみに消えていった。高級ホテル開催として想定していたお値段の倍はしていたからだ。
「そういえば、君はよくスイーツの写真をSNSにあげていたな。なら、それも頼むか」
「いやっ、ちょ、あの、もう時間外になりそうなんで」
手を上げかけた男を俺は必死に止める。
「いいのか? 好きなんだろう?」
「いいですいいです、もう胸いっぱいで」
怪訝そうな男に手を振りながら微笑する。しかし、制止はしたものの、早くここから出たい気持ちと、もう少し話していたい気持ちが俺の中で拮抗していた。車の運転中や食事中、俺も男もあまり喋らなかった。あれはあれで心地の良い沈黙だったように思うけれど、男のことを知りたい気持ちだって多分にあるのだ。
馥郁たる香りの紅茶に背を押され、少しリラックスした俺は男に聞こえるだけの声量で礼を言った。
「今日は色々とありがとうございました」
「別に――いいさ」
コーヒーを口にした男が大きな二重の目を細めて笑った。それはとても自然な笑顔に思えて、つい俺の胸は自惚れて高鳴ってしまう。
「ここ、来慣れてる感じですよね。やっぱデートとかで?」
「いや、人と来るのは初めてだ」
チン、とカップとソーサーのぶつかる硬い音がささやかな喧騒に小さく響いた。やっちまった。どぎまぎして余計なことを口走ってしまった。そういえば、俺はこの人の『初めて』なのだ。そういう可能性もなきにしもあらずだったのに。
「……別にモテなかったわけじゃないぞ」
じろりと上目遣いで男は睨んだ。何だかムキになっているかのようで、拗ねているさまがどうにもかわいらしい。
「高校生の頃、学校の帰りに知らない女子から告白されたことが数度ある」
「まあ、そのルックスならそうでしょうねえ。んで?」
「君と付き合うことで僕に何のメリットがあるんだ、と訊いた」
「……うわあ」
俺は思わず眉をひそめ、片手で口元を覆った。勇気を振り絞って告白した女の子かわいそう。
「他に言い方ってもんがあるでしょうよ……」
「ないね。なら、君ならどうするんだ? プレゼンもなしに判断なんて――」
「俺ならオッケーしますよ」
「は?」
信じられないモノを見る目つきで見られた。そもそも、俺は見ず知らずのあんたと初日に寝てるんすよ、と言いたかったがぐっとこらえる。
「そんなの、これから知ればいいだけのことじゃないですか。俺はわりと来る者拒まずというか……、好きになってくれた人を好きになっちゃうタイプなんで」
名前とか甘い声で呼んでくれたらもうイチコロですね。おどけて言う俺に、男が眉をひそめた。
「単純すぎないか?」
「いやー、実際そんなもんですよ」
「信じられないな」
「いい実例がここにいますけど、何なら試してみます?」
俺は顔を突き出し、伊達眼鏡を少しずらしてニヤッと笑う。男は鼻白んだ様子で椅子に背を埋めた。ちょっとした冗談なのに、そんなに引かなくてもいいじゃない。
「なんてね。でもまあ、それで四人ぐらい付き合ったんですけど……全部フラれちゃいました。優しいだけでつまらない男だってね」
まともにセックスできない分、精一杯優しくしようと俺なりに頑張っていたのだが、どうやらそれは全て裏目だったらしい。彼らはどうも俺の見た目から、粗暴にも近い『男らしさ』があると思っていたようで、満足させられなかったいずれの相手にも二股をかけられてフラれた。いわく、だってお前思ってたよりつまんないから、と。
俺はわざとらしいほどに自嘲的な笑みを浮かべ、大袈裟に肩をすくめた。大体こうやって話にオチをつけると役者仲間は爆笑してくれる。お前がいい奴なのは保証するんだけどなぁ、とか、俺が女ならほっとかないぜ、なんて肩を叩かれて複雑な感じに慰められたりなどもする。俺の鉄板自虐ネタだった。
