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第1章 始動

3 1号室の依頼人

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「あ、ああ…大丈夫です。どうぞどうぞ…ええと…あなたは…?」

 草太そうたは大音量の鐘の直撃でぼやけた視界を何とか女性の立ち位置に合わせ、貧血になったようにふらつく頭を両手で押えながらフォーカスを絞っていく。やがてピントが合い、戸口からおずおずと玄関に入ってきた女性はどう見てもまだ10代で、所在なさげに立っている姿は今にも消え入りそうに不安定に思えた。草太のここでの経験上、こうやってはるばる丘を登って訪ねて来る理由には主に二つ思い当たる。一つは一階奥の1号室で看板を掲げている弾正だんじょうの探偵事務所で、もう一つは二階手前の5号室でやっている天冥てんめいの占いの館。少女が用事のあるのは占いの方ではないかと思われた。

「ええと…占い、ですか?」
「あ、いえ、あの…ネットで検索して…一乗寺いちじょうじ探偵事務所ってここで合ってますか?」

 ああ、そっちね、と、草太は少女に聞こえるかどうか分からないくらいの小声で呟いた。となると、草太の客とも言えるかもしれない。弾正の草太への要望は探偵助手として弾正を手伝うことで、雑用とも思えるような依頼があると彼は草太に丸投げすることも多かった。ちなみに、天冥の要望の方が探偵っぽい内容の場合が多い。予め予約の入った占いの客の身辺調査で、それはいわゆるホットリーディングに使う資料となるもののようだったが、その調査内容はあからさまにインチキ占いを思わせた。まあ占い師なんて者は多かれ少なかれそんなことをやっているのだろうと、草太はただ黙々と言われたことをこなしていたのだが、そっちの手伝いの方がよほど探偵っぽかった。

「どうぞどうぞ。こっちへ」

 草太は上がり框に手を付き、文庫本を拾うと、玄関横の黒いフレームのスリッパ立てから来客用のスリッパを一足取って少女の前に置いた。少女は恐縮したようにペコンと頭を下げると、エナメルの赤いローファーを脱いで差し出されたスリッパに足を通し、後ろ向きにしゃがんで自分の靴を整えた。その所作を見て草太の口元が緩む。この段階でどんな依頼内容なのかという期待が持てた。もう何日もいなくなった飼い犬の捜索や、大人気のチケット発売日に列に並んで買いに行くなどといった雑用を依頼してくる人間はたいてい靴を脱ぎっぱなしにする。大体「一乗寺探偵事務所」などと大仰な看板を掲げてはいるが、こんな辺鄙な所までわざわざ依頼に来る内容といったらほとんどが雑用といってもいいもので、事件の捜索とまで言わないまでも、探偵に依頼する内容の上位にくると思われる浮気調査なんて色っぽいものも皆目だった。そもそも小説なんかのように事件の調査を警察が探偵に依頼するなんてことがあるはずもないのだが……。

 少女をダイニングへと案内し、先程まで明彦あきひこが座っていたテレビの正面に誘導し、まだ片付けていない食器を流しに移す。

「早いねえ。今日は学校は休み?」

 テーブルを拭きながら、両手を膝の上に置き、背筋をピンと伸ばして座る少女の緊張を解いてやろうとザックバランに話し掛ける。見た目で中学生か高校生だと当たりをつけ、口調も年下に向けるような軽口になる。ちょうど夏休みに入ったところだろうと話を振ったが、草太の言った内容に少女はさらに身を固くした。

「す、すみません、早すぎましたよね。夏休みに入ったら速攻で来ようと思ってたんですけど、お家にいると何だか落ち着かなくて…早いとは思ったんですけど来ちゃいました」

 草太の早いねの言葉に反応して萎縮したみたいだ。口調から何やら切羽詰まったものを抱えているように伺える。

「そんなに固くならないで大丈夫だよ。コーヒーでいいかなあ?」

 草太が極力柔らかい口調でそう尋ねると、少女はコクコクと二回頷いた。

「ホットとアイス、どっちがいい?甘い方がいいよね?」
「あ、あの…アイスで。どうぞ、おかま…いなく」

 お構いなくがスムーズに言えなくて少し噛む。まあ若い子が普段使う言葉じゃないもんな、と、草太はクスッとなった。さっき作ったコーヒーメーカーのコーヒーは幸い冷めていて、それを氷を入れたグラスに注ぐ。結局甘いかどうかの返答はなかったのでスーパーで買ったコーヒーフレッシュとシロップを一つずつ付けてやる。ちなみにコーヒーメーカーや調理器具、マグカップ以外の食器類は基本的に共有で、コーヒー粉やシロップなどは草太が大家から月々に備品費としてもらう1万円の中から捻出していた。

