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第4章 炎上

6 殺意の渦

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 公安調査庁の調査用車両で宇根野うねの駅東側の坂を登り、ノワールとその大家の家の前を通り過ぎ、最高地にある空き地で車を停めた。そこは雑草の生い茂る荒れ野原で、東に広がる山裾が見渡せた。そこから南側は家も無く、みなもと鳥居とりい駅に向かう道路が細々と下っていくだけだ。周囲の木々から鳴くセミの声と、草むらに生息するバッタたちの声が、指揮者のいないオーケストラのように煩くそれぞれの旋律を主張し合っていた。

 音声録音と画像録画機能のある最新式のペン型スパイグッズを持たされ、弓削ゆげはそこからゴロゴロとキャリーバッグを引きながらシェアハウスへ向かう。

「主任~!がんばってくださあ~い!」
「フーミン、女子たちのセクシー動画よろしく~!」

 真美まみ朝霧あさぎりの声には完全無視で振り向きもしない。彼らはいざという時のために車に残って張り込むのだ。交代要因の番場ばんばは公民館で眠りについている。浦安うらやすはどこに行くのか、山神やまがみ駅で別れた。特務調査室の他の面々は朝からずっと姿が見えない。浦安によると、もし弓削が入居することで逃げ出す住人がいたら即座に確保すると室長の室町むろまちは言っていたらしいが、もしかするとすでにノワールから離れている住人を張り込んでいるのかもしれない。

 大家の家のクリーム色の壁の前を通り過ぎ、ノワールの入り口前に着く。そこで一度汗を拭い、周囲の環境を見渡した。歩道もない二車線の道路にはほとんど行き交う車はなく、すぐ西側は斜面となって禍津町の家々を眼下に収めることができた。ノワールの壁は近くで見ても真っ黒で、二階部分から突き出た鐘楼が相変わらず異様な雰囲気を醸している。バルコニーと思われるところに溜まったカラスたちが、弓削を歓迎しているのか警告しているのか、ホラーゲームかと思えるくらいの音量でガアガアとがなり立てていた。

 建物の周囲は大家の家から続く生け垣で囲われており、黒い鉄の門扉は不用心にも開きっぱなしだ。こんな田舎町の家に入る泥棒もいないのかもしれないが、殺人事件が起こっているのだ、もう少し警戒心を強く持って欲しいと思う。せめて自分が入居している間は。

 門扉を抜けるとすぐ左手に犬小屋がある。一応、番犬はいるのかと中を覗く。明らかに犬ではない形状の白い動物が飛び出し、パンプスから出た弓削の足首に噛みついた。

「ギョエ~~~!」

 咄嗟の事態に情けない声が出た。声を聞きつけ、見覚えのある青年が玄関から走り出てくる。

「こら!ピノン!だめじゃないか!」

 青年は駆け寄ると足元の動物を抱きかかえ、急いで引き離してくれた。

「すみません、おかしいなあ。噛み付くなんてこと今まで一度もなかったっすのに」

 青年…青井あおい草太そうたは白い動物を抱いたまま、こちらにニッコリと笑顔を向ける。弓削は一瞬晒した醜態を慌てて取り繕い、んんっと喉を鳴らした。

「弓削刑事ですね。お待ちしてました」
「ええ、お久しぶり。何かあたし、あまり歓迎されてないみたい」

 弓削は足元の唾液を払い、気持ちを落ち着かせようと胸に手を当てる。そして青井の胸に収まっている動物を見た。ブタかと思ったが、それにしては毛深い。

「あ、こいつ、ピノンっていうっす。イノシシのアルビノ種らしいっす。最近ここに居着いたんすよね」

 イノシシ…確かによく見ると薄っすらと縞模様がある。まるで挨拶するように、こちらを見てフガフガ言っている。

「よろしくね、ピノンちゃん。初見の人に噛み付くのは防犯上いいことだけど、あたしにはもう噛み付かないでね」

 恐る恐る頭を撫でてやると、弓削の言葉に頷くようにフガッと大きく鼻を鳴らした。

「青井君もよろしく。で、お願いなんだけど、刑事って付けるのは止めて欲しい。弓削さん、もしくはあたし、史子ふみこっていうんだけど、史子さんって呼んでくれないかな」
「分かりました。じゃあ、みんな下の名前で呼び合ってるんで史子さんで。みんなにもそう紹介しますね。あ、僕のことは草太って呼んで下さい」
「分かった、草太君ね。改めてよろしく」

