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第3章 拡散

8 感染症の疑念

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 浦安うらやすが駆け寄った時にはすでに水谷みずたにりんにも君嶋きみしま校長にも脈は無かった。突然起こった少女の兇行に、浦安は呆然となりながらもさっきまでのシーンを脳内で巻き戻す。思えば鈴は最初からおかしかった。聴取では一言も発さず、いきなり笑い出したかと思えば校長室まで一気に走って校長を殺した。その一連の動きに無駄が無く、まるで予めそうすることを決めていたようにも見える。だがそう考えると腑に落ちないことがある。校長を殺すつもりなら誰もマークしていない待機中にやればいいのだ。わざわざ捜査員の目の前でやることはない。浦安にはやはり突発的に起こった惨事に思えた。

 事後すぐに緊急車両が配備され、聴取は中止になった。浦安は拳銃を撃った袴田はかまだに詰め寄った。そもそもなぜ拳銃を携帯していたのか。今日の聴取に拳銃を持つことは許可されていなかったはずだ。

 袴田警部…警察庁刑事局捜査第一課・殺人犯捜査係の係長で禍津町まがつちょうの捜査ではK署強行犯係の須田すだ班と行動を共にしている。40代前半だろうか、長身痩せ型で重箱の隅をつつくような忙しない細い目はいかにも警察庁のキャリア刑事という感じだ。浦安よりも一回り以上年下だが階級は警部で警部補の浦安よりも上だった。

「今は事態収集が先決!異論は後で伺おう」

 こちらが先に声を荒げたので仕方ないが、袴田も横柄な言葉使いになり、浦安のことは無視したようにテキパキと同じ警察庁の班員たちに指示を出す。校長室は二つの遺体を残したまま手際よく封鎖された。

 浦安たちK署の四人には倉田くらたのクラスの生徒たちのケアが任され、取り敢えずまだ残っている生徒たちは返さずに教室で待機させろということだった。公安調査庁の三人には、袴田は無視を決め込んでいた。異なる省庁から来た者に壁を作る態度があからさまだった。

「怖いねえ、恐ろしいことが起こってしまったねえ…」

 須田と聴取を同じにしていた公安調査庁の一人が、誰に言うでもなくぶつくさ呟いているのが不気味だった。このどさくさにどこに行ったのか、浦安たちが2年B組の教室へ向かってから帰るまで、公安調査庁の三人とそれ以後顔を合わせることは無かった。

 しかし騒ぎはこれだけに収まらなかった。
 
 倉田学級の教室では水谷鈴が倒れたことを倉田が残った生徒たちに簡単に説明し、今日の聴取が中止になったことを告げた。まだ聴取を終えていない者や友達を待つ者など半分以上の生徒が教室に残っており、不安な面持ちで倉田の話を聞いている。倉田は生徒の前では濁していたが、浦安は鈴がすでに息を引き取ったのを確認している。捜査員の目の前で生徒を死なせたとあっては警察の失態を問われることは必定だ。下に続々と集まってくる警察庁の捜査官たちの事後処理の見せ所といったところか。この聖蓮せいれん女子高校が禍津町まがつちょうにあり、先の事件で多くの捜査員がすでに近くで動いていたのが不幸中の幸いだった。

 浦安は一人で教室の後ろに立っていた。須田班の三人には廊下で待機してもらっている。誰もまだ帰さないようにと袴田に指示を受けていた。生徒たちは水を打ったように静かだった。倉田の説明の後、異様な空気を察知しているのか、所々で鼻をすする音も聞こえていた。

 ふと、自分を見つめる一つの視線に気づく。廊下側の席から、一人の生徒が自分をじっと見つめている。ハッとしてそちらを向くと、ちょうどライトの合間で薄暗くなったその一角で、その少女だけぼうっと白く浮き立っているように見えた。その少女の顔は明らかに笑っている。さっき鈴が目から血を流して笑っていた光景が頭の中に再起される。急に不安になり、これから何かとてつもなく悪いことが起こる予感が湧き上がる。

「先生!森岡さんが目から血を流してます!」

 その時、窓際の席から尋常でない金切り声が上がる。そしてその声を皮切りに、

「先生!こっちも!」
「渡辺さんもです!」

 と、あっちこっちから教師を呼ぶ大声と悲鳴が湧き上がった。倉田は最初に声を上げた生徒に駆け寄りながらも、おろおろとした視線を浦安に投げた。

(一体今日はどうなってる?このお嬢様育ちの娘たちには過酷な状況なのかもしれないが、こんなに何人も同時に目から血を流す症状なんて聞いたことがない)

 感染症!?