目の前の男もきっと笑うだろう。彼が俺に求めているのは、プレイ中に現れる野卑なご主人様であって、普段の俺なんてどうでもいいのだから。
――だが、男は笑わなかった。
「そいつらは人を見る目がないな」
男は、アンティーク椅子にコーヒーカップを片手に足を組み、偉そうにそっくり返って笑う。それは、自分で選定した最高のどんぐりコレクションを見せびらかす甥っ子の表情にそっくりだった。
俺に俺を自慢してどうするんだ。
嬉しいやら可笑しいやら可愛いやらで顔が緩むのを止められず、俺は俯いて手の甲で鼻先をこすった。誤解しちゃうでしょう、こんなの。この人は俺のままでも受け入れてくれてるのかなって。
「――酒が飲みたいな」
その言葉に、かすかに赤らんだ顔の下半分を手で隠し、目だけで男を見上げる。男は何だか優しい表情で俺を見つめていた。やめてよそんな顔、と思う。好きだと自覚すると、その人の良いところばかりが目につくようになって、雪だるま式に好きになっていってしまうのだ。拒絶されるつらさを思い出して尻ごみするのは一瞬のこと、気がつくとボーダーライン以上に踏み出してしまっている。俺というやつはいつもそうだ。
「買って帰ろう。赤ワインがいいな」
「……甘口? 辛口?」
「ミディアムボディの甘口の気分かな」
「肴にはチーズ辺りが鉄板ですかね。俺、昔、バルの厨房で働いてて――」
和やかな談笑。雇われご主人様とマゾ犬という胡乱な関係の俺と男がこんな風に何気ない話ができるとは。一歩どころか、かなり前進できている。勇気を出して誘ってみて良かった。そうやって内心嬉しさを噛み締めていた時、華やいだ女の声が唐突に投げかけられた。
「ねえ、コウモト君じゃない?」
俺たちの席の横から声をかけたのは、ロングの黒髪をゆるく巻いた、パンツスーツ姿の三十代ぐらいの女性だった。額を出した髪型と凛々しい眉、豊満な胸の下で腕を組み、片足に重心をかけて肩幅に足を広げたポーズに自信と気の強さを感じる。コウモト君と呼ばれた男が驚いた顔で立ち上がる。
「これは社長――こんばんは。こんなところで奇遇ですね」
「出張でね、今日ここに泊まってるの。今、取引先と商談して帰って来たところ」
土曜日なのにお仕事とは大変っすな、と思いつつ、唐突に手持ち無沙汰になった俺は残っていた紅茶に口をつける。冷めた紅茶からは香りが消え、舌には渋みだけが残った。天井まであるガラス窓の外は既に暗く、明るいラウンジを鏡のように反射していた。アンティーク椅子に腰掛け、紅茶を傾ける俺でないような俺と目が合う。
――今日はもうこれでお開きだ。寂しいが仕方がない。彼女は男の取引先の社長さんなのだろう。彼にとって軽くあしらって良い人間ではないのだ。
十二時の鐘は鳴った。馬車はカボチャに、御者はネズミに、美しいシンデレラはボロをまとった灰かぶりに――。俺は暇を告げるために立ち上がる。さてどうやってここから一人で帰ろうか、と考えながら。
「あ、ごめんなさいね。コウモト君、こちらの方は?」
立ち上がった俺の背の高さに、縁取られた大きな目を瞬かせながら、女が驚きを微笑で塗り隠す。
「初めまして。あの――」
「こちらは、僕の……大学の先輩で、望月さん」
俺の顔も見ず、遮るように男が言った。瞬きの増加と少し早口な喋り方に、かすかな焦りが見てとれる。俺の名前をちゃんと覚えていたのか――。そんな意外さと嬉しさはおくびにも出さず、そういう役を振るのなら、と俺は誠実そうな微笑を浮かべて頷いた。スマートカジュアルな服装で助かった。これなら上っ面で覆い隠せる。
「どうも、望月です」
「初めまして。コウモト君にはいつもお世話になっています」
