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ロールプレイ
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「だからね、とにかく僕は、野卑かつ性的に罵って欲しいわけだよ」
「はぁ……」
僕の率直なリクエストに、目の前の男は眠たげな目をぱちぱちと瞬かせた。その膝の間では、長い指が物言いたげに、せわしなく擦り合わされている。男がぼそぼそと問うた。
「DMでも書いたっすけど、そういうのは恋人としたほうがいいんじゃないっすかね……」
分厚い前髪の隙間から上目遣いで僕を見上げてくる。卑下や遠慮、あるいは気を引くためのあざとさの類ではなく、純粋にそう思っているのだろう。しかし、ここまでわざわざ出向いておいて今更言うことではない。だが、DMではその点に関して完全に無視を決めこんだからこそ、彼もわざわざ蒸し返してきたのだろう。なら、きちんと僕の意見を言っておくべきだ。
「恋人なんて面倒くさいものはいらないんだよ。僕が欲しいのはあくまでもセフレ。さっさとセックスだけしたいから、君に契約を持ちこんだんだ」
「はぁ……」
「甘いキスや睦言なんて面倒なものは、僕にはいらないんだ」
僕は腕組みし、やわらかなソファにそっくり返る。男はたくましい体格に似合わずあまり覇気のない様子で、そっすか、と小さく呟くにとどまった。膝の間でしきりに組み合わされる指が、納得していないことを伝えてくるが、僕はあえて無視する。
「……えっと、じゃあその、罵り……っすか。それって、いやらしいなー、とか、そんなんっすか」
「まんこ野郎とかマゾ豚とか、そういうのだ」
「ま、」
真顔で訂正する僕を見て男は口をぽかんと開けた後、俯いてソファの背に深々と身をうずめた。長い脚が余って座面から浮き上がっている。手の甲で鼻をこする仕草で口元が覆われ、夕闇を照らす明かりでごわついた前髪が目元に影を落とす。表情はよく見えないが、耳元が明らかに赤らんでいた。二人きりのマンションの一室がしばし沈黙にとざされる。
おいおい、こんなことで照れていて大丈夫か、この『ご主人様』は。僕は顔を隠すために未だにつけっぱなしのマスクの下で、思わず口元を真一文字に結んだ。
人選を誤ったのだろうか。彼をSNSで見つけて以来、僕は何年も遡ってその呟きを精査した。曰く、劇団所属の役者志望の三十路ゲイ。だが、それはあくまでも個人アカウントらしく、『これ何の花かな きれい』、『彩雲みっけ』、『初めて来たところだけどランチおいしい』、『こうも寒いと人肌恋しくなっちゃうなぁ』などと上手いとも下手とも判断のつかない風景写真と、毒にも薬にもならない呟きばかりが上げられていた。
そんな平坦な彼のタイムラインに僕は逆に感心した。ときおり首から下を切り取った逞しい半裸の自撮りなどを掲載し、さりげなく承認欲求を満たしたりしてはいるものの、発言にしろ他人へのレスにしろ、僕が見た限り、悪意あるものがひとつもなかった。ひとつもだ。かと言って、意図的に善人ぶるような鼻につくあざとさもない。これは簡単に見えて、なかなかできることではないと僕は思った。
だから、彼に『ご主人様』として白羽の矢を立てた。演技ができて、男が抱けて、悪辣でない人物として。確かに僕は、支配的に犯されたいという欲望を持っているが、相手によってはそれを実生活の主従関係に持ちこむ鼠輩もいるだろう。僕は、あくまでも、秘密裏かつ安全圏でのロールプレイを求めていた。大学生の頃に自ら起業し、これまで数多の海千山千の猛者と渡り合ってきた。人を見る目にはそこそこ自信がある。
とはいえ、僕が抱いた印象だけではいくらなんでも心許ない。確実なデータが必要だ。中指だけ妙に反り返ったピースサインと食事の背後に映る飲食店の写真や、いつとも知れぬ出演した劇が閉幕したというぼんやりした事後報告など、断片的な情報からでも有能な興信所はちゃんと身元を割り出してくれた。かなり金はかかったが。人となりは善。彼を知る人間は皆、口を揃えて言ったという。