 そのワードを思いつくや否や、浦安は廊下に駆け出て班員たちに指示を飛ばした。

「救急車の要請!大至急!」

 浦安の尋常でない顔を見て、須田班の三人は一斉に携帯を耳に当てた。




 それから………救急車やパトカーが次々と校内に乗り入れ、目から血を流した生徒たちは救急車で搬送されていった。それ以外の生徒には帰宅許可を出し、担任の倉田は生徒が搬送された救急病院に同行した。浦安は須田班の班員二人に倉田を病院まで送って行くよう指示した。そして血を流す原因が何であったか分かり次第知らせるようにと伝えた。

 そして一段落つき、空になった教室の窓際に立つ。日が沈むのが少し早まり、西からの陽光が橙色に運動場を照らしている。部活で登校していたと思われる生徒たちが校門に向かっていく。きっと今日は帰るようにと指示が出たのだろう。年代が変わっても、共学や女子高という違いはあっても、変わらない学校の風景というのはある。浦安も自分の高校時代を思い出しながら閑散となっていく眼下の様子を眺めていた。そこに一人悠然と校庭を横切っていく姿がある。どこに行くのかと目で追っていると、浦安の視線に気づいたのか、その生徒がクルッと反転した。まさかここに立つ人間など分かるまいとその少女の顔に焦点を絞ると、その目は明らかに自分を捉えている。そしてニッコリと既視感のある笑顔を向けた。さっき、教室の片隅で自分を見つめていた少女だと気づく。遠目にも分かるほど瞳が大きく、美しい顔立ちをしている。今まで残っていたということは聴取が済んでいない生徒なのだろう。その眼光が真っ直ぐに突き刺さり、まるで心の中を覗かれているようだった。

「係長!自分たちはもう撤収していいということですが」

 警察庁の連中の様子を伺いに行かせた須田が戻ってきてドアから声をかけた。

「分かった、すぐ行く」

 そう返してから、また運動場を見る。まだ運動場の中程にいたはずなのに、少女の姿はもうどこにも無かった。


 その後の警察庁の捜査員たちの対応姿勢は明らかに所轄である自分たちに強固な壁を張り巡らしていた。校長室は完全に封鎖され、浦安でさえも入れてもらえなかった。ならばせめて教師たちへの聴取をと申し出たが、それも自分たちがやるからと却下された。生徒たちが搬送された救急病院へも警察庁の捜査員たちが駆けつけ、こちらから向かわせた須田の班員二人も帰された。仕方がないので聖蓮せいれん女子まで戻ってこさせ、浦安と須田を拾ってもらってからK署に一旦帰ることにした。

「取り敢えず感染症ではないということでしたが、はっきりとした原因はまだ特定できないということでした」

 運転している班員が助手席の浦安に病院での報告をした。

「それにしてもなぜ俺たちを締め出す?まるで何か隠してるように」

 浦安もつい部下の前で愚痴ってしまった。思うように仕事をさせてもらえない苛立ちもあった。

「もし伝染病だったら僕らもヤバいですよね。でも捜一のやつらもマスクはしてませんでしたし、伝染る心配はないのかな?」

 須田がのんびりした口調で言うのを、確かにと頷く。世界的なパンデミックを引き起こした新型ウイルスも今年の五月に二類から五類に引き下げられ、インフルエンザと同じ扱いになった。浦安の息子はH県で公務員採用試験を受け、5年前からH県の県庁で職員をしているが、やっとマスクを着用しなくてもよくなったとゴールデンウィークに帰ってきた時に言っていた。もちろんまだ殆んどの者は念のためにマスクを着用してはいるが、警察官たちにもマスク着用の義務は無くなっている。もし違う感染症が流行る兆候があるなら、公務員から真っ先にマスクを着用の義務が課せられるはずだ。

 しかしもう一つ、大きな懸案事項がある。今日、聖蓮女子で二人もの死者を出してしまった。刑事たちのいる目の前でだ。このことがおおやけになればマスコミも黙っていないだろう。今後の捜査方針も含め、沖芝おきしば管理官に一度お伺いを立てようとK署に着くなり帳場の上座に向かった。
 
「君嶋校長と水谷鈴さんは命をとりとめましたよ。今はまだ絶対安静ですが」

 今日の報告をした浦安に、管理官は信じられないことを言った。

「バカな!二人の脈が無かったのははっきり確認しました!」
「あなたは動揺していて誤診したのでは?あなたは医者ではないでしょう?だいたい、今回の事態はあなたの目の前で起こったそうじゃありませんか?そもそもあなたが聖連女子の聴取を強行しようと言い出したのに、一体、その管理責任をどう考えているのです?」

 そう言って鋭い目を向けた管理官の詰問に浦安は言葉に詰まった。

「ま、いいでしょう。あなたの処遇は追って考えるとして、今日はもう帰っていただいて結構です。お家でご自分の立場をよく内省されるように」

 管理官の口調には有無を言わさぬ圧が含まれていた。余計なことは言うなという脅しとも取れるニュアンスだった。



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