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最終章 決戦

5 六甲道朱美の悲哀

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 平成21年8月2日

「楽しけりゃいいのよ、楽しけりゃ」

 それが朱美あけみの口癖であり、モットー。そんな朱美に優希ゆうきがため息をつく。

「それはそうなんどけどさ、うちらもうすぐ25じゃん?四捨五入すれば三十路よ?三十路!いつまでもこんなんでいいんかなって思ってさ」
「いやいや、まだ二十代真っ盛りでしょ。何よその四捨五入ってシステム。五で繰り上がるんならさあ、あたし今五万持ってるから十万の物買わせてよ」
「いやシステムとかじゃないから。あんたって相変わらずバカね」

 言って、コロコロ笑う。朱美はその愛らしい破顔を久々に見たなと思った。以前は仕事終わりによくこのプールバーに寄って朝までのひとときを一緒に過ごした。アフターでオールすることもあったけど、最後は二人でここに来て自分たちの金で寝酒を一杯やって帰るのが習慣だった。ここに来て、ケイとユリという仮面を脱ぐ。朱美がケイで、優希がユリ。子どもの頃に観ていたダーティペアというアニメのキャラクターから取った源氏名だ。源氏名ってどうして「源氏」って付くのか調べたことがあった。辞書なんか持ってなかったので、携帯を操ってウィキを出す。便利な世の中になったと思う。源氏名は源氏物語が由来で、そこに登場する遊女が本名と違う名前を使っていたことから、風俗産業に従事する女性が使う名前をそう呼ぶようになったそうだ。遊女って平安時代からいたんだと感心した。だが自分たちは遊女ではない。売りだけはやらないと優希と誓っていた。朱美はジンライムで唇を湿らせ、優希を睨んだ。

「あんたさ、売り、やってんじゃないでしょうね?あたしら、それだけはやらないって誓ったはずだよね?」

 トーンの低くなった朱美の声に、優希は緩んだ顔を素に戻す。感情の抜けた頬に、若干の引きつりがあった。

「あんたの言う売りってさ、色恋は入れてないよね?」
「当たり前じゃない」
「なら、やってないよ」

 そう言いながら、優希は朱美から視線を反らした。優希の視線の先にはブルーキュラソーをぶちまけたような、毒々しい水色のプールがある。90年代のトレンディドラマが全盛期だった頃、繁華街にはドラマに出てくるようなプールバーが続々オープンした。ブームが去ると浮かれた熱が覚めるようにプールバーも閉店していったが、ここは朱美が働いている店の近場で唯一残っている店舗だった。優希が今付き合っている男はそのトレンディドラマに出演したこともある俳優だ。脇役だったけど、そのドラマは視聴率30%以上も叩き出したお化け作品だった。だがその俳優自体はそれ以降、ヒット作に出演しているところを観たことがない。

 ポップスをユーロビート調にアレンジしたBGMの流れる店内は閑散としていて、黒を基調としたソファやテーブルは薄暗い照明にひっそりと沈み、明々と浮き立つブルーの水にポツポツと浮くゴミに寒々とした印象を受けた。しばらく優希と一緒にプールをぼんやり見ていた朱美は、なかなか要件を切り出さない優希にイラッとした目を向けた。

「何か用事があって誘ったんでしょ?何?早く言って」

 そう聞かれた優希はなおも焦点の怪しい目を横に向けていたが、やがて朱美に向いて弱々しく微笑むと、

「別に用事なんてないよ。久々に朱美の顔見たかったからさ」

 と言って手元のロングカクテルの氷をカランと鳴らした。コンシーラーで誤魔化してはいたが、目元に窪んだ影ができている。健康的だった張りのいい頬も縦にやや凹んで見えた。

「大丈夫?何か優希、疲れてない?」
「う~ん、だからさ、もう年なんだって。昔のように毎晩バカ騒ぎなんてもう出来ないんだって」
「昔…て、おばさんみたいなこと言わないでよ」

