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生贄
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手狭な部屋の中を揺らめく蝋燭の炎が照らし出す。クレイグは寝台の側の椅子に腰掛け、アーベル神父が淹れてくれた熱いカモマイルティーを一人啜っていた。ほのかな甘さを口にしながら、落ち着かない様子で神父の私室を見回す。
壁際に置かれた棚の上には小さな香油のガラス瓶と、先ほど渡したカモマイルの花束が活けられた花瓶。後はクレイグが腰掛けている椅子と、何冊かの本の置かれた小さな文机、それに寝台しかない小ざっぱりとした部屋だ。何もおかしいところはない。だが――。
何の匂いだろうか。部屋の中は甘ったるさと生臭さが混ざったような空気が充満していた。実を言うと、足を踏み込んだ瞬間、鼻を突いたこの匂いに思わず眉を顰めてしまった。神父はこの悪臭に気づいていないのだろうか。一体何の匂いなのか、クレイグには想像もつかない。現実から逃げるように茶を口にする。本来ならば林檎に似た甘い香りがするはずなのだが、この匂いの中では全く分からなかった。
ぎぎ、と扉が軋んだのは茶を飲み干してしばらくしてからのことだった。茶を淹れたものの、用があると一人クレイグを残してどこかへ行った神父が戻って来たのだろう。
「神父、様――?」
思わず言葉が途切れた。開き切った扉の奥には闇がわだかまっていた。麻痺した鼻腔にすら感じ取れるほどに濃縮された甘い匂いが吹き付ける。本能的な悪寒に毛を逆立て、クレイグは思わず立ち上がった。目がせわしなく周囲を見渡したが、逃げ道は目の前の扉しかない。静まり返った狭い部屋にクレイグの浅い呼吸音だけが響いた。
「ほう、これが――」
闇の中から、低い、低い声が響く。闇に光る金色の一対の瞳が――そう、あれは眼だ――クレイグを見据え、きゅっと細められた。恐怖に膝が笑い、傾いだ脚に当たって椅子ががたりと硬い音を鳴らす。
「彼の言う捧げ物、というわけか」
捧げ物――。何を、言っているのだろう。混乱の極みに立ち尽くすクレイグの前に、異形が暗闇からその姿を現した。それは手足が異様に長く、かろうじて人型に近いが、その顔はのっぺりと平らで、烱々と光る金の瞳とひび割れのような口だけがあった。屍蝋じみたぬめりを帯びた皮膚は鮮血が凝集したように赤い。その巨体は隆々たる筋肉に覆われており、恐らく人間など容易く引き裂いてしまうだろう。ぺたりと湿った足音を立てて踏み出した足の間からは細く長い尻尾がゆらゆらと揺れていた。
腐ったような甘い匂いと闇を引き連れて、異形がクレイグにゆっくりと近づいてくる。来るな、来るな来るな――クレイグの唇はそう動いたが、恐怖に引きつった喉は呻き声すら漏らせない。それは、今までに村を襲いに来た魔物とも一線を画す、正に「異形」だった。異様に長い指が頬を撫で、クレイグはあまりの恐怖に瘧にかかったようにがくがくと震えた。
「なかなかに美味そうだ」
金色の瞳が、にぃ、と細められ、甘い吐息が顔面に吹きかかる。ひび割れの間から紫色の異様に長い舌がぬるりと這い出し、恐怖にこぼれ落ちんばかりに目を見開いたクレイグの眦を舐め上げた。いつの間にか溢れていた苦い涙を啜り、異形は満足げに笑う。
「――お待ちください」
異形の背後から投げかけられた神父の声。クレイグはすがるように、引き攣る首を伸ばしてそちらを見遣った。扉の前に立つ神父はいつもの穏やかな表情を捨て――。
「しんぷ、さま……」
まるで酒に酔ったように紅潮した頬。熱に浮かされ潤んだ青い瞳。荒い呼吸。常にきっちりと閉じられた長衣は乱れ、ところどころぬめりを帯びた粘液で濡れ光っていた。
「主よ。これで、必ず、村を護ると――お約束くださいますか」
異常な姿に異様な言葉。信じられない思いにクレイグの目が見開かれた。異形はいかにも楽しそうに目を細め、震えるクレイグの頬を長い指で掴むと涙に濡れた頬を舐めあげながら、視線を神父に向かわせくつくつと笑う。
「いいだろう。俺に新たな生贄を捧げる、というのがお前の選択なら、喜んで受け取ろうじゃないか」
生贄――。呼吸を忘れた頭がガンガンと痛んだ。神父は確かに、主にその身を捧げよ、と言った。まさか文字通りの意味だと誰が思おうか。いや、そもそも、神父の言う「主」がまさかこの異形だと言うのか。
「神父様、嘘、でしょう……?」
クレイグの掠れた問いに、神父は目を伏せ、緩やかに首を振った。絶望に虚脱しかけたクレイグを至近距離で金の瞳が射抜く。
「何もしてくれないお前たちの主に代わって、俺が護ってやろうと言うんじゃないか。喜びなさい」
長い指がクレイグの粗末なシャツを容易く引き裂く。ひび割れのような口が裂け、蛇のような紫色の舌がだらりと垂れ下がる。ぼたぼたと滴った涎が、日々の労働で引き締まったクレイグの胸や腹を汚していった。狭くなった視界の中、一対の金が糸のように細めれられる。
「ただ、俺は祈りの代わりにお前たちを食らうがね」
