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飴と鞭
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俺は片山の車の助手席に座り、一人帰りを待っていた。途中スーパーに寄ると言い、俺を残して片山は店の中に消えた。俺はどうすることもできず、絶望のまま助手席で待つことしかできない。
片山が何を考えているのか、俺には全く分からない。言われるままに車に乗り、目的も何も教えてもらえぬままにここまでついてきた。担当の頃に厚意に甘えて無理を通したりしたことが積もり積もって爆発したのだろうか。憎しみの発露。辱めと屈辱。俺は息苦しさに溜め息をついた。
ガチャリと音がし、トランクが開閉する振動が身体に伝わる。俺とは正反対に上機嫌な片山が運転席に乗り込んできた。手に提げていた何かが入ったビニール袋を後部座席に投げ入れ、慣れた手つきで車を出す。カーステレオがアンビエントな曲を奏でた。
「……どこに行くんですか」
「吉岡さん、明日お休みですよね」
うきうきした声で片山が聞き返す。ええ、一応、と俺は沈んだ声で答えた。それとも土曜も出勤で、と嘘をつくべきだったかと気づいたが今更遅い。片山が嬉しげに笑う。
「それならじっくり時間をかけられますね」
何を、と聞く勇気は俺にはなかった。じっとりと冷や汗をかきながら、俺はおとなしく窓の外の流れる景色を虚しく眺めていた。太い国道を走り、車は住宅街へと入っていく。
「僕の家にご招待しようと思いましてね」
「はあ……」
困惑する俺を後目に車は複雑な道を辿り、とあるマンションの地下へと吸い込まれていく。俺は一体何をされるのだろう。過剰なストレスで鳩尾がしくしくと痛む。助手席のドアが開き、片山が満面の笑みで手を差し伸べていた。どうするべきかまごついていると、強引に腕を取られ、車から降ろされた。生乾きの革靴が素足に気持ち悪かった。
トランクを開けると食材の入ったスーパーの袋を手渡された。意外な荷物に目を白黒させていると、片山はマンションに繋がる扉を開けて俺を待っていた。俺は小走りに近づき、中に入った。
二人して無言のままエレベーターに乗り込む。俺の気持ちとは裏腹に明るい廊下を歩かされ、誰にも会うことなく突き当たりの部屋に通された。ファミリー向けの4LDKだ。いい部屋に住んでやがる。俺は促されるままに持っていた荷物を片山に渡し、所在無げにリビングに佇んだ。
「吉岡さん、パスタ好きですか?」
「……はあ」
訝しげに眉をひそめ、俺は答えた。片山が食材を冷蔵庫に詰めながら笑う。
「そうですか、それは良かった。ソースはレトルトですけど、これから茹でますね」
それと、と片山が俺に何かを手渡した。袋には男性用下着と書かれ、二枚組の灰色のボクサーパンツが入っていた。思わず片山を見る。
「どうぞ、差し上げます。ノーパンのままっていうのも気持ち悪いでしょう。履いてきてください」
俺は何と言っていいのか分からず、すみません、ともごもご呟きトイレを借りた。ぶかぶかの作業着の中で擦れたりぶらぶらしたりと気持ち悪かったのだ。ありがたく頂戴し、下着に足を通した。少し人間らしさを取り戻し、俺は溜め息をついた。しかし片山が何を考えているのか分からない。本気で分からない。
とりあえず作業着を再度着用してリビングに戻ると、座って待っててください、と上機嫌にキッチンカウンターから片山が笑った。カウンター前の椅子に遠慮がちに腰をかけると、目の前に茶の入ったコップが置かれた。俺はあの二の舞はごめんだと、コップから目を逸らす。無理だとは分かっていても、二度と水分など取りたくない気分だった。部屋に響くスパゲティの茹だる音や換気扇が回る騒音を聞くともなしに聞きながら、俺は居心地悪く椅子の上で固まっていた。
しばらくして、コトリと音を立て、旨そうなスパゲティの盛られた皿が俺の目の前に置かれた。湯気を立て、食欲をそそるトマトソースの匂いが胃を刺激する。自分の皿を片手に、ワイシャツの腕をまくった片山が隣の席に座り、フォークを差し出してきた。
「さあ、いただきましょう」
「……いいんですか」
「どうぞ、召し上がれ」
にこやかに笑い、片山がフォークでくるくると麺をすくう。俺は複雑な思いで目の前のスパゲティを食べ始めた。肉が多めのソースは旨いが辛い。後からヒリヒリくる辛さに、俺はさっきの思いなど忘れてごくごくと冷たい茶を飲んだ。片山がその様子をじっと見てるのに気づき、俺は気まずさに目を彷徨わせた。