目の前のガラステーブルの上に置かれた健康診断書に目をやる。こちらで金は出すから性病の有無を事前に調べておいて欲しい、と言っておいたものだ。かなり失礼だという自覚はあったが、このとおり、彼は住所と氏名も隠さずに、すんなりと僕に提出した。それらは興信所が調べ出した身元と一致していた。ちなみに診断書の結果はもちろん陰性だった。
一方で、彼は僕の氏素性を一切知らない。きっちりとスーツを着こなし、清潔感を全面に出した実業家風のマスク男。それが、彼の知る僕だ。
彼を眺めるためだけに作ったSNSのアカウントには、『ゲイ 実業家 M 172.65.28』と簡潔なプロフィールを上げているだけで、中身はない。これだって、ゲイなのかMなのか、自分でも正直よく分かってはいない。ペニスに欲情するのは確かなのだが、はたしてそれを同性愛と言って良いものか。彼はよくこんな胡散くさい奴の話に乗ったものだと自分でも思う。いや、さすがの彼も、見知らぬ奴からの突然のセフレの誘いには最初は渋っていたのだが――。
……そうだ、渋るといえば。
「君、そういえば重要なことを確かめるのを忘れていた!」
「えっ、何すか」
突然、身を乗り出した僕に、眠たげな目を丸くして男が問う。まったく、僕としたことが何ということだ。
「DMに書いていただろう。あれは本当か?」
「あれって……?」
「大きすぎて相手に嫌がられ、最後までできたことがない――と書いてただろ?」
そう――。言うに事欠いて、彼はそんな理由で一度断ろうとしてきたのだ。そこはアピールすべきポイントだろうに、と返信を読んで呆れたたものだが、おそらく本人にとってはトラウマものなのだろう。何事においても他人から拒絶されるのは辛い。ましてや自分の努力で何とかなるものではないことにおいては。
「えっ、その……ハイ。昔、それで恋人と別れたりもして……」
だが、そのトラウマも今日までだ――。僕はマスクの下で不敵な笑みを浮かべながら鞄の中をまさぐった。額の汗を拭いながらゴニョゴニョ言う彼の前に、手にしたそれを勢いよく突き立てた。
「これは今、僕が愛用しているものだが、君のとどちらが大きい?」
それは二人の間でぼるんぼるんと間抜けに揺れた。人間のペニスの色と形を忠実に模したLサイズのディルド。底に吸盤がついており、床やタイルにくっつけられるタイプのものだ。これが初めて全部入ったときの達成感たるや――。いや、今そんなことはどうでもいい。男は目を左右に泳がせ、あからさまにうろたえる。
「え、えと……。どっすかねぇ……」
「握ってみれば分かるのでは? ちゃんと消毒してあるので、どうぞ確かめて」
どうぞと言われても、と男の顔にはっきりと書いてあったが気にしない。押しに弱いタイプには、さも常識ですよという冷静な態度でごり押すのが一番だ。涼しげな顔で促すと、彼の長い指がしぶしぶディルドに伸ばされた。
「あ……、思ったよりやわらかいんすね」
間の抜けた感想を漏らしながら、男の指がシリコン製のディルドをつついた。指先が側面を撫で上げる。ゆるく握りこみ、根元から先端までを何度かゆっくりと往復した。僕が握るとぎりぎり中指と親指がくっつく程度の太さだが、男の長い指だと余裕があった。僕のとはまるで違う、節ばった浅黒い大きな手――。まるで自分が焦らされているような錯覚に陥り、じわりと体温が上がった。
「えっと……、多分ちょっと俺の方が大きい……かな?」
「脱いで」
かぶせ気味に言葉が飛び出していた。じっと男の顔を見つめる。改めて見ると、ぼさぼさの前髪に隠れて目元はほとんど見えないが、そこそこ整ってはいるものの間伸びした顔立ちだ。彼を見たところで誰も役者だとは思わないであろう華のなさに、人気はあるのかと他人事ながら心配になる。しばらくの逡巡の末、僕に引く気がないと理解したのだろう、男はゆっくりと立ち上がった。テーブルセットと巨大なベッドの間で所在なげに立ち尽くす。
「……ほんとに脱ぐんすか?」
「脱いで」
うーん……と唸り、着ていたTシャツに遠慮がちに手をかけた。だぶついたTシャツに膝の出たジーンズ、薄汚れたスニーカー姿の彼は、ぼさついた髪型も相まって、肉体労働系フリーター然としていてとても良い。無精髭でも生えていれば、僕の理想の小汚いご主人様として完璧なのだが。
