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第4章 炎上

case 4

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 令和5年7月24日

 高瀬陽翔たかせはるとはこのところ断続的に襲ってくる偏頭痛に悩まされていた。初めは少し頭が重いな程度のことだったが、日に日に痛みを伴うようになり、酷いときは耳鳴りもする。そしてたまに、それが人の声に聞こえる時もある。

 原因は職場環境にあると思っていた。陽翔は薬品を生成、製造をする工場で働いている。薬品といっても医薬品ではなく、主に洗剤を取り扱う。陽翔が担当しているのは粉末洗剤で、数種類の化学薬品を調合、撹拌かくはんして製品にするまでが陽翔の持ち場の役割だ。撹拌用の200リットル樽に決まった分量の薬品を投入していくのだが、この時に粉が舞い上がる。もちろん防塵マスクはしているが、それでは完全に防ぎ切れない。きめの細かい薬品はどうしても隙間から入ってきてしまうのだ。

 元々陽翔はキャバクラでボーイをしていた。有名チェーンではなかったが、風営法を無視して朝まで営業することで何とか採算を取っていた。だが、三年前に状況は一変した。パンデミックの影響により、客足は途絶えた。陽翔の店は当初、政府の営業自粛要請には応じず営業した。SNSでは客で来たことないような奴らに散々叩かれた。それでも営業を強行していたが、そもそも色街から人は消えていった。そして二年前、店は潰れた。

 いい機会なので真っ当な仕事に就こうと思った。だが中卒でたいした資格も持たない陽翔には選ぶほど仕事の門戸は開かれていなかった。そんな時、昔の恩師が声をかけてくれた。恩師といっても小学生低学年の時の担任だったが、その担任は自分が中学年に上がる頃には一身上の都合で辞めていた。だがなぜかその元担任はその後も何かと陽翔のことを気にかけてくれ、陽翔が無職になったことを知ると自分が今働いている洗剤会社で工場を新設するので来ないかと声をかけてくれた。折しも人々の消毒に対する意識は高まり、感染症で仕事を無くした陽翔に取って、感染症に強いということは魅力的に思えた。何より金髪を染めなくていいのが有り難かった。そしてその元担任の誘いに乗って面接を受け、採用された。

 いざ仕事に就いてみると、そこは自分みたいに仕事にあぶれたやつらの溜り場だった。若い陽翔は新設された工場で一番の力仕事を任された。毎日毎日20キロ以上もある袋詰の薬品を上げ下げする作業はきつかったが、仕事自体は単調ですぐに慣れることが出来た。ただ、息をすればむせ返るような工場の空気が嫌だった。帰って風呂に入ると、石鹸を使わなくても全身がぬるぬると泡立った。

 頭痛がするので持ち場を変えて欲しいと上司に訴えたが、人員を移動できる権限のある課長には鼻であしらわれた。課長は大手メーカーを早期退職して役職付きで入社したことを鼻にかけていて、無教養の陽翔を何かとバカにした態度を取った。辞めてやろうかと何度も短気を起こしそうになったが、その都度一緒の持ち場にいた元担任である主任に慰めてもらった。主任は相変わらず陽翔を気にかけてくれ、初仕事の日から機械に不慣れな陽翔を親切丁寧に教えてくれた。自分が辞めたらそういう主任の尽力も無駄になってしまうと思い、何とか辞めることを思い留まっていた。

 そんな中、体調が悪いなりにも偏頭痛にも耳鳴りにも慣れてきていたのだが、そのうちその耳鳴りが誰かの声に聞こえるようになる。最初は錯覚か、あるいは遠くの誰かの声を拾ったのだと思っていた。けれど、次第にその声は自分の頭の中でしているとはっきりしてきた。まるでヘッドホンで聞いているように。低く、野太い声で。その声は言う。

 ころせ、ころせ…と。

 声が頭の中で発されていると自覚してから、その言葉の意味をいろいろ考えた。そしてその声は間違いなく、殺せと言っていると確信した。それはその声のニュアンスがそういう響きだったこともあるが、その声を聞くとどうしようもなく陽翔の心に殺人衝動が湧き上がるのだ。尋常でないことが自分の中で起こっている気がした。

 そして思い起こす。偏頭痛がし出した頃に何があったかを。一つ思い当たることがあった。それは陽翔の彼女、伊藤いとうゆいから教えられたことだった。

「恐怖のピタ止めチャレンジって言ってね、自分の死に顔が見れるんだよ。すごくない?」

 唯はその時、学校で仕入れてきたネタを嬉しそうに話していた。唯は興奮すると少し上向きの鼻の穴がヒクヒクする。陽翔はその顔を見ていつも、子豚みたいだなと思った。唯の顔は陽翔のタイプでは全くなかった。陽翔は正統派の美人が好きだった。なんの取り柄もない陽翔には高望みなのだが、せめて自分が働いていたキャバクラの面接を受かるくらいのレベルではあって欲しい。唯は完全にそのレベルではなかった。

