飴と鞭

真鉄

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飴と鞭

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「約束ですからね」

  片山は嬉しげに笑うと、じゃあちょっと待っててください、と俺を一人残して会議室を出て行った。一人きりになった会議室はしんと静まり返り、空調とかすかに聞こえる人の声がやたらと気になった。もしかしたら誰か来るかもしれない。ノブを見たが内鍵はついていなかった。俺は洟をすすりながら、薄いドアに貼り付いて耳をそばだてた。

  不安だった。他人の会社。小便で濡れた服。ひとりきり。立ち去ることもできない。全てが俺を不安にさせた。早く片山に帰ってきて欲しかった。寂しさに震えながら、扉の前で立ちすくむことしかできなかった。

  何分経っただろう。こつこつと靴音が近づいてくる。片山だろうか。もし違ったら。次に会議室を使う予定があるやつだったりしたら。コンコンと硬い音がしたが、ノブを握りしめたまま俺は何も答えられなかった。心臓がばくばくと鳴っている。

「……吉岡さん、開けますよ」

  ドアの外から聞こえた片山の声に、俺は殺していた息を吐き、ノブを回した。そこには紙袋を持った片山が立っていた。するりと中に入り込み、安心させるように片山が微笑む。俺は安堵して泣いた。声を押し殺し、眼鏡を上げて止まらない涙を拭う。

「もう大丈夫ですからね。これ、僕の作業着なんですけど、使ってください」

  机の上に紙袋から取り出した水色の上下を置き、俺の足元に数枚の雑巾を落とした。灰色の雑巾が俺が漏らした小便を吸って黒く染まっていく。タイルの上だったのが不幸中の幸いだったかもしれない。俺は涙を拭い、頭を下げた。

「……何から何まで、申し訳ありません」
「いいんですよ。さあ、着替えて」

  片山は腕を組んだままにこやかに笑っていた。その姿に違和感を覚えつつ、俺は引きつった笑いを浮かべて作業着を手に取る。しかし、反対側の部屋の隅に移動しようとした俺を片山が止めた。

「そこで着替えてください」
「え……」

  俺と片山の間に遮るものは何もない。にこにこと笑ったままの片山に困惑の視線を送ったが、貼り付いたような笑顔のまま片山は言った。

「早く脱いでくださいよ」

  俺は羞恥に頬を燃やし、片山を睨みつけた。こいつ、どういうつもりなんだ。そんな俺を見て、片山はおもむろにスマホを取り出し、固まったままの俺に笑う。

「早く」

  完全に脅迫だった。鳩尾に重く冷たい塊が居座る。俺は震える足を動かし、濡れた靴を脱いだ。ぴちゃりと濡れた靴下がタイルを踏む。机の上にビニール袋を広げ、片山が指さす。

「どうぞ。濡れたものはこちらに」

  俺は濡れた靴下を脱ぎ、袋の中に落とした。べちゃ、と湿った音が耳を刺す。迷う手でベルトに手をかけ、恐る恐る片山を伺う。微笑した片山がスマホを振った。

「早くしないと次の会議の人が来ちゃうかもしれませんよ」

  俺は羞恥に固く目をつぶり、濡れたスラックスを引き下ろした。濡れた部分をなるべく内側に折りたたみ、袋に入れる。下着に手をかけ、情けなさに俺は泣いた。

「早く脱いでください。身体も綺麗にしないといけませんからね」

  片山はスマホをポケットにしまうと、机の上に置いてあった濡れタオルを見た。準備周到なことだ。まるで社内でおもらししたときのマニュアルでもあるかのようだ。俺は過呼吸のような息をつき、ぐっしょりと濡れた下着を下ろし、足を抜いた。ワイシャツで何とか隠れてはいるが、こんなところでまさか下半身を剥き出しにするようなことがあろうとは、誰も想像などすまい。

  コツ、と足音がし、目を開けると片山が俺の前にタオル片手に跪いていた。心臓がギュンと縮む。

「なっ、何して……!」
「拭かないとおしっこ臭いじゃないですか。ほら、脚を開いてくださいよ」
「じぶ、自分でやります!」

  駄目です。片山は唇を吊り上げた。俺は震えた。羞恥と恐怖がい交ぜになっていた。唾を一つ飲む。目の前の男が何を考えているのかわからなかった。辱めたいのか。俺はこの男にそれほど憎まれることをしたのだろうか。

「ほら、ワイシャツ持ってください。拭けないでしょう」

  俺は震える手でワイシャツを腹の辺りまでたくし上げた。縮こまった性器が片山の眼前で震える。片山は微笑すると濡れタオルでそっと俺のペニスを包み込んだ。

「……っ」

  やわやわと冷たいタオルが肉茎を擦る。先端をぐりぐりとタオルで擦られ、陰嚢を柔らかく拭かれた。他人に急所を掴まれて息を殺す。俺の様子を観察していた片山と目が合い、弾かれたように目を逸らした。くく、と片山の笑い声が漏れ、羞恥に耳まで熱くしながら俺は再び固く目を閉じた。濡れタオルが内腿を撫で、膝、脹脛ふくらはぎと清めていく。

「足、上げてください」

  言われた通り、そっと足を上げると、足の裏と指の間まで丁寧に拭かれた。もう片脚も同様に清められ、俺は大きな溜め息をついた。終わった、と安堵してワイシャツから手を離した時、片山が落ちたワイシャツの裾に顔を突っ込んだ。

「な、何……」

  すんすんと鼻を鳴らす音がする。股間の臭いを嗅いでいるのだ。俺は生まれてこのかた感じたこともないほどの羞恥に気が遠くなった。

「おしっこ臭いまま着られても困りますんでね。それでなくとも替えの下着まではないわけですし」

  片山はそう言って笑うと、興味をなくしたように汚れた床の掃除を始めた。濡れた靴に乾いた雑巾を突っ込み、立ち尽くす俺に笑う。

「服、着たらどうです」

  俺は無言で片山の作業着に足を通した。パンツなしでズボンを履くなど違和感しかなかったが仕方がない。ぶかぶかのウエストと余った裾が惨めさに拍車をかけた。汚れた床を拭き終えた片山が雑巾を片付けて立ち上がった。紙袋からペットボトルを取り出して蓋を開け、床に少し撒いた。強い葡萄の匂いがした。

「これでごまかせるか分かりませんが、ジュースをこぼしたということにしておきましょう。後は清掃の方が何とかしてくれるでしょう」

  靴に突っ込んでいた雑巾で再度ジュースを軽く拭き、片山は笑った。俺も追従するように弱々しく笑う。片山が俺のちぐはぐな姿を見て首を振った。

「上も作業着にした方が目立たないと思いますよ」

  それもそうかと背広を脱ぎ、ワイシャツの上から大きめの作業着を着込んだ。他人の匂いに包まれむず痒い。紙袋に汚れ物を入れたビニール袋を詰め、背広は迷った末に手に持つことにした。俺は荷物を手に片山に頭を下げた。妙な真似はされたが、助けてもらったことには変わりないのだ。

「……本当に、何から何までありがとうございました。どうお礼をしたらいいか」
「お礼なんてとんでもないですよ」

  片山は笑った。目を細め、心の底から楽しそうに。

「まだ終わってないんですから」
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