女も名乗り返した。俺のは本名兼芸名なのだが、男が言ってしまったのだから仕方がない。もし将来有名になって、万が一何かあったりしたらその時考えよう。俺が退去を切り出そうと口を開いた時、女が楽しげにぱちんと小さく手を打ち鳴らした。
「そうだわ、良かったら今から私の部屋でみんなで飲まない? バーで飲もうかと思ってたんだけど、それがいいわ!」
女は華やいだ笑顔を浮かべた。そこに見えるのは、媚びるでも取引を笠に着るでもない純粋な享楽だ。これはどうすべきだろう。男が付き合うのなら、俺もついていったほうがいいのだろうか。
「いえ、社長、今日は――」
男の言葉。
ちらりと見ると、男も俺を見上げていた。
少し困ったようなかすかな皺を眉根に寄せて。
覚悟を決めて、ひとつ息を吸う。
「――申し訳ないのですが、今日のところはコウモト君は私に譲ってもらえませんかね?」
俺はにこやかに笑いながら、男の肩に手を伸ばし、軽く二度叩いた。二人とも目を丸くして俺を見上げている。大学の先輩。気さくで誠実な感じで。彼の背に手を当てたまま、アドリブで俺は喋り出す。
「今日は偶然彼と再会できたんですよ。随分と久しぶりで、いろいろと積もる話もしたいですし、申し訳ないのですが」
「あら、あら、そう? ごめんなさいね、こちらこそ急にお誘いしちゃって」
断りの返事に対して眉尻を下げた女の苦笑には、プライドを傷つけられた怒りのようなものは見えなかった。酒好きで大らかな、きっぷのいい姐御肌。おそらくはそういう人なのだろう。
他者を演じるにあたって人間観察は欠かせない。よほどの狸や異星人でもない限り、考えていることは大体分かる――と思う。
「すみません、そういうことですので、次に機会がありましたら是非」
俺の言葉を継いで、男が頭を下げた。小さく手を振って女が笑う。
「ほんとごめんね。コウモト君が何だか楽しげだったから声かけちゃったの。じゃあ私もう行くわね。ごゆっくりなさってね」
そう言うと、女はときおりこちらを振り向いて会釈しながらエレベーターの方へと立ち去っていった。俺たち二人は彼女の姿が見えなくなるまで立ち尽くし、同時に溜め息をついた。緊張がとけていく。
「……みっともないところを見せてしまったな」
「いや、全然大丈夫です」
「助かったよ」
「……もしかして、あの人に迫られたりとか、してるんで?」
そういう感じの女性には見えなかったのだが、男が心底安心したという顔をしていたので、念のため訊いてみる。俺の言葉に目を丸くした男は、小さく声をあげて、さも可笑そうに笑った。
「まさか。あの人は僕と同じ歳の子供がいるんだぞ」
「えっ」
「いい取引先なんだが――酒癖がちょっと」
「あー……」
彼女がまさかの大狸ならぬ大虎――いや、美魔女だったとは。女性の見た目の年齢はあてにならないという実例がうじゃうじゃいる世界の端に身を置きながら情けない。俺の人を見る目なんてまだまだだった。顎をさすり感慨にふける俺をちらりと見上げ、男はさりげなく伝票を手にした。
「何より、君の先約が優先だろう? ――さあ、帰ろう」
目を細めてこちらを一瞥すると、男はすたすたと出口へと向かっていく。その背中を見ながら、俺は思わず溜め息をついた。
何でそういうことをさらっと言ってしまうのだろう。俺はこの人に選ばれたんだ。そんな自惚れと喜びが溢れ出して止まらない。こんなに好きになってしまって大丈夫だろうか。でも自分を止められない。
出口で男が呼んでいる。
シンデレラの延長戦が始まった。
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