「……ちょっと、辛いですね」
「おや、辛いのはお嫌いですか?」
「いえ、苦手ではないです」
「おかわりもありますよ。遠慮なくどうぞ」
そう言うと、片山は空になったコップにタンブラーから茶を注いだ。どう対応していいのか分からない。片山は何を考えているのか。今のように友好的だったり、さっきの会議室でのように威圧的だったり、まるで分からない。俺はミネラルウォーターを飲む片山をちらちらと見ながら進まない食事を続けた。
あらかた皿が空になり、腹も満ちた。片山は上機嫌で皿を片付け始めたが、俺は相変わらず居心地悪く椅子に座り続けていた。カウンターから片山が気軽な口調で俺に声をかけた。
「じゃ、腹も膨れたことだし、脱いでください」
「えっ」
聞き違い、のわけがなかった。片山はシンクに手をつき、口元を歪め、ぎらぎらした目でこちらを見つめていた。肉食獣を前にした獲物とはこんな気持ちなのだろうか。震える足で椅子から立ち上がる。
「ここで、ですか」
「そうですね。作業着だけ脱いでください」
さっき食べたものをぶちまけそうだった。何がしたいんだ。分からない。上着を椅子にかけ、ぶかぶかのズボンを脱ぐ。緩んだネクタイをぶら下げたワイシャツと、さっき履いたばかりのボクサーパンツという何とも間の抜けた格好で俺はリビングに立ち尽くす。
「細いなぁ、吉岡さん。ちゃんと食べてます?」
くすくすと笑いながら片山が俺の腰に手を回し、リビングから連れ出した。よろよろと歩き出して俺は気付く。また激しい尿意が膀胱を膨らませていたのだった。嘘だろ? たったコップ一杯茶を飲んだだけだぞ?俺は廊下で足を踏ん張らせ、片山の腕を引いた。振り返った片山に必死に言い募る。
「……ト、トイレに、行かせてくださいっ! お願いします……!」
きょとんと俺を見た後、片山は相好を崩した。
「いいですよ」
あっさりと言う片山に拍子抜けした。俺の手をぐいぐい引っ張る片山が開けた扉の先は洗面所だった。さっき借りたトイレの扉を通り過ぎたというのに、片山の言葉を疑いもせず、安堵すら覚えていた俺という男は本当に馬鹿だと思う。片山は風呂場の扉を開け、俺を突き飛ばすように中に押し込んだ。
「ここがあなたのトイレです」
片山が何を考えているのか、俺には全く分からない。言われるままに車に乗り、目的も何も教えてもらえぬままにここまでついてきた。担当の頃に厚意に甘えて無理を通したりしたことが積もり積もって爆発したのだろうか。憎しみの発露。辱めと屈辱。俺は息苦しさに溜め息をついた。
ガチャリと音がし、トランクが開閉する振動が身体に伝わる。俺とは正反対に上機嫌な片山が運転席に乗り込んできた。手に提げていた何かが入ったビニール袋を後部座席に投げ入れ、慣れた手つきで車を出す。カーステレオがアンビエントな曲を奏でた。
「……どこに行くんですか」
「吉岡さん、明日お休みですよね」
うきうきした声で片山が聞き返す。ええ、一応、と俺は沈んだ声で答えた。それとも土曜も出勤で、と嘘をつくべきだったかと気づいたが今更遅い。片山が嬉しげに笑う。
「それならじっくり時間をかけられますね」
何を、と聞く勇気は俺にはなかった。じっとりと冷や汗をかきながら、俺はおとなしく窓の外の流れる景色を虚しく眺めていた。太い国道を走り、車は住宅街へと入っていく。
「僕の家にご招待しようと思いましてね」
「はあ……」
困惑する俺を後目に車は複雑な道を辿り、とあるマンションの地下へと吸い込まれていく。俺は一体何をされるのだろう。過剰なストレスで鳩尾がしくしくと痛む。助手席のドアが開き、片山が満面の笑みで手を差し伸べていた。どうするべきかまごついていると、強引に腕を取られ、車から降ろされた。生乾きの革靴が素足に気持ち悪かった。
トランクを開けると食材の入ったスーパーの袋を手渡された。意外な荷物に目を白黒させていると、片山はマンションに繋がる扉を開けて俺を待っていた。俺は小走りに近づき、中に入った。
二人して無言のままエレベーターに乗り込む。俺の気持ちとは裏腹に明るい廊下を歩かされ、誰にも会うことなく突き当たりの部屋に通された。ファミリー向けの4LDKだ。いい部屋に住んでやがる。俺は促されるままに持っていた荷物を片山に渡し、所在無げにリビングに佇んだ。
