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飴と鞭
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「こちら、ほんのお詫びの気持ちです。よろしければお納め下さい」
手にした菓子折りを向かいの片山に渡し、俺は居心地悪げに固い椅子に座り直した。申し訳ないが急なことで応接室が空いていなかった、と通されたのはごく小さな会議室だった。長机と椅子が四脚しかなく、恐らく社内会議をするための部屋なのだろう。
どうも、と片山が菓子折りを受け取り、手元に準備されていた急須からお茶を入れてくれた。俺はありがたく受け取り、一気に飲み干した。緊張でひどく喉が渇いていたのだ。
「どうぞ、よければもう一杯」
片山は優しげに笑うと空になった湯飲みにすかさず注いでくれた。俺は何故かその笑顔に寒気を覚え、ごまかすように湯飲みを空にした。後味の苦いお茶だった。しかし不思議だ。一体、片山の何に対して俺は嫌悪感を抱いているのか。見た目は清潔そうなイケメンで、態度だって柔らかで人当たりがよく、嫌う要素などどこにもないはずなのに。
しかし、今はそんなことはどうでもいい。まずは平身低頭謝った。というより、謝る他なかった。片山はここ一ヶ月でクソ新人から受けた数々の仕打ちをぶちまけ始めた。不本意ながら身内の立場にある者として、失礼極まりない非礼の数々に俺は粛々と頭を下げた。
――……おい、おいまずいぞ。
申し訳ない気持ちは山のようにあるし、ここで失敗するわけにはいかないことも分かっている。だというのに、急に突き上げるような尿意が湧いてきたのだ。冗談じゃないぞ、ふざけてんのか。俺はぐっと丹田と内腿に力を入れ、尿意を堰き止める。ちょっとトイレに、なんてこの状況で言えるわけがない。
「それで? 御社は今回のことをどのようにお考えなのですか」
「ええ、その、彼には担当を降りてもらいまして、そちらさえよろしければ、また私が、その、担当を持たせていただきたいと思っているのですが……」
課長から言われた弥縫策をしどろもどろで口にしながら下げていた頭を上げ、片山の顔を見る。片山はガラス玉のような大きな目でじっとこちらを見ていた。背筋に悪寒が走る。この目だ。俺は恐らくこの目が苦手なのだ。口元はにこやかなのに、よく見ると目は一切笑っていなかったのだ。蛇に睨まれた蛙のように、俺は脂汗を流した。膀胱が内側からつんつんと刺すような疼痛を訴えてくる。もう我慢も限界だった。
「あのっ」
「そうですね、では――。ん、何か?」
「あ、いえ……。何でも……ありません」
最悪のタイミングで言葉が被ってしまった。俺は機会を逸して黙り込む。じっとこちらを見つめたまま片山が湯飲みを口にした。異様な喉の渇きに俺は思わず舌で唇を湿す。汗を拭いたハンカチを固く握り込み、ひたすら排泄欲に耐える。気分が悪そうですね、とか何か言えよと心の中で片山に当たり散らすことしかできない。
「――吉岡さんのお願いでしたら仕方がないですね。彼のことは不問にしましょう。その代わり、これからも末長くよろしくお願いいたします」
「はいっ! もちろんです! ありがとうございます!」
俺は勢い込んで片山の言葉に食いついた。話が上手く片付いた、ということも大きいが、何よりもトイレに行ける、という喜びの方が今は勝っていた。それではよしなに、と引きつった顔で立ち上がり、ドアノブに手をかけたところに背後から片山が声を掛けてきた。
「すみません吉岡さん、カタログがまだなんですが――」
しまった、と思った時には遅かった。再び上塗りしてしまった失敗に気を取られ、身体の緊張が緩んだ。しょろ……と身体の中で音がしたような気がした。
「あっ、あ、違……」
俺は思わず営業鞄を吹っ飛ばし、咄嗟に股間を押さえた。どうしたんですか、と遠くで片山の声がする。じわりと手が濡れていく。
嘘だ。
嘘だ。