今日は敢えてラフな格好で来てほしいと僕がリクエストした。初めて顔を合わせたとき、スーツ姿の僕を見て失敗したと恐縮していたがとんでもない。なぜこのマンションを欧米風に靴を履いたまま入室できるようにしたかといえば、スーツ姿のまま、力と性欲が有り余る労働者に犯されたかったからだ。綺麗に磨いた革靴と履き古したスニーカーは、僕と彼のメタファーだ。
ここは、僕が思うがままにセックスするためだけに用意した部屋。バストイレ、それに二人用のソファとベッド、あとは冷蔵庫以外使う予定のないキッチンしかない。防音防水もがっちり施し、どれだけ声をあげてもいいようにと最上階の角部屋で、念のために隣と下の階の部屋も借りてある。
全ては、今この時のために――。
「上はいいよ。下だけ降ろして」
そう言って僕もソファから立ち上がった。目の前に立ち、男を見上げる。頭ひとつか、それ以上も背の高い男だった。別段、僕が小さいわけじゃない。彼が飛び抜けて大きいのだ。日雇いの労働で自然と鍛えあげられた筋肉が、ゆるいTシャツの上からも分かるほどに盛り上がっている。顔は地味だが、きっとこの体格なら舞台映えするだろう。テレビなど、画角が決まっているものでは逆の使いづらいのかもしれないが。
「下だけすか……。なんか恥ずかしいなあ」
そう言って、男はぼさぼさの髪を掻いた。巨体を縮こまらせてもじもじしている。――いい加減、僕は苛ついていた。
何が恥ずかしい、だ。君はここに何をしにきたのだ。僕とのセックスだろうが。セフレになる契約をしたんだろうが。条件は全て満たしている。後は、肝心なモノの大きさを確かめるだけじゃないか――。そう喚きたいのをぐっと堪える。
「――時間を無駄にしないでくれ」
「う……っ、ハイ……」
部下に対して説教しなれた言葉だけを吐き出し、僕は床に膝をついた。鼓動は期待に高まる一方で、早く中身を見たくてたまらなかった。手を伸ばし、彼のベルトに手をかける。彼の大きな手は、制止するでもなく、所在なげに脇で揺れていた。
まずはジーンズを膝下まで下ろす。膝をついた僕の目線より少し上。黒のボクサーパンツ。本来ならフロント部を真っ直ぐ走るであろう白い縁取りは、まるで中身の大きさを強調するかのように急峻なカーブを描いていた。
とくとくと耳の奥で鼓動が響いている。早く中身を見たい。触れて、舐めて、犯されたい。思わず唾をのむ音がやけに大きく響いた。興奮でにわかに呼吸が浅くなり、息苦しさに思わず僕はマスクをかなぐり捨てる。
「……――」
ふと見上げると、こちらを見下ろしていた男と目が合った。
ばちり、と音がして、身体に電流が走った――ような気がした。
男の手がふと上がる。
長い指が分厚い前髪を掻き上げ、その目元が露わになる。
男が、うっすらと笑った。
「――舐めろよ」
「……っ!!」
一瞬で場の空気が変わった。
さっきまでの茫洋としたやわらかな声とはまるで違う、ざらついた、それでいて艶のある低い声だった。気がついたときには、僕は呆然として床にへたへたと座りこんでいた。顔の皮膚がちりちりするほどに熱い。どうやら急激に頭に血が上って、腰が抜けたらしい。今までに感じたことがないような、目がくらむほどの興奮がぞくぞくと背筋を駆け抜ける。
頭がくらくらする中、震える足で何とか膝立ちになり、目の前の下着のゴムに手をかけた。男の浅黒い手がTシャツを腹までまくり上げる。ゴムの縁から臍下まで、下生えが細い線となって続いていた。
無性にたまらなくなって、下着の上から膨らみに鼻先を突っこんだ。そこに篭もる雄の匂いを胸いっぱいに吸いこむ。石鹸の香りに混ざるかすかな雄の匂い。僕は別に男が好きなわけではないけれど――ない、とは思うけれど――初めて嗅ぐ生々しい他人の性の匂いに、僕の股間は痛いほど突っ張っていた。
もう一度、彼を見上げる。
まるで主人からの許しを待つ犬のように。
男の真っ黒な瞳。
薄い笑み。
艶やかな低い声。
「舐めて勃たせろよ。俺の勃起ちんぽが見てえんだろ」
「は……、い」
瞬間、胸の内で何かが爆発し、僕の身体は無様にぶるりとわなないた。
