飴と鞭

真鉄

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飴と鞭

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  あなたのところとの取り引きは無しにしたい。そういう旨の電話が掛かってきたのは金曜の午後、今週一週間長かったなあお疲れさん、と本来なら後数時間もすれば解放感に浸れるはずの昼下がりだった。

「と、突然どうされたんですか!? 何かありましたか!?」

  勢い込んで声をひっくり返して叫ぶと、周りにいた他の営業や課長も何事かと集まってきた。俺は全身の血の気が引いてそれどころではない。一気に噴き出した汗で滑った眼鏡を掛け直す。

  この取引先は以前俺が受け持っていたところで、その時は円満な取引をしていた。今こうして怒りの電話をかけてきている担当バイヤーの片山は、どうも俺を気に入っていたらしく、吉岡さんのお願いなら仕方ないですねと過去何度も無理を聞いてもらった。俺自身は何故か片山が苦手だったのだが、仕事と割り切って付き合う分には支障はなかった。寧ろ、片山の何が苦手なのか自分でも分からないのが不思議だった。

  その取引先を現在担当しているのが一年目の新人だった。俺がOJTを務めたが、まあこれがまた正直どうしようもない男だ。遅刻はする、欠勤はする、仕事はできないくせに妙な自信だけは持っており、いい返事だけが得意というカス。だがうちの会社で二番目に権力を握っている部長のコネで入ってきたという話で、邪険にもできないという地獄のような状況だった。

  上に言われるままに取引先をクソ新人に引き継いで一ヶ月。そこそこの取引先を取られた俺は予算を埋めるために新規獲得に奔走していたというのに、あのクソ野郎はいつも通りポカをやらかしたわけだ。青くなりつつ社員全員のスケジュールを覗くと、新人は片山の会社に訪問していることになっていた。

「……うちの者が何か粗相をやらかしてしまったのでしょうか」
「……アポは二時なのに、一向に来ないんですよね」

  俺は時間を確かめる。何度見ても三時手前だった。

「申し訳ありませんっ!」

  新人に電話してとメモを書き、周りで興味津々な顔をした野次馬に突きつける。ああ……と察した顔で同僚が俺の肩を叩いた。あのクソ新人の酷さはこのフロアにいる全員が知っている。何しろパートのお嬢さん方から、あれで給与が自分よりいいのは納得がいかないとご尤もな意見を山のように頂いていた。

「彼、以前からちょこちょこ遅刻するし、肝心のカタログ忘れて適当な値段で交渉しようとしたりして、あんまり信用できてなかったんですけど、さすがに来ないわ連絡もないわってのはね」

  俺の背後で怒鳴り声が聞こえた。お前今どこだ! という同僚の怒号の後、盛大な舌打ちが聞こえた。周りがざわついているが、俺は今目の前の片山をいなすので精一杯だ。

「……返す言葉もございません」
「御社から見たら僕らのところにはこの程度の営業を回しておけばいいと判断されたのかなと思いましてね。それならもうこの取引はなかったことにさせてもらおうと――」
「とんでもない! 今後も御社とは是非取引させていただきたいと思っております!」

  課長がしかめっ面でしきりに自分の顔を指さしているのに気づき、勢いづいて俺は言葉を重ねた。

「申し訳ありませんが、お時間いただけませんでしょうか。課長がそちらに参りまして、お詫びをさせていただきたいと申しております」

  相手側のしばしの沈黙に俺の心臓はもう限界寸前だった。一体何年分の寿命が縮んだやら。あのボケを何度殺しても足りない。ノイズを乗せた片山の大きな溜め息が耳を刺す。

「なら、吉岡さんが誠意を見せてください。そうですね、本日七時、弊社にお越しいただけますか。受付に申しつけておきますので」
「はい! 必ず参ります。申し訳ありませんでした。よろしくお願いいたします!」

  俺は電話の前で何度も頭を下げ、相手が切るまで待ってから受話器を叩きつけた。何故俺がこんな目に。あのクソ新人マジぶっ殺す。眼鏡を外し、冷や汗まみれの顔を撫でた。課長が面倒くさそうな顔で俺を見る。

「で、何時だって?」
「あ、その……、私に誠意を見せて欲しいと言われまして……」
「そうかぁ~。相手さんがそう言うんじゃ仕方ない。ま、吉岡に頑張ってもらうしかないわな」

  課長が明らかに嬉しそうなのが癪に障る。それよりもあのクソ野郎どうなった。電話をしてくれた同僚を見ると、怒り心頭といった表情だ。

「あのボケ、パチンコしてやがった。時間潰しに入ったら思いの外フィーバーして席を離れられなかった、だとよ。もう俺は我慢できないっすよ! 部長にねじ込みましょうよ!」

  あの野郎が存在するだけで会社の損失っすよ! 赤字ちまちま埋めてる俺らがバカみたいじゃねっすか! と烈火の如く怒り狂う同僚の叫びに、フロア全体が同調し、課長に視線が突き刺さる。実際俺も同僚の意見には一言一句同意せざるをえないので、課長には一切同情できなかった。それでなくともこれからの交渉のことで頭がいっぱいだった。
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