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箱と触手

部屋の中、ひとり・5

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ミミックから、返事はない。
しんと静まり返る二部屋に、されどテンタクルは震える心を落ち着かせるのに精一杯で、取り繕う言葉さえ掛けられない。

次の瞬間、触れていた触手が強く払われた。
箱の蓋が跳ね上げられて、蝶番が悲鳴を上げる振動を感じた。
ぷしゅう、ばん、と乱暴な音が聞こえてきて、その時テンタクルはついにミミックが怒ってこちらへ殴り込みにくるのかと思っていた。
単純な殴り合いならごちゃごちゃと考える必要もない。
来るなら来てみろ、と身構えるテンタクルはむしろ少し安心さえしていた。

だが、今日はとことん思考が冴えない日であるらしい。
パタパタと今日だけで何度も聞いた足音は、こちらに来ることはなく消えてしまった。
ガチャ、ずぼ、と不可解な音を引き連れて、そのまま静寂だけが残される。

「……ミミック?」

気持ちの問題ではなく、テンタクルの額にじわりと汗が滲みはじめる。
伝う液体に温度はなく、湿り気に満ちた空間は得意であるはずなのに今はもがきたくなるような質量を持つ空気に不安だけがかきたてられる。
小さく掛けた声に返事はない。

「ねえ、ミミック!」

大きく声を張り上げても、やはり返事はない。
触手をもう一度伸ばしてミミックの部屋中這い回って粘液で汚しても、今度は欠片も気配を察知することはできなかった。
この区画にいるなら、大きな声を出せば聞こえるはずなのに。
ミミックが自分の呼び掛けを無視したことなんて一度もないのに。

心臓の鼓動はどんどん速くなる。
どうして、どこへ、としっちゃかめっちゃかに感情が暴れまわる中で、テンタクルはベッドから降りた。
もはや落ちたと言っても過言ではない勢いで着地した先で、同居相手のクッションを下敷きにしてしまったが、一瞥すらせず触手をくねらせて這いずって、扉へと辿り着く。
景色はなかなか変わらない。
ナメクジよりも遅い速度に焦りばかりが募る。
取っ手にすがりついて、今まで一度も自分で触ったことのない扉を開ける。
加減がわからず、転がりこむように廊下へ上半身を倒れこませた。

衝撃に呻きながら顔を上げたテンタクルの拍動は、いよいよ最高潮に達する。
ど、と分泌されたのは粘液ではなく冷や汗だった。
もはや意味をなさない警告音は、耳鳴りとなって頭の中を引っ掻き回した。


一見いつもと変わらない、月明かりだけが射し込む薄暗がりの廊下。
嵌め殺しの窓ガラスから照らされる光で四角の模様を作りながら伸びる床の隅に、かすかに光を反射する金属があった。
丸いそれは放り出された排水口の蓋だ。
すぐそばにはぽかりと排水口の穴が口を開けていた。
まるで、今しがたなにかを流しましたよ、というように。

普段は人型のミミックだが、その実態は決まった形を持たない、変幻自在の影だ。
そしてそのミミックは、掃除の新入りが起こした下水道汚染の騒動で、排水口の先がどこへ繋がっているかを知っている!



「なんてことを!」

顔を青ざめさせ、ひきつらせたテンタクルに、ようやく後悔が訪れる。
ミミックが行動に移したのは、間違いなく自分が吐き捨てた言葉のせいだ。

自分の感情さえごちゃごちゃで分からないままなのに、ミミックのことを早急になんとかしなければならない。
考える手間が増やされた、と後悔を全て棚上げして両手で頭をかき回す。

どうしよう、どうすれば、わたしはどうしたい。
抜け落ちた髪が二、三本視界から消えていった頃、テンタクルは唇を噛みしめた。

ミミックの部屋に伸ばしていた触手を身が傷つくのもいとわずにすばやく巻き取って、反動でゴムのようにたわむ肉塊を天井端の機械へぶつけた。
積年の恨みを込めたせいかカメラの首がもげて床に細かな破片が散ったが、そんなことを気にする余裕はない。
こちらの声が届くマイクさえ残っていればよいのだ。

『どうしましたか、テンタクル族代表』

相変わらず機械音声で無機質な、ただし突然の破壊行動に少し焦ったような呼び掛けが響く。
テンタクルは動揺などおくびにも出さず、いつものようにため息混じりに要求を言い放った。

「今日ここを掃除した職員を寄越してちょうだい。
一言文句が言いたいの」
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