 元々陽翔が付き合っていたのは唯の友達のなぎさだった。渚の姉は陽翔が働いていたキャバクラのキャバ嬢だった。彼女をスカウトした新見にいみ逸生いつきと付き合っており、二つ年上の逸生は陽翔に取って兄貴分で、よく遊びに連れて行ってもらった。逸生の彼女も一緒にいることも多く、その妹の渚もよく姉に付いて来ていた。陽翔はノリで渚と付き合うことになった。渚は派手目のギャルで、色黒なところに目を瞑れば正統派美人に見えなくもなく、付き合った当初は陽翔も浮かれていた。

 渚と付き合った当時、渚はまだ中学生だった。派手な化粧をしていたのでそうは見えなかったが、渚も逸生もその姉も、陽翔が身体の関係まで持った時点で彼のことを犯罪者だとなじった。それはあくまで冗談のノリだったのだが、陽翔の心には重石のようにのしかかった。やがてキャバクラは潰れ、逸生と渚の姉は疎遠になった。だが渚は逸生のことを気に入っていたようで、無職になった陽翔のことはあっさり捨てて逸生に乗り換えた。それでも陽翔はどこかそんな流れも想定していて、渚と別れたことで心が軽くなったりもいた。そんな陽翔が面白くなかったのか、あるいはいつまでも彼のことを手下みたいな存在としてキープしておきたかったのか、渚は陽翔に友達の唯を紹介し、半ば強制的に二人を付き合わせた。陽翔はどこか諦めの境地でそれに従い、唯もきっと渚のことを断れないのだろうと同情した。だが唯は自分と会うと楽しそうにしてくれてはいた。

 唯が恐怖のピタ止めチャレンジと言って見せた画面には、綺麗なモデル風の顔写真があった。ピタ止めチャレンジがKikTokで流行っているのは知っていたし、そういう女子高生のノリなんだろうと軽く考えていた。そして言われた通りやってみた。すると唯が言った通り、そこには陽翔の顔が浮き上がり、その顔が青白く変色すると、目が、口が、シミの広がるように真っ黒の穴が開いたようになり、全体的に歪んで最後はムンクの叫びのようになった。そして頭の中にキーンという機械音が鳴り響き、ウッとなって目を瞑った。目を開けるともう画面は元のモデルの顔に戻っていた。

「ほらね、すごいでしょ?」

 目の前には唯の、ドヤったような顔があった。思えば偏頭痛が始まったのはあの日からかもしれない。

 夏休みに入ったらレジャーランドに行こうと約束していたのに、当日になって唯はそれをすっぽかした。何度電話をかけても直留守だった。もう何もかも面倒くさかった。結局レジャーランドへは逸生と渚と三人で行った。帰りたかったが、二人がそれを許してくれなかった。

 陽翔は二人に取っておもちゃのような存在だった。あれやこれやと買いに走らされ、やれと言われたことは大抵やった。帰りに寄った居酒屋では、しょう油を直飲み一気した。逸生がそれを動画で撮っているのを見て、どこかに投稿するんだろうと思った。炎上案件なのは分かっていた。だが陽翔に取ってもうどうでもよかった。いや、違う。心では泣いていた。心の中は土砂降りの雨で、誰かが傘を差し掛けてくれることを祈っていた。

 だが助けてくれる者など誰もいない。SNSで陽翔は祭り上げられた。苦情半分相談半分で夜中に逸生に電話をかけたが、逸生もパニック状態に陥っていた。渚が死んだと喚いている。そして、訳の分からないことを叫ぶ。

「俺…ダメだわ。何かさ、さっきから目から血が出て止まらないんだわ。ずっと血が出て、出て出て出て出て、血が出て血が血が…ぁ゙~あだばいでべ~ぁ゙だば…ぁ゙だ…だだだだー!だめだ!やめろ!やめろー!」

 陽翔は恐怖で電話を切った。誰かにこの状況を相談したいが、唯には相変わらず繋がらない。

 ガコン!

 突然ドアの方から大きな音が鳴り、ビクンと肩が上がる。恐る恐る玄関ののぞき窓を見ても誰もいない。そっと、ドアを開けてマンションの通路を見る。遠くから笑い声が聞こえたような気がした。通路に出てみても、生温い風が撫でていくだけで人の気配はしなかった。ふと、ドアに何か書かれているのが目に入る。

 そこには白いペイントでドアいっぱいに『死ね』と書かれていた。どうやって特定するのだろう、きっとSNSで誹謗中傷しているやつらの誰かだ。怒りと恐怖でドクンと胸が鳴る。顔に温かい感触が走り、白い字が、次第に赤く染まっていく。顔を手で拭うと、血がべっとりと付いていた。顔中をぬるぬるとなで回す。いっそ洗剤のようにこのまま溶けて無くなってしまえばいいのにと思う。まだ明けていない暗闇に、熊蝉のシャシャシャシャと狂ったように鳴く声が響き渡っていた。




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