興奮に震える手で男の下着を引きずり下ろす。目の前でぶるんと揺れたペニスから、一瞬たりとも目が離せない。まだ半勃ちにもいたらないのに、男のそれは僕の勃起時よりも大きく見えた。手入れしていないであろう生え散らかした陰毛が、コマ送りで見る植物の成長のように、圧迫から解き放たれてゆっくりと立ち上がっていく。
はぁ、と熱い吐息が漏れた。両手でいただくように、男の局部に触れる。精子の詰まった陰嚢がずっしりと掌に熱く、重い。ぎこちない手つきで彼のペニスをしごく。手の中で徐々に体積と固さと熱を増していくことへの無上の喜びが僕の中に芽生え始めていた。
「はぁ……」
僕の唇からは自然と熱い溜め息が漏れていた。手の中の雄は、ますます膨張し、固く熱くなっていく。彼も僕の手で興奮してくれているのだ。スーツ姿の男が足元にひざまずき、恍惚の表情で己のペニスにすがりつく背徳的な光景に。
男のペニスは完全に立ち上がった。その威容には、同じ男だからこそ畏敬の念すら覚える。剥けきった亀頭の段差は高く、竿をのたうつ太い血管は大樹を這う蛇のようだ。握りこむ指が届かないほどに中太りした胴体は圧巻だった。そして、目を見張るほどの長大さ――。僕は思わず生唾を飲みこんだ。
「ご主人様……」
蚊が鳴くような声で囁いてみる。ご主人様――陳腐だと笑うかもしれない。でも、僕には服従すべき支配者を言い表す言葉をそれしか持っていなかったのだ。何度も妄想はしていたが、実際に口にすると、興奮で頭がおかしくなりそうだった。袋と竿の境い目に忠誠を誓うように恭しく口づける。唇に当たる皮膚が火傷しそうに熱い。
口を大きく開き、舌全体で裏筋を舐め上げた。しょっぱいような、苦いような、それでいてひどく欲情を掻き立てる味が口いっぱいに広がる。シリコンとは違うと五感が興奮気味に訴える。いつしか僕は、鼻先や頬、額に当たるのも構わず、無我夢中になって飢えた犬にようにがっついて、ただただ目の前の雄を舐め回していた。
「くすぐってえよ。舌先尖らせな」
何かが頭に当たり、僕はようやく我に返る。男の手だった。額に前髪がはらりと落ちたのを感じる。大きな手がセットした僕の髪を梳き、後頭部に添えられていた。指先が首筋をかすかに這う。ぞわりと立った鳥肌が、自分でもどの感情によるものか、もう分からなかった。
「はあっ……」
言われたとおりに舌先を固く尖らせ、くっきりと浮き出た裏筋を舐め上げた。よくできた、と言うかのように、髪にさしいれられた男の指が頭皮を甘く撫でる。
もっと、もっと――。ただその思いだけがあった。僕は思い切って巨大な雄の先端を口内に導き入れる。それだけでも顎が外れそうだ。だが、口淫に関しては何度もディルドで試した一日の長がある。
「いいぞ。うまいじゃねえか」
褒められた。うれしい。歯を立てないようにしながら、舌先をくねらせ、張ったエラを前後にこそぐ。溢れた涎が口端から垂れ落ちたが拭う余裕はなかった。息苦しい。顎が痛い。だがそれ以上に、ふわふわと酔っ払ったような多幸感で頭がいっぱいになっていた。
「ふっ、ふっ、ふっ……」
じゅるじゅると吸いつきながら、先端を前後する。その度に、張り出したエラが上顎や喉奥をこすり、未知の快感がぞくぞくと背筋を駆け抜けていく。ディルドでこんな風に感じたことはなかった。口の中をこすられているだけなのに、どうしてこんなに気持ちがいいのか分からない――。
「ちんぽ舐めてるだけで勃ったのか?」
「ああっ……!」
突然の直接的な快感に、僕はとっさに口を離し、思わず座りこんだ。毛足の長いラグにばたばたと涎が落ちる。薄汚れたスニーカーの爪先が膝の間に見えた。男の足がスラックスの中でがちがちに昂っていた僕の屹立を撫で上げたのだ。ラグに手をつき、僕は涙目で男を見上げた。
「はあっ、あ……」
「本当にとんだドMだなぁ、あんた」
「ああぁぁっ……!」
男の目が楽しげに細まり、小汚いスニーカーの爪先が下から上へと僕の股間を撫で上げた。瞬間、歓喜が身体を走り抜け、腰がかくかくと勝手にわなないた。止められない。下半身が溶けたように熱い。
「はぁっ、はぁ、っ……」
自分でもどういう状況か分からず、困惑と――それをはるかに上回る快感に、目を見開いたまま、ただ僕は震えていた。内腿が何だか冷たい。じわじわと下着が濡れていく感覚。そして、彼の言葉が煮えたぎった脳にようやく届き、僕は自分が下着の中に射精していたことにやっと気づいた。