 それから草太は、二階の7号室まで案内し、鍵を渡してくれた。古めかしい外観と違い、中は明るい木彫で意外に綺麗だった。部屋は六畳のフローリング、黒いフレームベッドが東角に置かれている以外は何も無い。北側に小さな窓と、東側にも大きな窓がある。窓からは山の尾根が真正面に見えてあまりいい景色とは言えないが、これならカーテンを付けなくても朝の直射に悩まされなくて済みそうだ。窓の上のエアコンからは草太が気を効かせてくれたのか、涼しい風が流れている。弓削は部屋のど真ん中にキャリーバッグをドンと置き、フレームベッドに腰掛けて首筋の汗を拭った。

「あの、荷物ってそれだけっすか?」

 弓削がくつろぎ始めたのを見て、ドアの前で立っていた草太が遠慮気味な視線をキャリーバッグに落とす。

「ええ、まあね。これはあんまり他の住人の方にはオープンにしないで欲しいんだけど、あたしはここに調査しに来ただけだから、用が済んだらすぐに引き払うから。荷物は最低限でいいの」
「え、じゃあ、刑事さんってことも言わない方が?」
「ああ、うん、それは言っていいわ。どうせあなたも大家さんも知ってることだし。でもそうね…休暇中ってことにしてもらえるかな。捜査中に体調を崩して、ちょっと休んでるとか何とか。どうせ薄々は捜査の一貫だって分かるだろうし、表向きはそんな感じで」
「分かったっす。じゃあ…特にお手伝いすることなければ僕はダイニングキッチンにいますね。史子さんも落ち着いたら覗いて下さい。今いる住人に紹介しますから」

 草太はそう言ってドアを締めかけるが、何かを思いついてまたドアを開き、

「あ、そうだ。三階に住人たちがいらない物をいろいろ置いてるんで、もしいる物があるば持っていっていいっすよ。確か布団も一式くらいあった気がするし、本棚なんかもあるっすから。手が必要な時はいつでも呼んで下さい」

 そう付け加えてパタンとドアを閉めた。他のシェアハウスに管理人なんているのだろうか?お手伝い付きで家賃1万5千円は安いかもしれない。自分で払うわけではないが、もしこれで食事も作ってもらえるなら、ありっちゃありだな、と、足元が映るくらいピカピカのフローリングと真っ白い壁を見回しながら思った。

 そしてうーんと伸びをし、ゴロンとベッドに倒れる。直管型蛍光灯が二本付いたオーソドックスな電灯からスイッチの紐がぶら下がっている。そこは昭和仕様なのだなと、少し口角を上げる。心地よい冷風に、まぶたが下がる。昨夜は悪夢を何度も見たようで、うなされては自分の声で目が覚めていた。ずっと続いていた片頭痛も、今は消えている。猛烈な睡魔に抗えず、まるで時空の違う場所にトリップするように、弓削は夢の中に埋没していった。


 血なまぐさい鉄の匂いとともに、熱風が吹き荒れている。周囲の家屋は燃え上がり、テラテラと赤い炎が影を揺らす。目の前の人影がバシュッと刀を振り下ろし、切られた男は血しぶきを上げた。

『あ、兄者ー!』

 男は断末魔のように叫んでこちらに手を伸ばした。そして、クワガタムシのような角が生えた兜の下からヌラヌラと血を滴らせ、持っていた刀をポロリと落として地に伏せた。

 激しい怒りが自分の中に駆け抜けた。いや、自分なのだろうか、視界の下にあるのは必要以上に盛り上がった胸ではなく、顎下で結わえられた赤い緒の結び目だ。どうやら自分も兜を被り、甲冑を着ているようだ。右手に持った刀がブルブルと怒りで震える。

 殺さなければ!

 自分たちをこんな目に遭わせたヤツらを全員、殺して殺して、殺しまくるのだ!

 殺意の渦が、赤黒く燃え上る炎とシンクロし、全身を飲み込んでいった。 
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