血泡を吹いた馬。くちゃくちゃと濡れた咀嚼音。血で毳立った皺だらけの魔獣の鼻面。クレイグの脳裏に次々と血に塗れた惨状がよぎる。
今から、俺はあの馬のように食われるのだ。
世界が回り、闇が視界を閉ざした。
壁際に置かれた棚の上には小さな香油のガラス瓶と、先ほど渡したカモマイルの花束が活けられた花瓶。後はクレイグが腰掛けている椅子と、何冊かの本の置かれた小さな文机、それに寝台しかない小ざっぱりとした部屋だ。何もおかしいところはない。だが――。
何の匂いだろうか。部屋の中は甘ったるさと生臭さが混ざったような空気が充満していた。実を言うと、足を踏み込んだ瞬間、鼻を突いたこの匂いに思わず眉を顰めてしまった。神父はこの悪臭に気づいていないのだろうか。一体何の匂いなのか、クレイグには想像もつかない。現実から逃げるように茶を口にする。本来ならば林檎に似た甘い香りがするはずなのだが、この匂いの中では全く分からなかった。
ぎぎ、と扉が軋んだのは茶を飲み干してしばらくしてからのことだった。茶を淹れたものの、用があると一人クレイグを残してどこかへ行った神父が戻って来たのだろう。
「神父、様――?」
思わず言葉が途切れた。開き切った扉の奥には闇がわだかまっていた。麻痺した鼻腔にすら感じ取れるほどに濃縮された甘い匂いが吹き付ける。本能的な悪寒に毛を逆立て、クレイグは思わず立ち上がった。目がせわしなく周囲を見渡したが、逃げ道は目の前の扉しかない。静まり返った狭い部屋にクレイグの浅い呼吸音だけが響いた。
「ほう、これが――」
闇の中から、低い、低い声が響く。闇に光る金色の一対の瞳が――そう、あれは眼だ――クレイグを見据え、きゅっと細められた。恐怖に膝が笑い、傾いだ脚に当たって椅子ががたりと硬い音を鳴らす。
「彼の言う捧げ物、というわけか」
捧げ物――。何を、言っているのだろう。混乱の極みに立ち尽くすクレイグの前に、異形が暗闇からその姿を現した。それは手足が異様に長く、かろうじて人型に近いが、その顔はのっぺりと平らで、烱々と光る金の瞳とひび割れのような口だけがあった。屍蝋じみたぬめりを帯びた皮膚は鮮血が凝集したように赤い。その巨体は隆々たる筋肉に覆われており、恐らく人間など容易く引き裂いてしまうだろう。ぺたりと湿った足音を立てて踏み出した足の間からは細く長い尻尾がゆらゆらと揺れていた。
腐ったような甘い匂いと闇を引き連れて、異形がクレイグにゆっくりと近づいてくる。来るな、来るな来るな――クレイグの唇はそう動いたが、恐怖に引きつった喉は呻き声すら漏らせない。それは、今までに村を襲いに来た魔物とも一線を画す、正に「異形」だった。異様に長い指が頬を撫で、クレイグはあまりの恐怖に瘧にかかったようにがくがくと震えた。
「なかなかに美味そうだ」
金色の瞳が、にぃ、と細められ、甘い吐息が顔面に吹きかかる。ひび割れの間から紫色の異様に長い舌がぬるりと這い出し、恐怖にこぼれ落ちんばかりに目を見開いたクレイグの眦を舐め上げた。いつの間にか溢れていた苦い涙を啜り、異形は満足げに笑う。
「――お待ちください」
異形の背後から投げかけられた神父の声。クレイグはすがるように、引き攣る首を伸ばしてそちらを見遣った。扉の前に立つ神父はいつもの穏やかな表情を捨て――。
「しんぷ、さま……」
まるで酒に酔ったように紅潮した頬。熱に浮かされ潤んだ青い瞳。荒い呼吸。常にきっちりと閉じられた長衣は乱れ、ところどころぬめりを帯びた粘液で濡れ光っていた。
「主よ。これで、必ず、村を護ると――お約束くださいますか」
異常な姿に異様な言葉。信じられない思いにクレイグの目が見開かれた。異形はいかにも楽しそうに目を細め、震えるクレイグの頬を長い指で掴むと涙に濡れた頬を舐めあげながら、視線を神父に向かわせくつくつと笑う。
「いいだろう。俺に新たな生贄を捧げる、というのがお前の選択なら、喜んで受け取ろうじゃないか」
生贄――。呼吸を忘れた頭がガンガンと痛んだ。神父は確かに、主にその身を捧げよ、と言った。まさか文字通りの意味だと誰が思おうか。いや、そもそも、神父の言う「主」がまさかこの異形だと言うのか。
「神父様、嘘、でしょう……?」
クレイグの掠れた問いに、神父は目を伏せ、緩やかに首を振った。絶望に虚脱しかけたクレイグを至近距離で金の瞳が射抜く。
「何もしてくれないお前たちの主に代わって、俺が護ってやろうと言うんじゃないか。喜びなさい」
長い指がクレイグの粗末なシャツを容易く引き裂く。ひび割れのような口が裂け、蛇のような紫色の舌がだらりと垂れ下がる。ぼたぼたと滴った涎が、日々の労働で引き締まったクレイグの胸や腹を汚していった。狭くなった視界の中、一対の金が糸のように細めれられる。
「ただ、俺は祈りの代わりにお前たちを食らうがね」
血泡を吹いた馬。くちゃくちゃと濡れた咀嚼音。血で毳立った皺だらけの魔獣の鼻面。クレイグの脳裏に次々と血に塗れた惨状がよぎる。
今から、俺はあの馬のように食われるのだ。
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