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シンデレラ
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「まるで話の意味が分からなかった。何なんだ、あの支離滅裂な女は。二重人格なのか?」
男はむっつりと眉根を寄せたまま、ワイングラスを傾ける。事を終えた後に酒でも飲もうと珍しく誘われた。以前渡したチケットの舞台を見たと報告され、嬉しさで身を乗り出してみれば、彼の口から飛び出した感想がこれだ。そりゃあソファからずり落ちそうになろうというものだ。
「あー……、あの、あれね、二重人格じゃなくて一人二役なんっす。つまり別人」
「……まさか。冗談だろう?」
確かに、脚本自体がそういう叙述トリック的な効果を狙っての一人二役ではあったのだが、何度も速着替えして、キャラごとに表情も演技もちゃんと全部変えて頑張ってたのに主演女優のあの子かわいそう。俺は小さく溜め息をつき、いまだ怪訝な表情の目の前の男を見つめた。バスローブ姿でワインを揺らすという自分自身が戯画めいた男は、どうやらフィクションを解する心を持たないらしい。
「パンフレット余ってると思うんで、今度持って来ますよ。あらすじとか設定とか載ってるんで」
「持ってる。眺めただけで読んでないが」
「……家帰ったら読んでやってくださいよ」
「別にいい」
ぴしゃりと言い切られた。とりつく島もない態度に、チケットを渡したのは早計だったかと少し後悔する。俺が主演――ではなかったが、主演の親友の刑事役でわりと美味しい役柄だったのだ。いいところが見せられるかと思って渡したのだが、そういう下心がきっといけなかったのだろう。しゅんとしょげる俺に、グラスを傾けながら男が言った。
「どうせ君を観に行っただけだしな。それについては満足している」
そっけない言い方に喜べばいいのか悲しめばいいのか迷ったが、単純な俺はつい小さく微笑んでしまった。それはともかく、と言って男が空になったグラスを卓に置き、こちらに向かって身を乗り出してきた。少しはだけた胸元から白い肌が覗く。
「公演は無事終わったそうじゃないか。おめでとう」
「あ、あざっす」
俺は小さく頭を下げた。男は手酌で自分の杯を赤い液体で満たす。ついでに空になっていた俺のグラスにも注いだ。こういう場合、本来ならばこちらが酌をすべきだったのかもしれない。俺はもう一度頭を下げた。
「――お祝いでもしようか。何か願いはないか?」
下げたつむじに思いがけない言葉が投げかけられ、俺は上目遣いで男を見上げた。目の縁を酒精に赤く染め、妙に艶めいた男がからかうように俺を眺めている。俺は真剣な表情を作り、ぴっと背を伸ばした。初めて巡ってきたチャンスだ。言質はきっちり取っておかねばなるまい。
「マジすか。じゃあ、頼みがあるんすけど」
「何か欲しい物でも? それとも借金か? いや賃上げか? どれでも別にやぶさかではないぞ」
妙に嬉しそうにそんなことを聞く男に、俺は焦って手を振った。
「いや、おかげさまで貯金できてます。ありがとうございます。そうじゃなくてっすね」
ここで俺はわざと一拍置き、男をじっと見据えた。
「一日デートしてくれませんか」
「デート」
「恋人っぽい感じで」
「恋人」
男は完全な無表情だった。だが、頭の回転の早い彼が、ただ俺の言葉を繰り返すだけの機械になってしまっているので、内面では完全に混乱しているのだと思う。何度か瞬きし、ようやく俺の言葉が咀嚼できたのか、今度は大きな目が探るように俺を見つめてきた。
「冗談とかじゃあないんすよ」
その目を見つめ返しながら努めて真剣なトーンで言うと、男は押し負けたように目を伏せた。口をへの字に曲げ、しばらく押し黙った後、ようやく口を開く。心なしか頬が赤いのは、照れているのか、それとも酔いが回ったのか。
「来週の、土日なら空けられる――と思う」
「わーい、あざっす」