「じゃあちょっと待っててくれる?今から探偵さんを起こしてくるから」

 草太がそう声をかけると少女はまた恐縮しきりに、シロップの上ラベルを剥がす手を止めて深々と頭を下げる。これがコミックならきっと少女の頭の上には汗マークがたくさん散っているだろう。そんな光景を微笑ましく思い描き、ダイニングを出るとすぐ前の階段を仰ぎ見た。さっき何故鐘が鳴ったのか原因を調べに行きたいところだが、おそらくそれはかなり後回しになるだろう。一乗寺がそう簡単に起きるとは思えないからだ。

 それにしても……

 草太の今日の予定が入っていなかったのはおそらく住人たちの予定が今日はみんな緩慢だからなのだろう。だからきのうは遅くまで酒盛りしていたに違いない。そのことを鑑みても、さっきはあんなに大きな音を立てて鐘が鳴ったのだ。一人くらい何があったのかと起きてきてもよさそうなものを……。まあ三回で鳴り止んでくれたのは助かった。もし鳴り止んでいなければ、鐘の音だけでなく近隣からの苦情の嵐に耐えることになっただろう。

 草太は安堵とも呆れとも取れないため息をつき、自分の部屋に入って休日が返上された名残惜しさを感じながら文庫本を棚に戻し、隣りの部屋の前まで行ってノックした。ちょうど目の位置にフックシールにかかったお粗末な探偵事務所の看板が揺れるだけで中からは返答が無い。だろうねと思いながら、何度もノックするといった無駄なことはせず、木の扉の丸いノブをそっと引いた。ノブには内側から押し込む式の鍵がついているが、一乗寺はいつもその鍵をかけない。すんなり開いた扉から中を覗くと、酒気の混じった冷たい風が顔に吹き付ける。管理人室以外の各部屋にはエアコンが備え付けてあり、そこから吹く冷気が溜まって外の暖気を押し退けて流れ出てくる。北の壁際のソファーベッドからは毛布からはみ出た足がだらし無く垂れ下がり、耳をすますと深い寝息がスースーと聞こえた。

「弾正さーん、お客さんですよー!」

 一乗寺探偵事務所の探偵、一乗寺弾正はそれくらいの声掛けでは起きない。だからといって何度も呼びかけるのは体力の無駄。草太は遠慮なく部屋に入り、弾正の横に立って涎の垂れた締まりの無い寝顔を上から覗くと、その頬をペシペシと一往復ビンタした。

「う、う~ん…にゃむにゃむ」

 口元から何やら言葉にならない音が発せられたが目は開く気配がない。仕方ないのでもう二往復ばかりペシペシする。

「弾正さーん!お客さんですってば。ピチピチの女子高生ですよ~!」

 ピチピチの女子高生のあたりで口元がにへらと緩むも、まぶたは難攻不落の城のように閉じたままだ。草太は軽くため息をつき、弾正の耳元まで口を近づけてから大きく息を吸い込んだ。

「おい弾正!さっさと起きろー!!」

 そこまでしてやっと弾正の目がうっすらと開かれた。そして真横にある草太の顔に目線だけ向ける。

「今、呼び捨てにした?」
「何寝ぼけてるんすか弾正さん、依頼のお客さんが来てますよ」
「あー、う~ん…今何時?」
「朝の9時前です」
「げ!アホか。俺はまだ寝るから要件聞いといて。そんでお前に出来そうな内容だったら一人でやっといて」

 弾正はそこまで言うと、速攻でまたスースーと寝息を立て始めた。

(アホかって…どこの会社員が朝の9時前にグースカ眠るのか)

 草太は目の前に横たわるでっかい体躯に冷冷ややかな眼差しを向けると、またため息をついて部屋を出た。予想がついていたこととはいえ、情けなさに自然と首が左右に振れる。そして今度はホッと気合いを入れるための息を吐き、ダイニングで待つ少女の元に向かうのだった。
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