 そう言ってはみたが、飲み過ぎた次の日は朱美も辛くなってきている。酒は強い方だと思う。テキーラ飲み比べなんかすると、大抵客の方が早く潰れ、朱美は平気な顔をしているなんてことはザラだった。もちろん仕事で気が張っているというのはあると思う。お持ち帰りなんてされる女は軽蔑する。自分は接客を生業にしているのだという自負がある。なので、身体は売らない。お持ち帰り目当てでアフターに誘ってくる客を上手くあしらい、出来るだけ楽しく帰してやる。変な空気に持っていって断ったりなんかしたら次が無くなる。なので、気心の知れた優希とのチームはやりやすかった。客が口説きモードに入ってくるとお互いを席に呼び合い、深刻にならないように持っていく。アフターも必ず二人一緒。最後は客を先に帰すか、二人一緒に帰るふりをする。二人は一緒に住んでいる設定にしているのだ。そしてこの店にやってきて、二人で反省会をする。まあ反省会といってもほとんどは客の愚痴だったが、それでも一日の澱を吐き捨てて帰ることで、次の日の活力に繋げていた。

 だがここ数ヶ月、そのダーティペアは機能していなかった。優希が俳優と付き合うようになり、アフターよりそいつとの逢瀬を優先しているからだ。なので朱美も別の娘とチームを組んだが、同郷の優希とはノリが違い、出来るだけアフターは断るようになっていた。それでも優希が幸せなら二人を応援したいと思う。だがその俳優には黒い噂が付き纏っていた。優希が裏で売りをやっているという噂も耳にし、心配していたところを今日、優希に誘われたのだった。

 朱美と優希は同じ高校出身で、お互いの家庭環境が似ていることからいつしか仲良くなっていった。二人とも母子家庭だった。朱美は代々水商売の家系で、朱美の母親もお水に流されて生きる人だった。だけど優希の母親は堅い仕事だったようだ。それでも父親がいない人間というのは同種の匂いをまとうようで、朱美たちも互いのその匂いを嗅ぎつけた。最初に近づいてきたのは優希の方だった。優希はスカウトされてティーンエイジャー層をターゲットとするファッション誌の読モをやっていて、そこに朱美を誘ってきたのだ。二人はその世界で華やかな羽を手に入れ、高校を卒業しても進学せずに夜の蝶となった。当時キャバ嬢は中高生の憧れの職業の上位にランクインし、二人も特に迷うことなく夜の世界に飛び込んだ。十代から二十歳超えた頃までは毎日がキラキラしていて楽しかった。朱美は優希と出会えたことに心から喜んだ。

 優希を指名する客にバラエティーの司会をやっている歌手…といっても見た感じお笑い芸人のような人だったが、その人のトークバラエティー番組の観覧に誘われたから付き合ってくれと頼まれ、一緒に行ったのが半年くらい前だった。バーのようなセットで酒を飲みながらトークする、そのセットの賑やかしとして生足を晒して客のようにカウンターチェアにただ座っていた。ギャラなんか出なかったけど、その歌手はいつも高級ワインを頼んでくれ、優希に取っては太客で、朱美も飲み要因としてよく席に呼ばれていた。朱美たちの店は一時間九千円を謳っていたけど、朱美たちは着いた客を単価五桁以下で帰したことはない。そんな中でも月何百万も落としてくれる太客は大切で、太客を維持するにはそれなりの付き合いが必要なのだ。そんなわけで一日店を休んで番組観覧にも顔を出したのだったが、その回のゲストに例の俳優がいた。俳優は目ざとく優希を見つけて口説き、優希はその俳優と付き合うことにした。


「あたしさ、店、辞めようと思うんだ」

 優希がそうポツンと口にした時、朱美はやっぱりなと思った。店を休むことが多くなり、そろそろそんなことを言い出す予感がしていた。

「あんたの人生なんだからさ、好きにしたらいいと思うよ。でもさ、優希、今のあんた、全然楽しそうに見えないよ」

 ずっと二人で楽しくやっていけると思っていた。キャバクラを辞めたとしても、そこにはまた次の楽しい世界が広がっているんだろうなって。でも優希は自分を誘うことはせず、一人で歩き出している。朱美にはその道が、どこかの暗い森の中をうねる獣道に思えた。

「そろそろ帰ろっか」

 優希は朱美の言葉に答えずに、二杯目のカクテルを飲み干すと立ち上がった。嘆息し、朱美もジンライムを飲み干して優希を追いかける。別れ際、優希の顔が寂しそうに揺れていた。そのどこか不安定な顔が、優希を見た最後となった。