予期せぬ棚ぼたに満面の笑みの俺に向かって、但し、と男はいくつもの『条件』をまくしたて始めた。
男はむっつりと眉根を寄せたまま、ワイングラスを傾ける。事を終えた後に酒でも飲もうと珍しく誘われた。以前渡したチケットの舞台を見たと報告され、嬉しさで身を乗り出してみれば、彼の口から飛び出した感想がこれだ。そりゃあソファからずり落ちそうになろうというものだ。
「あー……、あの、あれね、二重人格じゃなくて一人二役なんっす。つまり別人」
「……まさか。冗談だろう?」
確かに、脚本自体がそういう叙述トリック的な効果を狙っての一人二役ではあったのだが、何度も速着替えして、キャラごとに表情も演技もちゃんと全部変えて頑張ってたのに主演女優のあの子かわいそう。俺は小さく溜め息をつき、いまだ怪訝な表情の目の前の男を見つめた。バスローブ姿でワインを揺らすという自分自身が戯画めいた男は、どうやらフィクションを解する心を持たないらしい。
「パンフレット余ってると思うんで、今度持って来ますよ。あらすじとか設定とか載ってるんで」
「持ってる。眺めただけで読んでないが」
「……家帰ったら読んでやってくださいよ」
「別にいい」
ぴしゃりと言い切られた。とりつく島もない態度に、チケットを渡したのは早計だったかと少し後悔する。俺が主演――ではなかったが、主演の親友の刑事役でわりと美味しい役柄だったのだ。いいところが見せられるかと思って渡したのだが、そういう下心がきっといけなかったのだろう。しゅんとしょげる俺に、グラスを傾けながら男が言った。
「どうせ君を観に行っただけだしな。それについては満足している」
そっけない言い方に喜べばいいのか悲しめばいいのか迷ったが、単純な俺はつい小さく微笑んでしまった。それはともかく、と言って男が空になったグラスを卓に置き、こちらに向かって身を乗り出してきた。少しはだけた胸元から白い肌が覗く。
「公演は無事終わったそうじゃないか。おめでとう」
「あ、あざっす」
俺は小さく頭を下げた。男は手酌で自分の杯を赤い液体で満たす。ついでに空になっていた俺のグラスにも注いだ。こういう場合、本来ならばこちらが酌をすべきだったのかもしれない。俺はもう一度頭を下げた。
「――お祝いでもしようか。何か願いはないか?」
下げたつむじに思いがけない言葉が投げかけられ、俺は上目遣いで男を見上げた。目の縁を酒精に赤く染め、妙に艶めいた男がからかうように俺を眺めている。俺は真剣な表情を作り、ぴっと背を伸ばした。初めて巡ってきたチャンスだ。言質はきっちり取っておかねばなるまい。
「マジすか。じゃあ、頼みがあるんすけど」
「何か欲しい物でも? それとも借金か? いや賃上げか? どれでも別にやぶさかではないぞ」
妙に嬉しそうにそんなことを聞く男に、俺は焦って手を振った。
「いや、おかげさまで貯金できてます。ありがとうございます。そうじゃなくてっすね」
ここで俺はわざと一拍置き、男をじっと見据えた。
「一日デートしてくれませんか」
「デート」
「恋人っぽい感じで」
「恋人」
男は完全な無表情だった。だが、頭の回転の早い彼が、ただ俺の言葉を繰り返すだけの機械になってしまっているので、内面では完全に混乱しているのだと思う。何度か瞬きし、ようやく俺の言葉が咀嚼できたのか、今度は大きな目が探るように俺を見つめてきた。
「冗談とかじゃあないんすよ」
その目を見つめ返しながら努めて真剣なトーンで言うと、男は押し負けたように目を伏せた。口をへの字に曲げ、しばらく押し黙った後、ようやく口を開く。心なしか頬が赤いのは、照れているのか、それとも酔いが回ったのか。
「来週の、土日なら空けられる――と思う」
「わーい、あざっす」
予期せぬ棚ぼたに満面の笑みの俺に向かって、但し、と男はいくつもの『条件』をまくしたて始めた。
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