どくどくと頭の中で鼓動がうるさい。しゅうしゅう……しょろろろ、と温かい液体が脚を伝い落ちて行くのが分かる。止まらない。止められない。解放感と絶望感の中、スラックスがじわじわと色を変えていくのが目に映った。俺はただ恥に苛まれ、濡れた股間を押さえて立ち尽くす。革靴の中が濡れ、タイルの床に黄色い水溜りが広がっていくのをただ呆然と見つめていた。
「……も、申し訳、ありませ……」
かろうじて喉を震わせ、出た言葉がそれだ。床を見つめる俺の視界に片山の革靴が目に入った。涙目で顔を上げたところに、パシャッ、と硬い音が降りかかる。俺の目から一粒涙がこぼれ落ちた。片山がスマホを構え、俺の醜態を写真に収めたのだ。
「あ……」
信じられない思いで目の前の片山を凝視する。片山は目を細め、実に、実に嬉しそうな顔で笑った。呆然とする俺を執拗に撮り続ける片山の姿に恐怖を覚え、冷たく濡れたスラックスを脚に纏わせ、アンモニア臭の漂う中、懸命に身を隠そうと壁に身を寄せた。
「……困りますねぇ吉岡さん。謝罪に来た会社でおもらしってどういうつもりなんですか? これはもう、そちらの会社に報告しないと駄目ですよねえ」
片山は嘲るような口調でスマホの画面をこちらに見せつけた。髪を乱した眼鏡の男が痩せた体に濡れたスラックスを貼りつかせ、股間を押さえて無様に泣いているその姿。背筋がぶるりと震えた。こんなものが会社の人間に知れたら――俺はもう完全におしまいだ。
「お願いですっ! それだけはやめてください! お願いします! お、お願いします……っ!」
濡れた手ですがることもできず、濡れた床に膝をつくこともできず、俺はただ泣きながら頭を下げるしかなかった。片山のつま先がパタ、パタと床を叩く。そうですねぇ……、と片山が面白そうに呟いた。
「僕、吉岡さんのお願いは聞いてあげたくなるんですよねぇ。――じゃあ、代わりに僕の言うこと、聞いてくれますか?」
ガラス玉のようだった片山の瞳は、うってかわってギラギラとした光を湛えて俺を凝視していた。俺は場に飲まれたように頷くことしかできなかった。
「何でも聞くんですよ?」
「はい……」
手にした菓子折りを向かいの片山に渡し、俺は居心地悪げに固い椅子に座り直した。申し訳ないが急なことで応接室が空いていなかった、と通されたのはごく小さな会議室だった。長机と椅子が四脚しかなく、恐らく社内会議をするための部屋なのだろう。
どうも、と片山が菓子折りを受け取り、手元に準備されていた急須からお茶を入れてくれた。俺はありがたく受け取り、一気に飲み干した。緊張でひどく喉が渇いていたのだ。
「どうぞ、よければもう一杯」
片山は優しげに笑うと空になった湯飲みにすかさず注いでくれた。俺は何故かその笑顔に寒気を覚え、ごまかすように湯飲みを空にした。後味の苦いお茶だった。しかし不思議だ。一体、片山の何に対して俺は嫌悪感を抱いているのか。見た目は清潔そうなイケメンで、態度だって柔らかで人当たりがよく、嫌う要素などどこにもないはずなのに。
しかし、今はそんなことはどうでもいい。まずは平身低頭謝った。というより、謝る他なかった。片山はここ一ヶ月でクソ新人から受けた数々の仕打ちをぶちまけ始めた。不本意ながら身内の立場にある者として、失礼極まりない非礼の数々に俺は粛々と頭を下げた。
――……おい、おいまずいぞ。
申し訳ない気持ちは山のようにあるし、ここで失敗するわけにはいかないことも分かっている。だというのに、急に突き上げるような尿意が湧いてきたのだ。冗談じゃないぞ、ふざけてんのか。俺はぐっと丹田と内腿に力を入れ、尿意を堰き止める。ちょっとトイレに、なんてこの状況で言えるわけがない。
「それで? 御社は今回のことをどのようにお考えなのですか」
「ええ、その、彼には担当を降りてもらいまして、そちらさえよろしければ、また私が、その、担当を持たせていただきたいと思っているのですが……」