 飲み過ぎた次の日は決まって死にたくなる。幸い記憶を無くしたことはまだ無いが、世界が圧縮されて潰されそうになる感覚はいつものことだった。目が覚めても、しばらくその鬱々とした感覚が去っていくのを耐える。年々、その耐える時間が長くなるのを感じていた。その日も偏頭痛に苛まされながら、アルカリイオン水で水分補給しようとリビングへ行き、テレビをつけた。ワイドショーには、優希が付き合っていた俳優の顔がデカデカと映し出されていた。俳優が薬物所持で捕まったのだ。アナウンサーが俳優の捕まった状況を説明している。ホテルに一緒に泊まった女性と一緒に薬物を摂取したところ、女性はオーバードーズを起こして亡くなったと言う。朱美の前身の毛が粟立った。そして女性の名前を聞き、朱美は悲鳴を上げた。


 それからしばらく、朱美は一人だけ置いてけぼりにされたような孤独感に身を沈めた。朱美が買って読んだ週刊誌によると、俳優はすぐに救急車を呼ばず、しばらくオーバードーズを起こしている優希を放置していたらしい。もしすぐに呼んでいれば、命は助かったかもしれない。その記事を読んだ時、朱美は激しい怒りに身を震わせた。

 優希が休みがちになり、朱美がチームを組んでいたホステスは春樹はるきという店名だった。春樹はグラマーじゃなかったけどクールビューティで、某歌劇団の男役に負けない凛々しい顔立ちをしている。ナンバーワンだった優希に次いで人気のあるキャストだった。優希と朱美は店のツートップだったが、春樹が入店してから二位の座はあっさり奪われた。優希が亡くなり、ずっと床に臥せって店を休んでいた朱美にその春樹が連絡してきた。何でも、優希が亡くなった日の真相を知っているという。

「優希ちゃんからある政治家のパーティーに誘われたわ。あなたは誘われていないの?」

 春樹と朱美のマンションの近くの喫茶店で落ち合い、春樹が開口一番そう聞いた。優希と最後に会った日、きっと何か頼み事があるんだと思っていた。結局優希はそれを口にしなかったが、春樹の言葉で、政治家のパーティーの話だったのだと思った。

「あたしは誘われてない。で?それが何か優希の死と関係あるの?」
「そう。関係がある。でもそれを教えるに当たって、わたしからもあなたに頼みがあるの」

 春樹はそこで話を区切り、勿体つけるようにコーヒーを啜った。あたしは焦れったくなり、自分に出来ることならと条件をつけて了承した。そうして春樹は驚愕の事実を教えてくれた。優希が付き合っていると思っていた俳優は実はクスリの売人で、アテンダーでもあったということ。アテンドというのは人を世話するという意味で、主にそれは性方面に特化する場合が多い。つまり、デートクラブの個人版というわけだ。芸能人やモデルを政財界の有力者に繋げる。優希はそうやって紹介された有力者に身体を売っていたのだ。そして優希が亡くなった夜もとある政治家と夜を共にしていた。その政治家からクスリを強要され、オーバードーズを起こした。焦った政治家は俳優に連絡し、俳優が駆けつけた時にはもう優希はかなり危険な常態だった。俳優は政治家と何らかの交渉の末に罪を被ることにした。だから、救急車を呼ぶのが遅れたのだ。聞き終わった時、朱美の全身の毛は逆立ち、握った拳は怒りで震えた。

「何で、あんたがそこまで詳しく知ってるのよ」

 朱美が春樹にそう聞くと、実は自分は陰陽師の家系で特別な情報収集の力があると言った。そしてその力のことは今は詳しく語れないと。眉唾な話だったけど、朱美は最後に会った日の優希の何かに憂いた顔を鮮明に覚えている。あの日、きっと優希は自分に助けを求めていたのだ。でも結局、朱美を巻き込むと思って言えなかった…。春樹の話で、優希の抱えていた背景が見えた。

「あんたの事情は分かった。で、誰!?その政治家って!」

 春樹は険しくなった朱美の顔を吸い込まれそうな真っ黒い瞳の中に捉え、それを教えるには条件があると言って口角を上げた。




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