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第6章 変化

2 抜けた記憶

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 一階の3号室には浦安うらやすがいて、部屋の東側の窓のフックをハンカチを持ちながらチェックしている。その足元には背の高い男性が倒れていて、首元から流れて赤黒くなった血の鉄の臭気が鼻をついた。三国みくにだ。きのうあんなに後輩の同僚の死を嘆いていた人情深そうな顔にはすでに血の気は無く、生気は伺えなかった。職業柄遺体を見るのは初めてでなかったが、昨日一緒に酒を酌み交わしたばかりの人間の変わり果てた姿を目の当たりにして立ち眩みがした。

「大丈夫っすか!?」

 後ろに倒れかけたのを草太そうたに抱えられ、この声に浦安も振り向いた。視界の定まらない弓削に浦安が歩み寄って肩を掴み、しっかりしろと激を飛ばす。

「気をしっかり持て!刑事の本分を忘れるな」

 そうだ、目の前の遺体はどう見ても不本意に命を奪われている。その原因を究明し、犯人を捕まえる。それが自分たち刑事の本分なのだ。

「すみません、大丈夫です!」
「よし!じゃあまず、すぐにK署に連絡!救援を呼べ。青井君にやってもらってもよかったんだが、すぐ近くに刑事がいるのに何をやってるといらぬ揚げ足を取られ兼ねないからな。俺は申し訳ないが、ここにはいなかったことにしてくれ。今はまだ謹慎だからいいが、その間に勝手に動いていたとあっては懲戒処分もあり得る。この事件の捜査が終わるまで俺も手帳を取り上げられるわけにはいかない。弓削に関しては正直に公安調査庁の役割でここにいると報告しろ。きっと彼らが守ってくれる。いいな、後は任せたぞ!」
「はい!任せて下さい!」

 浦安係長の強い目力に、精一杯の目線で返す。係長はそれからすぐにノワールを出て行き、弓削はK署に状況を報告した。弓削は現場の確保に努め、それからしばらくして、サイレンの喧騒と共に数人の刑事たちが臨場してきた。その中に、橋爪はしづめの顔を見つけて弓削の胸が浮き立つ。ホッとする半分、弱みを見せたくないという対抗心半分だ。首を振り、きのうからの朦朧とした意識を打ち払う。

「あなたのチームは首無し事件を追ってたんでしょ?どうしてこっちに?」

 弓削は橋爪に近づいていき、そう聞かれた橋爪は目を細め、弓削の腕を引いて他の捜査員たちに聞かれない廊下の角に弓削を連れ出した。

「きのうここへ来た袴田はかまだ係長と連絡が取れなくなった」

 袴田といえばきのう、高瀬たかせを撃ったチームの係長だ。

「連絡が?そうだとしてもトップだけ入れ替えて同じチームが来るんじゃないの?」

 本部でも袴田の行いはやり過ぎと判断されたのだろうか?現場となったのもきのうと同じ部屋だ。刑事の側が撃ったとはいえ、彼らのチームがろくな現場検証もせずに引き上げて行ったことにも違和感があった。

「上の細かい判断のことは知らん。理由があったとしても、どうせ俺ら所轄には下りてこないからな。でもな、俺らのチームが来たというのは何も人手が足らないからじゃない。詳しくは言えんが、首無し事件とこっちの事件、上の判断では何か繋がりがあるという目算が立ったんだろう」

 橋爪はそこまで言うと、弓削の顔を覗き込んだ。身長差が20cmほどあり、橋爪が腰を屈める形になる。橋爪の顔が目の前に寄り、弓削は少し後退った。

「な、何よ」
「いや、顔色が悪いんじゃないかと思ってな。ちゃんと食事を摂ってるのか?若干酒臭いぞ」

 弓削は慌てて口を抑える。そういえば今朝はまだ歯も磨いていない。

「ほ、ほっといてよ。だいたいあんた、いっつも煩いのよ。あたしの高校んときの教頭とよく似てるわ。その教頭、ブンブン煩いから生徒たちからハエって言われてたわ。あなたのこともハエって呼ぶわよ。あ、いい意味でよ、いい意味で」
「いやハエはいい意味にならないだろ」

 橋爪はうんざりした顔で現場に戻ろうと背を向ける。

「あ、後で住民たちの調書、取るんでしょ?そん時にあたしも同席させてよ」

 弓削の声に橋爪は険しい顔で振り向き、首を振る。

「それはダメだろ。こっちとお前んとこでは部署が違うんだからさ。そっちはそっちで取ればいいだろ?何のためにここに住んでんだ?時間は十分あるだろ?」

 そう言ってそそくさと3号室に戻る橋爪に、ハエ!と心の中で叫んだ。まったく、融通がきかないのよ……。



 ノワールの一階にはたちまちビニールシートが張られ、鑑識員が慌ただしく作業に入っていった。それと同時にダイニングルームでは個別に住人を呼び出し、捜査員が聴取をかけている。事件発生時間に部屋で寝ていたと言った弓削は臨場してきた捜査一課の主任に呆れた顔で見られ、後で話を聞くかもしれないから所在だけははっきりさせておくようにと蔑んだ口調で言われた。住人たちの聴取に立ち会うこともできず、所在なさげに、捜査員たちのいないところを重点的に見て回る。玄関先ではまた白い猪のピノンに噛みつかれそうになったが、鑑識員の話ではピノンと三国の傷では歯型が全然違うということだった。そもそもピノンはまだ赤ちゃんで、三国に致命傷を負わせることが出来るはずもないのだが。