「はぁ……」
僕の率直なリクエストに、目の前の男は眠たげな目をぱちぱちと瞬かせた。その膝の間では、長い指が物言いたげに、せわしなく擦り合わされている。男がぼそぼそと問うた。
「DMでも書いたっすけど、そういうのは恋人としたほうがいいんじゃないっすかね……」
分厚い前髪の隙間から上目遣いで僕を見上げてくる。卑下や遠慮、あるいは気を引くためのあざとさの類ではなく、純粋にそう思っているのだろう。しかし、ここまでわざわざ出向いておいて今更言うことではない。だが、DMではその点に関して完全に無視を決めこんだからこそ、彼もわざわざ蒸し返してきたのだろう。なら、きちんと僕の意見を言っておくべきだ。
「恋人なんて面倒くさいものはいらないんだよ。僕が欲しいのはあくまでもセフレ。さっさとセックスだけしたいから、君に契約を持ちこんだんだ」
「はぁ……」
「甘いキスや睦言なんて面倒なものは、僕にはいらないんだ」
僕は腕組みし、やわらかなソファにそっくり返る。男はたくましい体格に似合わずあまり覇気のない様子で、そっすか、と小さく呟くにとどまった。膝の間でしきりに組み合わされる指が、納得していないことを伝えてくるが、僕はあえて無視する。
「……えっと、じゃあその、罵り……っすか。それって、いやらしいなー、とか、そんなんっすか」
「まんこ野郎とかマゾ豚とか、そういうのだ」
「ま、」
真顔で訂正する僕を見て男は口をぽかんと開けた後、俯いてソファの背に深々と身をうずめた。長い脚が余って座面から浮き上がっている。手の甲で鼻をこする仕草で口元が覆われ、夕闇を照らす明かりでごわついた前髪が目元に影を落とす。表情はよく見えないが、耳元が明らかに赤らんでいた。二人きりのマンションの一室がしばし沈黙にとざされる。
おいおい、こんなことで照れていて大丈夫か、この『ご主人様』は。僕は顔を隠すために未だにつけっぱなしのマスクの下で、思わず口元を真一文字に結んだ。
人選を誤ったのだろうか。彼をSNSで見つけて以来、僕は何年も遡ってその呟きを精査した。曰く、劇団所属の役者志望の三十路ゲイ。だが、それはあくまでも個人アカウントらしく、『これ何の花かな きれい』、『彩雲みっけ』、『初めて来たところだけどランチおいしい』、『こうも寒いと人肌恋しくなっちゃうなぁ』などと上手いとも下手とも判断のつかない風景写真と、毒にも薬にもならない呟きばかりが上げられていた。
そんな平坦な彼のタイムラインに僕は逆に感心した。ときおり首から下を切り取った逞しい半裸の自撮りなどを掲載し、さりげなく承認欲求を満たしたりしてはいるものの、発言にしろ他人へのレスにしろ、僕が見た限り、悪意あるものがひとつもなかった。ひとつもだ。かと言って、意図的に善人ぶるような鼻につくあざとさもない。これは簡単に見えて、なかなかできることではないと僕は思った。
だから、彼に『ご主人様』として白羽の矢を立てた。演技ができて、男が抱けて、悪辣でない人物として。確かに僕は、支配的に犯されたいという欲望を持っているが、相手によってはそれを実生活の主従関係に持ちこむ鼠輩もいるだろう。僕は、あくまでも、秘密裏かつ安全圏でのロールプレイを求めていた。大学生の頃に自ら起業し、これまで数多の海千山千の猛者と渡り合ってきた。人を見る目にはそこそこ自信がある。
とはいえ、僕が抱いた印象だけではいくらなんでも心許ない。確実なデータが必要だ。中指だけ妙に反り返ったピースサインと食事の背後に映る飲食店の写真や、いつとも知れぬ出演した劇が閉幕したというぼんやりした事後報告など、断片的な情報からでも有能な興信所はちゃんと身元を割り出してくれた。かなり金はかかったが。人となりは善。彼を知る人間は皆、口を揃えて言ったという。
目の前のガラステーブルの上に置かれた健康診断書に目をやる。こちらで金は出すから性病の有無を事前に調べておいて欲しい、と言っておいたものだ。かなり失礼だという自覚はあったが、このとおり、彼は住所と氏名も隠さずに、すんなりと僕に提出した。それらは興信所が調べ出した身元と一致していた。ちなみに診断書の結果はもちろん陰性だった。