「吉岡さん、パスタ好きですか?」
「……はあ」
訝しげに眉をひそめ、俺は答えた。片山が食材を冷蔵庫に詰めながら笑う。
「そうですか、それは良かった。ソースはレトルトですけど、これから茹でますね」
それと、と片山が俺に何かを手渡した。袋には男性用下着と書かれ、二枚組の灰色のボクサーパンツが入っていた。思わず片山を見る。
「どうぞ、差し上げます。ノーパンのままっていうのも気持ち悪いでしょう。履いてきてください」
俺は何と言っていいのか分からず、すみません、ともごもご呟きトイレを借りた。ぶかぶかの作業着の中で擦れたりぶらぶらしたりと気持ち悪かったのだ。ありがたく頂戴し、下着に足を通した。少し人間らしさを取り戻し、俺は溜め息をついた。しかし片山が何を考えているのか分からない。本気で分からない。
とりあえず作業着を再度着用してリビングに戻ると、座って待っててください、と上機嫌にキッチンカウンターから片山が笑った。カウンター前の椅子に遠慮がちに腰をかけると、目の前に茶の入ったコップが置かれた。俺はあの二の舞はごめんだと、コップから目を逸らす。無理だとは分かっていても、二度と水分など取りたくない気分だった。部屋に響くスパゲティの茹だる音や換気扇が回る騒音を聞くともなしに聞きながら、俺は居心地悪く椅子の上で固まっていた。
しばらくして、コトリと音を立て、旨そうなスパゲティの盛られた皿が俺の目の前に置かれた。湯気を立て、食欲をそそるトマトソースの匂いが胃を刺激する。自分の皿を片手に、ワイシャツの腕をまくった片山が隣の席に座り、フォークを差し出してきた。
「さあ、いただきましょう」
「……いいんですか」
「どうぞ、召し上がれ」
にこやかに笑い、片山がフォークでくるくると麺をすくう。俺は複雑な思いで目の前のスパゲティを食べ始めた。肉が多めのソースは旨いが辛い。後からヒリヒリくる辛さに、俺はさっきの思いなど忘れてごくごくと冷たい茶を飲んだ。片山がその様子をじっと見てるのに気づき、俺は気まずさに目を彷徨わせた。
「……ちょっと、辛いですね」
「おや、辛いのはお嫌いですか?」
「いえ、苦手ではないです」
「おかわりもありますよ。遠慮なくどうぞ」
そう言うと、片山は空になったコップにタンブラーから茶を注いだ。どう対応していいのか分からない。片山は何を考えているのか。今のように友好的だったり、さっきの会議室でのように威圧的だったり、まるで分からない。俺はミネラルウォーターを飲む片山をちらちらと見ながら進まない食事を続けた。
あらかた皿が空になり、腹も満ちた。片山は上機嫌で皿を片付け始めたが、俺は相変わらず居心地悪く椅子に座り続けていた。カウンターから片山が気軽な口調で俺に声をかけた。
「じゃ、腹も膨れたことだし、脱いでください」
「えっ」
聞き違い、のわけがなかった。片山はシンクに手をつき、口元を歪め、ぎらぎらした目でこちらを見つめていた。肉食獣を前にした獲物とはこんな気持ちなのだろうか。震える足で椅子から立ち上がる。
「ここで、ですか」
「そうですね。作業着だけ脱いでください」
さっき食べたものをぶちまけそうだった。何がしたいんだ。分からない。上着を椅子にかけ、ぶかぶかのズボンを脱ぐ。緩んだネクタイをぶら下げたワイシャツと、さっき履いたばかりのボクサーパンツという何とも間の抜けた格好で俺はリビングに立ち尽くす。
「細いなぁ、吉岡さん。ちゃんと食べてます?」
くすくすと笑いながら片山が俺の腰に手を回し、リビングから連れ出した。よろよろと歩き出して俺は気付く。また激しい尿意が膀胱を膨らませていたのだった。嘘だろ? たったコップ一杯茶を飲んだだけだぞ?俺は廊下で足を踏ん張らせ、片山の腕を引いた。振り返った片山に必死に言い募る。
「……ト、トイレに、行かせてくださいっ! お願いします……!」
きょとんと俺を見た後、片山は相好を崩した。
「いいですよ」
あっさりと言う片山に拍子抜けした。俺の手をぐいぐい引っ張る片山が開けた扉の先は洗面所だった。さっき借りたトイレの扉を通り過ぎたというのに、片山の言葉を疑いもせず、安堵すら覚えていた俺という男は本当に馬鹿だと思う。片山は風呂場の扉を開け、俺を突き飛ばすように中に押し込んだ。
「ここがあなたのトイレです」
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