 いつしか、三階の屋根裏部屋へと足が向かっていた。確か高瀬が撃たれて運び出された後、今回マークすべき人物の一人、五月山さつきやま天冥てんめいに呼ばれてここへ来たのだった。あの時、何を話したろう?その辺の記憶からすでに曖昧だ。酒の飲みすぎで記憶が無くなるなんてことはしょっちゅう経験しているので記憶が無くなること自体には慣れっこだが、そういう感覚とは何か違う気がする。そこまで考えた時、ふと、大きな失念をしていることに気づく。そうだ、自分は盗撮器具を胸にはめていた。あの映像を見れば失われている記憶も呼び出せるはずだ。慌てて胸を探るが、きのうまで着ていたはずの黒いジャケットは寝ている時から脱いでいる。弓削は急いで階段を降り、自分の部屋へと向かった。

 部屋を見渡すと、扉の横の壁のさんに木製のハンガーがかけられていて、そこに弓削の黒いジャケットが吊るされている。胸のポケットを探るが、それらしいペンは見当たらなかった。部屋のどこにも無く、次に弓削は一階の草太の部屋のドアを叩いた。ひょっとしたら聴取でいないかとも思ったが、草太はすぐに顔を出した。

「あのさ、あたしきのうジャケット着てたじゃない?あれ、脱がしてくれた?」

 弓削の質問の勢いに、草太は部屋の中へと一歩後退った。

「違うっす違うっす!僕は史子ふみこさんの体は触ってないっす!信じて下さい!」

 なるほど、飲み会で弾正だんじょうに胸を触られてオーバーリアクションした弓削の反応から、自分も詰められると恐れて引いているわけだ、と推察する。

「違うのよ、上着を脱がして楽にしてくれたことには感謝してる。じゃなくてね、中に入ってたペンが無くて困ってるのよ。あれ、どこにあるか知らない?」

 そこまで言うと草太はああ、と小声を漏らし、今度は少し睨むような視線を向けた。

「あれってカメラが付いてたんすよね?天冥さんがそれに気づいて、外してもらったって。覚えてないんすか?確か、ペン自体は浦安警部補さんにもう返しましたよ?」
「え?係長に?」

 もしそうなら、さっき会った時に教えてくれてもよかったのにと思ったが、盗撮のことがバレてしまってるなら持っていても意味はない。となると、そこから送っていた映像を観ていた朝霧あさぎりに確認するしかないか…。変な醜態を晒してなければいいがと苦い思いが去来する。あんなやつに弱みを握られたくない。にしても、どうして盗撮がバレたのだろう?きのう、天冥に呼び出されたのはそのことだったのだろうか?

 何か重要な記憶が抜け落ちている、弓削はそんな思いが払拭できなかった。

「そっか、ありがとう。あと、ベッドにマットレス敷いてくれたり、寝床を整えてくれたりもしたのね。本当にありがとね」
「あ、僕は触ってませんよ?天冥さんと朱実あけみさんで」

 どうやら草太は弓削の体を触ることを極端に恐れている。ま、あたしの反応を目の当たりにしたら当然か、と少し悪い気もした。

「そっかそっか。草太君にも気を遣わしたね。ありがとね。それと、天冥さんや朱実ちゃんは今どうしてるの?警察の聴取の待機してるのかなあ?」
「あ、天冥さんと朱実さんならきのうの夜から久遠寺くおんじに手伝いに行ってますよ。火事の被害はほとんどなかったみたいすけど、もうすぐ盆の法要も近いからって、煤払いの手伝いに。あと、つむぎちゃんも暇だからって一緒に行ってるっす」
「え、そうなの?じゃあ、三国さんが亡くなった時には三人はここにいなかったのね?」
「はい、そうなるっす」

 なるほど、なら捜一の捜査員たちがその三人に聴取をかけるのはまだ後回しになるだろう。てことは、自分は先にそちらを済ませてもいいかもしれない。どうせしばらくノワールの中は捜査員たちでバタバタしているわけだし、まずは朝霧のいる車まで行って自分の記憶の抜けている部分を確認し、それから久遠寺に足を向けてみよう、弓削は今日の予定をそんなふうに立てた。
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