一方で、彼は僕の氏素性を一切知らない。きっちりとスーツを着こなし、清潔感を全面に出した実業家風のマスク男。それが、彼の知る僕だ。
彼を眺めるためだけに作ったSNSのアカウントには、『ゲイ 実業家 M 172.65.28』と簡潔なプロフィールを上げているだけで、中身はない。これだって、ゲイなのかMなのか、自分でも正直よく分かってはいない。ペニスに欲情するのは確かなのだが、はたしてそれを同性愛と言って良いものか。彼はよくこんな胡散くさい奴の話に乗ったものだと自分でも思う。いや、さすがの彼も、見知らぬ奴からの突然のセフレの誘いには最初は渋っていたのだが――。
……そうだ、渋るといえば。
「君、そういえば重要なことを確かめるのを忘れていた!」
「えっ、何すか」
突然、身を乗り出した僕に、眠たげな目を丸くして男が問う。まったく、僕としたことが何ということだ。
「DMに書いていただろう。あれは本当か?」
「あれって……?」
「大きすぎて相手に嫌がられ、最後までできたことがない――と書いてただろ?」
そう――。言うに事欠いて、彼はそんな理由で一度断ろうとしてきたのだ。そこはアピールすべきポイントだろうに、と返信を読んで呆れたたものだが、おそらく本人にとってはトラウマものなのだろう。何事においても他人から拒絶されるのは辛い。ましてや自分の努力で何とかなるものではないことにおいては。
「えっ、その……ハイ。昔、それで恋人と別れたりもして……」
だが、そのトラウマも今日までだ――。僕はマスクの下で不敵な笑みを浮かべながら鞄の中をまさぐった。額の汗を拭いながらゴニョゴニョ言う彼の前に、手にしたそれを勢いよく突き立てた。
「これは今、僕が愛用しているものだが、君のとどちらが大きい?」
それは二人の間でぼるんぼるんと間抜けに揺れた。人間のペニスの色と形を忠実に模したLサイズのディルド。底に吸盤がついており、床やタイルにくっつけられるタイプのものだ。これが初めて全部入ったときの達成感たるや――。いや、今そんなことはどうでもいい。男は目を左右に泳がせ、あからさまにうろたえる。
「え、えと……。どっすかねぇ……」
「握ってみれば分かるのでは? ちゃんと消毒してあるので、どうぞ確かめて」
どうぞと言われても、と男の顔にはっきりと書いてあったが気にしない。押しに弱いタイプには、さも常識ですよという冷静な態度でごり押すのが一番だ。涼しげな顔で促すと、彼の長い指がしぶしぶディルドに伸ばされた。
「あ……、思ったよりやわらかいんすね」
間の抜けた感想を漏らしながら、男の指がシリコン製のディルドをつついた。指先が側面を撫で上げる。ゆるく握りこみ、根元から先端までを何度かゆっくりと往復した。僕が握るとぎりぎり中指と親指がくっつく程度の太さだが、男の長い指だと余裕があった。僕のとはまるで違う、節ばった浅黒い大きな手――。まるで自分が焦らされているような錯覚に陥り、じわりと体温が上がった。
「えっと……、多分ちょっと俺の方が大きい……かな?」
「脱いで」
かぶせ気味に言葉が飛び出していた。じっと男の顔を見つめる。改めて見ると、ぼさぼさの前髪に隠れて目元はほとんど見えないが、そこそこ整ってはいるものの間伸びした顔立ちだ。彼を見たところで誰も役者だとは思わないであろう華のなさに、人気はあるのかと他人事ながら心配になる。しばらくの逡巡の末、僕に引く気がないと理解したのだろう、男はゆっくりと立ち上がった。テーブルセットと巨大なベッドの間で所在なげに立ち尽くす。
「……ほんとに脱ぐんすか?」
「脱いで」
うーん……と唸り、着ていたTシャツに遠慮がちに手をかけた。だぶついたTシャツに膝の出たジーンズ、薄汚れたスニーカー姿の彼は、ぼさついた髪型も相まって、肉体労働系フリーター然としていてとても良い。無精髭でも生えていれば、僕の理想の小汚いご主人様として完璧なのだが。
今日は敢えてラフな格好で来てほしいと僕がリクエストした。初めて顔を合わせたとき、スーツ姿の僕を見て失敗したと恐縮していたがとんでもない。なぜこのマンションを欧米風に靴を履いたまま入室できるようにしたかといえば、スーツ姿のまま、力と性欲が有り余る労働者に犯されたかったからだ。綺麗に磨いた革靴と履き古したスニーカーは、僕と彼のメタファーだ。