課長から言われた弥縫策をしどろもどろで口にしながら下げていた頭を上げ、片山の顔を見る。片山はガラス玉のような大きな目でじっとこちらを見ていた。背筋に悪寒が走る。この目だ。俺は恐らくこの目が苦手なのだ。口元はにこやかなのに、よく見ると目は一切笑っていなかったのだ。蛇に睨まれた蛙のように、俺は脂汗を流した。膀胱が内側からつんつんと刺すような疼痛を訴えてくる。もう我慢も限界だった。
「あのっ」
「そうですね、では――。ん、何か?」
「あ、いえ……。何でも……ありません」
最悪のタイミングで言葉が被ってしまった。俺は機会を逸して黙り込む。じっとこちらを見つめたまま片山が湯飲みを口にした。異様な喉の渇きに俺は思わず舌で唇を湿す。汗を拭いたハンカチを固く握り込み、ひたすら排泄欲に耐える。気分が悪そうですね、とか何か言えよと心の中で片山に当たり散らすことしかできない。
「――吉岡さんのお願いでしたら仕方がないですね。彼のことは不問にしましょう。その代わり、これからも末長くよろしくお願いいたします」
「はいっ! もちろんです! ありがとうございます!」
俺は勢い込んで片山の言葉に食いついた。話が上手く片付いた、ということも大きいが、何よりもトイレに行ける、という喜びの方が今は勝っていた。それではよしなに、と引きつった顔で立ち上がり、ドアノブに手をかけたところに背後から片山が声を掛けてきた。
「すみません吉岡さん、カタログがまだなんですが――」
しまった、と思った時には遅かった。再び上塗りしてしまった失敗に気を取られ、身体の緊張が緩んだ。しょろ……と身体の中で音がしたような気がした。
「あっ、あ、違……」
俺は思わず営業鞄を吹っ飛ばし、咄嗟に股間を押さえた。どうしたんですか、と遠くで片山の声がする。じわりと手が濡れていく。
嘘だ。
嘘だ。
どくどくと頭の中で鼓動がうるさい。しゅうしゅう……しょろろろ、と温かい液体が脚を伝い落ちて行くのが分かる。止まらない。止められない。解放感と絶望感の中、スラックスがじわじわと色を変えていくのが目に映った。俺はただ恥に苛まれ、濡れた股間を押さえて立ち尽くす。革靴の中が濡れ、タイルの床に黄色い水溜りが広がっていくのをただ呆然と見つめていた。
「……も、申し訳、ありませ……」
かろうじて喉を震わせ、出た言葉がそれだ。床を見つめる俺の視界に片山の革靴が目に入った。涙目で顔を上げたところに、パシャッ、と硬い音が降りかかる。俺の目から一粒涙がこぼれ落ちた。片山がスマホを構え、俺の醜態を写真に収めたのだ。
「あ……」
信じられない思いで目の前の片山を凝視する。片山は目を細め、実に、実に嬉しそうな顔で笑った。呆然とする俺を執拗に撮り続ける片山の姿に恐怖を覚え、冷たく濡れたスラックスを脚に纏わせ、アンモニア臭の漂う中、懸命に身を隠そうと壁に身を寄せた。
「……困りますねぇ吉岡さん。謝罪に来た会社でおもらしってどういうつもりなんですか? これはもう、そちらの会社に報告しないと駄目ですよねえ」
片山は嘲るような口調でスマホの画面をこちらに見せつけた。髪を乱した眼鏡の男が痩せた体に濡れたスラックスを貼りつかせ、股間を押さえて無様に泣いているその姿。背筋がぶるりと震えた。こんなものが会社の人間に知れたら――俺はもう完全におしまいだ。
「お願いですっ! それだけはやめてください! お願いします! お、お願いします……っ!」
濡れた手ですがることもできず、濡れた床に膝をつくこともできず、俺はただ泣きながら頭を下げるしかなかった。片山のつま先がパタ、パタと床を叩く。そうですねぇ……、と片山が面白そうに呟いた。
「僕、吉岡さんのお願いは聞いてあげたくなるんですよねぇ。――じゃあ、代わりに僕の言うこと、聞いてくれますか?」
ガラス玉のようだった片山の瞳は、うってかわってギラギラとした光を湛えて俺を凝視していた。俺は場に飲まれたように頷くことしかできなかった。
「何でも聞くんですよ?」
「はい……」
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