ここは、僕が思うがままにセックスするためだけに用意した部屋。バストイレ、それに二人用のソファとベッド、あとは冷蔵庫以外使う予定のないキッチンしかない。防音防水もがっちり施し、どれだけ声をあげてもいいようにと最上階の角部屋で、念のために隣と下の階の部屋も借りてある。
全ては、今この時のために――。
「上はいいよ。下だけ降ろして」
そう言って僕もソファから立ち上がった。目の前に立ち、男を見上げる。頭ひとつか、それ以上も背の高い男だった。別段、僕が小さいわけじゃない。彼が飛び抜けて大きいのだ。日雇いの労働で自然と鍛えあげられた筋肉が、ゆるいTシャツの上からも分かるほどに盛り上がっている。顔は地味だが、きっとこの体格なら舞台映えするだろう。テレビなど、画角が決まっているものでは逆の使いづらいのかもしれないが。
「下だけすか……。なんか恥ずかしいなあ」
そう言って、男はぼさぼさの髪を掻いた。巨体を縮こまらせてもじもじしている。――いい加減、僕は苛ついていた。
何が恥ずかしい、だ。君はここに何をしにきたのだ。僕とのセックスだろうが。セフレになる契約をしたんだろうが。条件は全て満たしている。後は、肝心なモノの大きさを確かめるだけじゃないか――。そう喚きたいのをぐっと堪える。
「――時間を無駄にしないでくれ」
「う……っ、ハイ……」
部下に対して説教しなれた言葉だけを吐き出し、僕は床に膝をついた。鼓動は期待に高まる一方で、早く中身を見たくてたまらなかった。手を伸ばし、彼のベルトに手をかける。彼の大きな手は、制止するでもなく、所在なげに脇で揺れていた。
まずはジーンズを膝下まで下ろす。膝をついた僕の目線より少し上。黒のボクサーパンツ。本来ならフロント部を真っ直ぐ走るであろう白い縁取りは、まるで中身の大きさを強調するかのように急峻なカーブを描いていた。
とくとくと耳の奥で鼓動が響いている。早く中身を見たい。触れて、舐めて、犯されたい。思わず唾をのむ音がやけに大きく響いた。興奮でにわかに呼吸が浅くなり、息苦しさに思わず僕はマスクをかなぐり捨てる。
「……――」
ふと見上げると、こちらを見下ろしていた男と目が合った。
ばちり、と音がして、身体に電流が走った――ような気がした。
男の手がふと上がる。
長い指が分厚い前髪を掻き上げ、その目元が露わになる。
男が、うっすらと笑った。
「――舐めろよ」
「……っ!!」
一瞬で場の空気が変わった。
さっきまでの茫洋としたやわらかな声とはまるで違う、ざらついた、それでいて艶のある低い声だった。気がついたときには、僕は呆然として床にへたへたと座りこんでいた。顔の皮膚がちりちりするほどに熱い。どうやら急激に頭に血が上って、腰が抜けたらしい。今までに感じたことがないような、目がくらむほどの興奮がぞくぞくと背筋を駆け抜ける。
頭がくらくらする中、震える足で何とか膝立ちになり、目の前の下着のゴムに手をかけた。男の浅黒い手がTシャツを腹までまくり上げる。ゴムの縁から臍下まで、下生えが細い線となって続いていた。
無性にたまらなくなって、下着の上から膨らみに鼻先を突っこんだ。そこに篭もる雄の匂いを胸いっぱいに吸いこむ。石鹸の香りに混ざるかすかな雄の匂い。僕は別に男が好きなわけではないけれど――ない、とは思うけれど――初めて嗅ぐ生々しい他人の性の匂いに、僕の股間は痛いほど突っ張っていた。
もう一度、彼を見上げる。
まるで主人からの許しを待つ犬のように。
男の真っ黒な瞳。
薄い笑み。
艶やかな低い声。
「舐めて勃たせろよ。俺の勃起ちんぽが見てえんだろ」
「は……、い」
瞬間、胸の内で何かが爆発し、僕の身体は無様にぶるりとわなないた。
興奮に震える手で男の下着を引きずり下ろす。目の前でぶるんと揺れたペニスから、一瞬たりとも目が離せない。まだ半勃ちにもいたらないのに、男のそれは僕の勃起時よりも大きく見えた。手入れしていないであろう生え散らかした陰毛が、コマ送りで見る植物の成長のように、圧迫から解き放たれてゆっくりと立ち上がっていく。
はぁ、と熱い吐息が漏れた。両手でいただくように、男の局部に触れる。精子の詰まった陰嚢がずっしりと掌に熱く、重い。ぎこちない手つきで彼のペニスをしごく。手の中で徐々に体積と固さと熱を増していくことへの無上の喜びが僕の中に芽生え始めていた。
「はぁ……」
僕の唇からは自然と熱い溜め息が漏れていた。手の中の雄は、ますます膨張し、固く熱くなっていく。彼も僕の手で興奮してくれているのだ。スーツ姿の男が足元にひざまずき、恍惚の表情で己のペニスにすがりつく背徳的な光景に。
男のペニスは完全に立ち上がった。その威容には、同じ男だからこそ畏敬の念すら覚える。剥けきった亀頭の段差は高く、竿をのたうつ太い血管は大樹を這う蛇のようだ。握りこむ指が届かないほどに中太りした胴体は圧巻だった。そして、目を見張るほどの長大さ――。僕は思わず生唾を飲みこんだ。
「ご主人様……」
蚊が鳴くような声で囁いてみる。ご主人様――陳腐だと笑うかもしれない。でも、僕には服従すべき支配者を言い表す言葉をそれしか持っていなかったのだ。何度も妄想はしていたが、実際に口にすると、興奮で頭がおかしくなりそうだった。袋と竿の境い目に忠誠を誓うように恭しく口づける。唇に当たる皮膚が火傷しそうに熱い。
口を大きく開き、舌全体で裏筋を舐め上げた。しょっぱいような、苦いような、それでいてひどく欲情を掻き立てる味が口いっぱいに広がる。シリコンとは違うと五感が興奮気味に訴える。いつしか僕は、鼻先や頬、額に当たるのも構わず、無我夢中になって飢えた犬にようにがっついて、ただただ目の前の雄を舐め回していた。
「くすぐってえよ。舌先尖らせな」
何かが頭に当たり、僕はようやく我に返る。男の手だった。額に前髪がはらりと落ちたのを感じる。大きな手がセットした僕の髪を梳き、後頭部に添えられていた。指先が首筋をかすかに這う。ぞわりと立った鳥肌が、自分でもどの感情によるものか、もう分からなかった。
「はあっ……」
言われたとおりに舌先を固く尖らせ、くっきりと浮き出た裏筋を舐め上げた。よくできた、と言うかのように、髪にさしいれられた男の指が頭皮を甘く撫でる。
もっと、もっと――。ただその思いだけがあった。僕は思い切って巨大な雄の先端を口内に導き入れる。それだけでも顎が外れそうだ。だが、口淫に関しては何度もディルドで試した一日の長がある。
「いいぞ。うまいじゃねえか」
褒められた。うれしい。歯を立てないようにしながら、舌先をくねらせ、張ったエラを前後にこそぐ。溢れた涎が口端から垂れ落ちたが拭う余裕はなかった。息苦しい。顎が痛い。だがそれ以上に、ふわふわと酔っ払ったような多幸感で頭がいっぱいになっていた。
「ふっ、ふっ、ふっ……」
じゅるじゅると吸いつきながら、先端を前後する。その度に、張り出したエラが上顎や喉奥をこすり、未知の快感がぞくぞくと背筋を駆け抜けていく。ディルドでこんな風に感じたことはなかった。口の中をこすられているだけなのに、どうしてこんなに気持ちがいいのか分からない――。
「ちんぽ舐めてるだけで勃ったのか?」
「ああっ……!」
突然の直接的な快感に、僕はとっさに口を離し、思わず座りこんだ。毛足の長いラグにばたばたと涎が落ちる。薄汚れたスニーカーの爪先が膝の間に見えた。男の足がスラックスの中でがちがちに昂っていた僕の屹立を撫で上げたのだ。ラグに手をつき、僕は涙目で男を見上げた。
「はあっ、あ……」
「本当にとんだドMだなぁ、あんた」
「ああぁぁっ……!」
男の目が楽しげに細まり、小汚いスニーカーの爪先が下から上へと僕の股間を撫で上げた。瞬間、歓喜が身体を走り抜け、腰がかくかくと勝手にわなないた。止められない。下半身が溶けたように熱い。
「はぁっ、はぁ、っ……」
自分でもどういう状況か分からず、困惑と――それをはるかに上回る快感に、目を見開いたまま、ただ僕は震えていた。内腿が何だか冷たい。じわじわと下着が濡れていく感覚。そして、彼の言葉が煮えたぎった脳にようやく届き、僕は自分が下着の中に射精していたことにやっと気づいた。
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